時の話題

「バルジの戦い」

300 今日6月6日は、1944年連合軍の「ノルマンディー上陸作戦」が決行されて75年目になるとして、今朝から記念式典の模様が報じられている。

そこで、映画にもなり、あまりにも知れわたったこの作戦の後、ヒトラーが西部戦線での起死回生を図ってベルギー南部のアルデンヌ高地に大量の戦車を投入し、連合軍の補給基地となっていたアントワープの占領を目的とした「バルジの戦い」(12/16-1/25)について・・。 
(「バルジ」とは、突出部の意味)

  「ノルマンディー上陸作戦」により8月25日にはパリが解放されたものの、連合軍は予想以上の進撃で補給が滞って進撃は停滞、戦線は膠着状態にあった。

9月14日、英国軍のモントゴメリー元帥は、これを打開するために「マーケットガーデン作戦」(空挺部隊をオランダに降下させライン川を渡る)を実行したが、失敗に終わっていた。

12月16日、「ラインの守り」と呼ばれるこの作戦に、ヒトラーは800輛の戦車を投入してアルデンヌの森を進撃し、最初の数日間は天候不順やアメリカ軍が不意を突かれたこともあって瞬く間に突破されたが、天候回復とともに出動した米英空軍により進撃はすぐに膠着するとともに、限られた燃料補給で目的としていたムーズ川には到着することができず、多くの損害を出して1月半ばには作戦は中止に追い込まれた。

この作戦により、戦争の終結は早まったとも、東部戦線に軍を投入する余力がなくなりソ連の進撃を速めたとも云われる。
 (「まるごとわかる第二次世界大戦~ヨーロッパ戦線の真実」GAKKEN 参照)

本土空襲

B-29 今日、5月29日は昭和19年(1945)、横浜がB29による空襲を受けた日。

B29は太平洋戦争の象徴的兵器で、前年('44)11月24日から本土空襲が始まり、国民を恐怖のどん底に陥れ、負け戦を実感させられたことだろう。

 私の父も戦地に赴いており、同年('44)3月20日中国本土からグアム島に転属され、同23日には隣のロタ島に移っていた。

 ニューギニア、ソロモン方面へと侵攻してきたアメリカ軍が次の目標としたのがマリアナ諸島だった。
この年の5月に実戦配備されたB29が、ここからだと本土爆撃が可能となるためで、アメリカ軍は空母15隻、戦艦7隻を終結させた。

これに向かう撃つ日本海軍も、3月に竣工したばかりの最新鋭空母「大鳳」(29,300t)をはじめ、9隻の空母と戦艦大和・武蔵に長門・榛名・金剛を投入し、同戦争中最大の空母決戦「マリアナ沖海戦」(6/19~20)となった。

結果は「大鳳」ら3隻を失う日本軍の一方的な敗退で、これ以後空母部隊を編成することができなくなった。

 7月にはサイパン島を占領され、8月1日にはテニアン島、8月13日にはグアム島守備隊が玉砕。 
ロタ島にいた父は運よく生き延びることができたのだ。

30そして、翌20年('45)3月には硫黄島が陥落し、P-51が護衛につくことが可能となり、わが物顔で本土空襲が繰り返された。

罹災者100万人を超え大被害をもたらした最大の東京空襲は3月10日のことだった・・。 
(「まるごとわかる太平洋戦争」Gakken,「太平洋戦争全海戦」双葉社 参照)

藍が日本遺産に

12 昨日、阿波の「」が日本遺産に認定されたと報じられた。

江戸時代後半、生産流通が発展して江戸・大坂・京都など大都市の町人が栄えて都市文化が大発展するにつれ、全国村々にも民俗芸能や民謡などの大衆芸能が広まり発達した。

生糸・木綿・油・和紙そして有田の陶磁器や赤穂の塩とともに、阿波の藍も飛躍的に生産を高め、町人たちも豊かになった。

武士と町人の経済力は逆転し、すぐれた町人もたくさん現れて新しい時代の文化を創造していったが、このようなことが全国的にも見られ、宝暦年間(1757-63)以降には目覚ましい文化現象となった。

 文化・文政(1804-29)の頃には、江戸で寄席が大流行したようだ。
「天保の改革」(1830-43)で一時消滅状態になったが、弘化年間(1844-47)年間になるとたちまち復活して1500軒もの寄席ができたと。

このような中で、あらゆる分野・職業に多くの名人が生まれた。
その背景には、まだ徒弟制や手づくりによるオーダーメイドの時代だったことがあるとも。
江戸時代後期から明治にかけては、手づくり文化のピークの時代だった。

しかし、浮世絵や陶芸など今も世界で高い評価を得ており、今回日本遺産となった「藍」や藍染めも、これを機会にもっともっと注目されることを期待したい・・。
 (西山松之助著「江戸文化誌」参照)

卯の花とホトトギス

Masaoka_Shiki  「卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ホトトギス)(正岡子規)

今日6日は「立夏」。
しかし、夏の到来を知らせるホトトギスの声はまだ聞かれない。

正岡子規(1867-1902)は、慶応3年「卯年」生まれで、明治22年肺結核で喀血した時も「卯月」で、「卯の花」にはこだわりがあったとか。

「帰ろふと 泣かずに笑え 時鳥(ホトトギス)(夏目漱石)

漱石が詠み始めた頃の句で、入院した子規を見舞って「泣くな、笑え!」と励ました。

 二人は大学予備門時代に出会い、「漱石」の名はもともと子規が使った数多いペンネームのひとつで、漱石が子規から譲り受けたのだとか。

漱石は、帝国大学英文科卒業後、松山、熊本で教員生活を送っていた。
一方、子規は日清戦争での従軍記者活動から帰国途上に喀血して神戸で入院。

そして、漱石のすすめで松山の漱石の下宿に移り住んだ。
やがて漱石はイギリスに留学したのだが、その間に子規は逝去。
帰国した漱石は、子規の残した『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表して一躍人気作家となった・・。
  (「子規に学ぶ 俳句365日」週刊俳句編 参照)

「改元」のこと

b1694648 「平成」最後の年となり、4月1日には新しい年号が発表されると。

弘治4年(1558)2月28日、正親町天皇の践祚に伴い「永禄」と改元された。

しかし、畿内を制していた三好長慶には朝廷から「返状」が遣わされたが、近江朽木に追われていた将軍足利義輝には知らされなかったことから、義輝は反発して9月になるまで「永禄」を使用しなかった。

 日本人にとっては当たり前のことがだが、年号を使用しているのは日本だけ。
古くは王の即位を表すものとして、中国では秦の恵文王の13年(
紀元前323)の改元に始まるといい、清王朝が倒れるまで二千年間、約六百にも達する年号が使用されたが、1949年中華人民共和国が成立し西暦をもって公暦紀年とされている。

日本における最初の年号は「大化」(645)。
そして、大化6年(649)長門国から白い雉が献上されと朝廷はこれを瑞祥として「白雉」と改めたのが、最初の改元。

しかし、それから文武天皇5年(701)3月21日「大宝」と改元されるまで年号が建てられていないことから、この二つの年号には疑問があるようだ。
(天武天皇15年(686)7月20日には、病気の平癒を願って唐突に「朱鳥」(注記して「あかみとり」と和風の訓み)に改元されたが、天皇は2か月後に没した)
「大宝」以後は今日に至るまで連綿と堪えることはなく続いている。

  ついでながら、1月の和名「睦月」の由来については多くの説があるのだと。
「本つ月(もとつつき)」が略されたもの(鴨茂真淵)や「萌月(もゆつき)(平田篤胤)、「生月(うむつき)(谷川士清)などがあるが、「睦び月(むつびつき)」が訛ったとの説(『節用集』(1444-74)、『二中暦』(1444-48))が有力だとのこと。 (「歴史読本~年号についての基礎知識:岡田芳朗、和風月名の由来:吉川佳子  '73.12」)






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