Rokkaku_Shōtei 承禎の頃、六角氏は内憂外患の時期で混乱していた。

そんな永禄9年(1566)8月、三好氏から近江矢島
(守山市)に逃れていた足利義昭を攻めている。

 前年('65)5月19日、三好三人衆らは将軍・足利義輝を殺害。
(「永禄の変」)

興福寺一乗院の弟・覚慶は厳重な監視下に置かれていたが、7月28日奉公衆の藤川藤孝・和田惟政らによって救い出され、しばらく近江甲賀の和田館に逃れていた後、11月には野洲郡矢島に滞在していた。


 六角氏は、天文15年('46)には父・定頼が前将軍・足利義晴の下では義輝元服の烏帽子役と将軍宣下の加冠役を務めるなど、将軍家に頼られる存在だった。
(加冠役は、本来管領が行うべきところだが、当時定頼と細川晴元は対立していたことから、義晴はわざわざ坂本まで出向き、にわかに修築した日吉社祠である樹下氏の邸宅で行った。)

 ところが、「観音寺騒動」('63)以降近江国内の情勢は騒がしく、同9年('66)正月には謀反を起こした蒲生郡の布施氏を征伐、9月には浅井氏が南進して「江州大合戦」(敗北?)があったようだ。

そんな中で、承禎は三好氏と図り義昭の命を狙った。
実は、8月3日の夜に三好三人衆の兵が矢島の義昭の館を襲撃している。
事前にそれを知った義昭方は坂本で三人衆方を迎え撃ち難を逃れていた。
そして同月29日、今度は承禎が義昭の元に兵を遣わしたのである。

 承禎はどのような思惑で、義昭に攻撃を加えたのだろうか。
この8月、織田信長は義昭を矢島まで迎えに行き上洛する予定だったという。(信長が美濃を平定したのは翌年('67)8月のこと)
しかし、近江の不穏な様子から延引することになったと。

 承禎は三人衆に同調することとし、12月には坂本で談合しているようだ。

信長の妹・お市の方が浅井長政と結婚したのは同10年('67)9月(諸説あり)
とすれば、既にこの時期には婚姻の情報を得ているはずであり、承禎は宿敵浅井氏と結んだ信長に対抗する三人衆は「敵の敵は味方」であり、信長に頼ろうとする義昭も敵と判断したのだろうか・・。

 義昭は、慌てて矢島を抜け出し、琵琶湖を舟で渡り対岸の高島郡から若狭へと逃げ延びた・・。
 (村井祐樹著「六角定頼」、谷口克広著「信長と将軍義昭」参照)