March 03, 2010

49er - 15 - ことだま

言葉とは、空間である。

いや、そんなはずないだろう。
あぁそうだ、少し気取ってみたかっただけだ。


留学によって得た成果の一つに英語力がある。
先日のTOEIC公開テスト第152回の結果は

LISTENING 470点
READING 395点
TOTAL 865点

この点数は交換留学をした人間としてはギリギリ許されるライン。
というのも、TOEICはご存知の通り
スコアと意思疎通能力の相関表というのを開示していて
860点以上が最高ランクA「Non-Nativeとして十分な意思疎通が出来る」とある。
留学先では、精神不安定にならない限り、誰しも十分な意思疎通が出来る。
加えて本来、留学から帰ってきた上智大学の人間なら900点は超える。
そういった意味では、あまりいい結果とは言えない。
READINGが低いのは完全に集中力を失っていたと言っていい。笑

ちなみに
730点以上がランクB「どんな状況でも適切な意思疎通をする素地を備えている」
470点以上がランクC「日常会話や限定された範囲で意思疎通が出来る」
それより下は「傷の舐め合い」程度のことしか書かれていない。


以前、英語を話すとは何かということを書いたが
僕はこのスコアと意思疎通能力の相関表の
「Non-Nativeとして」という言葉を見て、何か考えが変わった気がする。
いや、変わったと言うより、考えが進み確信に変わったか。


以前の考え方はこうだ。

個人としての僕らの前には「永遠に横たわる不毛地帯」が広がっていて
「言語」はそこを生き抜くための道具であり、チャネルであり、プロトコル。

だから僕は初めから、
道具には正しい使い方があって
正しい流通路があって
正しい通信方式があると思っていた。
それらを使いこなせてこそ初めて「言語を話す」ことになるのではないか。
それはNativeに近い英語的思考に加え、英語よる記憶の蓄積が必要である。



ここで言語だけでなく言語がもたらす「言葉」について議論したい。

言語とは何か。言語とは、記号だ。
何語を話しているにせよ、言葉とは、空間である。

例えば「好きだ」という単語、あるいは「あなたが好きだ」という文章
または「love」あるいわ「I love you」という文章
それ自体には何も意味がない、単なる記号と変わらない。
主体のある状態を示す、それまでだ。

だが、これをあなたが好意を寄せている人間から言われとすると状況は変わる。
嬉しいと感じるかもしれないし、戸惑うかもしれない。
あるいはなぜか知りたいと思うかもしれない。

言葉には奥行きがある。ドラマがある。そして、空間がある。
転じて、それは関係とも呼べる。

しかし、僕は「関係」ほどダイレクトなものではないな、とも思う。
と言うのも、言葉は人が使うとも限らないからだ。
名言というのは確かに存在する。感動もする。
それには「あの人が言ったから」というのももちろんあるし
その他にも「あの時代だから」もある
「詠み人知らず」だからこそ、って場合もある。

だから「言葉」というのは
「あの人」「あの時代」「あの状況」が産んだ独特な空間であって
僕らはその「空間」に魅了されるんだ。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は読んだことは無いけど
あまりにも有名な、この言葉だけは知っている。

みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも
涙がこぼれるだろう


引用の仕方が正しいかはわからない。
しかし、この言葉が印象的であること、そしてこれが英語に翻訳されても
依然感動的であるであろうことに加え、
文中の「神さま」を現代風に「言語」あるいは「国」に置き換えてもなお
感動的であるし、普遍的な何かを持っている。

僕らはこの言葉にドラマや空気感を感じるし、
宮沢賢治とはどんな人物であったか想像をめぐらすことが出来る。

そうやって自分の過去や世界を見渡すと「言語」それ自体は問題じゃない。
自分が「誰に」「どのタイミングで」「何を」話すかで「空間」作られ
自分がどんな人物かが形成される。

彼の空気、彼女の雰囲気。

それは仕草や行動だけでなく「言葉」が作る。
そのシャボン玉のようにその人を取り巻く空間に
時に反発し、跳ね返りながらもだんだんと中和されていくのだと思う。

だから「英語を正しく話す」ということに縛られすぎてはいけない。
もちろん正しく話せて、それを使いこなせたら素晴らしいことだけど
それ以上に、大げさに言えば、不器用なりに
誰かを感動させることの方がとても大事。

留学中に覚えたけど自分は使わない言葉だって沢山ある。
それでは自分を表現できないだろうから。それは日本語でも同じ。

そして、僕は留学中それに関しては出来ていたんだと思う。
僕の英語は明らかにNon-Nativeだったけど、
僕は彼らを好きになったし
彼らも僕を大切にしてくれた。
それは他ならぬ、彼らの空間を理解出来ていたし
彼らが僕の持つ空間が見えていたからだと思う。


英語で「自分の言葉」を話すことができ、
「僕の空間」を表現出来ていたのならば、

今「英語話せるようになった?」と聞かれたら




答えは一つ、「Non-Nativeとして、Yes」




加えて、多分に日本的感覚、空間を醸し出していたと思う。

そんな最も印象的な、しかし些細な出来事は
シャーロットを去る1週間前に訪れた。

僕はシャーロットの剣道場で大変お世話になった若い夫婦に
食事に誘われて、ダウンタウンの小粋なレストランで食事をしていた。
ある有名な剣道の先生(日本人)がはるばる道場に来てくれた時の話をしていた。
八段の先生の凄さはもちろん彼らも知っていたが、
僕はさらに強調したくて、こう言った。

「He is above clouds」

すると、奥さんが急にハッとなって

「It sounds beautiful, Kinda Japanese. I'm gonna use it. "above clouds...."」

と、何度か復唱した。続きを読む

fumi_z_affair at 11:12|PermalinkComments(0)TrackBack(1)49er 

February 26, 2010

愛車を持つことが夢、そんな時代

「最近の若者はクルマ離れしてきている。」

前回の続きと言えば続きだけど、これは趣味の話。
確かに若い人が車を持たなくなったと思う。販売台数もたぶん減ってる。
愛車が欲しくて、それを理由に頑張って働く人も減った。
交通機関が発達したし、駐車場も高いから。

だから、一般市民がそう言うのは別に構わないと思う。

だけど、
自動車業界の人が、そういった環境の悪化で
若者がクルマを持つメリットが少なくなって
「最近の若者はクルマ離れしてきている。」
って、もしも言っているとしたら、大きく異議を唱えたい。

「そもそもここ数年、若者がドキドキするようなクルマを造ってきたか?」

80年代を前後した時代のクルマは名車が多い、
そんな印象を持ってる。
若者が欲しいと思うクルマが多かった時代。
特に「手が届くスポーツカー」の存在。

そして来た排ガス規制で多くのエンジンがクリアできず
それらのエンジンに依拠するスポーツカーの殆どが消失。
いや、スポーツカーというジャンルはあったんだけど
カタログの片隅へと追いやられた。

ここからがスポーツカーの暗黒時代。

トヨタはもうMR-Sくらいしか造ってなかったし
チェイサーとかアリストの中古を買う人が多い。
ホンダは一応シビックやインテグラのTYPE-Rは造っていた。
日産はシルビアで一時迷走し、
ちょっと頑張ってフェアレディZを造った。

フェアレディZが出たときはすごくいい!って思った。

プラットフォームやエンジンは他の量産車と共通のものを多く使用していたけど
でも、あの時代あの価格であのデザインでZを復活させた日産は偉いと思った。
ってかカルロス・ゴーン社長が偉い。

彼がCEO就任して、真っ先にとりかかったプロジェクトで
日産復興の象徴だった。

現在は徐々にスポーツカーの分野の復活しつつあるのだけれど
次第に高級車並の価格のスポーツカーばかりになってきてる。
Zが成功したのは価格とデザインだと思ってる側からすると
どうしてまた逃げちゃうんだろうって感じ。

でも、こないだのモーターショーはちょっとドキドキした。

トヨタが出したFT-86
往年の名車AE86の名を冠しただけの気合を感じたし
かっこいいって思った。これで手が出せる価格だと夢がある。
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でも、僕はわりとホンダ贔屓なところがあって
今ものすごい欲しいクルマを見つけてしまった。

CR-Z
CR-Z-1
これもホンダの名車CR-Xの後継車。
時代のハイブリット車。これで最上位モデルが240万前後。
フロントマスクはグリルがアウディやマセラティなど欧州的だけど
リアビューはCR-Xの面影がある。
何より、ホンダのライトウエイトスポーツな感じが好き。

今お金が貯まったら買いたいって思えるクルマ。


僕は自動車アナリストじゃない。
自動車マニアじゃない。
運転したことある自動車なんて自宅のアコードくらい。

それでも、そんな僕が切に願うのは
リコール出して、公聴会出て、恥じかいても
若者が欲しいって思うクルマを造って欲しい。
「夢」のあるクルマを造って欲しい

やっぱ速そうなクルマがいいじゃん。
コンパクトカーもいいけど、ミニバンもいいけど、

やっぱスポーツカーだろ。

サーキットなんて行かなくてもいいんだよ、
峠でドリフトなんてしなくていいんだよ、
別に飛ばさなくていいんだよ、
スポーツカーだって安全運転でいいんだよ。

でも、ちょっと飛ばしたくなるようなクルマが欲しい。


愛車を持つことが「若い頃の夢」だと思える、
そんな時代を終わらせないで欲しい。


それがクルマをまだ持てない22歳の願い。

fumi_z_affair at 19:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

February 25, 2010

若いって何だ?

「最近の若者は〜」という言葉をよく聞く。

多くはネガティブな発言なのだけれども
それは「データ」を揃えて客観的に捉えているようでいて、
その「発言」それ自体は、実は年配の人々の主観に基づいた意見で、
場合によってはその事象自体は「変化」と捉えることができる。

生きることは変わることである

というのは、僕の好きな言葉の一つ。
ヒトの身体は成長が止まってもなお、
絶え間ない代謝を繰り返している。
分子がある一時期だけ、身体の中に留まり、またすぐ排出される。
それは消費される脂肪や筋肉だけでなく、
直感的には、出来上がってしまえば変わらないと思われる
臓器や脳細胞でさえ例外ではない。

1年前の自分と今の自分は外観や体力が変わっていないように見えて、
実はその自分を構成する分子は総て全く違うものと入れ替わっている
分子生物学の世界ではそう言われているらしい。
自分というものは確かな実体であるというより
分子の流れの結節点のようなものであり、常に揺らいでいる。

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。
世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。
方丈記 序


この流れが止まってしまうことはすなわち死であるし、
また僕は「人として」もかなりそれに近いと思う。
今のままの自分を守りたいと思うことは、
自分がもしかしたらできたかもしれない、
そんな可能性をすべて捨てることになる。

故に、生きることは変わること。

でも、自分がおじいさんになった時に
同じことが言えるかどうかは、わからない。
いやむしろそれが年を取るということかもしれないし。

というのも、今「最近の若者は〜」とボヤく人たちだって
たぶん自分が若い頃はそう言われていただろうし、
遡れば、あの紀元前の碑文ロゼッタストーンにも
「最近の若者は〜」によく似た内容が書かれているらしい。
いや、これは都市伝説かもしれないけど、
今も昔も人は同じような悩みを持っていたんだって思って
矛盾するようだけど僕はそれを聞いてどこか安心したというか。

まぁ、要はこんな話をしても歴史的に見て不毛であるわけで。


若いって何だ?

fumi_z_affair at 14:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)雑感