三好氏

「中富川の合戦」

正法寺  現在、中富川という川はない。 応神町から藍住町に流れている正法寺川(元・矢上川)がそれにあたるようだ。

正法寺
(藍住町矢上西)は、蜂須賀至鎮が「大阪の陣」の功績により赤松則房の旧領住吉藩を与えられ、創建した正興寺を3代光隆が祖母・敬台院のために改築して法華宗・正法寺(写真)としたもの。

 天正10年(1562)6月2日に起きた「本能寺の変」により、四国攻めを目前にしていた信長の死で長宗我部元親は一気に息を吹き返した。

嫡男・信親は、直ちに一宮城や夷山城を取り戻そうと意気込んだが、元親は病中であったこともあり、8月まで兵を休ませることにしたと。

 そして8月28日、元親は土佐の本隊と阿波南方の香宗我部親泰、それに伊予方面の久武親直の2万数千の兵を動員し、現吉野川沿いと海岸線の2ルートで進軍して決戦に臨んだ。

これに対し、十河存保率いる三好勢はわずか1000人足らず。

 別宮川と旧吉野川に挟まれた川原の地が決戦の場となった。
元親軍は、別宮川河畔に軍勢を進め、香宗我部親泰が先陣となって渡河し、本隊もそれに続いた。

十河軍も渡河する隙を狙って果敢に攻撃したが、衆寡敵せず吉野川流域の諸将たちは相次いで討ち取られた。その数は763とも973とも云われる。

勝瑞城の西方にあった勝興寺城主(矢上城)矢野伯耆守虎村は、親泰に名乗り一騎打ちに臨んだが、親泰の槍に突かれて落馬したところを土佐勢に討ち取られたと・・。

存保も玉砕を望んだが側近の忠告に従い勝瑞城に入り籠城した。
土佐勢は城を包囲して攻撃せんとしたが、折しも大雨による洪水に見舞われ火をつけることもままならなくなった。

 そうこうしているうちに、秀吉軍の仙谷秀久・生駒親正・黒田孝高が
三好勢を援護するため淡路から木津城に入った。

しかし、9月21日存保は東条関之兵衛を頼り、勝瑞城を開城して讃岐・虎丸城に落ち伸びていった・・。 
 
中富川の合戦」というのは、当時旧吉野川が中富川と呼ばれていたからだという。

 (「週刊ビジュアル 戦国王39」(株)ハーバーコリンズ・ジャパン、平井上総著「長宗我部元親・盛親」、出水康生「三好長慶VS織田信長」、「吉野川事典」㈶とくしま地域政策研究所 参照)

勝瑞

Shinohara_shrine 今切城は南岸(現在の徳島市春日:現篠原神社・写真)にあったのに対し、今切川は別宮川(現吉野川)の北岸にある。

別宮島の北にある今切川河口を挟んだ対岸には南北に細長い砂丘が続いているのが長原

戦国時代には別宮と長原の砂丘は陸続きであったが、17世紀前期に今切川の河道が変わり砂丘を分断したのだと。
三好長治は今切城を脱出して別宮浦に逃れたが、ここ長原の地で自害に追い込まれた。

 三好氏は篠原自遁の子・長秀を今切城に配するとともに、森氏を渭山城
(後の徳島城)に配して海岸部の港湾を把握していた。

今切城から吉野川を渡って讃岐街道を北進すると勝瑞へと至ることができる。

勝瑞
は別宮川・旧吉野川・今切川に囲まれた洪水が避けられない地で、勝瑞城は標高が2~4mと最も低いところに位置していた。 これは旧吉野川の河口に近いことを優先していたからだと。

讃岐街道は、中世の頃には讃岐に向かうことよりも勝瑞から木津や河口の諸港に向かう陸路であり、今切城・渭水城を経て南方に向かうルートであった。

勝瑞は、交通・流通の大動脈であった旧吉野川と、南北横断路である讃岐街道の交差点にあたりとともに、河口に最も近い微高地であった。

 しかし、近世に継承されなかったのは、勝瑞は城下町が建設できない立地であり、海運を包摂する城下町が軍事的にも経済的にも必須であり、蜂須賀氏は潮力も利用できる徳島城を居城としたのだろうと。
 (天野忠幸編「阿波三好氏~戦国期吉野川デルタにおける勝瑞と港:山村亜希」参照)



別宮

bekku-hachiman 吉野川はかって別宮川と呼ばれていた。

阿波三好家最後の当主・三好長治は、天正4年(1576)別宮浦の地で自害に追い込まれた。

別宮」とは、万寿2年(1025)この地に山城国石清水八幡宮を勧請して別宮が創建されたことに由来する。
(現在の川内町上別宮・下別宮)

吉野川デルタにあった別宮島は石清水八幡宮萱島荘であり、鶴島・宮島・鈴江など、大山崎油座神人が集積した荏胡麻を運ぶ船の集積する船籍地があって、別宮八幡神社はその鎮守であった。のちに洪水を避け応神町吉成に移された。(写真は境内の大クス)

 荏胡麻(えごま)はシソ科の一年草で、縄文時代に既に確認されており、その歴史はゴマよりも古く中世に菜種油が出現するまで灯火に用いられ、また塗装用として雨傘や提灯・合羽などに用いられた。

その流通を支配するため「油座」が設けられ、石清水八幡宮は西国最大であったが、「応仁の乱」の戦場となったことや、菜種油が出現したこともああり、織豊政権時代には破棄・廃止に至っている。

そのようなことから、守護細川氏の時代からこの地には城館も水軍も配置されなかった。

 別宮川河口部から旧河道を利用すると今切城に至ることができた。
天正4年('76)12月、三好長治は勝瑞を出奔した細川真之を追撃したが「荒田野の戦い」に敗れて今切城に入り、森志摩守に救援を求めた。

しかし、複雑な河道に不慣れなため志摩守は誤って佐古山の麓に入り、落ち合うことができなかった。


長治はやむなく別宮浦まで逃れて来たが、里長に密告され、長原の地まで来て自刃した。
このことも三好氏による別宮の支配が貫徹していなかったことを示していると。
(当時、別宮と長原の砂丘は地続きだった)
 (「吉野川事典」㈶とくしま地域政策研究所、天野忠幸編「阿波三好氏~戦国期吉野川デルタにおける勝瑞と港:山村亜希」参照)


「脇城外の戦い」

wakijyou2 天正7年(1579)12月27日、市原造酒守は同じ山川町の井上城主・土肥紀伊守とともに「脇城外の戦い」で討死した。

天正3年('75)、土佐を統一した長宗我部元親は、同5年('77)には大西覚用を服属させ、四国の中央部の拠点として白地城を手に入れ阿波三好家の攻略を目指した。

 同6年('78)には三好長治亡き後、弟・十河存保が堺から阿波に入国し三好家の再興を図ろうとしていた。

白地城に続き、翌年('78)には重清城を攻め落とすと、隣の岩倉城主・三好式部少輔・康俊、脇城主・武田信顕は元親に降った。

この年('78)の10月、三好勢は下郡
(板野・名東・名西・麻植・阿波)に進出していた大西勢を攻め、覚用は三好側についたとも。

 そして翌年('79)12月、三好式部少輔・武田上野介信顕と上野城主・上野越前守の連署で、「27日に土佐勢が帰国するので、兵を差し向けてくれれば味方する」との偽りの密書を切幡城主・森飛騨守のもとに届けられた。

これを受けて、飛騨守をはじめ矢野駿河守
(国府町/矢野城主)・河村佐馬允(美郷村/陰城主)・戸井新左衛門(山川町/川田城)・鴨島六之丞(鴨島城主)・久次米与右衛門・川島兵衛進・麻植志摩守(鴨島町/飯尾東城主)・内原菊太夫(同/内原城主)・飯尾久左衛門(同/飯尾西城主)らと両名も出陣した・・。

脇城外の湿田が広がるところで、突然向かいの山上から鉄砲・弓矢が乱射され、数百人とも云われる阿波・麻植郡の三好方武将が討ち取られ、阿波三好家の勢力は大きく削がれることになった・・。
 (平井上総著「長宗我部元親・盛親」・出水康生著「三好長慶VS織田信長」参照)

阿波三好家の家臣たち

TS3H0627 三好長慶は、松永久秀や岩成友通らのように畿内へ進出した先で仕えた家臣を優遇し、阿波出身者にこだわらなかった。

地元・山川町の青木城主・市原氏の名は、永正4年(1508)三好之長が畿内に出兵したときに「出雲守国春」
(市原国春)の名が見えるのが初見。

その後、三好元長に従い「石見守胤吉」
(享禄4年(1531))、「源介氏久」(同5年('32))、「次郎五郎信胤」(同年)など多くの一族の名が京都近郊で確認されると。

また、元長が自害し阿波に逼塞した長慶が畿内に復帰した際には、「源次郎」
(天文2年('33))、「与吉兵衛」(同3年('34))が長慶の家臣として京都近郊で荘園を横領し、長慶はその停止を細川晴元から命じられている。

 しかし、その後長慶の家臣としての活動は見えなくなる。
再び現れるのは享禄5年('62)のことで、三好実休が「久米田の戦い」('62)で討死したことをうけ、篠原長秀・加地盛時・矢野虎村・吉成信長・三好盛政・同 盛長・伊沢長綱らとともに、後継者・長治を盛り立てることを誓った起請文に、阿波三好家の「惣中」の一員として連署した「石見守長胤」の名が見える。

篠原長秀は長房の一族、加地氏は元々伊予国宇摩郡の郡代であったが没落して三好氏に服属するようになった。
加地氏は本宗家と阿波三好家に仕える者に分かれ、篠原氏や塩田氏とともに三好氏の中心的な譜代家臣。

矢野氏は名西郡矢野城や板野郡八上城主。之長・元長段階では活動は見られず、虎村が個人的な才覚で実休に登用されたようだと。
吉成氏は板野郡吉成の出身で、実休死後も堺に留まり義興から賞されている。

阿波郡伊沢城主・伊沢氏も之長・元長段階での活動は見られない。
天文16年('47)、篠原長政
(長房の父)とともに摂津に出兵するなど、篠原氏と行動を共にするすることが多かった。

 三好盛政・盛長は系図には現れない一族で、二人とも長慶の下で活動した記録はない。
盛政は実休・長治の重臣として活動し、元亀元年('70)織田信長と戦ったのが終見。
同様に盛長も実休・長治の重臣として働き、永禄8年('65)死亡している。
 (天野忠幸著「阿波三好氏」参照)
記事検索
プロフィール

fumi

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ