歴史

土御門天皇

Tsuchimikado 土御門天皇は15才のとき、不本意ながら後鳥羽上皇に譲位させられた。

天皇は極めて穏和な人柄であったが、世事には疎かったようで、「ぬるい」と評されたとも。

 承元4年(1210)、上皇の強い意向により第三皇子・守成親王が順徳天皇として即位した。
順徳天皇は、幼少の頃から才気煥発で、土御門天皇とは違い気性は激しく、「承久の変」(1221)の折には皇太子・懐成親王
(仲恭天皇)に皇位を譲り挙兵に参加している。(土御門天皇は「今はその時ではない」と諫めたと)

順徳天皇の母・重子(藤原(高倉)範季の娘)が、上皇の寵愛を受けていたこともその理由だったのだろうか。 
ちなみに、重子の二人の従姉(範子・兼子)は上皇の乳母だった。

 土御門天皇の母・源在子は源通親の養女。
上皇には三人の皇子がいたが、誰を皇太子にするかト筮により決め、四日後には皇太子・践祚の儀式が慌ただしく行われた。
これも養父・源通親の強引な意向により行われたことが、上皇に反感を覚えさせたではないだろうかと。

 土御門天皇には十男九女の皇子女があり、このうち第三皇子であった邦仁王は、第87代四条天皇(在位1232-42)が皇子女のないまま12才で突然崩御したとき、幕府の意向により「承久の乱」に関与しなかった土御門天皇の皇子・邦仁王を推し、後嵯峨天皇として即位し、皇統が土御門系に移った。

後嵯峨天皇は、その後後深草・亀山天皇の二代二十六年にわたって院政を行っている。 
 (高森明勅監修「歴代天皇事典」、「承久の乱」廣済堂出版 参照)

「建久7年の政変」

Fujiwara_no_Kanezane 従一位、摂政・関白、太政大臣九条兼実は、法然が流罪となった「建永(承元)の法難」(1207.2)直後の4月5日に没している。

法然を戒師に出家したのは、建仁2年(1201)12月妻に先立たれた直後のこと。
将来を嘱望されていた長男・良通(1167-88)も早逝し、法然に専修念仏の教えを乞い帰依していた。

 建久3年(1192)後白河院が没し、まだ後鳥羽天皇が13才であったため、兼実は源頼朝
(河内源氏)の支援を受け政権を握り、娘の任子を中宮に入内させたが男子に恵まれなかった。

一方、頼朝も娘・大姫の入内を画策し、丹後局や源
(久我)通親(村上源氏)に接近して兼実とは敵対するようになっていた。(大姫は入内することなく病死('97))

 建久7年('96)、通親の讒言により兼実は関白を解任させられ、任子も宮中から退かされ、弟である天台座主・慈円も罷免された。(「建久7年の政変」)

代わって通親は養女・在子を後鳥羽天皇に入内させ、同6年('95)に生まれれていたのが、後に「承久の変」(1221)で土佐に配流され、阿波に来た土御門天皇、為仁親王である。

 権力を握り権勢を極めることになった通親を、藤原定家は弓削法皇(道鏡)になぞらえ、通親は「源博陸」と称された。(「博陸」は関白の唐名:漢の武帝が重臣・霍光(かくこう)を博陸侯(河北省)に封じた故事に由来)

しかし、正治元年('99)頼朝が落馬が原因(暗殺とも)で死亡して幕府の影響力は落ち、建仁2年(1202)10月には通親も54才で急死。

これにより後鳥羽上皇(’98年に19才で土御門天皇に譲位)を諫止できる者はいなくなり、院政による専制体制が確立された・・。  (「承久の乱」廣済堂出版 参照)


「永禄」

Emperor_Ogimach 三好長慶が没した「永禄」の年号改元については、長慶に追放され近江朽木にいた将軍足利義輝には知らされず、怒った義輝はその後二ヶ月も改元前の年号「弘治」を使用し続けたと。

「永禄」
への改元(弘治四年(1558).2.28)は、正親町天皇(1557.11.17践祚写真)の代始改元で、前後奈良天皇の崩御('57.9,27)に伴うものだった。

 この時期、朝廷の財政も逼迫している上に、幕府の権威も落ちて費用捻出がままならず、後奈良天皇は即位10年後に、正親町天皇は4年後('60.1.27)に毛利元就らの献金によりようやく即位式が行われた。
(毛利元就はこれにより陸奥守に任じられ、桐紋を賜った)

前の「弘治」への改元は、その前の「天文」年号が24年にも及んでいたこともあり、朝廷のの強い希望で費用も朝廷自身が負担して改元された。

天文」年号の使用期間は23年3カ月で、これは明治以降を除くと「応永」の35年、「延暦」の25年に次いで三番目に長い年号だった。

 天文改元(享禄5年(1532).7.29)は、将軍足利義晴の申し入れにより行われたものだが、直前の6月20日に長慶の父・元長は細川晴元が手を結んだ一向一揆によって自害に追い込まれている。

晴元は、京兆家当主と管領になろうとして阿波公方・足利義維の擁立を止めて将軍・足利義晴に近づき和睦を図ったため、元長と対立するようになったのだっだ。

これを受けて将軍・足利義晴は、7月に近江の観音寺城山麓の桑実寺境内に幕府を移し、以後天文3年(34)6月に坂本に移る(9月には入京する)までこの地で過ごした。
 (所 功編著「元号読本」、高森明勅著「歴代天皇事典」、榎原雅治・清水克行編「室町幕府将軍列伝」参照) 

曲直瀬道三

Emperor_Ogimach 三好義興を診察した曲直瀬道三(まなせ どうざん1507-94)は、数多の武将の厚遇を得て88才の長寿を全うした。

生まれは京都とも近江とも云われ、父・堀部親真は宇多源氏の流れを汲む武士であったが、幼くして父母と死別し道三は相国寺の喝食となった。

22才のとき関東・下野の足利学校で学び、さらに中国医学を学んだ。

天文14年(1545)、帰京すると翌年40才のとき還俗し、将軍足利義輝らの援助により学舎・啓辿(けいてき)院を開き、細川晴元・松永久秀の診察も行ったという。
永禄9年('66)には、乞われて出雲を攻略中の毛利元就の陣中を訪れ治療を施したと。

 天正2年('74)、著書『啓辿集』が正親町天皇(写真)の叡覧に供され、参内して天皇の脈を診た。

その翌年('75)、織田信長が道三の屋敷を訪れ蘭奢待を与えられた。

(信長は一寸四方の二片を切り取り、一片は正親町天皇に献上した(異説あり)。正親町天皇からは九条稙通や勸修寺晴豊、また毛利輝元にも下げ渡された。 信長は三分の一を自ら所持し、残り三分の二を千利休・津田宗及、家臣の村井貞勝ら諸人に分け与えたと)

800人もの門弟を抱えていたといい、2代目の子・親清のとき禁裏より橘姓と「今大路」の屋号を与えられ、日本医学中興の祖と云われる。 (「週刊ビジュアル 戦国王90」ハーバーコリンズ・ジャパン、和田裕弘著「信長公記」参照)

「室町幕府」はどこに?

Han-no_Gosho 話題を再び室町時代に。

室町幕府と云えば、足利義満の「花の御所」を思い浮かべるが、15代にわたる将軍たちがいつも花の御所にいたわけではない。

 初代・尊氏は現在の等持寺
(北区)に邸宅を構えて政務を執っていた。
しかし、跡を継いだ2代義詮はそれを使用せず、尊氏の弟・直義ゆかりの三条坊門邸
(中京区)の地に新邸を造営した。

そして、3代義満が室町家と今出川家の邸宅に造営したのが「花の御所」。
その名前の由来は、室町家の邸宅が「花亭」、今出川家の邸宅が「菊亭」と呼ばれていたからだと。

義満は、将軍職を4代義持に譲ると北山殿を築いて移り、花の御所は義持のものとなったが、義満が死亡するといったんは北山殿に入ったものの、すぐに離れて三条坊門邸に移り、花の御所は放棄された。

 6代義教は、祖父・義満に憧れており、また後花園天皇の行幸を受けようと花の御所を再興・増築したが、「嘉吉の乱」(1441)に後を継いだ7代義勝も早世したことから不吉とされ、再び放棄された。

8代義政も祖父・義満や父・義教に憧れをもっており再び花の御所を整備して、「応仁・文明の乱」(1467-77)の戦乱を避けるため避難してきた後花園上皇や後土御門天皇を迎えている。

しかし、文明8年(1478)に焼失すると、将軍権力の低下もあり大規模な再建を行うことはできなかった。
13代義輝が旧斯波邸の跡地
(中京区)に御所を建築すると、花の御所は完全に消滅することになった。
最後の将軍15代義昭もこの地に信長により造営された二条御所に入っている。

 このようにそれぞれ違っており、”室町幕府”といっても決まった場所にあったわけではない。  (丸山裕之著「図説 室町幕府」参照)
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