文芸・芸能・芸術

「もののけ」

image 美郷ホタル祭りが行われている。 昨夜も我が家の横R193では遅くまで信号待ちの車が長い列をつくっていた。

写真は、美郷物産館で販売されているのと同型の麦ワラでつくられたホタルカゴ。
自分も子どもの頃、作った覚えがある。


「声はせで 身をのみこがす 蛍こそ 言ふよりまさる 思ひなるらめ」(玉鬘)

 『源氏物語』第二十五帖「蛍」で、ある晩源氏の弟・兵部卿の宮が訪ねて来た。
玉鬘
(たまかずら)は光源氏の養女で、「六条院の花」として多くの求婚者に言い寄られるが、兵部卿の宮もそのひとり。

その時、源氏は玉鬘の前にたくさんの蛍を放ったので。蛍の光で浮かび上がった玉鬘の美しさに兵部卿の宮は惑乱したと・・。 (冒頭の歌は兵部卿の宮(”蛍兵部卿”)の贈歌に対する玉鬘の返歌で、源重之の「音もせで 思ひにもゆる蛍こそ 鳴く虫よりもあはれなりけれ」(『後拾遺和歌集』巻三夏)をもじった)

 ところで、『源氏物語』にはしばしば「もののけ(物の怪)」が登場する。
科学の未発達な時代のこと、人に危害を与える邪悪な霊魂を「物の怪」と云い、原因不明の難病なども「物の怪」のせいだとした。

これを本格的に物語の中に取り入れたのは『源氏物語』が最初らしい。
紫式部(978-1016)の時代、戦争もなく「平安」な時代であったが、その分陰湿ないやがらせのようなことが横行する「いじめ」の構造があったと。

 陰陽師・安倍晴明(921-1005)が活躍したのがこの時代で、もののけ現象が注目を集めるようになった。
紫式部は、「もののけ」を使って人々の深層心理まで分け入り、心の深い闇を描こうとしたと。

Genji_yugao 玉鬘の母・夕顔(写真)も「もののけ」に取り憑かれて急死している。

源氏が夕顔と侍女を連れて”なにがし院”に泊まった夜、夕顔の枕元に女の生霊が現れ、源氏に恨み言を言いながら消えて行った。
風の激しい夜で、夕顔はあっけなく死んでしまったと・・。
 (「ビギナーズ・クラシックス日本の古典 源氏物語」角川書店、「100分で名著 紫式部 源氏物語」NHKテレビテキスト)

もうひとつのモナリザ

Isleworth_Mona_Lisa 室町期に「能」が登場したのなら、世界中の誰もが知る「モナリザ」もその頃に生まれた。

写真は、いつも見るモナリザとは少し異なって、「アイルワースのモナリザ」と呼ばれ、最初に描かれたモナリザだと。

 1500年、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)はフィレンチェ共和国に迎えられ、’03年3月サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「法王の間」に居を構えることになった。

「モナリザ」はこの「法王の間」に付属する回廊で描き始められた。
ラファエロのコピーそのことはダヴィンチを尋ねたラファエロがスケッチを残しており
(写真下)、そこには回廊の両側の円柱が描かれているが、この「アイルワースのモナリザ」にも同様に円柱が描かれている。

 ダヴィンチ作品には、「岩窟の聖母」もルーブルとロンドンに二作品ある。
また、気分が乗らないと何年もそのままにしておく性癖があったといい、死の床には「モナリザ」と「洗礼者ヨハネ」「聖アンナと聖母子」の三枚の絵が残されていた。

52歳の頃から描きはじめた「モナリザ」
(モナは夫人、リザは愛称)は、依頼主に渡されることなく1519年にダヴィンチが67歳で亡くなるまで、自身の頭の中で熟した女性像に少しずつ筆を加えていたと。

「アイルワースのモナリザ」は「モナリザ」の初期バージョンとも、模写との説もあるが・・。
 (「レオナルド・ダ・ヴィンチ」河出書房新社、「西洋名画を読み解く」KKベストセラーッズ)

武士と死と能

izutsu 戦への出陣を前にして「能」の鑑賞とは、悠長なことだと。

そう云えば、三好長慶も弟・実休が「久米田の戦い」(1562.3.5)で戦死したとき、飯盛山城で連歌を催していた。

一年前('61)の3月30日には、嫡男・義興の屋敷に将軍・足利義輝が「御成」して「能」が十四番演じられ、翌日にも御供衆を招き辛労を癒すための能が催されたと。

 「能」の主人公は亡霊。
能は、大陸から使った伝えられた「散楽」
(曲芸や歌・舞・物まねなどの雑芸能)が後に「猿楽」(こっけいな芸能)と呼ばれるようになり、

そして、演じていた者たちが、寺院での修正会や修二会の追儺
(ついな)の儀礼を担当するようになり、追儺儀礼の対象であった悪鬼が浮かばれない亡者に変わって「能」が生まれたとされる。(正式には直面現世劇である「狂言」が組み合わされて上演される)

しかし、能がなぜ仮面劇となったのか、追儺儀礼は邪悪な鬼追放であったのが、なぜ哀れな救われない亡者追善に変化したのか、など不明なところもあるようだ・・。

 能は、南北朝から室町時代に日本の文化の中で最後の成立した。
平安貴族が持ちえなかった演劇で、1374年京都に現れた観阿弥を足利義満が見て、「夢幻能」を完成させた子・世阿弥は義満の寵愛を受けるようになった。

武家階級は、貴族社会の文化にコンプレックスを持っていたといい、「初心忘るべからず」「秘すれば花なり」と名言を残した『風姿花伝』(世阿弥)を徳川家康も読んでいたと。 (以上、田口章子編著「芸能史 上巻」、「能・狂言鑑賞入門」日本放送出版協会 参照)

死と隣り合わせの日々を送り、肉親を早くに亡くすことが日常茶飯事であった武士たちにとって、「亡霊」を親兄弟たちに見立てていたのかも・・。

なぜフェルメール作品は少ないのか?

Delft 《聖プラクセディス》は2014年ロンドンのオークションで某日本人が約11億円が競り落としたものが国立美術館に寄託されたもの。

フェルメールの現存する作品数は35点ほど。
(32点とも)
ほとんどが小さな作品ばかりで、同時代に活躍したレンブラントの《夜警》(縦3.63m、横5.37m)の中に全てが収まってしまうほどだと。(レンブラントは約350点、ルーベンスは数千点もの作品を残している)

そして、ほとんどが美術館所蔵であり、個人所蔵は《聖プラクセディス》を含めわずか2点のみなので、オークションにでることはごく稀なこと。

 フェルメールの画家人生は凡そ22年間で、その間に50~60点の作品しか制作しなかった。(《聖プラクセディス》は1653年、21才で画家として組合に登録した翌年の作品・宗教画。’56年以降は風俗画に傾倒する)

生前から評価が高かったにもかかわらず寡作だったのは、人気作家は工房を構え弟子を雇って分業体制で制作していたのに、フェルメールは全て一人で描いていた上に、宿屋や画商、義母に代わって貸付金回収するなどの副業をこなしていたからだと。

 フェルメールと云えば、”フェルメール・ブルー”と呼ばれる青(ウルトラマリン・ブルー)
鉱物ラピスラズリからつくられ、通常の顔料の100倍、金と同等の価値があるといわれるほど高価だった。

それほどに高価なものをフェルメールはふんだんに使用しており、時には下塗りにも用いられていると。
有名な《真珠の耳飾りの少女》は「青いターバンの少女」とも呼ばれている。
(写真は生誕地オランダ・デルフトの街並み)
 (青い日記帳「いちばんやさしい美術鑑賞」、千足伸行「フェルメール」参照)


《聖プラクセディス》

saint_praxedis 三好長慶(1522-64)は、永禄7年(1564)7月4日飯盛山城で病死した。

相次ぐ兄弟の死(十河一存、実休)に続いて愛息・義興が若くして急死したことからか”うつ病”になったようで、5月9日に最後に残った三弟・安宅冬康を城に呼び出して誅殺した凡そ二ヶ月後のことだった。

 ところで、フェルメール(1632-75)は最も人気のある画家のひとりだが、長慶が没してから約100年後、彼も”躁うつ病”で長慶と同じ43才で亡くなっている。

彼の場合は8人もの子どもがいた上に、1672年にぼっ発したオランダとフランスとの戦争で絵が全く売れず、多額の借金を抱え込み精神的に追い込まれたようだと。

父から継いだ宿屋と画商の副業も思わしくなく、暮らしは妻の母のもとで義母が行っていた不動産や未納貸付金の回収を手伝い、オランダ各地に出向いていたという。
あの有名な《真珠首飾りの女》もパン屋への担保となっていたことがあると。

フェルメールが亡くなった翌年、妻のカタリーナは自己破産を申請し、所有していた作品などはほとんど競売にかけられ借金の返済に充てられた・・。

 フェルメールが脚光を浴びたのは、死後200年も経ってのことで、1866年に美術評論家が開催した展覧会に出品され広く認知されるようになった。
(この時の作品70点の大半は贋作で、真作は24点だったと)

贋作と云えば、日本の国立西洋美術館所蔵の《聖プラクセディス(写真)は、まだ研究者の間で真作かどうかの議論が続いており、「ヨハネス・フェルメール(に帰属)」と但し書きで表示されていると。 (今谷明・天野忠幸監修「三好長慶~三好長慶の死因に関する医学的考察:諏訪雅信」、千足伸行監修「フェルメール」参照)
 
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