必至にいろいろと考える

バリ島での生活をもとに人間・人生・家族・子供・教育・宗教などについていろいろと必至に考えて本来あるべき人生を送ろうと奮闘するRYOの独り言!

December 2006

UPADESA-9

1964年から編纂が始まり、1967年に初版印刷されたバリ・ヒンドゥー教の教えを綴った教書『UPADESA』。7人の編者が作った『先生(Rsi Dharmakirti)』と『生徒(Suyasa)』の2人による質疑応答からなる会話形式のこの本を紹介していく9回目。

第1回目に、バリ・ヒンドゥー教にPanca Sraddhaと呼ばれる5つの基本信仰があり、それぞれ、
『神の存在を信じること』、
『魂の存在を信じること』、
『因果応報(善悪を含むすべての行為の結果は自分に跳ね返ってくるということ)を信じること』、
『人生に苦しみがあるということを信じること』、
『悟りや(苦しみからの)解脱の存在を信じること』
という内容だと紹介した。

この5つの信仰のうちの一つ目である『神の存在』(Widhi Tattwa)を説明してきたのが、第2回目から7回目までとなる。二つ目である『魂の存在』(Atma Tattwa)は前回にあたる8回目で綴った。そして今回はその3つ目にあたる『因果応報』(Hukum Karma Phala)についての説明となる。

人間にあるJIWATMANは、Punarbhawaしていく。Punarbhawaとは、Lahir Kembali(生まれ変わる)ことだ。そして、Punarbhawaしていく際の基準となるのが、Karma Phala、つまり因果応報である。さらに人間世界からの悟りを開くことを、Moksaと呼ぶ。

今回はPunarbhawa(=Lahir Kembali=生まれ変わり)の基準にあたるKarma Phala(因果応報)について綴るが、
(Hukumは『法』という意味)
Karmaは『行ない』を意味し、
Phalaは『結果』を意味する。

そして、当然のようにSubha-karma = Perbuatan Baik(善い行ない)とA-Subha-Karma = Perbuatan Buruk(悪い行ない)があり、ここで生徒SUYASAがとても現実的な質問をする。

「(上述のような理論は現実にはやや違っている。現実世界では、善い行ないをした者が辛い目に遭い、悪い行ないをした者が幸福に浸っている。これがどういうことでしょうか?」と。

すると先生は、以下のように答える。

Karma Phala(因果応報)には3種類あり、それぞれ、
Sancita、
Prarabdha、
Kriyamanaと呼ばれる。

Sancitaは、前世でのKarma『行ない』によるPhala『結果』を前世ですべて享受することがなく残っているものがあり、その残りのPhala『結果』を現世でも享受するというもの。

Prarabdhaは、現世でのKarma『行ない』によるPhala『結果』をすべて現世で享受するというもの。

最後のKriyamanaは、現世でのKarma『行ない』によるPhala『結果』をすべて現世で享受することができずに、来世にそのPhala『結果』を引き続き享受するというもの。

この3つのうちにSancitaによれば、生徒SUYASAからの質問に対する答えが、自動的に得られてしまう。

このような教えを信じるとすると、『今』という瞬間への執着に対する見方を再考させられる。善い行ないは『今』という瞬間の継続の流れの中で常に努力して追求されるものであるけど、そこから来る結果 / 褒美は常にその『今』の瞬間に味わえるものではない(急いじゃいけないということか!?)。

努力がすぐ報われないと思うか、努力はいつか必ず報われると思うか、その捉え方はまた人それぞれであるが、この教えを信じてさらに輪廻転生を信じた場合、Hukum Karma Phalaは、僕ら人間にとてつもなく広大で深遠な安心感を与えてくれるものになるのではないかと、僕は強く考える。


今年という年に、大いなる感謝の念を捧げる!!


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些細な非日常

ここのところ、毎日のように雨が降る。長時間降り続けるという感じではないが、朝か晩に、夜中か日中に、数時間集中的に雨が降る。

そうそう、例年であれば10月ぐらいからたくさん出回るドゥリアンも、昨年のそれと比べると数が少ない。

クリスマス前に2期制の前期が終了して、子供たちの学校は来年1月7日まで休みである。

家内のおばがキリスト教徒の男性と結婚して改宗。だから、親戚が集うクリスマス・パーティーが一応あるが、外国人観光客が集まる繁華街を除けば、この土地にクリスマスはない。そして、実は、西暦の新年をちゃんと祝う習慣もないに等しい。

25日夜のおばの家でのクリスマス・パーティー。30人弱の親戚が集まった。やたらとテンションが高かった、みんな。おしゃべりも弾む。

12月31日には、海外で働いている家内の弟の息子、そう僕らの甥っ子の満二歳を祝うパーティーを開く予定だ。彼の本当の誕生日は30日なのだが、いわゆる大晦日パーティーと一緒に開催することに。メニューは、自家製IKAN BAKAR(イカン・バカール=焼き魚)だ。炭火で焼く。

今から、誰が魚を仕入れに行くのか、誰が何を用意するのか、その分担で盛り上がっている。

そうなんだ。クリスマス・パーティーといい、誕生日会といい、そんな些細なことが、この土地では僕らの心を躍らせてくれる!

シンガポールのようなショッピング・モールはなく、日本のように遊園地やディズニーランドもない。映画館も2箇所しかないのに行列は稀で、お洒落なレストランは外国人観光客用だ。

土曜日にウィンドー・ショッピングをしにデパートへ出かけるのは、きっと、日本の人たちが泊りがけに有名温泉旅館に泊まりに行くぐらいにワクワクものだ。

僕なんか、休みの日に本屋へ行けるだけ、嬉しくてしょうがない……。

僕の子供たちの好きなところは、海である。もう決してそれほど綺麗でもないビーチで、波と戯れる。彼らにとってはそれだけで、息を切らせるほどの興奮ものだ。外国人観光客が集うウォーターボム・パークと呼ばれるところよりも、サヌールの海がいいらしい。

片道1時間ぐらいかけて、ブドゥグルという高地にある植物園にドライブに行くことも、豪華なレクリエーションだ。そこはただ、だだっ広い芝生が広がっているだけ。そこで、持ち込んだお弁当をみんなで食べる。ただそれだけ。

そんな些細な休みの予定が、平凡な日常を壊してくれる。そんな些細なもので十分なのである、この土地では。毎日の平凡さを、当たり前のこととしてしっかりと受け止めているこの土地の人たちにとっては、(もちろん、時間的にも経済的にもこの土地から自由になれないという現実もあるが)そんな大袈裟な非日常は必要ない。

海と山と空と緑と、そして家族と一緒に同じ時間を過ごせるだけ、それはそれは豪華なバケーションなのであると、僕は強く思っている。



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つながった!?

台湾地震以来、アクセスできずにいたが、今朝から、なんとなくつながっている、滅茶苦茶スローだけど。ネット無しではビジネスが立ち行かない人たちは大変だなと思う一方、結局は僕ら人間の外にある世界の力のバランスの中でしか生きていけないのだなぁ〜と思わずにはいられない。

僕ら人間が作ったものは必ず壊れるし、神様が創造した自然までをも僕らは破壊しているのだけれども、どんなに僕らが自然の形を変形させても、いやぁ、僕らが自然を変形させればさせるほど、そのしっぺ返しは大きくなる一方であるように感じるのは、果たして僕だけであろうか!?

この土地のある国でも、ここへきてしっかりと雨季らしく雨が降るのだが、国内中どこもかしこも大小の洪水である。下水道の整備が問題なのではなく、森や地中の自然の力が僕らのせいで弱められているからなのだろう。

2006年って、自然災害や電気系統の麻痺とか、いろんなことが世界中で起こっていたなぁ〜と、ふと思い出した。





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死刑というものから思うこと

25日4人の死刑確定者に対する死刑が執行された。一部メディアで、賛成派反対派からのそれぞれの見解が掲載されていた。

悪いことをしたから刑罰を受ける。とんでもない罪を犯してしまったから、それ相応の責任を取る。特に殺人に及んでしまった人の場合、被害者家族の気持ちもあり、命でもってその罪を償うことになるというものであるようだ。

ところが今回、死刑確定後に執行を受けないままでいる囚人の数が100人を超えそうであり、前法相がその在職期間中死刑執行命令書への署名を拒んでいたこともあり、2006年はこれまでに1度も死刑執行がなされていないから、と様々な理由で執行が決定されたらしいことがメディアの報道で分かる。

また、執行されることがなければ制度としての死刑の存在そのものが問われる的なコメントも見られた。

ここで僕が思ったことは、既存の制度の、その制度があるという事実のみが重要視されているという点だ。

事実っていうのは、それが善であることもあれば悪であることもある。その一方、真実っていうのは、かなり主観的で、特定のある人にとって善もしくは正であると判断されるものであり、万人にとっての善や正なんていうものは、存在するはずがないと僕は思っている。

ましてや、何かの勢いで作られた制度なんていうものに、長い年月を経ていく根拠も力もないように思われる。人間が作った制度に、人間は服従するようでは駄目だとも思う。

僕自身、死刑という制度がどうあるべきかを綴るには、まだまだ見聞も狭ければ自問する経験が少なすぎる。

それでもあえて、今の段階の自分の力で思うところを綴れば、制度の下に国家による殺人が許されるような状況は、改善できるものなら改善されたいと思う。

僕は、ひとりひとりの人間が自分というものを探す過程において、さらには自分以外の誰かが自分を守ってくれることはないという認識を持つ(自己責任とともに強く生きるという目的のため)ことにおいて、いわゆる軍隊や自衛隊のような概念の果たす役割は肯定できると思う。

ただ、だからと言って戦争が肯定されるわけでもなく、世界中で大勢の人たちが『正義のための戦争』の被害者になっていることを無視することはできない。

核についても、抑止力としての核という捉え方もあるわけだが、世界中のどの国も核を持つことがなければ、それはそれでバランスが取れているわけで、国家間に競争の原理が働かないのであれば、世界中に核がないという状態はベストであるとも思う。

それと、物事には原因と結果という風に大別もしくは解明できないことも多いのではないかと僕は思っている。時というものに対する捉え方が、西洋のそれとアジアのそれでは大きく違うようで、物事を論理的にではなく、時の流れに任せるかのように曖昧な部分を物事に残すアジア特有の考え方に従えば、やはり、原因と結果はいつでも対をなすとは言えないことになる。

この土地でも、善と悪は表裏一体であり、何事においても白黒をはっきりさせることは難しい。競争の原理がなかなか根付かず、制度は不備で、独特の時間の流れに支配されている。でも、この土地で僕は、この土地の良さみたいなものを感じている自分がいることを確実に認識している。

そんな僕の意識から、ちょっと角度を変えてみれば、何かを明白にしなければならないといった強迫観念みたいなものが、西洋の世界から発してきて現代の全世界を覆いつくしているのではないか、とも思う。

無知や不安を撲滅することが人類の唯一の進歩であるかのように語られることが多いが、無知や不安をそのままに受け入れるという姿勢の良さみたいなものが、再検証されてもいいのではないだろうか?

どちらにしろ、人間が人間を裁くということ、人間が人間を殺すということ、そのどちらもが公に認められるということ自体に、僕みたいな愚か者は疑問を抱かずにいられない(一番嫌悪されるべきことは、すべてが後付けの形で正当化されてしまう兆候であろう。そういったところに、法や制度の、そして人間の弱さが露呈されている)。

だからといって、じゃぁ、それに変わる方法や策が思い当たるのかと言われれば、口を閉ざすことしかできない今なのだが、こういうことを、ときどきであっても、断続的に考えることに損があるはずはないと僕は思っている。




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重婚っていうものと夫婦のあり方

インドネシアで一番信徒の多いイスラム教。そのイスラム教で、教義の教えを説く立場の有名な男性が、2人目の妻を娶ることになった。これは明らかな重婚である。

で、この人もこれまで、多くの信徒を前にした説教などで2人目の奥さんを作ることを決して推奨していなかったわけで、多くのイスラム教徒から裏切り者のように見られてしまっている。

でも、冷静になると、インドネシアの法律では条件付で重婚が認められている。その条件というのは、家庭内で妻としての役割を果たせない場合のようなもので、きっと、その役割がどのようなものなのかは法律解釈というゲームの問題だ。そして、この次に、既妻の賛同が必要ともされている。

で、この人のケース、既妻が賛成しているらしい。でも、その既妻の妻としてのどんな役割不足がそもそもの問題となったのかはメディアにも登場しない。ちなみに、この既妻、しっかりと子供を生んでいる。

それでは、この土地ではどうか!? 都市部で重婚する人はまずいないような気がする。お金がかかるからだ。でも、妊娠できずに已む無く後妻の存在を認める前妻や、新しい女性と結婚されるなら離婚してくださいと腹をくくる女性がいるのは日常茶飯事だ。

で、地方に行ってしまうと、きっと、2人や3人の妻を抱えている人、今でも多いような気がする。法律で正式に認められない妻から生まれた子供は、確か出生届が受理されないはず。でもこんなこと、いくらでも抜け道はあるはずだ。

どちらにしろ、この土地のちょっと前の時代では、重婚は当たり前の状況であった。家内の父方のおじいちゃんは2人の妻を娶っていた。

さらに時代を遡って王様が領土争いをしていた頃では、どの王様もたくさんの妻を抱えていたはず。

そんなことを考えていて、また意識が飛ぶことに。

ひょっとしたら夫婦の関係って、愛情の問題ではなく役割の問題だったのではないかと。結婚するということは、家庭内での夫としての役割、妻としての役割、父や母としての役割といったものを果たすための関係性に過ぎなかったのではないかと。

そういった役割をスムースに果たすための最高のパートナーと出会うことが大事であったと。

大家族制のもとでは、3世代のそれぞれが家庭の構成員としてそれぞれに大事な役割をたくさん抱えている。そして、子供が多いことは善いことであった。だから、妻という立場の人間が複数いても、ひょっとしたら、何の違和感もなかったのかもしれない。家事も分担できるし、子供もたくさんで毎日が賑やかになる。

こういう肯定的な見方にも当然のように疑問が投げかけられる。夫婦の愛の問題はどうなるのかと。複数いる妻同士で、やきもちを焼くことはないのかと。

勝手な解釈だけど、そんなやきもち、そんな感情の起伏って、実はそれほど大袈裟に騒がれる問題ではないのかもしれない。僕はけっして女性を低く見ているのではなく、別に複数の伴侶を持っていない現代においてでさえ、妻の嫉妬や夫の嫉妬といった問題はあるわけで、正式に複数の妻を持って女性陣が嫉妬するのと、妻は一人しかいないのに女癖が悪くて夫婦仲が円満でないことに、大きな違いはないような、いや、後者のほうが癖が悪い気もする。もっとも、こんなこと、直接比較できることではないが。

この土地の夫婦、結婚問題を眺めていると、現代日本のそれとの大きな違いに気付かざるを得ない。「結婚は子孫を残して家族のお寺を守るためのもの。」、「性行為は楽しみのためにではなく子孫を残すための行為であること。」今でもこの土地では、その多くで、このような状況である。

そうであればすれこそ、この土地の人々に『愛』や『いとおしさ』という概念はかなり薄いのではないであろうか? 

若い女性が恋人である男性にフラレル。悲しむ女性もいるのであろうが、その多くは、「世の中にはまだたくさん男がいる。彼よりもっといい男も星の数ほどいる。あいつは所詮アタシのための男じゃなかったのよ!」と前向きで強気である。

できちゃった婚が今でもあるこの土地では、ひょっとしたら、『愛』ではなく、人肌恋しいような一時的な感情から生涯のパートナーを選んでいるのかもしれない。

結婚と生殖行為が『愛』を媒体にしないと仮定すると、この土地の動きがよく理解できる。

僕は『愛』と言う言葉を好まず、『いとおしさ』という言葉が好きだ。重婚が当たり前だった過去の歴史を鑑みても、そこには夫婦としての役割が重視されていて、『愛する』という概念は薄かったのではないだろうか? そもそも、『愛する』という言葉はいつぐらいに誕生したのだろう!?

核家族がすすむ、女性が社会に進出する、家庭内の各構成員の役割とその関係性が時代の変化とともに希薄になる。そういった社会や人間の意識の流れの中から、『愛する』という新語が生まれたと仮定することはできないであろうか!?

性の別がクリアでなくなればなるほど、『愛』という新語が必要とされていく。それがなければ、夫婦の絆を見出せないから。

僕は自分が決して保守的であるとは思わない。女性が働くことにも大賛成だし、変化を恐れる必要はないと思う。でも、妻として、夫として、母として、父として、そして子供として親として、男と女という種別のある生き物として、時代がどんなに変化してもその根本が変わらないということにも意識に留めておくべきだと思う。

僕は家内をいとおしく思い、彼女を最良のパートナーであると思っている。そして、先進国とは違った空気の流れるこの土地にいると、『その役割』というところに、意識が飛んでいくの抑えることがとても難しいということを、認めないわけにはいかない自分がいることを、強く認識せざるを得ないと思わずにはいられない。




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担任からショート・メッセージ

携帯電話によるショート・メッセージにて、「兄弟が病気でお金が要ります。成績表の点数をアップさせたい方は是非寄付してください。」という連絡を担任の先生からもらった我が長男クラスメートの親たち……。

「まったくどういう教師なのよっ??」とみなさんご立腹だったとのことですが、「それなら少しはお手伝いできるわっ!!」と喜んだ親がいたかどうかは定かではない!?


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啓蒙

「紙幣をぐちゃぐちゃに折り曲げたり、汚したり、ホチキスしたりするのは止めましょう!!」と、ようやく政府が叫んでいる。



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確信できた昨晩

昨日は、長男と次男の学校でそれぞれ成績表が配られた。2006-2007年度前期の終了であった。

長男の小学校では成績表を受け取るのは親だけであったが、次男の幼稚園では親子同伴とのこと。仕事を休めなかったので、長男の分は諦めて、家内と次男と3人で朝7時10分に幼稚園に到着した。

次男の成績表、確か3つか4つの評価カテゴリーに分かれていて、その各カテゴリー内に20近くの小項目がある。そして、そのひとつひとつに3段階評価(星印の数)がなされている。

僕はその評価項目の総数に圧倒され、昨晩ひとつひとつを読み込みながら、「こんなトピック、どうやって評価するんだろう!?」と不思議に思ったものだった。それぐらい、細かなトピックが多かった。

もっとも、この土地では授業参観などなく、僕自身次男の幼稚園での毎日や先生の接し方を知っているわけではないので、きっと、子供たちの細かなところまで観察されているのであろうと思うしかない。

次男の成績は、7、8個の二つ星を除いて残りがすべて三ツ星であった。担任の先生いわく、「とてもよくやっている。」とのことである。

この土地では、なんでも物事をオブラートに包む言い方しかしないことが多く、それは学校の先生からの評価でも同じ。「いい成績です。友達も多く仲良くやってます。しかし一点だけ、……。」と厳しいアドバイスをしてくれることもない。だから、こちら側からいろいろと質問して、詳しいことを聞き出さなければならない。

今回我が家の次男は、ダンスが苦手で順序立てたストーリー性のある話が苦手だと教えてもらった。そして、次男の右目に、上目瞼下垂の疑いがあるので専門医の診察を受けるように言われた。多分、簡単な手術をすることになりそうだ。

成績という意味においては、次男は特に心配することもない。ダンスが苦手なのは本人も自覚しており、リズムに乗るのも動きを覚えるのもうまくいかないと本人が言っている。現在、読み書き教室と塗り絵教室に通っているが、とてもおしゃべりな彼には、長男のときより早い時期にネイティブの英会話教室へ通わせてみたい。

そして長男。家内が成績表を取りに行ったので、仕事から帰宅して家内といろいろと話しした。まぁ、さして悪くもなく良くもなく、という感じの成績だった。何でも、担任先生いわく、「クラスの中でもとてもいい成績の部類に入ります。」とのこと。

しかしこの先生、前期中間試験の点数付けがいまだに終了していないし、日々の宿題やミニ・テストの回数が少ないだけでなく、そもそも子供たちに書記させる量も教科書に書き込みを入れる量も、練習問題をこなさせる量も少ない。子供たちが黒板の内容をノートに写している間、食堂で食事したり、教室の外でぼうっとしていることの多い先生である。

これは学校でも有名な話であり、長男のクラスメートの母親たちの多くが不満を口にする。でも、学校へ正式に申し入れをすることはない。どの親も後ろでグチグチ言っているだけである。

だから、家内はこの担任に何を言われても「はい、はい、どうも。」と受け流して面接を終わらせたらしい。

僕は最近かなり極端に、子供の成績がどうでもいいと思えるようになってきた。これは家内も同じである。数字の評価を怖がることがなくなってきた。

今長男には家庭教師がいなく、毎日家内が勉強の面倒を見ている。その家内と僕は、彼の何ができていないのか、よく話している。僕もときどき、算数と英語なら彼の勉強の手伝いをしている。

自分たちで子供の勉強の面倒を看ているからか、学校の先生からの数字の評価が気にならなくなった。そしてそれ以上に、彼がやりたいことをやらせてあげたいと、今まで以上に思うようになった。

現在長男は、塗り絵教室、英会話教室、そして空手教室に通っている。この3つの中で英語と空手についてはかなり積極的であるが、塗り絵はイマイチである。そんな彼が今、ギターに興味を持っている。ギターを習わせたい。

こういうことを考えていると、予習復習の塾にでも通わせたほうが本人のためであり、中学進学にも役立つ、というささやきが頭の中でこだましてくる。確かにそれも一理あるであろうが、数字を追いかけない何かを学ぶ環境の提供に、自分としては挑戦したくてしょうがない。

僕には、こんな安っぽいエゴの動機の隠れ場所がどこなのか、もちろん分かっている。それは、僕の過去の否定から始まっている。僕の経験とは違うレールを、子供たちに歩ませてあげたいと考えているのである。

そんな僕の意識が、彼らの希望に適っているのかどうかも分からないけど、数字を追いかけない学びの環境を、子供たちのためにまだしばらくは模索していきたい。わずか小学3年生、彼にはまだたくさんの時間があるのだから。

家内と子供たちの成績について話した昨晩、子供たちにたくさんの寄り道をさせてあげたいと、僕は強く強く確信することとなった。



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お供え物を買うということから…

宗教儀式などを執り行なう際我が家では、その多くの場合、いわゆる『お供え物屋』からお供え物を買うことになる。

本来は自分たちで作るべきものではあるが、今、この土地においては、特に都心部に住む人たちにとっては、「時間がない」、「買ったほうが早い」という理由で、買うことになる。

ただ、この2つの理由はあまり正確ではないと僕は思っている。きっと本当は、「必要な材料の買い方が分からない」、「お供え物の作り方が分からない」、「自分の家で自分たちだけは作り切れない(人手が足らない)」といったところなのであろう。

これには当然、故郷を離れての核家族制が浸透してきていることが一番大きな影響を与えていると思われる。

そして、どこでなら安くお供え物を買うことができるのかが、買う側の最大のポイントとなる。お供え物には、地域的な慣習の違いが影響するため、隣町のスーパーまで自転車で買い物に行こうという感じにはならないものの、どこが安いかは明らかに大事な問題であり、値切り交渉なども発生してしまう。

この土地の文化と人間という関係性に思いを馳せるとき、この土地の文化はその根本のところでは不滅であると強く信じる一方で、お供え物を買うという行為の恒常化が、やはり、何らかの悪影響を及ぼしはしないかと、教科書どおりに僕も不安になる。

それで、知り合いの年配に尋ねてみた。すると、「お供え物は、その規模から3つのカテゴリーに分かれていて、各カテゴリー内がさらに3つに細分されている。だから、同じお供え物を作るにも、9つのレベルがあることになる。だから、お金がないからお供え物が作れない、お供え物が買えない、ということはまずないのだが……。それに、本来的には、お供え物は売ってもらうのではなく、その知識を持った人たちにお供え物作りを手伝ってもらうわけで、いわゆる材料費に手間賃を加えてお金を渡したものだった。ところが今は、お供え物作りの知識を持った人たちも、手伝って作ってあげるのではなく、生活の糧として売ることをその一義的な目的にしている。」と長々と説明してくれた。

偉そうなことを言わせてもらえば、やはり、文化というものが、時代の変化に押しつぶされていってしまっているということになるのかもしれない。

そんな風に僕が考えていたら、その知り合いの年配がこう続けてくれた。

「デンパサールに、お供え物作りを教えてくれる教室があるんだ。有名な文化財団が運営している教室で、『バリ語』と『儀式執り行ない方(これに宗教概念の理解とお供え物の作り方なども含まれる)』と『祭祀』の3つのコースがあり、どのコースもなかなかの賑わいらしいんだ! 」と。

なんていう教室なんだ! これじゃまるで、僕の渇きを癒してくれるためのような教室じゃないかと思う一方で、こういう草の根的な活動が生まれては継続していくところに、この土地の人々の素晴らしさがあると思う。

そして、お金や数字を直接的に追い求めるのではなく、何か別な形で生活の糧を得られるようなスタイルが、やはり、理想ではあるのかなと思わざる得ない。

結局のところ、本来的なものとそうでないものとの間のバランスが、今の時代必要になるのであろうけど、自分の親が健在なときは親に何でも手伝ってもらうのが子供の常(!?)で、その親がリタイヤしたり、自分自身が孫を持つときになってはじめて、本来的なことを自分自身で把握しようと腰が上がるのが普通の人間かもしれない。

どちらにしろ、お供え物を自分で作るのも買うのも、与えられた選択肢であり、それを選ぶのは僕らの側である。言い方を変えれば、お供え物を買うというところへ逃げるのも僕らの判断であり、逃げるのを止めて教室に通って知識を得ようとするのも僕らの判断。

僕ら人間の我が儘にあわせてすべては神から与えられていて、それを選ぶのは肝心な自分であるのだと、何か人間にとって非常に酷なようにも感じた、その年配の人の話だった。



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お父さんは叔父さん

一部の都心部を除いていまだに大家族制が残っているこの土地ではその昔、ひとつの広い敷地内に自分の父親の兄弟姉妹が一緒にいることが多かった。

なので、この土地の人たちの感覚としては、複数の父親と母親がいる環境の中で育つことになる。そういった親性との複数の関係性において、わりと頻繁に、実の親よりもおじやおばと近い距離を持つことがよくあったらしい。

実際に僕も、「小さい頃からおじさんのことを“お父さん”と呼んでいて、実際のお父さんとはあまり親しくなかった。」とコメントするこの土地の友人を何人か知っている(実の母でなくおばさんと親しいというケースもある)。

こういうケースでは、従兄弟同士で親父を取り替える、という現象が、広大な敷地の中で大家族制を営んでいる家族で発生することになるようだ。

ちょっと話はずれるが、実の兄弟と従兄弟を当人同士の間で特段区別しないというのもこの土地の人々の家族観の特徴ではある。きっとこれも、一つの敷地の中で従兄弟と一緒に育つからであろう。

こんな親子の関係性であると、血が一番濃く繋がっているが故のマイナスな感情による関係性が薄れていくように思われてならない。

甥っ子を叱るおじやおばは、実の子に対して叱るよりも、一歩引くというか、冷静に言葉を綴れそうな気がするのは気のせいであろうか!? そして、叱られる甥っ子もまた、妙に冷静だったりして。さらに、いつも面倒看てくれているお父さん(おじさん)に迷惑は掛けられない、なんていう心理があるのだとしたら、それはそれでプラスになるではなかろうか?

人間にはかなりのエゴがある。そのエゴに抑制力を効かせるキッカケみたいなものに、非家族の人たちとの関係性、非親戚である人たちとの関係性の学びというものが含まれると僕は思う。

これは、人間の感情の起伏を当たり前のことと潔く認める前提から始まり、実の親や親戚には甘えてしまう自分、でも他人の前では頑張れる自分、そういう部分って、誰にでもあるような気がする。

核家族と一緒であると、甘えちゃいたい世界の中で甘えちゃいけないと緊張する。そして、その結果として誰にどのような状況であれば甘えちゃってよいのかの判断力がなくなる!?

それがこの土地では、誰になら甘えちゃってよくて、誰にだったらそんな甘えちゃいけない、というような甘えの感情の使い分けみたいなことを、大家族制の中から学べているような気がするのである。

同じ敷地内で暮らす大家族制には、日本の核家族と違って、甘えちゃっていい世界とそうじゃない世界を、同じひとつの敷地の中で行ったり来たりできるところが、凄いといえるのかもしれない。

これも、一見相反する2つの面が、実は一体であることの多いこの土地ならではの精神ではないかと僕は考えている。



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