忌部

麻績氏

Omijyo 麻植郡から吉野川市となり、消えてしまった「麻植」とよく似た「麻績(おみ)氏」のことを。

麻績氏は服部氏とともに伊勢神宮の神部として仕えた。
饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の降臨のときお供をした三十二神の中に伊勢神麻績連の名があり、麻績神社(三重県多気郡)や神麻績機殿神社(同松阪市)がある。

天物知命(アマノモノシリノミコト:モノサシで大きさを知る)を祖神とする忌部系であったが、その神裔の命脈は「亡(う)せ散(あら)けて」しまったと斎部広成は嘆いている。(「菅田正昭著「現代語訳 古語拾遺」参照」)

 長野県東筑摩郡麻績村の豪族として麻績氏(小見)がいた。
鎌倉時代の阿波守護、阿波小笠原氏の祖・長房(1213-76)の子・長親は麻績の地頭となり麻績氏を称した。
後の、武田勝頼の祖母・諏訪頼重の側室は麻績氏だと。

同地には服部氏が築城した麻績城(写真)がある。
天文22年(1553)、武田晴信は服部氏を追って青柳氏が麻績氏を名乗り入城した。
天正10年(1582)、織田信長が討たれると上杉景勝の支援をうけ、旧服部氏の麻績左兵衛清正が入城したが、最終的には小笠原貞慶に奪われた。

この小笠原貞慶(1546-95)は、「塩尻峠の戦い」(1548)で武田晴信に追われて父・長時とともに京の三好長慶を頼り、「慶」の字のを拝領して貞虎から貞慶と改名したと。
貞慶は後に徳川家康の家臣となって深志城を松本城としている。

「天岩戸別」

Yakurahimejinja 大正・昭和・平成天皇の「大嘗祭」には、山崎忌部神社から麁服(あらたえ)が献上された。

大嘗祭は、天皇の即位の礼のあと行われる初めての新嘗祭(収穫祭)で、その前後には「大殿祭」が行われ、大殿祭は忌部氏が主導する祭りであった。

 忌部氏の遠祖である天太玉命は、天照大神がスサノオ神の乱行に怒り「天の岩屋戸」にお隠れになったとき天児屋命とともに祈祷し、少し戸を開いたときに天手力雄神(アマノタヂカラオノカミ)が扉を開け。天照大神は新殿へ遷った。

天手力雄(男)神は、ニニギの「天孫降臨」の際には、「五部神」の一柱として天岩戸別神とともに八尺勾玉・鏡・草薙剣と副え賜いて降り、「佐那の縣」降ったと。

 阿波忌部の祖・天日鷲命はこの天手力雄(男)神の御子と考えられていると。
また、『延喜式神明帳』に「天石戸別」のつく神社は全国に12社あるが、そのうち阿波徳島に2社ある。ひとつは「天石門別豊玉比売神社」で、あとは「天石門別八倉比売神社」。

「天石門別豊玉比売神社」は城山の西南にあった龍王社が擬せられていたが、現在は国瑞彦神社(徳島市伊賀町)に合祀されている。
豊玉比売命は、夫の山幸彦に海の神の霊力を授けて海幸彦を降伏させた聖母神で、豊玉比売命を祀る神社は全国の延喜式内社で阿波のみだと。

「天石門別八倉比売神社」は、徳島市国府町矢野(写真:通称”杉尾さん”)にある。八倉比売は天照大神の別名で、古代には大日霊女命(おおひるめのみこと)と呼ばれていた。

 徳島には八倉比売命や大日霊女(貴)命を祀る神社が19社もある。そして、村名に「佐那」をもつ佐那河内村には式内社ではないが天岩戸別神社(上字牛木屋)がある。
 ※「佐那の縣」は三重県多気郡多気町仁田あたりとされる。 (菅田正昭著「現代語訳 古語拾遺」、大西雅子著「阿波の古社めぐり」参照)

中臣氏と忌部氏

Fujiwara-Fuhito   中臣氏(後の藤原氏)は新興の豪族だった。

大和朝廷が誕生した三、四世紀の奈良盆地・大和の有力豪族には、物部氏、春日氏、葛城氏がいて、物部氏jから穂積氏が、春日氏からは和珥
(わに)氏や粟田氏、葛城氏からは蘇我氏、巨勢氏、紀氏などの豪族が分かれた。

中臣氏が歴史の表舞台に姿を現すのは六世紀はじめのこと。
継体天皇が朝廷の官制の整備を行い、中臣氏は鎌足(614-669)の曽祖父・常盤の頃祭祀にあたる祭官の指導者とされ、神事の大部分を管理するようになった。もとは卜部氏と名乗っていたようだ。
忌部氏はその補佐をつとめた。
 
 第26代継体天皇
(「男大迹王(をぼどおう)」:応神天皇五世の孫)は滋賀県高島郡高島町三尾の生まれとされ、父・彦主人王が幼少の頃に亡くなり母の実家のある越前三国で育った。
57才の時子どものなかった武烈天皇が崩じたことによって諸豪族によって大王に擁立され越前より「樟葉宮」
(現・大阪府枚方市)で即位した、507年のこと。(第24代仁賢天皇の皇女・手白髪(香:たしらか)皇女・前帝武烈天皇の姉との婚姻による入り婿的王位継承)

その後、山背筒城(つつき:現・京都府京田辺市)、弟国(おとくに:現・同向日市・長岡京市)、磐余玉穂宮(いわれたまほ:現・奈良県桜井市)に入った。
四世紀の三輪王朝、五世紀の河内王朝と異なる新王朝とされ、この王朝こそが現今の天皇家に繋がる王統である。
 
 摂津国三嶋郡を拠点をとしていた中臣氏は、時の大連大伴金村や物部氏・和珥氏、茨田氏・凡河内直氏などとともに積極的に擁立を進めたが、二十年にわたって反継体勢力の抵抗があり、大和盆地のまわりを転々とした。

その反継体勢力とは葛城氏のようで、葛城氏は六世紀前半から半ばには没落し、代わって抬頭してきたのが同じ武内宿禰の後裔氏族を称する蘇我氏で、蘇我氏は親継体の立場をとり大和盆地入りに尽力した

磐余玉穂宮への遷都の翌年には「磐井の乱」を鎮めて、西日本各地の首長連合とも同盟関係を結び、大王を盟主とする中央の有力豪族層が政権中枢を構成する体制が整えられていった。

 「大化の改新」前の継体、欽明朝(第29代)にすでに有力豪族による大臣(代々蘇我氏から)・大連(大伴氏・物部氏から)・大夫からなる合議組織があり、「群臣」十氏と云われる蘇我臣・紀臣・巨勢臣・膳臣・葛城臣・大友連・阿部臣・平群臣・坂本臣・春日臣らとともに、物部連、三輪君ら大和・河内周辺の豪族とともに中臣連もいた。 

欽明朝
(在位539-571)以降、蘇我氏が大王家と密接な姻戚関係を結ぶようになって他氏に抜きんでた存在となったことから、乙巳の変(大化の改新)」へとつながる・・。 (水谷千秋著「謎の大王 継体天皇」参照)
 

海部(あまべ)と海部(かいふ)

thumb 丹後一宮・籠神社の宮司・海部あまべ氏と同字ながら、徳島の海部は「かいふ」と訓読みする。

後の阿波国は吉野川流域を「粟」の国と呼び忌部氏が、南方を「長」の国として海部氏が勢力を誇っており、海部郷は安曇族海部氏の拠点だった。

安曇連(むらじ)はやまと王権の海軍力と海運力を担当し、各地の海部(あまべ)を統率した海洋民で、三柱の綿津見神を祖神としその子・宇都志日金析命(ウツシヒカナサクノミコト)の子孫とされる。

 阿波は、筑紫とともに安曇族の一大拠点であった。
海部郷(現:海陽町大里)に「和奈佐意富曾神社」がある。
「意富曾(おおそ)」は「大麻」を意味し、「ワナサオオソ神」(大麻比古神、大麻神)は県南部に拠点を構えた阿波忌部族で、その航海力をもって日本海側の石見・出雲・丹後に進出した。

『丹後風土記』では「天の羽衣伝説」に登場する老翁を「和奈佐老夫」「和奈佐夫婦」とする。
松江市宍道上来町和奈佐には「和奈佐山」(282m)があり、その麓には「和奈佐神社」がある。
同市忌部町を流れる忌部川をたどると「船林神社」があり、「阿波枳閇和奈佐比古命」(アワキヘワナサヒコノミコト)を祭神としており、阿波からきたワナサヒコ神の意味である。 
(林博章著「倭国創生と阿波忌部」参照)

酉の市

酉の市 今年は鷲(おおとり)神社で5,17,29日と3回「酉の市」が開かれる。

「人並に 押されてくるや 酉の市」(虚子)

関東には鷲神社が7つ、大鷲神社が4つ、大鳥神社が2つある。
浅草・鷲神社の御由緒には「天照大神が天岩戸にお隠れになり、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が岩戸の前で舞われた折、弦という楽器を司った神様がおられ、天手力命(あめのたじからのみこと)が天岩戸をお開きになったとき、その弦の先に鷲が止まったので、神様は世を明るくする現象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて天日鷲命(あめのひわしのみこと)と称されるようになりました。

天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、商売繁盛に御神徳が高い神様としてこの地にお祀りされました。後に日本武尊が東夷征伐の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝いお礼参りをされました、その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。」と。

 天日鷲命は阿波忌部の祖神。
『日本書紀』に「粟国の忌部の遠祖天日鷲が作ける木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖太玉命をして執り取たしめて、広く厚く称辞をへて祈も啓さしむ。」とある。

また、『古語拾遺』にも「太玉命の率たる神の名は、天日鷲命(阿波国の忌部等が祖なり)」とあり、太玉命が率いた忌部諸族の一つとされ、「天富命(太玉命の孫)、更に沃き壌を求ぎて、阿波の斎部を分ち、東の土に率往きて、麻穀を播殖う。 好き麻生ふる所なり。故、総国と謂う。阿波の忌部の居る所、便ち安房郡と名付く。」と東国にも進出していったことが「酉の市」に繋がっていると
。 (林博章著「日本の建国と阿波忌部」参照)


 
記事検索
プロフィール

fumi

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ