趣味

”フォードGT”

IMG_0429 トヨタがル・マンに2連勝したが、余り取り話題とならない。

ポルシェもアウディもいない中での優勝が物足らないのか、有力メーカーが揃って参加しているフォーミュラEの方が面白いとの見方も・・。

 写真は、1966年に常勝フェラーリを打ち負かし、その後4連覇した伝説の”フォードGT”。
(Auto art社の模型です)

しかし、これは2005~6年に1500台発売されたGT40のリメイク版。

 1960年代、フォードは企業イメージを上げるためモータースポーツへの参入することとし、”スクーデリア・フェラーリ”
(伊)の買収を試みたが失敗。

そこで、英国のローラ・カーズ社と提携してGT40を開発。’64年に”フォードGT
(マーク1)として発表した。(4,7L、V8、ミッドシップ、350PS、330㎞/h)
40とはその車高が40インチ(1,016m)であったことに由来。

’65年にはキャロル・セルビー(米国のスポーツカー製造者)が担当し、4台をル・マンに投入したがあえなくリタイヤ。

そこで、エンジンをセルビー製7.0Lに、キャブレターもウェーバー
(伊)からホーリー(米)製に代え(出力は475PS”マーク2”)、’66年ル・マンには8台を投入して1~3位を独占、その後’69年まで4連覇した。


「雨を見たかい」Ⅱ

Pendulum 稲作農家にとっては待ちかねた雨です。

四国地方の梅雨入りは、平年では6月5日頃らしいが、今年はまだ先のようだ。
ちなみに、最も遅かったのは6月21日だと。

 昨日、大谷がサイクル安打を記録したが、その試合をTV観戦中に”Clearwater”の宣伝看板を見付けた。

CCR(Creedence Clearwater Revaival)の名はそのCMに由来することを思い出したので、この話題は二度目になるがお許しを・・。

 『雨を見たかい』('71.1)は「ナパーム弾」を連想するとして、放送禁止となったと。

ベトナム戦争真っただ中だった1971年、
ナパーム弾のことをスラングで”水のように輝きながら降り注ぐ雨”と云ったらしい。
この年、4月にはワシントンで50万人が参加した反戦デモが行われた。

余談だが、このナパーム弾は太平洋戦争中に日本を焼き尽くした”焼夷弾”を改良したものらしい。
目的達成のためには手段を択ばなくなるのは、どの国・民族も同じだ・・。

 1971年、日本ではボーリングが大流行。
11月には日活ロマンポルノ第1作「団地妻昼下がりの情事」が封切りされ、ポルノブームに。 そしてモーテルが乱立した・・。



「マギー・メイ」

maggie-may 風薫る五月。我が家のまわりでは田植えの真っ最中だ。

五月は英語で「May」。
そこで、ビートルズとロッド・スチュアートというイギリスの大物が歌っている同名曲「マギー・メイ(Maggie May)」。
(ただし、ビートルズはタイトルは「Maggie mae」で、歌詞の中ではmaeとmayを使い分けをしている。)

 古いイギリスの民謡に、悪名高いマギー・メイと呼ばれる娼婦が、出稼ぎ帰りの水夫に窃盗を働き、捕まって街を追い出されるという内容の歌があった。

1950年代には、イギリスでブームとなった”スキッフル”でよく歌われた。
スキッフルとは、元々は20世紀前半にアメリカで生まれたジャズやブルース・フォーク・カントリーなどの影響を受けた音楽で、手作りやその場にあるものを使用して演奏された。

 ビートルズは、前身のクオーリーメン時代からよく歌っていたもので、ジョンがリヴァプール訛りで歌っており、わずか40秒ほどの曲で『LET IT BE』に収録されている。

♪ Oh 薄汚いマギー・メイ
   ついにみんなで彼女を追いだしたぜ
   これで彼女もライムストリートを歩くことは二度とない・・

 一方、ロッド・スチュアートのほうは、ソロとなって初めてヒットした曲で、収録されたアルバムは英米で1位となった。
シングルでは当初からB面だったが、こちらの方が話題となったもの。

彼の16才の時の経験をもとにした曲で、M・クイッテントンとの共作であり、前述の民謡とは直接は関係ない内容となっている。(歌詞に「俺の魂を盗んだ」とあるから?)

『平家女護島』

78 こんぴら歌舞伎で故・中村勘三郎の『平家女護島(通称:「俊寛」)を見たのが懐かしい。

俊寛は清盛に取り入り、法勝寺執行
(寺務統括者)になったにもかかわらず「鹿ケ谷の謀議」に加わったことから清盛の怒りにふれ、翌治承2年(1178)中宮徳子の懐妊(生まれる皇子は後の安徳天皇)による大赦にも許されなかった。

ひとり残された俊寛は、岩場によじ登り本土へと遠ざかる赦免船に「おおい、おおい~」と声をかぎりに叫ぶ・・。

  俊寛・平康頼とともに流された藤原成親の子・成経(1156?-1202)は、島の海女・千鳥と恋仲となったと。

一方、自分を待つ妻・東屋が清盛の側女になることを拒み処刑されたと知らされた俊寛は、帰る希望も失せ迎えの使者・瀬尾太郎兼康が千鳥の乗船を拒んだため兼康を殺し、千鳥を成経とともに帰らせるという筋書き・・。

 成経は、清盛の弟・教盛の娘を娶っていたこともあり、帰京して復官し蔵人頭、後に皇太后宮大夫に任じられた。 
 (金森和子著「歌舞伎の見どころ」参照)


「いとしのレイラ」

42 元号が「令和」となった。

「令」という字は「命令」などが思い浮かび少し違和感があるが、「令嬢」などにも用いられる。

そこで無理やりエリックク・ラプトンの『いとしのレイラ』(1971)の話題。

この歌は、クラプトンの親友でビートルズのメンバー、ジョージ・ハリソンの妻だったパティ・ボイドに捧げた歌だとか。

 クラプトンは「クリーム」の時代からジョージとは親しい仲で、たびたび家を訪れていたのだが、いつの頃からかパティに思いを寄せるようになった。

「彼女が夫
(G・ハリソン)の注意をひくために、僕との恋愛ごっこを楽しんだ。僕はおろかにもそのままごとにのめりこんでしまった。彼女は僕を利用しただけだったのに・・。」だと。

パティはハリソンと離婚し、コンサート中のクラプトンと1979年アリゾナ州ツーソンで結婚した。
祝賀会には、ジョージは他のビートルズのメンバーであるポールやリンゴスターとともに出席したというから、変な仲だ・・。

 ところで、「レイラ」については、クラプトンがイスラム教の友人から聞いたペルシャ文学の詩人によるラブ・ストーリー「ライラとマジュヌーン」の、青年マンジュンが美しいライラと情熱的な恋に落ち、結婚を許されず気が狂ってしまう、という話にインスパイアされたものだと。

’68年暮れ、伝説的グループ「クリーム」が解散し、クラプトンは「ブラインド・フェイセス」を結成したが、一枚のアルバムをつくっただけでアメリカに渡った。

そこでデラニー・アンド・ポニーの連中と知り合い「デレク・アンド・ドミノス」が結成され、オールマン・ブラザーズのデュアン・オールマンが加わり、唯一のアルバム『いとしのレイラ』がつくられたが’、71年9月には解散した。 
(三木千寿著「孤高のギタリスト エリック・クラプトン」、渋谷陽一著「ロック ベスト・アルバム・セレクション」参照)


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