教室から世界へ!教師が夢を語らずに誰が語る!!


2014年はセミナーで模擬授業を2回!実践を加速させるぞーー!!

    June 2013

    今日は少し昔話を・・・

    大学生のとき、講義をよりも刺激的なものを求めてぶらり途中下車。

    片道1時間半の通学で名古屋を通過するのですが、これが惜しくて何度となく途中下車をしました。


    いろんな服に興味があって、☆がいっぱいついた服とか、真っ赤とか、、、着てました。


    それと同時にあまりにも通学時間がながいので読書の習慣がつきました。


    服を買うか?本を買うか?

    これは大学時代のぼくにとっては大きな問題でした。


    そんなぼくにはひとつの答えがあります。

    「服の重ね着には制限があるけれど、
    本から得た知識・感性は無制限にまとうことができる。」

    このことに気づいてから、ぼくの服装はシンプルです。

    シンプルな方が頭がすっきりするからです。

    あなたも同じです。
    服といっしょに、
    いつも知識と感性をまとっています。 

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    どうせほめるなら徹底的に!

    「わざとらしい」
    「おおげさ」

    などと思われたくなくてほめれない人にはこんなのはどうですか?



    ここに失敗ばかりの人がいます。

    ところが今日はどうしたことか!その人は奇跡的に最後までやり遂げられることができました!

    すかさず、あなたはほめました!!

    1 やっとできたか!
    2 とうとうできたか!
    3 ついにできたか!

    1〜3の中でどのほめ言葉を選びましたか?


    「やっと」には
    あ〜〜やっとできたか〜〜という否定的な意味があります。

    「とうとう」には
    時間がかかってしまったけどできたねという待ちくたびれた感じが含まれます。

    「ついに」には
    ずっとできると期待していて本当にできた〜!!いっしょに喜び合う意味が含まれます。


    勇気をもってほめるなら、どうせほめるなら徹底的にです!

    「やった!ついにできたね!!ありがとう!!すっげーーーー!!!お前はできるやつだ☆」
    ってね!


    ひさびさに始めると違和感があるものです。

    作り込みすぎたり、

    遠回しの表現になったり、

    なにより時間がかかるものです。


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    まさに「血液ドロドロ状態」のようです。

    さらさらにするためにはやっぱり、常に動きつづけることですね。


    動き続けるとは、いつも通り動き続けるのではなく、

    いつもとは違った行動をし続けることです。


    つまり、惰性ではだめで考えながら走る(オシムサッカーみたい)ことが大事です。


    私もさらさらなアウトプットを心がけます。
     

     「いつやるの?今でしょ!」で一躍、人気者の塾講師 林修(はやし おさむ)先生。私(朝岡)が彼に国語を教えてもらっていたことを知るものは少ないでしょう。

     私が18歳のころです。まわりの友人たちが大学生としてキャンパスライフを謳歌しているとき、私は浪人生でした。河合塾で志望校をめざし、文字通り「勉強漬け」の毎日を送っていました。そこの現代文(センター対策)の講義をされていたのが、林修先生だったのです。1回90分の講義を前期15回、後期15回、そして夏期講習、冬期講習、直前講習と受講し、どっぷり林先生の現代文にのめり込みました。

     おもしろい!その一言につきます。おもしろいのです。高校生まではただ眠たい授業の代名詞だった国語がおもしろいのです。言い換えると、知的好奇心をかき立てられるのです。比喩を用いるなら、脳みそをくすぐられるようでした。

     林先生の解法は至ってシンプル、ゆえに王道。「本文中から根拠をひろう。それらをつなげる。」というものでした。毎回の講義はトレーニングのようでした。予習で解いてきた過去問の正解を確認しながら、解法もチェックする。本文を正確に読み取れていないと個人的な解釈が入ってしまって間違えてしまいます。正解だとしても解法にあやまりがあれば手放しに喜ぶことはできません。私は「国語は感覚でなんとなく解くものだ。」、「勉強してどうこうなる教科ではない。」と思っていたので、林先生の解法でスパッと模範解答と同じ記述が出来たときには、真夏の大空に向かってホームランを打ったようなはっきりした手応えを、心地よさがありました。そこから、私はどんどん国語が好きになっていきました。

     しかし、ただ問題が解けるようになって国語が好きになったということでは全くありません。むしろ、点数がとれるようになったということよりもっと好きになる理由が他にあります。

     まず、林先生の人間性にツボった。ということです。今でこそ、テレビに出まくって、流行語まで飛び出してメジャーな発言が目立ちますが、林先生は毒舌です。爽快なほど皮肉をいいます。そして、ものの形容がうまい。だれもが知っている言葉を、あの方しかできないアレンジで表現する。それが、心が荒みに荒んだ浪人生の私には心地よくてしょうがなかったのです。例えば、デブの話をよくします。林先生自身も3回100㎏オーバーしたことがあるとおっしゃってました。デブには2種類あるそうで、「グルメデブ」と「ジャンクデブ」がいるという話。そして、デブの友人のことを「カロリーメイト」と表現したときには私がというより、教室中が沸騰しました。

     また、本をたくさん紹介してくれました。特に、講談社学術文庫の本、中島義道(哲学者)の本。前者の「レトリック感覚」、後者の「私の嫌いな10の言葉」を当時、よく読みました。講義で現代文の解法を身につけて、読解力が上がっている訳ですから、ある程度、どんな本を読んでも筆者の主張が読み取れる、作者独特な描写を味わい、登場人物の心情の移り変わりに乗っかることが出来るようになった訳ですから、これまでの人生の読書体験にない充実感と達成感をあじわうことができたことも国語が好きになったという大きな要因です。

     林修という人物の言葉は当時の私にずんずん刺さりました。胸の真ん中を杭で押されるようでした。林先生が話してくださったことに、大学生になるということ、大学に入ってから学部が自分に合っていないと気づいたこと、就職してすぐにやめた時のこと、塾講師になったけどこのままでいいのかと思っていることなど、18歳という大人という得体も知れない存在に間もなくなろうとしている私にとって、リアルを感じさせられる話でした。

     浪人という時期は時間がないようでたっぷりあります。私はだめな浪人生でしたので、そうだったのかもしれません。頭を使うためには糖分が必要だということで、甘いものを食べまくりました。それに加えて運動部時代と同じだけのご飯を食べた結果、70㎏の筋肉マンだった体型は半年がかりで83㎏の顔つきのわるいデブに変わってしまいました。講義をさぼって街をふらふらあるいたり、行くはずだった大学を訪れてみたり、受かるはずもない名古屋大学を「1年もあれば余裕で行ける」と勘違いして、東山キャンバスに繰り出したりしていました。そんなとき、考えることは決まって「なぜ生きるのか?どう生きるのか?」「自分には何ができて、何ができないのか?」と言うことでした。

     その時まではなんとなく人生を「一本の道を歩く」ように考えていました。時間をかけて、行きたい場所をめざして遠くへ歩く、横道にそれるという言葉もあるように間違いをおかすこともあります。ある時には走る。急いでその場所を目指す時もあれば、ある時にはゆっくり周りの景色を楽しんで進むこともあっていい、と。しかし、林先生という私がこれまで出会ったことのない存在に出会い、また人生で経験したことのない重圧のなかで私は人生を「地中から穴を掘る」ようなものかもしれないと考えるようになりました。人生は一本ではない、そして一方向でもないと考えたからです。地上を目指して、掘り進めていきますが何の手がかりもない。まさに、手探り。掘り進めていくうちにたまたま地上に出ることがきる人もいるでしょうが、そんな人はほんの一握りです。目的は地上に出るだけではなく、穴を大きくするとこだっていい。生きる価値は自分で決めてしまえばいいのだ。

     林先生はもともと理系の人です。数学を教えていたこともありました。なぜ、現代文なのか。「現代文なら絶対誰にも負けないからだ」そうです。先生はそうおっしゃっていました。そのあと、私たちに「自分の勝てる分野で勝負して、必ず勝つ。」と熱く語りかけてくださいました。

     私が生きる価値を何か?それは、「誰かをおもい、努力をつづける。」こと。それができる一番の職業が私にとっては「教師」。私は誰かをおもい、努力したい。だから、教師になりました。私自身もまだ夢を追い続けています。そんな姿を生徒に見てもらいたい。見せ続けたい。見せるべきだと思い、今日も生徒の前に立っています。

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