深野池 永禄3年(1560)、三好長慶は飯盛山城に居城を移した。

飯盛山城は、西麓の東高野街道と、北麓の大和に至る清滝街道、南側の古堤街道が交差する交通の要所にあった。

そして、西麓には深野池
(ふこのいけ、ふこうのいけ)があり、網の目のように流れる大和川水運の結節点となる港にも近く、大坂や堺、そして四国・九州にも繋がっていた。

池の広さは、南北2里
(1里は約4㎞)、東西1里で、こちらも湖ともいえる大きさで、池の中には三ケという村があり、三箇城があった。
城主・三箇頼照は、同7年('64)飯盛山城でロレンソの説教を聞いて妻や一族、多くの家臣とともに改宗して洗礼を受けている。
(洗礼名サンチョ)

066 飯盛山城は生駒山地の北部から西北に派生する支脈にある飯盛山(314m)にあるが、生駒山地の中腹には「野崎参り」で知られる野崎観音(慈眼寺)がある。

観音さまに長の病を治してもらったお礼に、「江口の君」が再興したと伝わり、本堂の横には「江口の君堂」がある。

066011_b 能「江口」は、世阿弥会心の観念劇とされ、西行が天王寺に参詣したとき、江口の里(東淀川区)で折からのにわか雨に宿を借りようとしたが、遊女である女主人(妙)は貸そうとしなかったという『新古今和歌集』の贈答歌を元にしている。

 平安時代、江口は「天下第一の楽地」と云われていた。
彼の、藤原道長や子・頼通も江口で遊んだといい、後鳥羽上皇も遊女を招き宴を催している。
その上、後白河上皇は遊女との間に皇子をもうけている。

中世の遊女は芸能や宿泊業が中心で、近世以降のように必ずしも売春を伴っておらず、差別性もほとんどなかった。
公家の一条信能、徳大寺実基、武士の源為朝の
母親は遊女である。

遊女・妙は、平資盛の息女で、平家没落後に乳母の里に移り遊女となった。
西行に出会った後、仏門に帰依して光相比丘尼と改め、この地に庵を構えたと・・。

 宝永元年(1704)に大和川の付け替え工事が行われ、水が来なくなって深野池の水位が下がったので、新田開発が行われて水田となった。

しかし、大雨が降るたびに浸水被害が起きていたので、昭和になって遊水地として深北緑地がつくられ、
深野池は人工池として今日に至っている。