埼玉
2008年09月01日
ゼリーフライ
ゼリーフライは、埼玉県行田市で作られている郷土料理の一種。
標準的な作り方としては、おからと茹でた馬鈴薯を2対1の割合に、つなぎに鶏卵と牛乳を加えて混ぜ合わせ、コロッケのようにまとめるが、コロッケとは異なり小麦粉・鶏卵・パン粉による衣を着けないで素揚げしたものをソースにくぐらせたものである。いわゆる「おからフライ」の一種で、軽食として食べられることが多い。
主に行田市内の各地でスタンドやカウンター形式で売られている。なお、行田市内で単に「フライ」というと、これも行田独特の食品ではあるが全く別の食べ物となる。これはクレープとお好み焼きの中間的な粉食品なのに対し、ゼリーフライはおからとジャガイモの揚げ物で、まったく別々の食品である。
行田市持田の「いっぷく茶屋」(現在は閉店)の先々代の主人が、日露戦争に従軍した際に戦地で中国人から「野菜饅頭」なる食品の作り方を教わり、これをアレンジして作り出されたものである。近所の祭で屋台を出し、販売していた。明治末期からあるが、他の地域にまで普及はしなかった。
日露戦争の戦地において伝えられた料理であることから、ロシアの伝統料理であるピロシキが類似料理として指摘できるが、実際にピロシキをモチーフにしたものであるかは不明。
名称の「ゼリー」であるが、ゼラチンで固めた菓子の「ゼリー」とは関係ない(ゼリーを油で揚げると、轟音と共にゼリーが蒸発してしまう)。一説には、形状や大きさが小判に近いので「銭」が訛って「ゼニーフライ」から「ゼリーフライ」となったとも言われるが、詳しくはよく分かっていない。地元では縁起担ぎに「銭富来」と当て字をする店もある。
標準的な作り方としては、おからと茹でた馬鈴薯を2対1の割合に、つなぎに鶏卵と牛乳を加えて混ぜ合わせ、コロッケのようにまとめるが、コロッケとは異なり小麦粉・鶏卵・パン粉による衣を着けないで素揚げしたものをソースにくぐらせたものである。いわゆる「おからフライ」の一種で、軽食として食べられることが多い。
主に行田市内の各地でスタンドやカウンター形式で売られている。なお、行田市内で単に「フライ」というと、これも行田独特の食品ではあるが全く別の食べ物となる。これはクレープとお好み焼きの中間的な粉食品なのに対し、ゼリーフライはおからとジャガイモの揚げ物で、まったく別々の食品である。
行田市持田の「いっぷく茶屋」(現在は閉店)の先々代の主人が、日露戦争に従軍した際に戦地で中国人から「野菜饅頭」なる食品の作り方を教わり、これをアレンジして作り出されたものである。近所の祭で屋台を出し、販売していた。明治末期からあるが、他の地域にまで普及はしなかった。
日露戦争の戦地において伝えられた料理であることから、ロシアの伝統料理であるピロシキが類似料理として指摘できるが、実際にピロシキをモチーフにしたものであるかは不明。
名称の「ゼリー」であるが、ゼラチンで固めた菓子の「ゼリー」とは関係ない(ゼリーを油で揚げると、轟音と共にゼリーが蒸発してしまう)。一説には、形状や大きさが小判に近いので「銭」が訛って「ゼニーフライ」から「ゼリーフライ」となったとも言われるが、詳しくはよく分かっていない。地元では縁起担ぎに「銭富来」と当て字をする店もある。
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冷や汁
冷や汁(ひやしる、ひやじる)は日本の料理。宮崎県・埼玉県・山形県など日本の各所にて同名でそれぞれ別内容の料理や、別名ではあるが内容が類似している料理が存在する。起源は鎌倉時代の「鎌倉管領家記録」で、そこに「冷や汁」の記述が見られる。この「冷や汁」は僧侶によって全国に流布されたが、気候風土が適した地域のみに残ったとされる。
県西、県北、県央部や、さいたま市大宮地区辺りなど県内の各所で、夏の家庭料理として作られる。表記は「冷汁」で呼び名は「ひやしる」。川島町地域では「すったて」「つったて」と呼ぶこともある。他地区のものとは違い、ざるうどんのつけ汁として使われる。「冷汁うどん」として農山漁村の郷土料理百選に選ばれている。元は農民が夏の重労働を行う際、時間や食欲のない時でも充分な栄養補給や体力回復のために、簡単においしく食べられる生活の知恵として伝承されていた料理である。うどん以外に素麺を用いる事もある。近年は少なくなったが、農家や旧家などでお盆に親戚一同が会した時、宴席の締めに出されることが多い。
外食産業のメニューとしての冷汁うどんは加須市内にある加須うどん店「子亀」が発祥とされ、このメニューを扱う店舗も加須うどん店夏季全般や道の駅童謡のふる里おおとねのレストランに見られる程度であったが、2007年より川島町にて町おこしの観光資源として冷汁うどん(すったて)を活用するプロジェクトが発足し、町内の協賛飲食店にて夏季限定で食することができる状態になっている等広まりつつある。
県西、県北、県央部や、さいたま市大宮地区辺りなど県内の各所で、夏の家庭料理として作られる。表記は「冷汁」で呼び名は「ひやしる」。川島町地域では「すったて」「つったて」と呼ぶこともある。他地区のものとは違い、ざるうどんのつけ汁として使われる。「冷汁うどん」として農山漁村の郷土料理百選に選ばれている。元は農民が夏の重労働を行う際、時間や食欲のない時でも充分な栄養補給や体力回復のために、簡単においしく食べられる生活の知恵として伝承されていた料理である。うどん以外に素麺を用いる事もある。近年は少なくなったが、農家や旧家などでお盆に親戚一同が会した時、宴席の締めに出されることが多い。
外食産業のメニューとしての冷汁うどんは加須市内にある加須うどん店「子亀」が発祥とされ、このメニューを扱う店舗も加須うどん店夏季全般や道の駅童謡のふる里おおとねのレストランに見られる程度であったが、2007年より川島町にて町おこしの観光資源として冷汁うどん(すったて)を活用するプロジェクトが発足し、町内の協賛飲食店にて夏季限定で食することができる状態になっている等広まりつつある。
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塩あんびん
塩あんびん(しおあんびん)は、砂糖を用いずに塩で味付けした大福である。「あんびん」の漢字の記載は「塩餅」であり、「あんぴん」と呼ぶこともある。
加須市・久喜市など埼玉県北部で古くから食べられ、今日も一部の和菓子屋で売られている。貧しい農村で砂糖の代用として塩を用いたのがはじまり、という説もある。
加須市・久喜市など埼玉県北部で古くから食べられ、今日も一部の和菓子屋で売られている。貧しい農村で砂糖の代用として塩を用いたのがはじまり、という説もある。
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狭山茶
狭山茶(さやまちゃ)は、埼玉県入間市・所沢市・狭山市・飯能市・川越市・日高市・ふじみ野市・坂戸市・東松山市、更に東京都瑞穂町・武蔵村山市・東大和市・東村山市等で生産されているお茶である。埼玉県における農産物生産面積では県下一である。日本3大銘茶の一つとして『色の静岡、香りの宇治、味の狭山』と称され、高く評価されている。
茶の生産地としては北に位置し(日本最北限生産地は新潟県村上市)、冬季には霜が降りることもあるその涼しい気候により、厚みのある茶葉ができる。始まりは鎌倉時代で、武蔵国の狭山丘陵一帯、特に現在の埼玉県入間市を中心に栽培された。江戸時代には、狭山丘陵一帯の村々が川越藩領であったことから、河越茶と呼ばれていた。江戸中期に行われた武蔵野の新田開発により地域の特産物として栽培が普及し、産地も拡大したが、現在その多くは入間市で生産されている[1]。茶葉の摘み取りは年に2回行われ、一番茶は4月から5月、二番茶は6月から7月に出荷される。主要品種は「やぶきた」と「さやまかおり」である。
丹念に選りすぐられた新茶葉と、「狭山火入」という伝統の火入れが、江戸時代から変わらぬ美味しさの秘訣である。この火入れにより狭山茶特有の濃厚な甘味を得ることが出来る。手揉み茶の製法は「茶葉を蒸して焙烙に和紙を敷き、揉み乾かす」というものである。これは、享和2年(1802年)に吉川温恭、村野盛政、指田半右衛門らが編み出したもので、現在では、主に手もみ狭山茶保存会によって、保存活動が展開されている。
狭山茶の生産地は茶の生産地としては最も都市化が進んだ地域である。1960年代から生産地のほぼ全域が東京のベッドタウンとなり、人口が急増。相次いで住宅や商工業施設が建設される一方で茶畑は減少していった。埼玉県の茶の生産量も静岡県・鹿児島県・京都府など他の主要産地に比べかなり少ない。現在、入間市西部・南部には静岡・宇治等と同様の大きな茶畑が存在しているが、他の地域では住宅地の中に小さな茶畑が散在している風景がよく見られる。
周辺に住宅等が増えたことによる日照の問題や土地価格の高騰など、都市化によって他の生産地に比べ不利な面が生じた。一方で人口急増の結果、地元の需要が増えたため遠方に出荷する必要がなくなり、近郊農業として確立。都市化は経営上の利点ともなっている。また元来観光地でないため観光客向けの販売には頼っておらず、生産性の高い安定した経営・流通が実現している。
茶の生産地としては北に位置し(日本最北限生産地は新潟県村上市)、冬季には霜が降りることもあるその涼しい気候により、厚みのある茶葉ができる。始まりは鎌倉時代で、武蔵国の狭山丘陵一帯、特に現在の埼玉県入間市を中心に栽培された。江戸時代には、狭山丘陵一帯の村々が川越藩領であったことから、河越茶と呼ばれていた。江戸中期に行われた武蔵野の新田開発により地域の特産物として栽培が普及し、産地も拡大したが、現在その多くは入間市で生産されている[1]。茶葉の摘み取りは年に2回行われ、一番茶は4月から5月、二番茶は6月から7月に出荷される。主要品種は「やぶきた」と「さやまかおり」である。
丹念に選りすぐられた新茶葉と、「狭山火入」という伝統の火入れが、江戸時代から変わらぬ美味しさの秘訣である。この火入れにより狭山茶特有の濃厚な甘味を得ることが出来る。手揉み茶の製法は「茶葉を蒸して焙烙に和紙を敷き、揉み乾かす」というものである。これは、享和2年(1802年)に吉川温恭、村野盛政、指田半右衛門らが編み出したもので、現在では、主に手もみ狭山茶保存会によって、保存活動が展開されている。
狭山茶の生産地は茶の生産地としては最も都市化が進んだ地域である。1960年代から生産地のほぼ全域が東京のベッドタウンとなり、人口が急増。相次いで住宅や商工業施設が建設される一方で茶畑は減少していった。埼玉県の茶の生産量も静岡県・鹿児島県・京都府など他の主要産地に比べかなり少ない。現在、入間市西部・南部には静岡・宇治等と同様の大きな茶畑が存在しているが、他の地域では住宅地の中に小さな茶畑が散在している風景がよく見られる。
周辺に住宅等が増えたことによる日照の問題や土地価格の高騰など、都市化によって他の生産地に比べ不利な面が生じた。一方で人口急増の結果、地元の需要が増えたため遠方に出荷する必要がなくなり、近郊農業として確立。都市化は経営上の利点ともなっている。また元来観光地でないため観光客向けの販売には頼っておらず、生産性の高い安定した経営・流通が実現している。
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飯能焼
飯能焼(はんのうやき)とは、もと埼玉県飯能市に産した陶器。
生産されていた時期は、1830年(天保元年)〜1887年(明治20年)とされているが、正確な時代は調査中で判明していない。1888年(明治21年)につくられた『大日本陶磁器窯元一覧』では、前頭四十四枚目に「武蔵飯能焼」が記載されている。耐火性の強い生活雑器が中心。作風は、薄手の器で、絵柄を白絵土を絞って描かられている事を特徴とする。近年、復興が図られ幾つかの窯が設立し、作品が販売されている。 矢颪村、白子村、真能寺村(飯能市)で矢颪窯・白子窯・原窯などと呼ばれていて窯跡が存在し原窯の開窯以前に矢颪窯が存在したが創業及び廃業時期は記録が無く不明である。発掘資料によると矢颪のイッチン描きの模様のタッチと原窯の初期のタッチが同一人物が書いたのでないかと思われる。原窯は天保年間に双木清吉・双木八右エ門が焼き始め、その後子の双木新平、次は双木善七、そして最後の陶工双木佐七が明治20年に廃窯し1953年に没した。他に陶工は山本卯平となっているが明治になり侍を辞め飯能で焼物の商いを始めたようだ(山本家による)、絵付師には腰塚小四郎などがいた。現在、虎澤英雄、岸道生が飯能焼を復活させた。 飯能市八幡町(旧真能寺村)の原窯跡で近くの双木利夫があつめた飯能焼、およびその破片は双木本家飯能焼コレクションとして文化財に指定されている。
生産されていた時期は、1830年(天保元年)〜1887年(明治20年)とされているが、正確な時代は調査中で判明していない。1888年(明治21年)につくられた『大日本陶磁器窯元一覧』では、前頭四十四枚目に「武蔵飯能焼」が記載されている。耐火性の強い生活雑器が中心。作風は、薄手の器で、絵柄を白絵土を絞って描かられている事を特徴とする。近年、復興が図られ幾つかの窯が設立し、作品が販売されている。 矢颪村、白子村、真能寺村(飯能市)で矢颪窯・白子窯・原窯などと呼ばれていて窯跡が存在し原窯の開窯以前に矢颪窯が存在したが創業及び廃業時期は記録が無く不明である。発掘資料によると矢颪のイッチン描きの模様のタッチと原窯の初期のタッチが同一人物が書いたのでないかと思われる。原窯は天保年間に双木清吉・双木八右エ門が焼き始め、その後子の双木新平、次は双木善七、そして最後の陶工双木佐七が明治20年に廃窯し1953年に没した。他に陶工は山本卯平となっているが明治になり侍を辞め飯能で焼物の商いを始めたようだ(山本家による)、絵付師には腰塚小四郎などがいた。現在、虎澤英雄、岸道生が飯能焼を復活させた。 飯能市八幡町(旧真能寺村)の原窯跡で近くの双木利夫があつめた飯能焼、およびその破片は双木本家飯能焼コレクションとして文化財に指定されている。
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