誇りはどこにある

ノイジーマイノリティを叩き潰し、誇り高き日本を再建しよう。

提言

企業への依存をやめよう

今話題の裁量労働制も、経済学者が主張する解雇規制の緩和も、リベラル陣営の反対の論拠は「そんなことをしたら企業が労働者を使い捨てにするから」と言います。

彼らの労働市場に関する認識は、「善なる弱き労働者 」と「悪なる強き経営者」の対立図式です。すなわち労働者は常に必死で働くのに十分な報酬を与えられず、過重な労働を強いられ、にもかかわらず経営者はさらに搾取の強化を目指して保守政党にロビイングして悪法を制定しようとしている、という筋書きです。

そんな一方的な世界観が真実であるなら、人々は労働をやめて株式投資をすればいいでしょう。労働者を搾取して儲かるのは株主ですから・・・。

というのは置いといて、ともかく彼らの世界観に合うような改革を彼らは主張すべきです。が、私に言わせると彼らこそ「夢は正社員」みたいな企業依存体質をあからさまにうたっています。搾取ばかりする企業に飛び込んで行く若者の就活を応援し、企業への就職を楽にするために大学をタダにしろとか言い出す始末です。

おかしいでしょ?

本当に彼らが企業を憎み、経営者を信用できないのなら、まずやるべきことは「企業に依存した金銭のやり取りを廃止しろ」と主張することです。

具体的には、源泉徴収をやめて労働者が自分で納税すること企業の福利厚生を廃止して労働者に金銭で報いることです。それから雇用主負担の社会保険料も労働者の個人負担とし、その分を含めた賃金を主張すべきです。

自分は会社でいくら稼いでいるのか、そこからいくら納税すれば国民としての義務を果たせるのか、これがわかれば企業に頼ることはありません。個人事業主は全員それをやっています。

そうすると現在の所得税や住民税は累進して行くので税負担は増えて労働者の取り分がなくなってしまうでしょう。だからついでに法人税を廃止して消費税に転換し、所得税の累進課税を緩和すればいい。

経営者が信用できないのなら、企業丸抱えの社会保険や福利厚生を拒否すべきなんです。だって、信用できない親にお年玉は預けられないでしょう?

労働者階級の利益を追求するリベラル陣営も、こうした改革を主張するなら自由主義者や保守主義者から受け入れられると思いますよ。

 
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与野党・各代議士は政策競争で有権者に選択肢を示せ



野田新内閣の閣僚人事には驚かされた面もありますが、「経験」や「人望」を頼みにした長老割拠のような布陣でなかった事は歓迎しています。安住財務大臣や玄葉外務大臣が未経験、未知数ゆえに官僚の意のままではないのか、外国のしたたかな戦略にしてやられるのではないか、という心配もありますが、もともと自民党時代にも素人大臣は普通にいましたし、海外と伍してうまくやってきたとも言えない気がします。

それよりも、大きな目で見れば岡崎久彦氏が書いているように、鳩山氏の反米親中路線とか、菅氏の子供じみた官僚敵視戦術が全く役に立たなかったことを(国民の痛みと共にではありますが)証明してくれたのはひとつの成果でしょう。

野田氏の「泥をかぶって調整していく」「意見を集約して実行に移す」という、良くも悪くも古い自民党時代のトップのような姿勢に安堵を感じるのも、これまで2代に渡ってトップの思いつきで右往左往させられてきたことに対する国民の忌避感の裏返しだと思います。

貿易自由化・地方分権・縦割り行政の打破・天下りの撤廃・労働市場改革等々、これまで抱えてきた我が国の政策課題は何ら解決したわけではなく、むしろ震災後にその必要性・緊急性は増してきた、というのがおおかたの見立てで、私もそのとおりだと思っています。

とはいえ、みんなの党代表渡辺喜美氏のように「改革にヤル気が見えず、増税だけヤル気になってるダメ政権」というようなレッテル張りをいまからするのもやり過ぎだろうと感じています。野党は議会で粛々と政策を訴えればいいのであり、それが軽視されたときにこそ、口を極めて罵ればいいのです。

その意味で、河野太郎氏の自民党に対する提言には最も頷かされます。

野党は何も奇をてらう必要はなく、なすべき政策を掲げて国民に是非を問えばいいのです。与党・内閣の出してくる政策に非があれば国会において質し、是であれば賛同してもいい。大連立とか、法案提出前の与野党協議なんてむしろしないほうがいい。それは政治過程を国民の前から隠すことになってしまうし、与野党ともに自分たちの本筋の主張がどこにあるのか、曖昧にしてしまうだけだからです。

よく言われることに、「与野党ともに政策的な方向性にあまり違いはない」という理屈で連立とか閣外協力を是とする意見が出されますが、それなら最初から総選挙による政権交代にも意味が無いことになります。

そうではなくて、与党の提案であっても正しいと思えば野党は協力すればいいし、違うと思う部分には容赦なく反論すればいい。そのことによって、両者の対立軸が見えて来、最終的に有権者はどちらを支持するかを決めやすくなるのです。

そして、与野党ともに、個々の政治家が自党の提出法案に反対票(あるいは他党の法案に賛成票)を入れるのも(党是に反するような大問題でない限り)ありでしょう。その場合はなぜ党の政策に反対せざるを得なかったのか、自分の選挙区ないし国民にきちんと説明する義務があります。有権者にきちんとした選択肢を提示するためには、個々の政治家も「党の方針だから」という逃げ口上は許されません。

いずれにせよ、不透明な談合は有権者の選択権を奪うことになる、ということを肝に銘じて欲しいと思います。


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みんなの党の原発国民投票法案に異議あり



みんなの党が、原子力発電の賛否について国民投票を行う法案を提出したと聞いて驚いています。




現状の原子力発電は核分裂のエネルギーを利用した、技術的には確立された発電法であり、これにより日本が今までに受けた利益は今回の事故の被害(まだ確定はしていないものの)を差し引いても莫大なものであると言えます。

また、核燃料と核爆弾の作りは全く別ものであるけれども、原子力発電の実績を積み重ねている日本が場合によっては核武装も可能な技術領域を持っている、ということは、それだけで周囲の“ならず者国家”に対するカードになりえます。

日本の原子力発電所と同じタイプの原子炉は、米国の原子力空母にも採用されていて、3・11の津波に襲われた被災地の救援に大いに役立ちました。原子力空母の航行距離の長さ、艦隊の規模の大きさなど、原子力ならではのメリットが大いに生かされたものと思います。戦争抑止のための原子力空母が、災害救助にこれだけ役立ったことに感謝してやみません。

原子力発電が日本の産業振興に今後も役立つのであれば、日本は利益を出しながら“ならず者国家”に対するカードを持ち続け、また、原発輸出によって新興国のエネルギー問題を解消して貧困撲滅の一助になるかもしれません。

少なくとも、再生可能エネルギーを推進しているスペインが財政破綻の危機に瀕し、国家をあげて太陽光発電を進めてきたドイツが中国にシェアを奪われてる事実などを聞くと、風力や太陽光よりも現実的な「先進国技術による貧困撲滅」の可能性を持つのが原子力だと私は思います。

ビル・ゲイツはまさに貧困撲滅のために、新興国でも簡単に扱える原子炉の開発投資をしています。それは日本においても国策(国が直轄でやれ、という意味だけでなく)に値するのではないかと私は思います。




こうした認識をみんなの党が持っているのかどうか、私にはわかりません。が、少なくとも、今回の福島第一原発の事故と、それに付随して報道される過剰な放射能忌避に便乗するような「国民投票法案」であるならば、私は異議を唱えたい。

エネルギー政策というものは、電力に限った話はなく、国家の根本を決定づけるものです。日本が米英相手に開戦した理由も、エネルギー戦略の破綻回避からでした。原子力発電だけを取り上げてエネルギー政策を左右する議論をするのはあまりにも粗忽で危険です。

にもかかわらず、みんなの党の法案では、エネルギー政策は政府と国会、国の各機関で見直すべきであり、そのうち原子力発電だけを別個にして国民投票を行う、という風に受け取れます。

政府や国会ではエネルギー対策の総合調整をしていくのに、どうして原発だけを国民投票にするのか、そこに整合性を見いだせるのかがわかりません。仮に、政府が企画したエネルギー政策と国民投票の原発政策が全く咬み合わない場合は、今度は何を国民投票にかければいいのでしょうか?

もっとも、みんなの党の法案には、国民投票の結果を政府は「尊重する」一方で、国や機関を「拘束しない」と書いてあるので、一種のザル法なのかもしれません。しかしだったらなぜそのために多大な労力と税金を使って国民投票に付すのかわかりません。ガス抜きのためにザル法を作るのであれば、「覚悟の党」らしからぬ態度です。国民の意識調査なら、投票よりもアンケートのほうが多彩な意見が取れるし費用もかからないでしょう。




原子力発電は、国家のエネルギー政策にとっては小さなものです。しかし、将棋で言うところの飛車や角のような大駒をどう配置してどのように使うのか、といった、全体の戦略の一部としては無視できない存在です。大局観に基づく戦略と、その一部として使う強力な駒を、別々の頭で考えるのが危険で非効率なのは誰にでも分かる話です。

つまり、国民投票で原子力発電を問うなどというのは、エネルギー政策全体の中で考えるならワンイシューに過ぎないけれども、ここを過つとエネルギー政策全体に禍根を残しかねないわけです。

国民に広くエネルギー政策全体に関する意見を問う、というのならわからなくもありません。それは、数多くの国民が持っている専門的な知識や能力を結集し、「集合知」により解決を図るという意味でならば、大賛成です(もちろん、一人一票の国民投票では集合知は得られません)。

しかし、エネルギー政策に関しても、原子力発電に関しても、生半可な情報発信だけがなされている現状で、しかも、原発事故のマイナスイメージだけが先鋭化している現状で、原発だけを国民投票のまな板に乗せることに何の意味があるのか、私にはわかりません。

まさか、イタリアの国民投票にならって原発をやめさせればそれで国民が溜飲を下げる、などという馬鹿な反原発団体の連中と同じ事を考えてるんじゃないですよね?


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学力格差を認めない公教育の停滞



公教育の充実ーーずいぶん前から言われ続けているけれども、肝心の部分は未だに何も進歩していない気がします。日教組支配の教育現場などは目を覆わんばかりかもしれませんが、そうでなくとも公立校の目指す学力レベルは低いんです。

私が小学校に通っている時からそうなのですが、クラスの中で比較的勉強の進んでいる子は、公立校は勉強するためではなく、遊ぶために行ってました。勉強は学習塾と自宅でするものだったんです。「ゆとり世代」と言われる若い子たちにも同情してしまいますが、すでに私の世代でも、落ちこぼれ対策という名の公教育メニューの格下げが起きていました。

クラスの中で一番できの悪い子に最低限のことを理解させるのが公立の小中学校の役割になっているので、優秀な子にとって学校の授業ほど退屈なものはないのです。

もちろん、ゆとりを全否定しようとは思いません。我が子の通う学校でも、「たてわり班」(全学年で構成されるグループ)での清掃や校外活動、 子供が手作りで行うイベントなど、主体性や協調性を育む全人教育的なものは、私たちの頃に比べて格段に増えています。

また、学校給食は料理も食器も相当に改善されていて、楽しく食べることとマナーよく食べることが両立しています。

とはいえ、学校で教えるべき主要な課題が「読み書き算盤」(今は「読み書き計算」というらしい)である以上は、算数・国語を主体とした教科学習にこそ最大の資源が割かれるべきだと私は思います。

しかし実態はというと、学校で習うものは学習塾の教育メニューに比べて「トゥー・リトル・トゥー・レイト」です。内容も薄っぺらなら習うタイミングも非常に遅く設定してある。

だから、学習意欲のある子に高度な勉強をさせたいと思ったら、私立校に入れるか塾に通わせるしかないんです。そして、その余裕がない家庭では「学校の試験で良い点の取れる落ちこぼれ」状態になります。それがどんな程度であるかは、優秀な子の集まる模擬試験でも受ければ一発でわかります。

もちろん、学校の授業と自宅の独学だけで物凄いレベルに到達している子もわずかにいるでしょう。でもそれは「天才」と呼ぶしかないような人種です。「学校で一番」くらいの凡人に真似のできることではない。

従って、子供に必要な教育費は学習塾や参考書の分が上積みされて跳ね上がります。必然的に「もうひとり産みたい」という人も諦めることになります。公教育のレベルが少子化を加速させていると言うと「風吹けば桶屋が儲かる」的な発想に思われるかもしれませんが、この影響は少なくないと思います。

もし学校教育の進度がもっと早くて内容が高度であれば、優秀な子は授業に真剣に取り組むし、学習塾や参考書の経費もうんと少なくてすむでしょう。そのための到達度別クラスとか、飛び級・落第なども検討されていいと私は思います。

私立高では一流校への進学率のために子供の学力を鍛えるのに必死です。しかし、公立校は学力格差を否定し、競争を否定した結果として、子供の学力に責任を負ってるとは言いがたい状況です。

公立教育で一番大事にされるのが生活態度や協調性という「躾」だったり、通信簿の評価の最初に「意欲的に取り組む姿勢」が挙げられているのも、学力向上を請け負うことから逃げる言い訳になってるような気がしてなりません。

ほんらい、躾は家庭でするものです。それを学校に期待するモンスターな親がいるのも問題ですが、家庭では躾に責任を持ち、学力は学校が請け負うーーそうした分業がしっかりとしていれば、親・子・学校の役割分担はすっきりするのではないでしょうか?

対立すればいいというものではありませんが、有り体に言えば、学校は「躾もできてない子を学校に通わすな」と親に言い、親は「この程度のことも学校は教えないのか」と言うくらいの緊張感があっていいと思います。

年齢別クラスにもそれなりの合理性と、なんといっても見た目の平等性があり、これを廃止するのは並々ならぬ努力と工夫が必要でしょう。でも、そろそろそういう悪平等的な慣習を取り払って、能力別学級を公立校でも取り入れていいのではないかと思います。

私は実体験から、程度の低いことしか教えることのできない学校の先生が、一部の生徒に不当に軽蔑されているのを知っています。そして、生徒の能力と意欲の高さが楽しいという理由で、公立校の先生が進学塾でアルバイトしていた(確か職務規定違反のはずなのに)のを知っています。

能力の高い子に高度な学習を教えてもいいのなら、やる気のある先生は勢いづくでしょう。全国学力テストすら骨抜きにした民主党政権には期待できませんが、自主参加の学力コンクールを文科省主催でやってみるのも面白い。優秀な子を育てた指導者が、まっとうに評価されるようになれば教師のレベルも上がるように思います。

そうした面からも、今の公教育は見直されるべきだと思います。

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エアコン一斉停止による停電の心配もすべきだ



橋下府知事が「エアコン切れば原発止まる」というキャッチコピーで電力不足を乗り切ろうとしていることには、様々な批判があり、またそれは誤解だという反論も多数あります。

原発反対の主要な勢力は旧社会党系など左翼の人たちです。日の丸・君が代を強制することで彼らの顰蹙を買っているはずの橋下府知事が、なぜ原発反対の風に乗ろうとしているのか、部外者はまずそれだけで違和感を覚えています。

橋下府知事を「その時々の時流に乗って人気取りをするだけのパフォーマンス政治家」と揶揄する人もいます。産経新聞などは過去の遺恨もあり、未だにそのような姿勢が見られます。私はそこまで彼を貶めるつもりはありませんが、やはり物事には是々非々で臨みたいと思います。

今回の「ピンチになったらみんなでエアコン切ればいい」には与する気になれません。なぜなら、本当に一斉行動が実現すれば電力系統が危うくなるし、それができないのであれば実効性に乏しいからです。

関電社長との会見を見る限り、エアコンの一斉停止は府知事独自(もしくは広域連合)のアイデアであって、関電は相手にしていないと思われます。関電側でも、どちらかと言えば実効性に乏しい、という見積りのようです。

しかし実際はやってみるまでわからないことですから、群集心理が働いて、本当に一斉行動に移る危険性はぬぐえません。テレビ・ラジオ・インターネットで関電の速報値を出せば(既に東電も5分おきの速報を打っていますから、状況は推測できます)、危機的な状況を見た場合に人々が雪崩を打つ可能性はあるんです。

昔、東京を訪れた大阪人が「駅のフォームで朝から整列してる東京人はおかしい」みたいなことを言っていました。大阪の人は我先にと「横はいり(これは中部地方の言葉ですが)」するのが常識で、あの秩序は気持ち悪いという意味でした。

たしかにそうなんだけど、あのようにしなければ首都圏の鉄道輸送は成り立たないくらいシビアなんだ、といって言い訳していたと思います。

そのくらい、東京の人はある意味従順で秩序を好み、大阪の人は自由で個人プレーを好みます。だから、一斉オフなんてできっこないという見立ては正しいのかも知れません。

でも、私は東京で(あくまでも東京ですが)、震災当日の帰宅ラッシュを見ています。

電車が動かなければ職場で一日待機するという判断もあったはずなのに、ちょうど金曜日の晩だったこともあり、「歩き疲れても明日は休めるから」「自宅がどうなっているのか今日のうちに確かめたいから」ということでしょう、徒歩で帰る人が歩道を埋め尽くしました。

歩行者と自転車が車道にも溢れ、自動車は歩行者よりも遅いノロノロ運転を余儀なくされました。

間に数々の美談があったものの、あれはやはり集団発狂状態だったと言うしかありません。

普通はあの概況を見れば、帰宅を諦めるほうが賢いと感じるべきだと思います。私立大学や都立高校などが帰宅困難者に解放されましたが、そんなのがなくとも、個々に始発の開通まで(その保証はなかったけれども)時間をつぶす手段は、都心部にはいくらでもあります。

なのに、とにかく今日のうちに自宅に帰らなければという焦燥感にかられて(ちょっとした冒険心を楽しんだ人も多いでしょうが)あの大行列と大渋滞を醸しました。やはりパニックだったという他ありません。

そしてその週末と週明けに、ガソリン・電池・懐中電灯に始まり、カセットコンロ・ボンベ、食料品から飲料水、ありとあらゆるものが買い占めされ、スーパーやコンビニから食料や生活雑貨の在庫が消えました。

ガソリンスタンドは入荷と共に1kmを超える列を作り、スーパーの開店時には人が並んで走り出す始末でした。

あの群集心理、集団発狂状態を私は目の当たりにしています。

関西の人も、電気が止まるかも知れないという極限状態を目にしたときに、橋下知事を信じて雪崩を打つようにエアコン切断をしないとは限らないと、私は思っています。その時に電力系統がどうなるのか、心配です。

そしてそれ以上に、危機が去ったと思ったその時、エアコンを切った人が一斉にエアコンをつければ1987大停電の二の舞に会う危険性が高い。

ルールも何も定めず、個人の裁量と良識に行動を任せることの危険性は、人口が密集している大都市部においては十分考慮されるべきです。

私は大阪在住時に阪急宝塚駅で、群集心理に陥って全員でプラットフォームを駆け抜けた経験があります。駅の工事中で乗り換え電車までの距離が少し遠かったこと、乗り換え電車に乗れなかった場合の次の発車時刻のアナウンスがなかったことで、「絶対に俺だけは走るまい」と思っていた私も、ついつい走ってしまいました。実際には、電車に乗り込んでから数分の余裕があったのです。

「関西人は群集心理に陥らない」などということはない、と私は思います。

私は関西人のルーズさに期待したいと思います。でも、群集心理に一度陥れば、何をしだすかわからないということも考慮に入れるべきです。そして、それに対する対策があるのかどうか、全く見えてきません。

東京に住んでいながら余計な口をはさむのは気が引けるところではありますが、ぜひ穏当な節電に努めていただければと思います。

エアコンは、温まった部屋を冷やすときに大きな電力を使うので、連続運転のほうが節電になるのです。

ですから、電力需要の少ない早朝に部屋を冷やしておき、部屋の密閉性を保ちながら太陽光をなるべく遮断し、電力需要が増えた時間帯は、冷えた室内の設定温度を少しだけ上げてエアコンをつけ続けるのが穏便なピークカットになるでしょう。

東京よりも「銭儲けは美徳」と考える大阪人の気質は私も好きですが、「産業の節電は必要ない」という橋下府知事の態度は人気取りとしか思えないのです。地道に各種業界に節電をお願いして回る関電を悪者扱いにするのは簡単ですが、実際に停電を防ぐには、一斉行動などという危険な賭けをすべきではないと考えます。


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「反原発」という人災



青い目の東北人、ダニエル・カール氏が被災地を支援しながら日本の放射線量を世界に発信し、その安全性を訴えているのは知りませんでした。

詳しくは下に引用したTogetter(totoさん作)をご参照ください。

そのカール氏に絡んでいる反原発派の人間が風評被害を撒き散らす汚染源であることを、本人が自覚していないらしいことがいちばんの問題ではないかと思います。

放射能が怖いのであれば、黙って怖がっていればいい。自衛策を取ることが、いかに過剰であっても誰も非難しないでしょう。

しかし、他人の子どもが早晩癌になるだろうとか、妊娠できなくなるかもしれないなどと言いふらすのは厳に慎むべきです。差別をあおる言動をしておいて「かわいそうだ」と言えば済む問題ではない。

「現在起きている原発事故によって深刻な健康被害はないだろう」と言うことと、「これからも原発を推進しましょう」というのは全く次元の違う話です。それを、反原発派は全くごっちゃにして「人命軽視の原発推進派」として糾弾する。

その論理矛盾だけなら笑って済ませてもいいが、福島ないしその周辺の子供たちが将来妊娠できなくなるとか、脳障害を起こすだろうなどという、不確定な情報を元にした差別発言だけは看過できません。

人命が大事だとほざく人間が、「津波被害のほうがずっと深刻なのにメディアは原発事故に重点を置いている、これはバランスが悪いのではないか」という趣旨の勝間和代女史の発言を「クズ発言」「放射性廃棄物」などと批判するのも度し難い。

福島の原発では、不幸にして津波で亡くなった作業員はいるが、未だに爆発事故や放射線被曝の確定的影響で亡くなった方もおらず、2万人を超す津波の死者に比べれば人的被害は非常に軽微です。そしてその確率的影響も、津波被災地のがれきに潜む、アスベストや重油・重金属・病原菌、感染症の蔓延や手薄な医療に比べれば、非常に小さいはずです。

ちょっとだけ想像力を巡らせれば、そんなことは誰にでもわかることです。

どんなに放射線を恐れても構わない。怖ければどこまで逃げてもそれは、個人の自由です。

でも、いま福島やその周辺で、怖くても逃げることもかなわない、心配だけどそんなに危険ではないだろう、努力と工夫で乗りきれると言って頑張っている人の足をすくうような真似は許せません。

原発が嫌ならそれはそれでかまいません。でも何の罪もない人々を不妊症や脳障害の予備軍に指定するのは、どんなにその動機が純粋であっても許されないことだと私は思います。

ヒトラーを信奉した青年隊は心清らかな人々だったと聞いてます。彼らは正しいことが一つであると考え、それに反駁するものの価値を全く認めなかった。それがいちばん残忍な行為であることに気づいていなかったのです。

繰り返しますが、原発に反対するのも、放射能を恐れるのも個人の自由です。しかし、大丈夫だと言っている人を糾弾したり、我慢できると思っている人を非難したり、普通に暮らしている人に逃げないと障害者になるなどと言いふらす権利はないでしょう。

「反原発」こそが人災なのではないかと感じています。

(以下はTogetterまとめです)




【少子化対策】子連れに優しい社会も必要では?




2011/06/06 07:16:49
「年齢別選挙区」で子どもの声を政治に生かせ:日経ビジネスオンライン(要無料登録) http://ow.ly/5ayuX

日経ビジネスオンラインで竹内氏が主張している提案は過激ですが、このくらいの意見があってもいいでしょう。

何しろ、震災復興の第1次補正予算の財源に高齢者への過剰な給付の見直しなど無く、子ども手当を削り、年金積立金を取り崩し(将来世代の年金原資です)、ODAを削減する(日本のノブレス・オブリージュを放棄?)体たらくですから、将来世代の意見はもっともっと過剰に反映されてもいいと感じます。そしてその程度の意見が出ない限り、一歩も進まない気もしています。



電車で高齢者に席を譲らないと言って日本の若者のマナーを嘆く向きにも同情しますが、一方で「子供なんか立たせておけばいい」という暴論にもよく出くわします。実際には、公共の乗物は子供が安全に乗れる設計にはなっていないので、小さな子には席を譲るべきです。

最近ようやくベビーカーのまま乗車してもいい電車やバスが増えました。それまではベビーカーの子を抱っこして、ベビーカーをたたんで持ち上げて乗車するルールになっていました。

ベビーカーの構造によっては、座席の下の荷物まで取り出して一旦抱えなければいけません。母親ひとりの力でこれをするのはかなり大変だし、赤ちゃんのいるお母さんにはまだ幼い上の子がいたり次の子を妊娠していたりで、事実上無理な話です。

そういう人は電車やバスには乗るなと言ってるようなもんですね。

恥ずかしながら私はそのルールを知らず(知っていても破った可能性大)、子供の乗ったベビーカーを押して電車に乗っていました。一度、まとまった人数で乗車中にJRの閉まるドアにベビーカーを挟まれてパニックに陥ったことがあります。あの時は無性に腹が立ちましたが、抗議すれば「ルール違反だからお前のほうが悪い」と言われたのでしょう。

電車の自動改札もベビーカーではすれすれの幅で、混雑時にちょっとでも左右に傾いて引っかかろうものなら後ろの人に押される恐怖感を味わいました。とにかく今までの街の設計は小さな子を連れた人には厳しい。

ベビーカーでもう一つだけ言うと、ベビーカーはエスカレーターの利用が禁止されているのに、エレベーターでベビーカーを優先してくれる場所は非常に少ない。黙っていれば足の早い人から乗るというのがあたりまえになっていて、車椅子すら追い越して乗る人々を見た時には呆れ返りました。

核家族化で日曜のお出かけなどはどんな小さな子でも一緒に連れて歩くしかないのに、出かけた先では「あんな小さな子を連れてくる場所か?」という心ない言葉を聞こえよがしに浴びせられたこともあります。子供のおもちゃや靴を買い、母親の肌着や父親のネクタイを選んで夕飯の材料を仕入れる、その間昼食もどこかに入らなければならない、そのあらゆる場面に乳幼児を連れ歩くしかない家族は沢山います。

こういう人達に対する少しずつの不便さが少子化に拍車をかけているとすれば、それを除去する提言が少子化対策として各方面からあるべきでしょう。

穿った見方かもしれないですが、子ども手当によって子を持つ親の資金力が増すことは、結果的にそうした「子連れに不便な社会」を解消するのにも役立つだろうと思います。子ども手当が始まるときに、育児・教育関連の業界が沸騰気味になったのは眼に見えてわかりました。眼に見えない効果はもっと広範にあるでしょう。

最近になってビジネス誌系列のネット記事で、世代間格差や政治における老人既得権の話が毎号のように見られるようになりました。テレビや新聞はおそらく周回遅れでしょうが、広く一般にこの問題意識を共有してもらいたいと願わずにはいられません。

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女性の就業を高めるインセンティブ改革



前回エントリの続きになりますが、配偶者関連の所得控除や第3号被保険者の制度を撤廃(もしくは削減)すれば、課税ベースの大幅拡大になると思います。

現状では妻子のいるサラリーマン家庭で所得が低い人は、所得税や住民税をほとんど払っていないはずです。年金も、妻の分は免除されているのと同じです。そして、主婦がアルバイトで稼ぐとしても、稼ぎ過ぎると課税されたり社会保険を自分で負担しなければいけなくなるので、たくさんの収入を得ようとしません。社会保険には企業負担分もあるので、会社もそのような働き方を勧めません。

これを改めるとどうなるか?

中・低所得のサラリーマンの所得では妻子を養いきれなくなり、多くの家庭で専業主婦が外で所得を得なければならなくなるでしょう。そして、アルバイトでも年収いかんにかかわらず課税され、社会保険を適用されるとすれば、主婦も働けるだけは働こうというインセンティブを与えられます。

また、子育てのために一旦仕事をリタイヤした人も、高い所得を目指して仕事を探すことになります。そして、男性よりも有能であれば、責任ある仕事を任せられることも増えるでしょう。男性も、大した能力も磨かずに「いつでも残業OK、単身赴任可」などというアドバンテージを示しているだけではすまなくなります。

課税ベースを広げることで、所得税の累進を緩めて能力の高い人の海外流出を防ぐか、あるいは余った税収を失業者への職業訓練に向けることもできるでしょう。また、出産・育児のために仕事につけない主婦も年金を負担するのなら、子ども手当の正当性も増すでしょう。課税ベースの拡大分を子育て支援に回すのも悪くないと思われます。

ベーシックインカムとか負の所得税に移行するほどの大改革をせず、現行の年金や社会保険を是認するとしても、継ぎ接ぎだらけの控除や減免事項を少し整理するだけで、かなりのインセンティブ改革になるのではないでしょうか。

はっきりいって、GDPの2倍近くの長期債務を国と地方の政府が負っている現状で、この先楽して暮らしていけるわけがありません。現役世代はそれこそ擦り切れるまで働かなくてはいけないでしょう。一方で、将来世代にもきちんとした教育を施さなければいけない。高齢者に応分の負担を求めるのも当然です。

ここで漠然とあげた各種制度の見直しも、どれをどの程度いじればどうなるか、までは計算しなければわからないし、政治判断を要するものだと思います。しかし、一度固定したらそれで終わりではなく、終始見直す工夫があってもいいでしょう。そのために、政策目的を定め、効果の計測をきちんと出来るようにすることが肝要です。

そのときに一部の例外を挙げて各論反対したり、例外事項を設けてぐちゃぐちゃにしないよう、節度が求められます。また、政策目的を明示するとともに、そのマイナス効果の予測もした上で指標を提示し、どこまでの犠牲はやむをえないとするのか、これもきちんと示すべきでしょう。

少なくとも、現行の制度をゼロベースで見直すことは、現在の閉塞感を打ち破り、若者に政治への参加意識や希望をもたせる効果があるのではないかと思います。

これまでの政治に閉塞感が充満していたのは、何をしようとしてもノイジーマイノリティの既得権者に反対されると進まないからです。まず、目の前にある「サラリーマンと専業主婦」という不思議な地位を見直すことで、他の領域にも改革の風を吹かせることができるのではないかと思っています。

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津波被災地からの移住について補足



Twitterでつぶやき倒したんですが、一応ブログエントリにもまとめておきます。

仮設住宅は津波被災者全員に行き渡るようにする――これが既定方針だとすれば、仮設の代わりに移住を選択できるようにすればいいと思います。

仮設の建設費は560万円と聞きました。ならば、仮設のいらない人には500万を支給してもよいことになります。人数にもよりますが、500万円あれば1世帯が1年から1年半暮らす分くらいになるでしょう。

仮設に入らず移住を決意した人には、移住の際に支度金として1世帯500万円を支給する。基本的に避難所単位、地域単位で集まって、受け入れ可能な自治体へ向けてバス等の手段を用意する。交通手段は自治体が現物支給する。

1世帯の定義が難しいケースもあるでしょう。たとえば、両親を失った子が近所のおばさんと暮らしていたりすることも想定できます。震災を期に、別居していた祖父母と同居しようということになるかも知れません。そうしたケースの場合は杓子定規に対処せず、少し配り過ぎるくらいでもいいかと思います。

仮設住宅を建設すれば、いずれ解体もしなくちゃいけません。解体費用は約100万円だそうです。あの瓦礫処理で頭を悩める地域に、仮設の解体ガラも背負わせることになるのはしんどいでしょう。移住してもらえば、その手間と費用も浮くわけです。

仮設希望者が減れば、仮設住宅は必要な人に早く行き渡ります。土地収用の手続きなども減らせます。

移住希望者の地元と受け入れ自治体のマッチングを東京でするようにすれば、中央政府もいい仕事をしたと言われるでしょう。様々な問題点や成功例は今後のための経験値になります。

500万円もらえるならば、自分たちで新天地を築きたいという人もいそうです。これも強制するわけにはいかないのだから、移住先と交通手段の確保を自己責任でできるならどうぞ、ということになります。

こうなると前回エントリでうたったような「強制疎開」には当たりませんが、いろんな場面で法規制の壁を乗り越えなければならないと思われますので、そうした意味では政治のリーダーシップが求められることだと思います。

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【被災者支援】強制疎開しかないのでは

2011/04/14 13:08:23
避難所の仮設トイレの問題も。石巻赤十字病院が調査した272カ所の避難所で汚水があふれている劣悪なトイレが4割。「◯◯中学校には電気、水道、下水もない。便はダンボール製の看護師手作りの便器にして捨てている。1ヶ月経とうと言うのに」との現地の小野沢医師からの痛切なメールも紹介した。

2011/04/14 13:15:02
家を流され、家族を喪い、本当に辛い思いをしている被災者に、このような劣悪な状態で1ヵ月以上も避難生活を送らせている事は、許される事ではない。避難所生活の長期化と衛生状態の悪化で、感染症のアウトブレイクが深刻に懸念されている。厚労省はこの状態を放置しておくのか。

以下の「提言」は、非・被災地に住む者の一方的な思いです。被災地に居らっしゃる方の感情を踏まえない暴論が含まれている可能性もありますので、その辺はご容赦ください




やはり、前にも指摘したとおり、被災地における避難所生活には限界があります。衛生面・プライバシー・教育面・心理的ストレスなど、数え上げればキリがない。

被災者の方々も、避難所生活していてはボランティアかその受益者でしかないが、罹災前はそれぞれが何らかのプロフェッショナルで、 生産者であったわけです。その能力も力量も、被災地においては発揮しようがありません。

生活と産業のインフラの整っている土地に移住し、新たな人間らしい生活をするよう促すべきでしょう。




とはいえ、まだ見つからずにいる家族を見捨てるわけにはいかないとか、よそ者扱いされるのはゴメンだとか、故郷で死にたいという思いも強いでしょう。勇気のある人が移住を決断しても、その他大勢を見捨てるのか、みたいな話にもなりかねません。

だからこそ、政府による強制疎開みたいな非常手段が必要なのではないでしょうか?

法に則って云々とか、公平・公正を期すだとか、本人の意思を尊重だの、言ってられない異常な事態だろうと思うんです。現実に人が亡くなっている。

家や家族を失い、これ以上失うものはないと、自暴自棄になりそうでも頑張っている方がたくさんいらっしゃるはず。そういう方を救うには強制的手段でしかないのだと私は思います。




仮設住宅もいい。でも、それへの期待を引きずって、不衛生で非人間的な生活を我慢させるのは下策だと思います。

生き別れた家族が再開する場面を除けば、もう新たな生存者が発見される可能性もほぼない。だったら、見つからない親族への思いもリセットして、生き残った自分の残りの人生を早くに立ち直らせることが何よりの供養です。

避難所生活からの解放で、かえって精神的に障害が出る方もいるだろう。そのリスクもきっちりと把握し、心理療法的なケアもしっかりと施す必要がありそうです。そして、その方面での実践や研究が進むのは、今後の糧になると思います。

また、被災地に行く時間的・金銭的余裕がなくても、何かお手伝いがしたい人は全国にいるはず。各種募金の活発な活動を見るにつけ、それは確信できます。そういう人たちのもとに、被災者の方々が引っ越しすることで、いろんな人に新たな生きがいが生まれると思う。

おかしな言い方ではありますが、被災者の受け入れを通してこれまでの地元のコミュニティを見直すきっかけともなるでしょう。間接的に、地域の防災・防犯能力も高め、教育にも貢献するかも知れません。受け入れる側にも大きなメリットがあり、それを活かすも殺すも受け入れ地の人の工夫次第でしょう。




そして、政府は早くに東北地方(千葉・茨城・長野も入れていい)のワクワクするような復興プランを示して欲しい。行政府に依存するのではなく、地方でプランを練るのもいいし、国会で復興プランを掲げて論戦すればいい。

今日の糧と明日への希望がなければ、人は頑張れと言っても頑張れるわけがない。「頑張れ、東北!頑張れ、日本!」というスローガンには私も励まされる思いですが、現実にひどい環境で住んでいる人にかけられる言葉ではないように感じます。

とにかく、一人でも多く、一日でも早く、普通の生活に戻れるようにするための、強制的移住が必要だろうと思います。

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大連立??政局遊びに過ぎねぇじゃねぇか!!



Twitterでも喧しくなってきたのでブログに記しておくことにする。


当然のことながら、震災の復興事業は空前の規模になるだろう。これだけの壊滅的被害の前に、どこに何を資源配分するかは市場に任せていられまい。特に子どもの教育や若者のキャリア形成に穴を開けると強烈なしっぺ返しを食らうだろう。中央、地方に限らず政府の力で何とかしなければいけない部分は大きい。

しかし、しかしである。この連立話は、復興事業を行うに当たって采配をふるい、成果を示して功名を得たい(簡単に言えば利権を手にしたい)自民党と、事業の責任を負わされることを嫌う民主党の馴れ合いにしか見えない。

国政の場において特定地方や特定業界への予算分捕り合戦に参加したいというウジ虫のような輩が自民党内で元気づいているさまはあまりに醜悪だ。また、決断できないリーダーを抱えて党内で足の引っ張り合いを続ける民主党にも飽き飽きだ。

駄目なリーダーはすぐにでも解任してもらいたいものだが、自民党も健全たる野党としての職責を果たせ。それは法案や執行を精査し、議会において追及し、あるべき姿を対案として示すことだ。

野党であるからと言って、仕事ができないわけではない。国政調査権もあれば質問主意書もある。各委員会で追及し、国民の目にさらすことができる。自民党が国益を追求する姿勢を、議会の議事録という史書に残す絶好のチャンスだ。

お互いの知恵を抉り出し、良きは賛同し悪きは反対する。オール与党でそんなことができようはずがない。

「バスに乗り遅れるな」――日本人は良くも悪くも、周囲の環境に合わせて即座に行動しようとする。その際、視界にないもの、遠い将来に起こり得るものを簡単に見落とす。

バスに乗る者がいれば、バスの外側から進むべき道を知らせ、過ちの無いよう取り締まる人が必ず必要だ。バスに乗って得た果実がそれら外部者にも配られるようでなければ、バスは道を誤る。

国家予算をエサと勘違いするボス猿の暴走を止めよ。震災に痛み、嘆き悲しむ人を笑顔にするために、自民党の若き勇者は歯を食いしばれ。

民主党は本当の知恵者を前面に出し、総合的な復興計画を示せ。期限・予算・負担を明確にせよ。一人ひとりが持ち分を持ち、与野党で政策競争すればいい。

馬鹿な政局遊びをしている暇などない!

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【放射線基準値】どのリスクをどの程度避けるものか明確に



一般国民向けの放射線基準値を緩和するか否かで物議を醸しているようです。

私は以前も書いた ように、役所の定める基準を満たせば全てオッケー、基準を満たさないものは全てダメ、という二分法になってしまうのが問題だと思っています。

そもそもの話、例えば野菜を出荷停止にする基準値は最低限でいいと思います。その上で、安全性や品質の差は価格で上積みすればいい。世の中のリスクは放射線だけじゃないし、放射線だけが突出して危険なわけではありません。消費者だってお上の管理する以外にリスク分析ができないほど馬鹿じゃない。

政府が決める放射線の基準値は、癌になるリスクが何%になるところで線引きをする、と明確にすべきでしょう。予防接種だって、接種により死んでしまう人と助かる人の数を計算して、接種による死は認めるからこそ打てるのです。

放射線被曝も低いに越したことはないが、それにより支払う対価を計算しなければいけません。「人の命はお金に換算できない」という人は、借金苦で自殺しそうな人を2人ほど救ってから言ってください。お金を出せば確実に助かるんですから。

しかし、中には「放射線を浴びるのは癌になるよりも嫌」「癌になるのは死ぬより怖い」という人もいるでしょう。そういう人のための商品も、市場で提供すればいいのではないでしょうか。福島の産品が怖い人にはなるべく遠くの産品を高く売れば済むことでしょう。全員をその基準に付き合わせる必要などないはずです。

まあ今の、ある種パニックに陥った状態で政府が右往左往するのは火に油を注ぐだけなので、間違ってもいいからもっとどっしり構えて欲しいと私は願ってますけどね。

最も情緒的な判断をしやすい、しかもお金を持っているであろうお年寄りがパニックを起こすと大変です。例えば石原都知事が「お年寄りは大丈夫宣言 」でもしてくれれば少しはまともになるんじゃないでしょうか?


【電力不足】電気代の値上げが妥当でしょう

2011/03/26 09:21:28
経済学者のみなさんの提案する料金値上げは不評。「値上げしても電力消費は減らない」「総量規制の方が効果的」「これ以上コストを上げたら企業が海外に出て行く」。一度ちゃんと議論した方がいい。
 
う〜ん、為にする批判もあるように見えますが、私は値上げしかないと思ってます。



■値上げしても需給調整はできないか?

値上げしても、すぐに冷蔵庫やテレビを小さくしたりできないし、必要な電灯を消すことはないでしょう。しかし、大量に電力を使用する事業所では、節電や自家発電のインセンティブは増すので、時間がかかるにせよ需要は減るでしょう。

また、これまでよりも省エネ技術の開発費用が相対的に安くなります。少々費用をかけても元が取れますからね。

家庭でも、テレビは消せても冷蔵庫は切れない、電子レンジは我慢できても照明を消すわけには行かないなど、死活問題になる部分を残して電力需要を減らすのが「賢い生き方」になる。一部地域が冷蔵庫から照明まですべてダウンするよりは、そうした節電のほうが生活レベルを保てるのは明らかです。

また、停電がなくても電気料金が高ければ、オール電化住宅などこんなに普及しなかったでしょう。オール電化普及のために「補助金」を出してた東電は愚かだとかねてから思っていたので、(さすがにもうないと思うけど)これからオール電化住宅を建設する人におかしな補助金を出さないようにして欲しい。

値上げによる電力の利益が上がれば、供給力の向上も見込めます。原発アレルギーが改善できなければ難しい面もあるでしょうが、科学者の叡智を集めれば良い手段もあるのかもしれない。そのための原資を得るためにも値上げは効果的でしょう。



■総量規制のほうが効果的か

これはよくわかりません。簡単に想像できる例として、家庭のブレーカーのアンペア数を落とすとか、でしょうか?どういうルールでできるのか、ルールが守られるのか、恣意的な運用が起きないか、心配は山盛りです。

時間帯別価格設定でピーク時の需要は抑えられると思うし、総量規制より効果的な方法はあると思います。

まあ、全てうまく行くやり方さえあれば、当面は総量規制がいいに決まってますが、料金改定よりもコスト高じゃないかと思います。



■企業が海外に逃げてしまうのか?

もちろん、無いとはいえません。

まあただ電力が逼迫していない西日本に移動するほうが安上がりかもしれないし、海外へ移ることも間接的な電力輸入 になるので、好意的に受け止めるべきではないでしょうか?

想定外の原発事故であるにもかかわらず(対処の仕方を後で検証すべきだがそれは置いておくとして)「やはり原発はこわいもんだ」というのであれば、そうとう長い期間にわたって東電管轄地域の電力は復活できない。

そんな状況下で企業がどんなに踏ん張ろうとしたって無い袖は振れません。

価格メカニズムを働かせて、電力依存の業者は潰れるなり海外逃避してもらうしかないでしょう。



現下での計画停電はやむを得ないとしても、供給が少ないんだから値上げするのが妥当だと考えます。それによって、中期的には望ましい形が得られるはずです。その先の議論――課税か料金改定か、どのように価格設定するか、など――は、私には無理なので割愛しますww


プロ野球開催について一案

プロ野球の開催について、電力不足に絡めた是非が議論されています。そもそも、見る側にとっては娯楽であるから不要だ、というのは理解できます。

しかし、周辺には様々な産業が関係し、そこで働く人やその家族、その人たちを得意先とする人々のことを考えれば、うかつに「野球なんてやってる場合じゃない」と言うわけには行かないでしょう。

例えば、球場ではビールを売って歩く女の子たちがいます。そこにビールを運ぶ運転手さんもいれば、女の子に化粧品を売る人もいます。周辺の飲食店はビールや弁当を販売し、違法ですがヤクザさんがダフ屋をして収益を得ます。ダフ屋さんも、儲かれば安居酒屋で祝杯を上げるでしょうし、ダフ屋ができなきゃもっと深刻な違法行為をしでかすかもしれない。

野球があればスポーツ紙(私は大嫌いだけど)の記者も仕事になるし、駅の売店もちょっとした収益を上げるでしょう。

電力不足に当面して、経済活動の是非を見なおそう、という動きには賛成します。しかし、現状成り立ってる業種を無闇にぶっ潰していいとは思いません。電力が続く限りは、既得権益(政官業癒着、みたいな意味ではなく)も守ってやらねばならない、とも思います。

【お詫びと訂正】
別の記事 で読んだら以下の部分の認識に大きな誤りがありました。東京ドームで試合開催に使う1時間あたりの電力量が、一般家庭で1日に使う電力の5000戸分、となっています。テレビのチラ見はやはりダメですね。ちょっと調べればわかるようなミスをしてしまい、申し訳ありませんでした。

ピーク時の消費量が1日分の10分の1だとして、5000×10×4(人/世帯)=20万人分。かなり使い込んじゃいますね。少なくとも「かえって節電になる」は間違いだと思います。深夜開催なら大丈夫だと思いますが、さて興業として成り立つのか、といったところでしょう。

テレビはほとんど見ないのですが、あるテレビ番組では、東京ドームでナイターをするときの使用電力は周辺の施設も含めて4000戸分、とありました。その番組は「計画停電で大変なところもあるのに許せない」という、いたって情緒的なものでしたが、私はこのデータを見て唖然としました。

だって、東京ドームは観客だけでも5万5千人収容できるんですよね?働く人を含めれば、もっと多いですね。

この人たちが家庭の電気を消して東京ドームに集結すれば、4000戸をはるかに上回る家庭の電力需要を減らすことができるんじゃないでしょうか?

むしろ問題なのは、前回エントリで書いたことと同じで、テレビ中継を見る人の増加で家庭の電力需要が増すことでしょう。ならば、テレビ中継をやめればいい。生放送はラジオだけにすればいいんです。

テレビで見られないのなら、球場に行く人は増えるでしょう。家庭の電力消費を減らして東京ドームに集約できれば、むしろ節電になります。

そして、球場施設で働く人や、周囲の居酒屋などで、東京に移住を始めた被災民を積極的に雇用する、というのはどうでしょうか?未経験の人たちでも、1割くらいなら雇い入れてもそんなに問題ないでしょう。「この職場には被災民がいる」ということで、利用者も多少の不便には目をつむってくれると思います。

プロ野球なんて私は全く見ないのですが、開催のおかげで被災者の方の雇用が生まれるのなら、多くの支持を得るでしょう。

バット製造とか、ユニフォームのクリーニングとか、いろんな業種の方が野球に依存していると思います。プロ野球の是非は別として、現時点でのプロ野球がもっている経済力がいろんな人の生活を左右しています。

「こんなご時世にドームに明かりをつけて野球をするなんて論外」と言う前に、様々な事情をよく考えて、トータルで社会が幸せになることを考えてみませんか?


夏の甲子園大会を実現する案

この電力の危機に、夏の甲子園大会などやるべきではない、という意見もあります。

でも、今回の震災やそれによる電力不足は、高校野球に限らず、教育目的のスポーツ大会を中止に追いやる理由にはならないでしょう。まして、夏の高校野球は西日本で行われるのだし、予選などは各地に電力負担が多少あるにせよ、それをやめたら電力需要が減らせるわけではない。

そんなことより、高校野球大会のために今までたくさんの青春時代を費やしてきた高校生たちが、練習する意義を失って街中を徘徊したり、自宅にこもったりした場合の負のエネルギーが、案外馬鹿にできないんじゃないかと危惧します。

スポーツの世界ではエリートと言える人も、体を動かすことをしなければかえって社会にとって有害な存在になるかも知れないです。日本社会に大勢いる、優秀な指導者の資源が有効活用されない不利益も、カウントすべきでしょう。

夏の高校野球大会が電力不足にとって深刻なのは、首都圏の暇な人たちが、空調の効いた涼しい部屋でテレビにかじりつくからです。

また、マラソン中継に似て、あの中継番組を「つけておく」ことで、今の時刻を知ったり途中のニュース報道を見たり、各校の地元の風物詩を知るといった、副次的な活用をする人もいます。注目の試合が始まるまで、何かをしながらつけっぱなしにする人も多いでしょう。

こうした電力ロスを無くすには、どうすればいいのでしょうか?それさえできれば、甲子園で野球をしてはいけない理由はなくなるはずです。

私は、夏の甲子園は開催して欲しいと思います。プロ野球に比べると幼稚で低レベルなので野球としての観賞価値はないし、教育的な意義が強調されすぎなのが嫌なので、甲子園はほとんど見ないし話題にしない私ですが、そう思ってます。

でも、甲子園大会に伴う電力需要は抑制したい。素人として提案できるのは以下の案です。



1° 深夜開催する

もし、電力需要の少ない深夜から早朝にかけてやってくれるなら、生中継をみんなで見ても、東日本の電力供給をパンクさせることはないでしょう。あるいは、パンクしたところで、あまり悲惨な事にはならないと思う。ほとんどの人が遊んでる、あるいは寝てる時間ですからね。

これによって、睡眠不足に陥る人はよほど好きでやってることだし、そもそも睡眠不足で死活問題になるのなら見なければいい。サッカーの海外試合などはみんな、深夜に見てましたよね?それでも社会はきちんと回ってました。

仕事をしてない暇人は、むしろ深夜に起きて昼間は寝ていてもらったほうがマシです。



2° 生中継はラジオだけにし、テレビは深夜に放送する

深夜開催より現実にできそうなのはこちらの案です。

ラジオなら消費電力は非常に少ないし、乾電池を入れたラジオならそもそも電力を食いません。どうしても昼間に生活したい人が高校野球のファンに多いのなら、ラジオで聞いてもらいましょう。

この案が優れていると思うのは、NHKもテレビ生中継に投入されるべき資源を、ラジオ放送に費やすだろうということです。ラジオ中継の品質がかなり向上する可能性があります。これは、仕事をしながらラジオを聞いているドライバーの皆さんなどに大きく支持されることでしょう。

テレビ放送を見たい人は、深夜に観るか、録画予約しておけばいいわけです。録画を昼間に観れば電力消費が増えてしまいますが、即時性を要するスポーツ中継は、あまり録画で見られることはないでしょう。記録として残したい人のためにも、電気の落ちない時間帯での深夜放送は貴重になります。

どうせエアコンに使う電力がないのなら、野球鑑賞などは夜にしたほうが楽です。ナイターは球児には辛いし危険も伴うので、昼間に開催してテレビ放送を深夜にする、というのが賢いかも知れません。



以上、電力の逼迫する東日本限定の話題でした。




使用電力にメリハリをつけよう

政府は節電を呼びかけていますが、電気というのは需要と供給がリアルタイムで一致しなければならないものです。多いときには多く、少ない時には少なく発電しなきゃならないのです。

それができないと、事故としての停電が起きます。

ところが、原発の停止などで供給の上限が下がった。だから、需要が増えるときに、地域を区切って強制的に供給を止めなきゃいけない。これが、計画停電です。

石原都知事がコンビニの深夜営業を制限すべきだなどと言ってるようですが、深夜の電力は余っています。基本的に需要が少ないからです。昼間の需要を抑えて深夜に回すことができれば、(発電所等の方々の勤務体系はともかくとして)電力の不足はかなりカバーできます。

つまり、昼間の活動を抑えて深夜にシフトできればいいのです。コンビニを深夜閉めさせれば逆効果になるんです。

節電にもメリハリが必要で、需要の多くなりそうなときにみんなで抑え込めばいいのです。

政府や報道からは、何時に節電すればいいという指針が示されていないのが困りものですが、仮に午後6時~8時が需要期だとすれば、その時間帯は居酒屋の看板などの照明は極力落としてもらう。9時以降はガンガン使ってもらってもいい。そうした呼びかけが必要ではないでしょうか。

また、需要期だから使用を減らすと言っても、危険なくらいに照明を落とすのは頂けません。ただ、なくても問題のない電気使用を減らすことはできるはずです。商売上、夜の看板の照明を落とすのは辛いでしょうが、こんな時ですから、できる限り表の照明を落としてみればどうでしょう?内側から明かりが漏れる構造になっている店なら、それで客は呼べるはず。

自粛ムードで外食産業は大変だそうです。表の看板を控えめにしている店は意識が高いと思うので、そういう店で一杯やってみるのもいいのではないでしょうか?


無闇に動かないこと

これまでもそうなんですが、非常時に出回るデマには十分気をつけましょう。
首都圏ではすでに、

・コスモ石油の火災で危険物が雨と共に降るらしい

・放射線を浴びてもいいように、ヨウ素を摂取しよう。うがい薬を薄めて飲むべし

・東日本はもう先がない。西日本に疎開すべきだ

などのデマが広がっています。

都内で起きている買い占め、ガソリン不足も、完全に人災です。人々が普通に暮らしていれば起きなかったことです。

さらに昨日は、ネットで「米軍ヘリが物資の来ない地域に補給して現地の人が喜ぶ中、辻元補佐官が『勝手に下りるな』と苦情した」という話が出まわってましたが、いくら検索しても報道ベースでそんな話はありません。


デマというのはだいたい相場が決まっています。

・報道されていないのに異様に広まる

・公式機関に問い合わせると否定される

・情報の発信元が特定できない

などです。


報道機関も間違いは多々ありますが、報道の場合は発信した会社に問い合わせることができますし、抗議を受ければ検証する義務が生じます。

デマの場合は、誰が言い出したのかわからない。よって、確認して「嘘でした」という返答をする人がどこにもいないんです。これが問題です。

普段ならどうということもないのですが、今のように、ちょっとしたことでパニックが起きかねないので、デマを信じることは禁物です。

それから、思いつきで普段と違うことをしないこと。それを見た人が衝動にかられたり、デマの発信源になったりします。

「無闇に動くな」ということです。


全国の伊達直人様、この問題にも目を向けてください

揺れるいのち―赤ちゃんポストからのメッセージ揺れるいのち―赤ちゃんポストからのメッセージ
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とかく世間は熱しやすく冷めやすい。マスコミの過剰反応に、醒めてみている人もいれば、一緒になって熱狂してしまう大衆もあるでしょう。

「赤ちゃんポスト」をめぐる世論も、設置当時まではかなりたくさんの人が是非を論じたのに、今ではほとんど忘れ去られているように感じます。タイガーマスク現象で児童養護施設に注目が集まる中、もう一度この問題も考えていただきたいと思います。




本書は、「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポストを運営する慈恵病院がつけた正式名称)の設置構想当時から昨年暮れにいたるまでの実情を追跡し、それを取り巻く様々な問題を取材したものです。

当ブログでも何度か取り上げてきましたが、慈恵病院は、望まない妊娠をしてしまった女性との相談を通じて、出産・子育ての援助をすることを真の目的にしています。

妊娠は、本人が気づけば8週くらいでテスターを使って自分で判定できます(生理不順の多い年代の子はここですでにロスがあるようです)。 そして、人工中絶手術が施せるのは22週まで。

少子化が叫ばれてる現在、生まれてくる赤ちゃんは年間約100~110万人。人工中絶で失われる赤ちゃんは年間約25~30万人です。(ただし、出生数に比べて中絶件数は統計に出ないものもあり、実際はもっと多いかもしれません。)

病気や障害などで本当に出産を諦めざるを得ない人を除いても、かなりの子どもが中絶によって殺されてることが想像できます。(ちなみに堕胎は犯罪です。現在の中絶もほとんどが脱法行為だと思います) 

少子化を騒ぐ人たちが、この事実を真正面から取り上げないのは実に不思議だと思いませんか?




望まない妊娠をしてしまった女性の悩みは深いです。そして、その悩みはほとんど女性だけに負わされているようです。さらに、悩んでいられる時期がほんの僅かしかなく、産む・産まないの選択は、家族も巻き込んで修羅場に至ることもあるでしょう。

妊娠・出産そのものだけでも、女性の体に与える影響は甚大です。命の危険にさらされることすらあります。

産むことを選択しても、自分で育てる自信の持てないケースもあります。そんな人をきちんとケアして、できれば自分で育ててもらう。だめでも、乳児院から児童養護施設へと育ててもらう選択もある。また、特別養子縁組によって、他人の子供として育ててもらう選択もあります。それを、じっくりと相談し、決断するのを支援するのが、慈恵病院で行われているサービスです。

それでもなお、誰にも相談できずに臨月を迎えてしまうケースが後を絶たず、産み捨てられてしまう赤ちゃんがいる――そうした事例を起こさないための、最後の砦が「こうのとりのゆりかご」なんです。




結果的に、こうのとりのゆりかごに入れられた赤ちゃんのほぼ全数が、熊本県外の子でした。その理由として、地元では身元が割れる心配がある、地元に慈恵病院のようなサービスがないために最後まで悩み詰めてしまう、などがあるようです。

こうのとりのゆりかごにかかる病院の費用は年間1千万。これに対する公的補助も必要だろうと思います。また、全国から預けられている実態を踏まえれば、各地方に同様の施設を作る必要もあるんじゃないかと当事者は訴えます。




それにしても・・・

この施設の設置構想が発表されたときも、認可が下りた時も、当時の安倍首相や閣僚からは「あってはならないこと」などの不満が表明されたそうです。

分かっているだけでも、赤ちゃんの産み捨てられるケースが後を絶たない。この実情を熟慮せず、「ポストに預けるなんてもってのほか」などと(一般人ならともかく)国を預かる政治家が簡単に口にすることが理解できかねます。

あるべき理想の社会を目指して政治を営むのは当然のことです。でも、あってはならない事態が現実に起きているのに、それに目を向けず、現実的な対処を批判してどうするのか。安全保障を旗頭にしていた割には、その基本がなってないのでは、と感じます。


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年金の負担と給付はどうあるべきか



前回のエントリに補足して、では年金の保険料(負担)と保険金(給付)はどうするのか、というところに少しだけ自分の考えを書いてみます。

あくまで私の考えていることですし、様々な価値観のある中で受け入れられない人もいるでしょう。でも、誰かが言わなきゃ議論も始まらないってことでww

所得捕捉率が今よりも格段に上がっているという前提で、年金の保険料、すなわち掛金は、所得の多い人に少しだけ多く払ってもらう。同じ人物でも、所得が毎年変わる人も多いですから、所得が多いときは多めに、少ない時には少なめに、との考えでいいと思います。

単純に、所得×何%、でもいいのではないかと思ってます。各種の控除とか一切なしで、きちんと所得を捕捉した上で、何%でどれだけの保険金給付ができるかを計算すれば、出せるでしょう。

そして、保険金の給付は、最低限の生活が保障できるレベルでいい。もちろん、どの程度が最低限かがすごく難しいところではありますが。

今の年金みたいに、過去の掛金が多かった人には給付も多くする、というのはやめにします。最低限の保障額が人によって違うというのはおかしな話です。まあ、地域によって物価も違うから、その辺の工夫は必要かもしれませんが。

いずれにせよ、ここで考える公的年金は、あくまで長寿リスクを減らすための再分配政策
[註1]ですから、多く稼いだ人は多く負担しても、給付が余分にもらえるわけじゃないということです。

それからこれも議論になるでしょうが、支給年齢になっても所得がある人は、給付を一分我慢してもらう必要もありそうです。負の所得税のように、働くインセンティブを失わない仕組みも考えられるでしょう。

老後働けなくなって年金だけでは不十分だと思えば、個人で民間の業者を使って財テク(←死語?)してください、でいいと思います。

前回も書いたとおり、負担はいくらなのか、給付はいくらなのか、というのを誰にも分かる明確な基準で示せればいいでしょう。

それから余談になりますが、年金保険料の企業負担分というのは廃止すべきです。結局、企業の人件費の一部としてその人のために払われる金なんだから、そんなのは給料として個人に渡すべきです。そしてそこから本人が、保険料全額を払えばいい。そうしないと、個人の負担がわからずウヤムヤになります。

あと、ここも政治的に難しいところでしょうが、第三号被保険者のような、よくわからない制度もやめるべきでしょう。年金保険料は人頭税のようなものと考えるべきだと思います。専業主婦だろうが独身貴族だろうが、同じ基準で納付することとします。自分たちの世代の稼ぎをプールして、自分たちの世代の老後に使うんだから、当然のことですよね。

人頭税方式なら、一人当たりの負担はそんなに大きくならない気がします。自分たちの世代が、若い頃より老後に増えるなんてありえないわけですから。

保険料方式だと言っておきながら、実質は税方式と何ら変わらないじゃないか、と思った方、ハイ正解ですww

公的年金を突き詰めて考えると、結局こういう事になり、かなり社会主義的な政策になっちゃうんですよね。戦後しばらくの間までは無かった仕組みなんだから、全部ご破算にして無しにしちゃえばいい、という思いは今でも強いです。

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[註1]保険の考えなら、掛金を上げれば給付も上がるだろうとの論理ではありません。なぜなら、給付の多寡は長生きリスクの高さで決まるからです。月々の保障額は一定でも、80歳まで生きる人より90歳まで生きる人のほうが、120ヶ月分余計にもらってしまうからです。そしてそのリスクは、個人では予測不能です。 ≫戻る

「高卒標準化」で社会のほとんどの問題は解決できないか?

池田信夫 blog : 「新卒一括採用」はなぜ直らないのか - ライブドアブログ



例によって池田信夫blogにコメントしてみたのですが、「年功序列を改めない限り、新卒一括採用はやめられないだろう」という池田氏の主張に対して「大卒と年齢が連動しなければ新卒一括採用も意味なくなるかも」などという、しょうもないコメントになってしまいました。

大卒と年齢が連動しないってことは、もうすでに年功序列の会社主義がなくなってるってことなので、私のコメントは実は意味が無い(笑)

ただ、最近とみに思うのが、「社会人は高卒を標準にしてみたら?」ということです。

どうせ、大卒でも即戦力じゃないんだし、高卒の年齢の方が体も動くし言うことも素直に聞くような気がします(除く:反抗期が終わってない未熟な子)。

また、高卒で収入を得るようになれば婚期を逃す率も減るし、初産年齢が下がれば女性の妊娠・出産のリスクも下がるし子育ての体力的な負荷も減ります。私の周りにも発達障害などの問題を抱えたご家庭が多いのですが、これは医学の発達によるものもあるけど、出産の高齢化に大きな原因があると思います。

高卒で社会人になるのが標準であれば、少子化をかなり劇的に解消するかも知れない。

大学は研究そのものを目的とする学問分野も大事ですが、産業界にとっての主目的は「高度な仕事に必要な専門能力を磨くこと」でしょう。

後者の目的にとって、「18歳で大学に入学すること」のメリットはあまりないと思います。むしろ、実業界を知っている方が「どんな専門能力を身につけたいか」をわきまえているし、場合によっては大学教授顔負けの専門知識も持っているから、大学の側にもいい影響をおよぼすでしょう。

それに、自分が40代になってわかったことは、別に30代で思考能力が衰えるわけでもない、ということ。むしろ、20代では「よく働き、よく遊ぶ」生活をしたほうが健康的かもしれません。学問に打ち込むのに適齢期はないだろうし、あったとしても個人差のほうが大きいでしょう。20代では体を使う仕事をして、30代で大学に入って専門能力を磨くというプランもありだと思います。

年金財源が足りなくて(たぶん)20歳から年金が強制加入になりましたが、大学在学中の子に年金を払えと言ってもほとんどが未加入になってしまうのが実情でしょう。18歳から働いて、18歳から任意加入にし、強制加入年齢は別途設けるという手もあります。18歳からの選挙権導入も、高卒で働く人が8割がたいればやりやすい。

そして、早くに納税者になれば政治に対する感度も上がるかもしれない。年金問題も、投票率の高齢化も、ある程度解決するかもしれません。

「高卒新規一括採用」になるだけじゃん、という指摘はありそうですが、今の「大学全入」を「40歳までの自由な時期に」というオプション付きとする考えもあります。高卒時点で社会人としてのレールが敷かれちゃうんじゃなく「大学に入って再チャレンジもあり」という形にすればいいように思います。

大学卒業したてのフレッシュマン、というと「ちょっとくらいヘマしてもいいじゃないか」という目で世間は見てくれます。これが、高校卒業となれば、もっともっと可愛い。「新人だからしょうがないよ」という社会の優しい目線に守られて頑張っていれば、普通の子が大卒で到達する22歳よりずっと大人になれると思います。

高卒で働くのが当たり前の社会。大学は必要に応じて好きなときに行く社会――これには「子育て費用が18歳まで、教育費が高校までで済んだら楽だよなぁ」という私自身のポジショントークも含まれているんですけどねww(いかん、大学の費用を子供に押し付けるバカ親の論理かもw)

ただ、「子供を生んだら大学まで養う」という前提がなくなれば、出産のハードルもかなり下がるのは事実です。まあすでに、自活大学生も珍しくないって話ですけどね。

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都内で建設業関連の商売をしています。

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