足利義維 六角承禎が自国の近江矢島に逗留する足利義昭(この時は義秋。永禄11年(1568)4月に義昭に改名)を突然攻めた永禄9年(1566)8月29日の2カ月余り前、阿波の篠原長房が大軍を率いて兵庫に上陸していた。

そして、9月には阿波公方・足利義栄が渡海して来て摂津・越水城に入った。
(12月には普門寺に移る)

将軍が不在(前年5月19日三好三人衆らが前将軍・足利義輝を殺害。「永禄の変」)となっており、長房は義栄を将軍に擁立しようとしたのである。

六角承禎は、このことを承知した上で将軍職を継承しようとする義昭の捕捉(or殺害)しようとしたのだろうか・・。

 しかし、この計画は三好長慶・義興の跡を継いだ義継は納得していなかったようで、翌10年('67)2月16日義継は三人衆を離反し、松永久秀の元に走った。
(4月6日信貴山城に入る)
これにより、三好氏は三好三人衆・阿波三好家と三好義継・松永久秀に分裂して争うようになった。(久秀は同9年('66)6月以前に義昭・織田信長と通じ同盟していた)

 さて、足利義栄(1538-68)とは、足利義輝の父、第12代足利将軍義晴の兄(弟とも)・義維(よしつな 1509?-73 写真)の子。
父・義維は将軍職に就けるはずであったが、細川高国と対立していた細川澄元(阿波細川家)の元で育てられていたため、高国は義晴を将軍に擁立(在位1521-46)した。

これに対抗して、細川晴元(澄元の子)は三好元長らと義維を擁立し、大永7年(1527)「堺公方(大樹)」を樹立。
実際に京都を支配していたのは義維方であったが、義維は京都に入ることはなく、朝廷も諸大名にも義維は「将軍」と認められていなかったようだ。

そして、天文元年('32)には晴元と元長が対立し、元長は晴元の動員した本願寺勢に攻められて自害に追い込まれ、義維は阿波に下国している。

 義栄にとっては、将軍に擁立されることは「青天の霹靂」だったとも。
三好三人衆も阿波三好家の支援を望んでいたが、義維の将軍擁立は考えていなかったとも云われ、実際朝廷からの将軍宣下も、永禄11年('68)2月8日になってやっと下された。(
上洛することなく富田で宣旨を受け取った)

一方、信長は同10年('67)8月美濃を平定すると、足利義昭は同年('68)7月、朝倉氏の一乗谷から美濃の立政寺(岐阜市)に移り、9月7日信長は岐阜を出陣した・・。

結局、長房も戦うことなく阿波に撤兵し、腫物を患っていた義栄は10月8日撫養で死亡、同日、足利義昭は15代将軍に就任した。 (榎原雅治・清水克行編「室町幕府将軍列伝」他参照)