Takayaj 「昨日の友は、今日の敵」、離合集散が当たり前の戦国時代にあって、遊佐氏は三好氏とともに織田信長に抵抗した。

天文20年(1551)、娘を三好長慶に嫁がせた遊佐長教が刺客に暗殺されるという事件があり、幼少であった子・信教
(1548年生まれ)に代わって一時は一族の遊佐大藤が家内を纏めていた・・。

 永禄3年('60)になると三好長慶が河内に侵攻し、10月には飯盛山城、高屋城を陥れて領国とした。
長慶は飯盛山城を居城とし、畠山高政・安見宗房とともに遊佐信教も追放されている。

同11年('68)、信長が足利義昭を奉じて上洛すると、畠山高政の弟・秋高は河内南半国守護を安堵され、信教も高屋城に復帰した。

元亀4年('73)、足利義昭を擁立していた秋高が信長派に転じたことに反発して信教は秋高を殺害し、義昭が京都を追放されると秋高は三好本宗家の最後の生き残り三好康長と手を組み康長を高屋城に招き入れた。

 これに対し信長は、河内や和泉に残る三好氏を殲滅するため10万の兵を集め、天正3年('75)4月8日高屋城を取り囲んだ。

17日には阿波と畿内を結ぶ拠点であった新堀城
(大阪市住吉区と堺市北区の二説あり)を攻め十河因幡守一行・香西越後守長信らを討ち取った。

このため康長は降伏。
(信教の行方は定かでない) 
これにより三好家の畿内における全ての拠点を失った。

信長は高屋城をはじめ河内の諸城を破却し21日には京都に帰り、武田勝頼征伐に向かう。(5/21「長篠の合戦」)

 ところで、香西氏も「細川四天王」と云われ、香西元長(?-1507)は山城守護代となっていた。(上香西氏)
元長の後を継いだ元盛は丹波・波多野氏の出身で、娘を三好長慶の最初の妻に嫁がせ植通の弟。

跡を継いだ元成(1518-60 越後守)は細川晴元に仕え、三好長慶と争った。 

長信(?-1575)はその子とも云われるが定かでない。

「野田・福島城の戦い」('70)では三好政勝とともに三好三人衆方に参陣していたが、織田方に内応していたと。
しかし、のちに三好方に復帰し十河一行とともに新堀城の守将となっていた。