ビアンカさんの「少しじっと座っていなさい!」にTBさせていただくことにする。少し内容がずれるかもしれないけど、僕も自分の経験から思うところがあるのだ。

僕の家内の父は、大腸癌を患って大腸をほとんどすべて摘出した。このときにも考えたのだが、きっと僕の義理の父にとって原因や病名はどうでもよくて、問題は痛みだったように記憶している。痛みがなくなればそれでよい。たとえ一時的にであっても。

結局、その痛みを取り除くには癌という問題に直面するしかなく、結果として大腸を摘出するのが一番であり、当初はあれほど手術を嫌がった義理の父も、最期には諦めた。

それで、今は後遺症や転移もなく、排便が横腹からという点を除けば何不自由なく暮らしている。お医者様からは食事に気をつけるように言われたが、それほど気にしている様子もない。

この義理の父の例などは、『知ること』によるプラスな結果だと思う。で、そうでないものも。そうでないというより、『知ってもどうにもならないからそのままの状態をそのままでやっていくのがよい』といった感じの例だ。

その例は、僕の家内の母の弟さんの長女だ。原因や病名は誰も知らない。年齢は既に中学生だが、うちの長男と同じぐらいの身長で、話せない。後頭部の形がいびつだ。食事などの身体機能は問題なく、他人の意図することも分かるが、自己表現や自己の感情を他人へ上手に伝えることはできない。そう、簡単な言い方をすれば『障害児』だ。

聞くところによると、生まれた直後は何の問題も見られなかったらしい。彼女の両親はいわゆる自然体で事実のみを受け入れる形でいる。バリ・ヒンドゥー教でいうところのいわゆるBALIAN(バリアン)と呼ばれる伝統治療(というより信仰治療)などにもトライしたが、近代医術に頼る気は当初から頼る気がなかったらしい。

それはそうであろう、いったい誰が費用の負担をしてくれるというのであろう。

こういう例から僕が思うところは、彼女の両親の精神的強さと、そういった障害のある子供が何の偏見もなく自然に受け入れられているこの土地の風土とでもいうところの環境の素晴らしさだ。

そう、彼女は、『ほかの人たちと少し違うところがあるだけ』の普通の女の子なのだ。

この土地にもいわゆる養護学校みたいなところがあるらしいのだが、そういうところに可愛い我が子を預けようとする親は少ないようだ。ひょっとしたら、そういうところに預けたほうが、障害を持った児童本人のためだという声もあるかもしれないが、それは、『ほかの人たちと少し違うところがあるだけ』の子供たちを差別したがる社会や環境での話しではないだろうか!? 

少なくとも、家内の従兄弟にあたる彼女は、何不自由なく家族や親戚に囲まれて楽しく暮らしている。

良くも悪くも当事者にはなりきれない僕に、家内のおじさん夫婦の本当の気持ちは分かるはずもなく、彼らなりに毎日苦しんでいるのかもしれないのだけれども、変に特別視されずにそのままでいられる彼女は、ひょっとしたら先進国の近代医療の助けを借りなくてもいいのかもしれない、なんて思ってしまう。

いやぁ、そんなことはない。金銭的援助をしてくれる人がいて、手術の結果治癒することが確実なら、誰もが近代医療の助けになりたいのであろうとも思う。

綴り方が滅茶苦茶だが、そもそも癌は昔からあったのかもしれない。で、昔は年取ったらやられてしまう病気だとか、不治の病とか言われていただけかもしれない。それが、『癌』と名付けられて、恐れられて、怖がられて、治療法が見付かって、早期発見なら命を落とさなくても済むようになった。

その後エイズが出てきて、今は鳥インフルエンザだ。

この土地の人たちの様子を見ていると、いわゆるこの土地の宗教観が経済的困難さに輪をかけるように非文化人のようにしてしまっているようにも思えるが、そもそも、100%の健常者など滅多にいないはずで、みんなそれぞれに病を抱えているのだとしたら、どうして『障害者』や『…症候群の方』たちがいわゆる『普通』と区別されてしまうのか!?

いろいろな病に対する治療法が発見されることはもちろん喜ばしいことだが、少なくとも、『障害』や『…症候群』といったものが、”この土地のように”、ごく普通の非普通であるような認識をみんなが持てればいいのにと強く考えた。






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