誇りはどこにある

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社会政策

【少子化対策】子連れに優しい社会も必要では?




2011/06/06 07:16:49
「年齢別選挙区」で子どもの声を政治に生かせ:日経ビジネスオンライン(要無料登録) http://ow.ly/5ayuX

日経ビジネスオンラインで竹内氏が主張している提案は過激ですが、このくらいの意見があってもいいでしょう。

何しろ、震災復興の第1次補正予算の財源に高齢者への過剰な給付の見直しなど無く、子ども手当を削り、年金積立金を取り崩し(将来世代の年金原資です)、ODAを削減する(日本のノブレス・オブリージュを放棄?)体たらくですから、将来世代の意見はもっともっと過剰に反映されてもいいと感じます。そしてその程度の意見が出ない限り、一歩も進まない気もしています。



電車で高齢者に席を譲らないと言って日本の若者のマナーを嘆く向きにも同情しますが、一方で「子供なんか立たせておけばいい」という暴論にもよく出くわします。実際には、公共の乗物は子供が安全に乗れる設計にはなっていないので、小さな子には席を譲るべきです。

最近ようやくベビーカーのまま乗車してもいい電車やバスが増えました。それまではベビーカーの子を抱っこして、ベビーカーをたたんで持ち上げて乗車するルールになっていました。

ベビーカーの構造によっては、座席の下の荷物まで取り出して一旦抱えなければいけません。母親ひとりの力でこれをするのはかなり大変だし、赤ちゃんのいるお母さんにはまだ幼い上の子がいたり次の子を妊娠していたりで、事実上無理な話です。

そういう人は電車やバスには乗るなと言ってるようなもんですね。

恥ずかしながら私はそのルールを知らず(知っていても破った可能性大)、子供の乗ったベビーカーを押して電車に乗っていました。一度、まとまった人数で乗車中にJRの閉まるドアにベビーカーを挟まれてパニックに陥ったことがあります。あの時は無性に腹が立ちましたが、抗議すれば「ルール違反だからお前のほうが悪い」と言われたのでしょう。

電車の自動改札もベビーカーではすれすれの幅で、混雑時にちょっとでも左右に傾いて引っかかろうものなら後ろの人に押される恐怖感を味わいました。とにかく今までの街の設計は小さな子を連れた人には厳しい。

ベビーカーでもう一つだけ言うと、ベビーカーはエスカレーターの利用が禁止されているのに、エレベーターでベビーカーを優先してくれる場所は非常に少ない。黙っていれば足の早い人から乗るというのがあたりまえになっていて、車椅子すら追い越して乗る人々を見た時には呆れ返りました。

核家族化で日曜のお出かけなどはどんな小さな子でも一緒に連れて歩くしかないのに、出かけた先では「あんな小さな子を連れてくる場所か?」という心ない言葉を聞こえよがしに浴びせられたこともあります。子供のおもちゃや靴を買い、母親の肌着や父親のネクタイを選んで夕飯の材料を仕入れる、その間昼食もどこかに入らなければならない、そのあらゆる場面に乳幼児を連れ歩くしかない家族は沢山います。

こういう人達に対する少しずつの不便さが少子化に拍車をかけているとすれば、それを除去する提言が少子化対策として各方面からあるべきでしょう。

穿った見方かもしれないですが、子ども手当によって子を持つ親の資金力が増すことは、結果的にそうした「子連れに不便な社会」を解消するのにも役立つだろうと思います。子ども手当が始まるときに、育児・教育関連の業界が沸騰気味になったのは眼に見えてわかりました。眼に見えない効果はもっと広範にあるでしょう。

最近になってビジネス誌系列のネット記事で、世代間格差や政治における老人既得権の話が毎号のように見られるようになりました。テレビや新聞はおそらく周回遅れでしょうが、広く一般にこの問題意識を共有してもらいたいと願わずにはいられません。

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【子ども手当ブリッジ成立】どさくさ紛れに「あるべき姿」を見失ってはいけない





みんなの党の寺田議員の”造反”により、子ども手当のつなぎ法案が可決しました。

寺田議員は主義・主張において支持できる人ではありませんが、今回の判断は支持しようと思います。

政府が復興財源を欲していることは十分に理解できます。そして、子ども手当が政権交代による支出増の大きな要因であるのは事実です。

しかし、だからといって、即座にやめていい政策ではないでしょう。みんなの党も前向きな対案もなくこれに反対するのはおかしいと思います。

子ども手当がなくなれば、自公政権時代の児童手当に戻ります。

自公政権が続いていれば公明党の主張 に従って、児童手当は増額の上、中学卒業まで伸びた可能性が高い。しかし、民主党政権になったせいで児童手当の拡充は実現しなかった。

つまり、このまま元の児童手当に戻すと、自公政権の延長線上にあった政策も反故になり、子育て支援は大幅に後退することになるんです。

これは、子育て支援を支持してきた有権者を大きく裏切る行為です。

児童手当に戻すとなれば、所得制限をしなければならないので、地方自治体の行政事務は増えます。震災で壊滅した自治体もあるのに、どうやって実務をこなすのでしょうか?

所得制限だと23年度の所得を元にして、24年度の支給の可否を決めなければいけません。レアケースかもしれないけど、昨年秋の収穫でたくさん稼いだが、この震災で父親を失った農家の児童手当は支給されなくていいのでしょうか?



そもそも、子ども手当は「政府が使うお金を子育てをする人に渡し、その人たちに使途を決めさせる」政策です。

山崎元さんはベーシック・インカムに通じる政策だとして子ども手当を評価 しています。みんなの党の山内康一議員も、子ども手当には基本的に賛成でしょう。彼はブログ で「政府が仮設住宅を建設するより建設費を被災者に渡すほうが正しい」と言っています。これは、「政府が保育所を拡充するよりも子育て世帯に保育料を渡すほうが正しい」とほとんど同義です。それは、子育て世帯にとって本当に必要なことに手当が使われるからです。



みんなの党は復興財源を手当てするために子ども手当に反対しましたが、いったい、それに代わる優れた対案は示したのでしょうか?「所得制限をすべきだ」とか「第2子、第3子と支給額を増やすべきだ」みたいな主張は聞かれましたが、だったら実現可能な形で対案と実現スケジュールを示して欲しかった。出産・子育てのインセンティブを増す政策を出してくれるなら、私は基本的に支持したいし、効果的だと思えば絶賛します。

みんなの党から建設的な対案がない以上、今の子ども手当を続行することに何の問題があるのかと思います。

土木利権の復興を狙っているらしい自民党は言うに及ばず、みんなの党が明確な対案も示さずに子ども手当の失効を狙っているのはおかしい。

重ねて言います。この度、寺田議員が首長経験から「混乱を避けたかった」というのは大いに理解できます。とはいえ、政治理念では彼と思いを同じくすることは殆どありません。でも、子ども手当の続行を支持してくれたことには感謝します。

もっと効果的な少子化対策があるならやって欲しいと思いますが、少なくとも、今までの政治で子ども手当以上に効果的な少子化対策がなされたとは思いがたい。

65兆円とも言われる「老人手当」を聖域にしている以上、子ども手当に手をつけるのは許しがたい暴挙に映ります。


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保育の市場化に反対する親



昨日のエントリでご紹介したtogetterに執拗にコメントをしてくる人が、現行制度で守られている(保育園に預けている親の)既得権を一切崩すことなく、待機児童が解消されるのなら構わないという、およそトレードオフを無視した議論をしてきました。典型的なコメントを引用してみましょう。

少なくとも今現在の私たち家族の生活は現行制度によって助かっています。この生活が守られたまま制度が改正されて、受け入れ児が増えると言うのであれば賛成しますが、この生活を破ってまで改正して欲しいとは思わないと言うだけです。


「自由化によって守らない業者が増えるのではないか?そう言った業者に我が子が割り当てられる可能性はないか?」という不安

これが利権団体の煽る不安だということは、よく理解できます。そして、こうしたコメントが出ることは、現在保育サービスを受けている既得権者の合理的行動でもあります。

なぜなら、鈴木亘教授が提唱する保育改革や待機児童解消策は、保育料を市場価格に引き上げることにより「ほんらい保育を必要としない人」に保育サービスを受けさせないこと、も含んでいるからです。

現在保育サービスを受けている人も含め、顕在的・潜在的待機児童の総数を減らすには、保育料を市場価格にし、「そこまでして保育所に入れる必要はない」という人に退いてもらう必要があります。

これは、保育を一方的な施しと考える人からは「福祉を諦めるのか」「行政の敗北ではないか」 という批判を受けるでしょう。しかし、そもそもの目的である「保育に欠ける児童」を親の代わりに保育する、という趣旨に沿って言えば、別におかしなことではありません。




医療を例に取ってみましょう。

誰もが具合が悪くなれば電話一本で救急車が来てくれて、どの病院も受け入れオッケー、無料ですべての医療サービスが受けられるとします。

そうなると、それにかかる莫大な社会的費用だけでなく、「誰も自分の健康維持に関心を示さなくなる」というリスク(モラルハザード)をも増やします。

医療サービスが高価であれば、あるいは、今のように病院に行くと何時間も並ぶような状態であれば、なるべく医者にかからないような回避行動を人々は取ります。

食事・睡眠・運動などに気を配り、常備薬や体温計を配置し、無茶な働きも控えるでしょう。医療コストが高いほど、ジムに通ったり休暇をとったりするコストも相対的に下がります。

本当に医者にかかりたくてもかかれないような貧乏な人には、無償医療パスを渡すなど別の措置を取ればよろしい。

検診などは別として、本当に困ったとき以外医者にかからないことで社会的コストが下げられるとすれば、なるべく医療費の直接負担を上げるほうがいいのです。

そのことによって人々が医療に頼ることなく健康管理をすることが、かえって福利厚生を向上させることもあることがおわかりいただけるでしょう。




保育にも同じような側面があるはずです。

保育園に預けるのが割高であれば、不定期に1日2~3時間でも預けられれば構わないという人は、そうした民間サービスを使うようになるでしょう。また、地域の助け合いの輪が生まれるかもしれません。保育の公的サービスが使いやすいせいで、そうした努力を阻害している面もあると思います。

医療と同じことで、どうしても保育園が必要なのに所得が足りない人には、保育バウチャー(クーポン券)を配れば良いと思います。保育料を細かく設定するより事務も簡便になります。

ただし、これでは「現在保育が必須でないにもかかわらず、運良く公的サービスで割安な保育を受けている」人達にとっては明らかに不利益です。

そしてそのことは、「ほんらい保育が必要なのに、前にたくさん既得権者が並んでいるために保育サービスが受けられない」人達の利益と相反しています。

この二者のトレードオフについて、他者が裁定するのは難しい。家庭の数だけ事情があるんですからね。



しかし、ひとつだけ言えることは、保育を市場化することで、新規参入が増えることによって待機児童が解消するならば、上の二者の対立を緩和するだけでなく、新規参入業者の雇用が増えることです。

鈴木亘教授がブログで指摘しているように、保育園や幼稚園では職員の人件費を抑えるために若いうちでの結婚を奨励し、寿退社で新陳代謝を図っています。

つまり、引退して結婚・子育てを割と早い時期に終えた元保育士が仕事をさがしているケースが多いのではないでしょうか?

昨日取り上げた保育ママなども基本的にそういう人が主体だと聞いています。個人で起業させるよりも、企業の参入でそうした人を雇い入れるほうが、個人のリスクは低く抑えられるのでいいかもしれません。

これは菅政権がもっとも重視する雇用の創出につながります。誰しも「自分の家庭が第一」ですから、そんなことにまで普通の親が思いを致さないのは仕方がないですけどね。



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誤れる「保育産業化批判」への反論





togetterに寄せられたコメントに「自由化反対」の人が続いたので、私が批判したブログに沿って反論を試みます。

まず、保育料が応益負担になると高い保育料が払えない貧しい親が子供を預けることを断念せざるを得なくなり、憲法のもとの平等を損ねる、という点について。

これは、現在の保育園への入園条件が所得や資産の低い順からになっていないので、制度変更をせずともすでに不平等であることを無視しています。

例えば、所得の基準を設けている自治体でも、名目所得より実質所得の多い、個人事業主や農家の子供は預けやすい。さらに親の保有資産にいたっては、全く考慮されていないのではないかと思います。

また、現在仕事をしている母親が優先となるため、子供を預ける場所がないと職探しもできない人達にとっては大きな足かせとなります。結果として、実家に子供を預けたり、無認可に高い金を払って子供を預ける能力のある人が優先されてしまう、という不平等も存在します。さらに言うと、たまたま一人目の子を預けることのできた運のいい人は、仕事を続けることができるので、二人目も継続して預けられる可能性が高くなります。これこそ「格差の固定化」です。

待機児童の親の中には、制度変更により預けることの出来なくなる場合よりも強い不平等にさらされている人も多いのです。保育料を応益負担にすることで所得の少ない人に不利になるというのなら、その人達には保育バウチャーを配ればいいのであって、保育料で調節する必要性は全くありません。





件のブログでは、企業が参入することにより、保育に当てられるべき補助金が別の分野に付け替えられかねない、と懸念します。また、0歳児保育などの「儲からない」保育分野ではサービスの質を低下させて利益確保に走るのではないか、と言っています。

これも全くの言いがかりで、そもそも現在の公立や認可保育園が、高すぎる補助金によって市場を歪めていることにこそ、問題があります。

0歳児の保育は親にとっても大変な負担で、昼間の8時間を見てもらえるのなら月20万のサラリーのうち10万円を払っても預けたい人はいるでしょう。親のキャリア継続も含めれば、かなりの利益になると思われます。ところが、現状の実質負担はわずか2万円程度。これは、0歳児一人当たりに月額50万円もの公費負担がなされているためです。0歳児を預ける親御さんは、特権階級と言ってもいいでしょう。

また、件のブログの筆者は気づいていないかもしれないが、「儲からない」保育産業に参入し、補助金を他の分野に付け替えるなど到底不可能です。儲からない事業に参入して受け取った補助金は、儲からない事業に消えてしまいます。

もし、補助金を使い込んで保育サービスを著しく低下させれば、そんな施設に預ける親はいないでしょう。また、事故の不安まで書き立てていますが、論外な話で、事故の責任は事業者が負うことになります。直接的な刑事罰や損害賠償だけでも合わないし、裁判の費用なども含めて大変なことになるでしょう。多角経営をしている企業なら他の事業分野への風評被害にも発展します。

全くもって、馬鹿な話をするもんじゃないと言いたいです。





保育ママを貶めるような論調にいたっては、正気の沙汰とは思えない。

自分が保育ママの認定を受けて、地域の子供を預かる場面を想像してください。子供の事情や家庭環境、親のニーズや近隣の迷惑などを考慮しながら、保育ママの皆さんは涙ぐましい努力をしているのではないでしょうか。

保育ママには、出産のために引退した幼稚園の先生や保育士などが多いと聞いています。妊娠・出産の経験のない保育士よりも、かゆいところに手の届く人もいるのではないでしょうか?

公立保育園で働く公務員のような身分保障は、保育ママにはありません。親からのクレームにも真摯に対応しなければなりませんし、問題があれば認可も取り消されるでしょう。





そもそも、公的補助が認可保育園に比べて格段に少ない幼稚園は、月謝や入園料を自由に設定しており、市場競争にさらされていますが、保育園に比べて金儲け主義で劣悪なサービスを展開しているという話を聞いたことがありません。どの業界も、価格とサービスによって顧客を獲得し、継続するために企業努力を惜しまないものです。





すでに何度も触れたとおり、菅政権の「子ども・子育て新システム」は、むしろ「幼稚園を保育園化する」方向での幼保一元化を目指していたのが大問題なのであり、幼稚園業界の猛反発を受けて方向性はグジャグジャになりつつあります。補助金を増やすことで行政による支配を強め、市場を歪めるのではないか、という方が、よほど心配なのです。

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年金の負担と給付はどうあるべきか



前回のエントリに補足して、では年金の保険料(負担)と保険金(給付)はどうするのか、というところに少しだけ自分の考えを書いてみます。

あくまで私の考えていることですし、様々な価値観のある中で受け入れられない人もいるでしょう。でも、誰かが言わなきゃ議論も始まらないってことでww

所得捕捉率が今よりも格段に上がっているという前提で、年金の保険料、すなわち掛金は、所得の多い人に少しだけ多く払ってもらう。同じ人物でも、所得が毎年変わる人も多いですから、所得が多いときは多めに、少ない時には少なめに、との考えでいいと思います。

単純に、所得×何%、でもいいのではないかと思ってます。各種の控除とか一切なしで、きちんと所得を捕捉した上で、何%でどれだけの保険金給付ができるかを計算すれば、出せるでしょう。

そして、保険金の給付は、最低限の生活が保障できるレベルでいい。もちろん、どの程度が最低限かがすごく難しいところではありますが。

今の年金みたいに、過去の掛金が多かった人には給付も多くする、というのはやめにします。最低限の保障額が人によって違うというのはおかしな話です。まあ、地域によって物価も違うから、その辺の工夫は必要かもしれませんが。

いずれにせよ、ここで考える公的年金は、あくまで長寿リスクを減らすための再分配政策
[註1]ですから、多く稼いだ人は多く負担しても、給付が余分にもらえるわけじゃないということです。

それからこれも議論になるでしょうが、支給年齢になっても所得がある人は、給付を一分我慢してもらう必要もありそうです。負の所得税のように、働くインセンティブを失わない仕組みも考えられるでしょう。

老後働けなくなって年金だけでは不十分だと思えば、個人で民間の業者を使って財テク(←死語?)してください、でいいと思います。

前回も書いたとおり、負担はいくらなのか、給付はいくらなのか、というのを誰にも分かる明確な基準で示せればいいでしょう。

それから余談になりますが、年金保険料の企業負担分というのは廃止すべきです。結局、企業の人件費の一部としてその人のために払われる金なんだから、そんなのは給料として個人に渡すべきです。そしてそこから本人が、保険料全額を払えばいい。そうしないと、個人の負担がわからずウヤムヤになります。

あと、ここも政治的に難しいところでしょうが、第三号被保険者のような、よくわからない制度もやめるべきでしょう。年金保険料は人頭税のようなものと考えるべきだと思います。専業主婦だろうが独身貴族だろうが、同じ基準で納付することとします。自分たちの世代の稼ぎをプールして、自分たちの世代の老後に使うんだから、当然のことですよね。

人頭税方式なら、一人当たりの負担はそんなに大きくならない気がします。自分たちの世代が、若い頃より老後に増えるなんてありえないわけですから。

保険料方式だと言っておきながら、実質は税方式と何ら変わらないじゃないか、と思った方、ハイ正解ですww

公的年金を突き詰めて考えると、結局こういう事になり、かなり社会主義的な政策になっちゃうんですよね。戦後しばらくの間までは無かった仕組みなんだから、全部ご破算にして無しにしちゃえばいい、という思いは今でも強いです。

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[註1]保険の考えなら、掛金を上げれば給付も上がるだろうとの論理ではありません。なぜなら、給付の多寡は長生きリスクの高さで決まるからです。月々の保障額は一定でも、80歳まで生きる人より90歳まで生きる人のほうが、120ヶ月分余計にもらってしまうからです。そしてそのリスクは、個人では予測不能です。 ≫戻る

年金を積立方式の世代別会計に



Twitterで年金について少し述べたら、湯煙さんは絡んでくるし、ryu_hi_kiさんも追撃してくるので(笑)、ブログに少しまとめておきます。

年金を保険ととらえるなら、それは「思ってたより長生きしちゃうリスク」への保険です。従って、自分の稼ぎで暮らしが全うできる年齢で死んだ人は、結果的に年金は掛け捨てになります。

だから、公的年金などやめてしまえばいいではないか、年金は個人が民間にかける保険で十分じゃないか、という意見はありだと思います。

ただし、そうなると問題も生じます。たとえば、健康保険を任意にすると、体が丈夫な人は加入しないで、体の弱い人だけが加入することが考えられます。すると、保険料がバカ高くなったり、保険自体が成り立たなかったり、「虚弱体質の人は加入できません」などという、本末転倒の事態が起こりかねません。
[註1]

年金についても、日本中のあらゆる人が加入することによって、保険加入者の負担が広く薄くなる、という利点があります。それに、年金を掛けなかったんだから野垂れ死にすればいい、ということにはならないでしょうから、年金を自由にすると生活保護費としての税負担が増えるかもしれません。だから、私も不本意ながら、年金の強制加入には同意します。そもそも、誰もが自分の寿命は予測できないし、何歳まで働けるかも予測できないのですから、保険に加入するメリットは全員にあります。

今の年金のいちばんの問題点は、現役世代の保険料を老人世代に使ってしまうという「賦課方式」にあります。

本来、長生きリスクを保険するのであれば、65歳から90歳まで、何%の人がそれぞれ生き残るかを計算し、そこに必要な生活費を支給するために、全体でいくらづつ負担するか、ということが制度設計されなければいけません。

そして、その保険の担い手と受け取り手を、同じ世代の日本人全員で完結することで、年金は純粋な積立方式にできるのです。今からでも年金の掛金と給付を、世代別会計に分ければいいのです。

計算通りにいかないこともあるでしょう。世代によっては、使い切れずに余ったり、使い切っても足りないこともあるかもしれません。そのプラマイを、世代間で持ち回りすれば、さらに安定した制度になります。

大切なのは、その掛金と給付金の計算式を明確に、誰にでもわかるようにして透明に運営することです。ここに、経済学者を利用すればいいと思います。実態の統計と、それに基づく給付と負担の計算をしてもらう。国会にもその正当性を確認する委員会を作ればいいでしょう。

年金を、今のような「世代間の支え合い」ではなく、「世代内での支え合い」にすれば、次世代を育てないで年金だけもらうというフリーライダーもいなくなり、余計な軋轢も解消します。


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[註1]強制加入で元気な人も保険料を払うから、病気やケガの人に給付できるわけです。病気やケガは苦痛を伴いますから、病気やケガにならない代わりに保険料を掛け捨てることは納得できると思います。またいま元気な人も、いつ病気になるかわからないし、ましてケガのリスクは全員が負ってますから、日本人全体で広く浅くリスク負担することは合理的だと思います。 ≫戻る

格差固定化論者の噛み合わない議論



先日のエントリ「解雇の自由を阻む『解雇規制バイアス』」でも述べたことですが、問題の因果関係について乱暴な議論があまりに多いように感じます。

問題を解決するためには原因を取り除かなければいけないのに、原因を放置しておいて結果だけ何とかしろという。あるいは、原因を取り除けば結果が変わってくるはずなのに、起きた結果を前提のようにして語る人がいる。さらには、因果関係がはっきりしないものまで当然のことのように語る人までいるから、こういう人達と話すときにはよくよく注意が必要だと思います。




今日読んだ「アゴラ:手厚いセーフティネットは必要?(藤沢数希)」のコメントの1番目が1つの典型例なので取り上げてみましょう。

藤沢氏は、日本の問題は競争による格差ではなく、正社員とそうでない人の機会の不平等なんだから、正規・非正規を共通の土俵に乗せて競争させ、結果として起きる格差はむしろ歓迎すべきだ、という立場をとっています。それに対して、1番目のコメントの主は以下のようなことを言います。

2、「格差」を考える上で問題は、格差が子供の世代へ受け継がれる事です。両親の所得が乏しいせいで、高校・大学へ行かせられない人も数多くなるでしょう。そして、低学歴になった不幸な人は、就職口も制限され、才能や資質を活かす事が出来なくなるでしょう。それでも、自分で何とかしろ、と言われるのでしょうか?


賢明な読者には一見しておわかりでしょうが、この人は「解雇バイアス」ならぬ「格差バイアス」に取りつかれています。順番に見ていきましょう。



■両親が低所得だと高校・大学に行けないか?

高校や大学の入学試験は金銭ではなく学力で決まります。能力のある子にきちんと勉強させれば、貧乏人でも大学入試には合格できます。

貧乏だと塾や予備校に通えないので一流大学に行けない、というのは傾向としては正しいけれども、少なくとも東京大学に合格するくらいの学力なら、頭のいい子がきちんと独学すれば身につくはずです。専門的な予備校のノウハウが必要なのは、一部のカルトな私学入試でしょう。

早稲田だ慶応だと贅沢を言わずに、「貧乏人は東大へ行け」ということです。

進学するだけのお金が無い優秀な生徒には、奨学制度などを拡充すべきでしょう。ただでさえ大学全入の時代ですから、もし寄付税制を整備すれば、優秀な卒業生が将来シコタマ稼いで母校に寄付してくれるかも知れないので、優秀な子弟は大学間で争奪戦になるでしょう。

いずれにせよ、両親の所得にかかわらず、努力次第で東大に行けるくらいの道は整備すべきです。そしてここまでは、藤沢氏の言う「機会の平等」と何ら矛盾しないはずです。



■高学歴でないと高所得は得られないか?

これまで、日本の大企業の正社員は、中小企業に比べて生涯年収も高く、なにより安定していました。そして大企業は、おしなべて学歴偏重の採用方針をとっていました。

それは「一流大学に合格するだけの能力と努力」を買っていただけのことであり、大学で何を勉強したかなんて関係なかったのです。

その前提に沿って言うならば、一流大学に合格することがすなわち一流企業への道であり、高所得者への道だったわけです。

しかし、その前提は既に崩れかけています。

人口ピラミッドが正三角形だった頃にだけ実現できた、大企業の賃金カーブ(黙っていても50代には最高賃金になる仕組み)は崩れ始めています。今や、若者の働きで、たいして働かないミドル以上の高賃金を支えることは不可能になってきているのです。また、終身雇用も今や非常に危うい。

それに、企業の採用方針も変わっていくでしょう。一流大学に合格しただけで正規採用される時代は終わると思います。

現実問題として上のような前提は崩れているんです。しかも現状はどうあれ、藤沢氏は「正社員も非正社員も失業者も同じ条件で競争すべきだ」と言っています。「労働市場を改革して、“一流大学→一流企業→生涯高所得”という前提を取り除くべきだ」という主張をしているのです。

その藤沢氏に向かって、《低学歴になった不幸な人は、就職口も制限され》などと言うのはトンチンカンでしょう。



■「自分で何とかしろ」と言うのは残酷か?

そして、格差論を展開する人によく見かけるのが、「それでも自分で何とかしろというのでしょうか?」という殺し文句です。

ここまで見てきたとおり、「自助努力で何とかなる社会にすべきだ」と言っている人に向かって、自助努力ではどうにもならない現状を書き連ねた上で、最後に「それでも自分で何とかしろと?」と言ってくるのです。

明らかにおかしな論法です。

これは、「みんなが信号を厳守すれば、信号無視による事故は起きない」と主張する人に向かって、「現実には信号無視による痛ましい事故で毎日人が死んでいるんです。それでもあなたは、青信号なら絶対大丈夫だと言い切れるんですか?」と言うのに似ています。

これでは、「たとえみんなが信号を厳守しても、信号無視は無くならない」というおかしな前提条件が出来上がってしまいます。ところが、言葉のやりとりでは普通にこんな「前提無視」の議論がまかり通っています。

おさらいすると、藤沢氏は現状を改革して「機会の平等」を実現すれば「結果の不平等」はしょうがないじゃない、と言っているのです。それに対してコメント1の主は「機会が不平等なんだから結果平等を求めてもいいじゃない」といっているようです。

噛み合わないわけです。

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新しい公共と江戸時代

前回エントリにTwitterで反応があったので、補足も兼ねて続きを書いてみます。

金持ちが貧乏人に振舞ったとか、家賃も払えない店子の縁談を世話したとか、落語の世界ではそうしたほのぼのとした美談は少なくないと思います。

しかし、これを単なる美談と片付けて、昔はよかったとか、今の人は人情がないとか、そういう結論に至るのは短絡的ではないかと思います。もちろん、「寝床」の話なんて単なるパワハラだとか、本当はもっと悪どかったはずだとか、そんなことを言いたいのではありません。

経済学で説明するならば、ゲーム理論の繰り返しゲームのようなことになるのでしょうが、金持ちだからといってお金のない人に無碍にすれば、当時の狭い世間のことですから、評判システムによって制裁されます。

落語や講談でも、見ず知らずの人に親切にしてやったら巡り巡って自分のところに来た、というような話が少なくない。まあ世間とはそういうもんだということもできるが、あるいは教育的効果を狙った話だったのかも知れないと思います。「情けは人のためならず」を、庶民に噛み砕いて教えていた面もあるでしょう。

少数の金持ちの周りに多数の中間層や貧困層が居るという姿は、特別な想像力を働かせなくてもイメージできるでしょう。親旦那と奉公人と下女、大家と店子など、身分が下がるほど多数で構成されるのが自然な姿です。

そうした社会では、「法の下の平等」などなくても、少数の支配者は多数の被支配者を暴力や財力だけで支配するのは不都合であることを知っています。被支配者にもそれなりの楽しみと怠惰を許す必要があるんです。そうすれば、被支配者の側も自主的に生活を守ろうとするからです。そのほうが、上からガチガチに押さえつけるよりずっと効率がいいでしょう。

また、貧乏人の子弟にも、時折眼を見張るような優秀な子が出てきます。そうしたときに、様々な出世システムが用意されていることで、社会全体の活力が上がるでしょう。そのためにも、貧乏人だからといって社会に絶望するようなシステムは非効率極まりないんです。

江戸時代が平和で長持ちだったのは、むしろ「階層の固定化」がなされていなかったからでしょう。武士の身分をお金で買うようなことは、各地で見られたようです。それを堕落と見るか、競争が働いていると見るかで、歴史観も変わってきます。有名な田沼意次も、出自は大した家柄じゃなかったそうですし、「田沼時代」と言われたころも、田沼が筆頭家老だったわけではないそうです。

能力の高い者が出世する仕組みが用意されていれば、人々はやる気を出すし、犯罪に手を染めることも少なくなるはずです。生活に希望が持てるかどうかで社会の治安はガラッと変わるでしょう。

もちろん、現実の社会には、権力を傘に着て弱者を虐める人や、怠惰な低所得者もたくさんいます。そのなかで、まっとうに大金を稼いで、その一部を施しに回す富者は、心の美しい人だと言えるでしょう。

しかし、そうすることが有利になるような社会的な仕組みが――人為的にせよ自然にせよ――出来ていたことが重要だろうと思います。現代日本のように、法人税が高くて所得税は累進課税され、残した財産には膨大な相続税が課されるようでは、お金持ちが周囲に利益還元することが少なくても不思議ではありません。

さらに言えば、たまたま仕事があるときに新卒者として社会に出ただけで正規雇用され、能力にかかわらず生涯賃金が確保されるような社会では、施しをして世間の評判を勝ち取ろうというインセンティブも生まれません。

「新しい公共」の意味はいろいろあるでしょうが、その1つには、金持ちが善意で施しをするってのも入っていると思います。とすれば、意外と江戸時代の社会のありようこそ、「新しい公共」を実現していたのかもしれないと感じます。


これは権利の捏造?|交通基本法「移動権の保障」



守られるべき大切な人権の1つに、「移動の自由」があります。これは、本人の意思に逆らって移動を禁止されたり、別の場所に強制移動させられることが無い、ということを意味します。悪評高きアパルトヘイトは白人居住区に黒人が入ることを禁じるもので前者にあたり、北朝鮮による拉致は後者に当たります。(もっとも拉致は犯罪ですけど)

当然のことながら、人種や性別その他、不当な理由で交通機関の利用を禁じたり、不動産の売買を禁止したりしてはいけない。そういうことをすれば、「移動の自由」が侵害されるからです。

しかし、お金が無いのに渋谷区松濤に家が欲しいとか、交通費が払えないのに新幹線で旅行したいとか言うのは単なるわがままであり、こんなものは権利でも何でもありません。「自由」は、それを達成するために個人の平凡な努力があって初めて行使できる権利です。

ところが鳩山政権で検討されている「交通基本法」に盛り込もうとしている「移動権の保障」とは、有り体に言うと、過疎地に住む老人が自動車を運転できなくなっても「自由」に都市部に行くことができるように税金を投入しろ、という話のようです。
参考:国土交通省|交通基本法検討会について
http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/sosei_transport_fr_000040.html

地方の老人に優しくしよう、というのが簡単に達成できるのならそれはいいことですし、反対する理由はありません。しかし、都市部の交通インフラが未整備であり、これを整備すれば間違いなく経済成長に貢献するとわかっているのにそこに着手せず、成長をむしろ阻害する政策に税をつぎ込むほど、我が国には余裕があるのでしょうか?

自民党も民主党も、一面的な理解のもとに弱者を救済するかのような政策を並べるのが好きですが、実際問題そうした政策が地方や老人をハッピーにしたことなどほとんど考えられません。

温情主義で税金を無駄遣いするのではなく、たとえば、徒歩でしか移動できない老人には徒歩圏内で生活が完結するように移住を促進すればよろしい。それも、強制的な手段などではなく、借地・借家法の改正など規制緩和で移住を楽にしてあげればいいのです。移住が嫌なら自分のお金でタクシーなりハイヤーを利用すればいいのです。公共交通機関を地の果てまで伸ばして維持するなんてもっての外です。

あるいは、IT技術で物理的距離をカバーする方策もあります。自分が移動しなくても済ますことのできる用事はどんどん増えていくでしょう。

過疎地に住む老人が正当な対価も払わずに身柄を移動させる「権利」を受け取るなど、およそ考えられません。鳩山政権は権利の濫用以前の、権利の捏造をしようとしていると私は感じます。


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(全面禁煙通達に思う)自由を認めない民主党政権

【厚労省がすべての飲食店を全面禁煙にするよう通達】




私は元喫煙者ですが今は喫煙者でないので、日本全国すべて禁煙になっても何ら困ることはありません。

しかし、飲食店経営者にとって、こんな通達は迷惑でしか無いのではないでしょうか。

すでに店の方針でタバコを吸わせないからと言って、営業妨害を受けたり暴力沙汰になるようなことはないでしょう。「通達のおかげで禁煙に踏みきれた」などと言う、自主性の無い店に「恩恵」を与える必要はないと思います。

逆に、店の方針として喫煙者歓迎の店もあるのです。店内の客には「サクラ」の効果がありますから、バーや喫茶店などは喫煙者が長居するのをありがたく思っている店もあります。

喫煙者のほとんどが中毒症状を持っているのですから、禁煙の空間に長く居ることはできません。路上喫煙まで禁止[註1]されつつある中で、タバコが吸える喫茶店というのは喫煙者のオアシス的な存在でしょう。これからは「受動喫煙の嫌な人の入店はお断り(店主敬白)」という張り紙が店頭に貼られる日が来るのかもしれません(笑)

だいたい、「受動喫煙」とか「嫌煙権」などという言葉を聞くと、フェミニストに代表される左翼運動家を思い出してしまいます。タバコを吸わない人を弱者と決めつけるのはかなり干からびた思想に思えます。

もちろん、タバコを吸うのはその人の勝手であって、吸う権利を認めるなら非喫煙者の「吸わされない権利」も認めるべきでしょう。ただ、車で排気ガスをまき散らすことが納税で認められているように、タバコも少なからぬ税金が掛かっていることを忘れてはなりません。

喫煙が犯罪でない限り、個別の飲食店が喫煙を認めるかどうかはその店の判断に委ねるべきであり、中央官庁が通達で押し付けていいものではありません。また、記事のとおりであるならば、民間経営の飲食店を「公共の場所」と位置づけることにも大いに疑問を感じます。

思うに、自公政権時にはこんな役所の横暴は許さなかったはずです。民主党政権はこんなことを簡単にやってのけるんだ、ということに軽いめまいを感じています。



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[註1]これも馬鹿な話で、携帯灰皿を持って迷惑にならない場所で吸うのをなぜ規制するのか。受動喫煙が嫌なら屋外の喫煙を推奨すべきなのに、わけがわかりません。 ≫戻る

保育・医療・介護は市場メカニズムの導入で解決できないか

本エントリは「社会政策」のカテゴリに入れましたが、そもそもこのジャンルが社会政策という認識から逃れることができず、経済政策としての議論を封じてきたことに、問題の根源があるような気がします。

認可保育園の料金が非常に安く、子供を預けてパート労働につけば子育ての負担を軽減しながら所得を増やすことができるので、認可保育園の待機児童は長い行列が出来ています。

一方で、無認可保育所は補助金が無いために料金が高く、低賃金のパート労働では元が取れない場合すらあります。これは、認可保育園の補助金が高すぎるための不公平です。

認可保育園は障害を持つ母親を優先したり、母子家庭を優先するなど、社会政策として機能している面はたしかにあります。しかし一方で、必ずしも保育を必要としない、家庭で育てられる環境の子供の保育にわざわざ税金を投入している事例も少なくないようです。もっとも不公平だと思われるのは、公立小学校の教師等の役人が優遇されているのではないか、ということです。

認可保育園への補助金をリーズナブルな形に見直し、利用者負担をもっと高め、無認可との競争を刺激し、本当に保育を必要とする人に行き渡るようにすべきだと思います。(方法論は別として)

待機児童の問題は、認可保育園の利用者負担額が上がることで母親が利用を諦める、ということでも部分的に解消できるはずです。現状でも沢山の人は単に順番が回ってこないだけで諦めているわけですから、金額的に折り合わないので諦める人がいなければおかしいのです。

少なくともゼロ歳児保育に一人当たり月額50万円も公金注入しているのは異常です。これを半分程度にし、月額25万円払ってでも仕事につきたい人は保育所に預ける、ということで構わないと思います。そうなればゼロ歳児保育の需要は極端に限られますから、ゼロ歳児の育児は家庭を基本とし、そこで余った税金を使って別の形で子育て支援する方が良いのではないでしょうか。[註1]



医療についても同じことが言えると思います。老人医療費無償というかつての大盤振る舞い
論外としても、保健医療の自己負担額が法外に安いため、医療以外の方法で解決できる問題も医療に頼りがちです。

都心の大病院でも田舎の診療所でも診療報酬が変わらないというのも、頷けません。都会と田舎では地価や従業員の生活費が全く違うのに、同じというのは理解できません。[註2]

そういうことを言うと、無医村の問題とか産科の無い地方の話をして「地方では医療が崩壊している」と言う人がいます。しかし、都心部に勤めるサラリーマンなどは2時間も3時間も待たされる病院にかかるわけには行かず、実質的には都心部でも無医村が存在していると言えるかもしれません。子育て中のママも、子供を預けるところも無いのに、少々具合が悪いからといって病院に行くのは無理でしょう。

つまり、保健医療の自己負担額ももっと高めにし、高額医療の上限(1世帯あたり月額3万円以上は無料など)を見直し、医療に頼らない解決手段をもっと取るように促した上で、全国画一の診療報酬を自由化し、本当に需要のあるところに供給が向かうようにすべきだと思います。

介護も国が保険制度を布いてしまったために柔軟性も機動性も無い穴ぼこだらけのシステムになってしまったのではないかと思います。介護の場合は医療よりも情報の非対称性が少ないサービスですから、市場に任せるのはより簡単だと思われます。

医療も介護も、お金が無くてサービスが受けられないと悲惨な状態に陥る人たちと、サービスを受けるかどうかを費用負担で天秤にかけられる人たちを同じ括りで処遇する必要はないと思います。自分の生活は自分で守ることを基本とし、そこから漏れてしまったどうしようもない人だけを救済する――そんな仕組みにするには、それこそゼロベースでの見直しが必要だろうと思います。


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[註1]これは、育てられる子供のためにもいいことだと思います。教育学だけでなく最近の脳科学でも「3歳までは母親がみるのが理想」と言われていますし、私は実感としてそれを支持します。 ≫戻る


[註2]それだけではありません。最新設備を誇る診療所もそうでない診療所も診療報酬は全く同じだし、新人もベテランもロートルも医者でさえあれば同じ診療報酬というのもおかしな話です。常に行列ができるから値上げするとか、人気が無いから値下げする、ということがまかりならないのはどうかと思います。 ≫戻る

【子ども手当】所得制限はほとんど意味がない

これまで何度か書いてきましたが、子ども手当に所得制限を設けるのは意味がないし、かえって不都合が多くなるでしょう。もう一度、噛み砕いて説明しておきます。



1°所得捕捉率の問題

かねてからクロヨンと呼ばれているように、サラリーマン:自営業者:農家の所得捕捉率はそれぞれ9割:6割:4割の比率と言われています。

実質所得が同じ1千万円でも、サラリーマンは名目所得が900万円で、農家の名目所得は400万円しかありません。

もし現状のまま年収800万円で所得制限すると、年収1千万円のサラリーマンは手当をもらえないのに、年収1500万円の農家はもらえてしまうのです。



2°事務作業の煩雑化

さて、所得がきちんと把握されていたとしても、今度はその所得を調べた上で支給する・しないの判断をし、各家庭に支給可否を通知しなければなりません。当然、異議申し立ても受け付けなければならないでしょう。

その作業と通知などの諸経費はすべて税金を使って支出されます。所得制限を設けたために役所の事業が一つ増えるわけです。制限なしで支給するのとどっちか税の節約になるか、事業仕分けすべきでしょうね。



3°所得の変動はどうするのか

去年はたまたま2千万円の年収があったけど、今年は400万円かもしれないという人はどうするのか?

こういう人は、一時的に年金保険料や住民税などが跳ね上がって大変な思いをします。考えてみれば、子育て中の年代で高額所得者といえば、たまたま著作が当たったとか、タレントとして売れたとかいう人が比率として多いでしょう。

高額所得者には所得の変動が大きい人が多いので、1年分の所得で線引きをすると不公平が生じるでしょう。



4°所得の低い大資産家には支給するのか

資産が沢山あるので、イヤな思いまでしてあくせく働かなくても十分に食っていけるから働かないという人は、低所得者に分類されます。そういう人には支給するのか?

休みなしで働いて年収2千万円の人には支給しないのに?



5°配偶者控除・扶養控除の廃止との整合性

現状では、配偶者控除・扶養控除の恩恵を受けているのは高額所得者です。民主党はこれを廃止すると明言していました。そして、それが子ども手当の財源になるとも説明していました。

であるならば、高額所得者には増税しながらそこから捻出する手当からは排除することになります。たとえば、高額所得者で子供を沢山育てている人はひどいことになるでしょう。



6°モラルハザードの可能性

所得捕捉率の問題とも関係しますが、どこかで所得の線引きをすると、その前後の人たちは所得を不当に下げようとするでしょう。申告でごまかす人には処罰をすればいいかもしれませんが、就業日数を減らしたり販売数を減らして調節出来る人はするでしょう。

こうした「売上を下げようとする圧力」は、見えないところで景気にも悪影響を及ぼします。

所得を増やすインセンティブを削ぐ政策を、一つ追加することになるのです。



こうして見てきたように、現状のままでの所得制限は有害無益だと言うことができます。

所得制限がもたらす良い効果は、子供のいない(あるいは今時点で高校以上の子を持つ)貧乏人の妬みや僻みを和らげるくらいのものです。もちろん、人間は感情の動物ですから、感情論を無視することはできませんけどね。


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ブログ意見集 by Good↑or Bad↓ 子ども手当に所得制限を

医療も市場原理を導入すべきではないか

医療の分野はこれまで政府によってがんじがらめにされてきました。国民皆保険によって誰もが安い負担で医療を受けられるようにする、という高邁な理想を実現したのはとても良い事です。しかし、その歪みがあらゆるところにきており、限界に近づいているというのは報道されている通りだと思います。

まず、医療行為そのものが政府に認定されるかどうかで規制を受けます。そして、1つ1つの医療行為には政府が診療報酬を定めていて、どんな名医が行なっても新人の医師が行なっても、全国一律の金額が払われるようになっています。

そして、政府が医療費支出を削減するために診療報酬を改定すると、医療機関はその中で儲かる方法を編み出すという〝いたちごっこ〟が続いてきました。

「儲かる方法」と言うと聞こえが悪いですが、医療だってボランティアではありません。事業として成立するためにはその経費を賄うために収益を上げなければなりません。

その診療報酬の見直し作業に中医協と言う機関が設けられ、そこに日本医師会や厚労省の役人や族議員などが入って来て、政治的な取り決めがなされやすいことなどは、いろんなところで問題視されています。

診療報酬の他に、医療には厳しい参入規制があります。地域ごとに病床数が決められていて、それを超すような病院の新設は認可されません。このことで病院は既得権益を維持し、国保や健保は支払いを制限できると考えているからです。



医療については素人なので、具体的な問題点も、それをどう解決すべきであるかも私にはわかりません。

しかし、一般論として私が思うことは、医療という産業にも市場原理を導入すればいいじゃないか、ということです。



診療報酬を自由にすれば、地域で不足している医療には高い報酬を払うことで確保できるし、新規参入を自由化すれば、ニーズの少ない医療は撤退するなりニーズのあるところに移動しやすくなります。

誤解を恐れずに言えば、子供が風邪を引いたとしても、年収2千万円の親と4百万円の親では受けさせたい医療は違ってくるはずです。教育の世界では良い悪いに関わらずそうしたニーズを満たすために私立の教育機関があります。

忙しい人が特別料金を払って待ち時間無しで診療を受けるといったサービスも考案されるでしょうし、往診のサービス料金も自由にして良いと思います。

また、医師が実力を磨き、高い能力を発揮することは国民の福祉にかないます。優秀な医師には高い報酬が払われるべきだし、優秀な医師にかかりたければそれなりの費用負担をすればいいことです。

ショッピングモールが集客力のあるテナントを引き込むように、やる気のある病院は優秀な(あるいはニーズに合う)医師を揃えようとするでしょう。よく言われる「学閥の弊害」のようなものも排除できるかもしれません。

そうしたインセンティブの芽を摘んでしまうのも、政府が診療報酬を決めてしまう弊害の1つです。

ときどき問題にされる本や新聞の定価販売ですら、政府の基準などはありません。コンビニの本部が決めた定価販売でさえ、売り場に裁量権がないのは不当だと言われるご時世で、どうして医療だけは政府の統一価格が存在しなければならないのか、不思議に思いませんか?

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[参考文献]
だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方
著者:鈴木 亘
販売元:東洋経済新報社
発売日:2009-01
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社会保障を一から勉強できる良書をご紹介:iza

だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方
著者:鈴木 亘
東洋経済新報社(2009-01)
おすすめ度:4.5
販売元:Amazon.co.jp
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本書は年金・健康保険・介護保険を社会保障政策として包括的に説明し、経済学の立場で公正な制度改革のあり方を提示しています。我々素人が理解できるよう、現状の仕組みやその問題点について、わかりやすく解説しています。


じっくり読まないと難しい部分や、一度通読しただけで頭に入って来ない部分があるのは、膨大で複雑な制度を短い紙幅で説明しているからであり、この複雑さこそがいちばんの問題であることが理解できます。


役人や政治家、そして専門家と言われる御用学者やジャーナリストが複雑怪奇な制度を隠れ蓑にしていい加減な情報を我々に提示してきました。


ある意味、政治家や新聞記者も情報不足でだまされている部分はあるでしょう。でも、何となく大問題なんだ、ということはみな肌で感じているはずですし、詳しく知る立場にある政治家や記者は基本的な理解はあるはずなんです。問題は、勇気と責任感があるかどうかです。


私は、社会保障制度についてはその複雑さ故に理解できないことを正々堂々と問題視する姿勢があっていいと思います。


偏差値の高い人達ほど、「自分の理解できない制度が悪いんだ」と主張するのが怖いのです。そこで「ここはどうなっているのかね?」ときくと、官僚の〝ご説明〟でころっとだまされちゃう、という訳です。


本書では、経済学者の立場で財政破綻せず受け入れ可能な制度改革を「賦課方式」から「積立方式」への移行、という形で提案しています。


河野太郎氏らが訴える「1階部分は消費税、2階部分は積立方式」という改革案との違いは、未納が解消できるか否かと、どちらが世代間不公平の解消に役立つか、の2点です。


未納の解消(世代内不公平の解消)には消費税方式が優れているし、世代間不公平の解消には積立方式が優れています。


是非、本書を手に取って読んでみて下さい。おそらく、現状把握を目的とした第2章でつまづく人が多いでしょう。第2章、第3章が未消化でも第4章、第5章は読めると思うので、恐れず読み進んでください。


特に、医療・介護が社会問題化している中で、根本的解決には市場原理の導入がもっとも優れているということは、本書を読むことで理解できると思います。

 

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社会保障の世代間格差は一人当たり8340万円!:iza

ピクチャ 3←画像をクリックすると拡大表示されます

厚労省の試算では、1960年代後半生まれの私でも、年金は払い込んだ額の2倍が受け取れることになっています。

 

しかし、この数字の出し方にはトリック(割引現在価値など)があって、まともに計算すると上の表のようになる、というのが鈴木氏の主張です。

 

もう私の世代では社会保障は赤字なんですね。

 

もちろん、個人的には大病にかかっても没落しないで済む人、長い老後を平穏に暮らせる人がいるわけですし、不慮の事故や病気に備えて生活を切り詰めてまで貯蓄しないでも済むので、保険の恩恵にはあずかっている訳です。今のところは。

 

しかし、これが2005年生まれの子供は見ての通りです。生まれた年が遅かったというだけで、3490万円も貢がなければならないのです。1940年生まれの人と比べると8340万円もの格差があるのです(註1)。

 

平均年収500万円で40年間勤務できる、比較的恵まれた人を想定してもその生涯所得は2億円。夫婦で割ると1億円。そう考えると、この世代間格差がいかに大きいかわかります。

 

これは年金の賦課方式を認め続けるから起きる悲劇です。年金を積立方式に直せば、少なくとも上のマイナス2510万円はゼロに近づけることができます。

 

そのためには、今の老人にも応分の負担を求めなければなりません。これは政治的に非常な困難をともなうでしょう。選挙権を持たない沢山の子供たちのために、選挙権を行使する沢山の老人の支持を取り付けなければならないのですから。

 

民主党は政権交代で革命を起こしたと騒いでいましたが、まだまだ革命の入り口にも立てていません。負担を先送りして過剰な福祉を受けている世代を黙らせることができなければ、革命とは言えないんです。

 

若い世代の政治家が超党派で年金システムを抜本改革しなければなりません。残念ながら、今の30代以上の人達は、政治から得るものは全く無いことを覚悟しなくてはなりません。20代以下の人達に、ババ抜きのババを何十枚も手渡さないで済むように、上の世代に少しでもババを押し戻し、自分たちの世代でいくつか 飲み込まなければならないのです。

 

我々の世代でも、子供のいない人にはもう実感としてこの悲惨さは伝わらないかもしれません。子育て中の主婦やサラリーマンに、この実態を知らせて回らなければなりません。自民だの民主だの、言ってる余裕は無いのではないでしょうか?

 

註1)実際にはこの他に、税収から補填される分があるので勤労者の負担はさらに大きくなります。

「静かな有事」の特集に期待します:iza

子ども手当を巡る議論が加熱しているようですが、様々なブログで意見交換がなされ、ずいぶんブラッシュアップされて来たと思います。

ブレーン・ストーミングといって、何かの議題について考えられる限りの問題点をみんなで出し合い、あとから拾い集める手法があります。ブログで様々な問題提 起があり、コメント欄で行ったり来たりするうちに、知らず知らずブレーン・ストーミングが行なわれているように感じています。

関連付けた記事では、子ども手当をめぐる賛否の意見が紹介されています。どれが正解というのでもないでしょうが、子ども手当が一概に悪い訳でもないことは全体を通じて理解できるでしょう。

 

何度も言って来たように、保守思想の持ち主から見れば子ども手当などとんでもない所得移転なのですが、税収40兆円の国で91兆円もの社会保障給付を行ない、そのうちの約7割が老人関係の拠出である以上、その歪みを修正できるのなら賛成、というのが私の立場です。

 

産経新聞の「静かな有事」取材班は、そこそこバランスのいい記事を書いてくれていると思います。多くの人が抵抗を感じるのは、裏付けの無い現金給付に日本人が慣れていないからでしょう。

 

経済学者の間では、間接的な所得再配分より現金給付のほうが政策として優れている、という合意があります。(下のリンク先の10番め)

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301175.html

つまり、政府が保育所を作って安く利用させるより、保育料を親に配って自由に使わせる方が優れている、ということです。まあ、アフリカの低開発国ならお金のために子供を抱えたり、貰ったお金を子供に使わないおそれもありますが、日本ではごく一部に限られるでしょう。

 

 

所得制限についての議論もありますが、経費をかけないできちんと制限できるんなら大賛成です。でも、以下の問題が解決できなければ不公平感が増すばかりでしょう。

 

  1. 日本は所得捕捉率が低く、間違った制限になりかねない(クロヨンの問題)
  2. 高所得者には年次によるバラツキの大きい人が多い(芸術家・スポーツ選手など)
  3. 見かけの所得は少なくても大企業の正社員は会社の福利厚生が手厚い
  4. 現状の扶養控除は高所得者に有利である
  5. 低所得で高資産の人、資産があるから遊んでいられる人には配るのか

 

こうした問題をクリアし、しかも行政経費をかけずに所得制限をするのはほぼ不可能ではないでしょうか。特に2番めの問題は少数ながら深刻で、たまたまある年度に高額所得を得ると翌年の社会保険料は膨大になります。減った所得からこれを払うことすら困難になる人もいるんです。

 

子ども手当から議論がそれましたが、単純に割り切れる物でないことがおわかり頂けるでしょう。

 

私も様々な政策を勉強する前は、農家への戸別補償も子ども手当もとんでもないバラマキだと思って来ました。しかし、今までの行政がいかに未熟で偏っていたかを知るにつけ、相当支持できるようになりました。

問題は、正しく使っていけるか、目的を明確にしているかであって、そこがブレブレの民主党にはやっぱり任せ切れないな、といったところです。

「静かな有事」の特集にはこれからも期待していきます。

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少子化を加速させたのは公的年金ではないか:iza

最近になって「少子化は有事」とまで言われ、イザブログでも活発な議論がされています。

 

私は、かねてから申し上げている通り、年金制度が少子化へのインセンティブになっていると思っています。

参照:出産は人生最大のリスク負担、子育ては人生最大の投資

 

 

 

簡単に因果関係を認めることはできませんが、年金制度の拡充と少子化の加速度が同じような軌道をたどっているように思うのです。

 

合計特殊出生率の推移:http://www.ipss.go.jp/syoushika/seisaku/images/03.gif

公的年金受給額の推移:http://nenkin-nenkin.biz/nenkin-kokuminnenkin/kokuminnenkin-sikyuugaku-suii.html

 

こじつけのように思われるかも知れませんが、「子どもがいなくても老後は安心」という意識が、「いま苦労して子どもを産み育てることにメリットを感じない」という意識を生んで来たんじゃないか、と思うのです。

 

こう言うとすぐに返って来る反論は、「子どもを利害損得で産んだり産まなかったりするのか」と言う、「お金より大事なものがある」論です。

 

それはもちろんその通りなのですが、実際出産と子育てをしてみれば、その経済的負担がどれほど重いかわかるだろうと思います。失われる機会費用は膨大です。

 

「子はかすがい」であり、円満な夫婦関係にも大いに貢献しますし、なにより子どもの育つ姿は将来への希望です。また、子どもへの躾は自分への躾になります。そういう意味で、子育ては人生最大の目的であり喜びでもあります。

 

しかし、それとは別の次元で、子どもが減って行くことに対する危機感を鈍らせて来たのが手厚い年金制度ではないかと思うのです。年金がなければ慌てて子どもを産むという訳でもないけど、年金が拡充するに従って「少子化なんて怖くない」という意識が広がったのではないかと思います。

 

それからこれは私が言い出したことではなく、ある政治家の口からも聞きましたが、相続税が過酷なために私的な介護が働かなくなって来ています。老人介護の問題は相続税の軽減でかなり解決するはずです。

 

子どもを育てても育てなくとも老後にはたっぷり年金がもらえる、親の介護をしても財産は没収、これが少子高齢化社会の公的負担を大きくした原因ではないかと思っています。

 

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出産は人生最大のリスク負担、子育ては人生最大の投資:iza

池田信夫さんが何回も説いているのが、解雇規制の緩和です。法令や判決で、社員の解雇を事実上不可能にしていると、企業は新たに社員を雇わなくなります。

 

解雇を自由にし、転職の障壁が低くなれば、雇用のミスマッチは労働市場の中で調整されます。だいたいにおいて、大学卒業時点で40年先までの勤め先を決める(終身雇用)と言うのが無謀な話じゃないでしょうか。

 

同じ理屈で考えると、今の日本人の平均的な人生の中でもっともリスクの高いのが、出産ではないかと思います。核家族化で両親とわかれて暮らす夫婦が、子ども を1人産めば20年先までの養育費と教育費(お金だけで無く手間も含めて)を自動的に負担させられるのですから、これは大きなリスク負担です。

 

リスクという言葉が適切でなければ、子育てはもっとも大きな投資である、と言い換えても構わないと思います。

 

昔なら子どもは5~6歳で下の子の子守りをし、10歳にもなれば家事労働だけでなく大人並みの仕事をする子もいました。もちろん出産のリスクもありましたが、人力が主な生産手段だった時代は、子どものできないリスクも高かったでしょう。(双方のリスク解消のために養子は普通に行なわれていました)

 

今は公的年金と国民皆保険のおかげで、子どもを育てなかった老人もそこそこの暮らしが保障されます。子どもを産まないリスク、育てないリスクが消滅したのです。

 

ある政治家が「子育てをしなかった女性が年金をもらうのはおかしい」旨の発言をしてこっぴどく叩かれました。表現の悪さなどは別として、これは年金制度のおかしさをついていると思います。

 

日本の年金は掛け金をあとで受け取る方式でなく、若い世代の掛け金を老人が受け取る方式です。

 

ですから、単純化すると(若い世代の人数)×(給料)÷(老人の数)で、受給額は増減します。老人の数が増え、若い世代の人数が減った場合、給料が飛躍的に上がらないと、年金は下げざるを得ません。

 

今は、制度の改変で老人の数を変えるという小手先の〝改革〟をしていますが、いずれ破綻するでしょう。年金だけでは暮らせない時代が来ます。

 

そのとき、子どもを沢山育ててきた人が、子育てをしなかった人と同じ扱いを受けるとしたら結果的に非常に不公平なことになります。

※運悪く結婚できなかった人や、欲しくても子どもができなかった人を非難する意図はありません。

 

今の子育て世代は、子どもへの教育投資がどこまで負担できるか、大きな不安を抱えています。現実に同世代で話していると、高校・大学まで面倒を見られるのは何人までとか、もうひとり欲しいけどさすがにお金の面で断念したなどという話を聞きます。

 

私は、今の年金制度を根本的に改めなければならないと思っています。

 

単純化すれば、老後の蓄えをお金の形で積むか、子どもへの教育に投下するか、という二者択一の方式になるべきです。(子どもの数にもよるので、実際には二者択一の何乗、と言うことになりましょうか?)

 

その上で、年金を公平に負担するという考えなら、子どもを持たない人は沢山の年金を掛け、子どもを育てる人の養育費に回すという発想も必要だと思います。

 

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新人類世代、3児の父です。
都内で建設業関連の商売をしています。

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