神奈川

2008年09月05日

相模人形芝居

相模人形芝居(さがみにんぎょうしばい)は、相模国(神奈川県)に伝わる 3人遣いの人形芝居である。

江戸時代から明治時代にかけ、厚木を中心とする相模川流域、小田原を中心とする酒匂川流域、甲州街道沿いの津久井牧野などで活動があったが、現在は厚木市、小田原市、平塚市、南足柄市で活動が続けられている。

浄瑠璃に合わせて人形をあやつりながら演じる、江戸時代に近松門左衛門と竹本義太夫によって大いに発展した人形浄瑠璃の一つである。使われる人形は、胴体部になる肩板に首を差し込み、これに手と足を付け衣装を付ける。3人遣いとは、主遣いが人形の首と右手、左遣いが人形の左手、足遣いが人形の両足をあやつって演技するものである。江戸時代の中期に阿波の人形使いによって伝えられたといわれる。

厚木市の「林座」「長谷座」および、小田原市の「下中座」の人形芝居は重要無形民俗文化財に、また平塚市の「前鳥座」と南足柄市の「足柄座」については、神奈川県無形民俗文化財に指定されている。

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小田原提灯

小田原提灯(おだわらちょうちん)は、提灯の一種。


東海道の宿場町であった小田原では、旅人が携帯するのに便利なようにと、同地在住の職人・甚左衛門が、畳んだ時に胴の部分が蓋に収まるように作ったのが最初といわれる。

以下の特徴ゆえに、江戸時代に大人気商品となった。

・同じ直径のリング状中骨による蛇腹形状を持ち、折りたたんでの携帯がしやすかった。
・通常の提灯と異なり中骨が平たく、紙との糊代面積が大きいために剥がれにくく、雨や霧に強い。
・作業工程が簡単なため、安価であった。
・大雄山最乗寺の神木を一部材料に使い、狐狸妖怪に対して魔除けになると宣伝した。

毎年7月の第4土曜・日曜に『あかりの祭典小田原ちょうちん夏まつり』を行っている。


提灯の形を応用して、飲み終わった時畳んで小さく収納できるペットボトル『小田原ちょうちん・旅名水』を開発。 雑菌の混入により、一時期販売を見合わせていたものの、2005年4月より販売再開。


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神奈川の歴史

旧石器時代の遺跡は少ないが、概ね小規模ながら縄文遺跡は県内全域にわたって多く見られる。 弥生遺跡は少なく、小規模で質も劣る。これは、弥生文化の進出が後れたことを示すものと考えられる。 また古墳も概ね小規模で、出現は畿内に1世紀以上後れた4世紀の中頃ないし後半とされる。

5世紀前半には、在地土豪がヤマト王権に服属。相模川流域に相武(さがむ)国造、酒匂川流域に師長(しなが)国造、鎌倉・三浦付近に鎌倉別が任命された。534年には橘樹郡・久良岐郡に屯倉が設けられる。古代から中世にかけては、住人の中の富者が開墾地を広げ貢納物資の輸送にあたるなどしてさらに富裕となり、これを守るための自衛武力を蓄える。中央から相模・武蔵に派遣された役人の土着が相次いだ。相模国の国府は初め海老名に置かれ、後に移された。移転先の所在地は、はっきりしないが、大住郡や余綾郡にあったと言われる。延喜式内社としては足上郡に寒田神社、余綾郡に川勾神社、大住郡に前鳥神社、高部屋神社、高座郡に寒川神社(名神大社)などが鎮座する。

中世には鎌倉に初めて幕府が開かれ、武家政治の中心となる(鎌倉時代)。戦国時代には小田原を拠点とする戦国大名北条氏が興り、関東一円の覇権を握った。

江戸時代には小田原藩が存在したが、旗本領も多く、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が徳川家康から三浦半島に領地を拝領したことは有名である。

また、江戸時代初期には徳川家康が好んで鷹狩りを行い、小杉御殿(現在の川崎市中原区)、神奈川御殿(横浜市)、藤沢御殿(現在の藤沢市)、中原御殿(現在の平塚市)などの将軍滞在所が置かれた。これらの御殿の使用は、3代将軍徳川家光の代までおこなわれ一時すたれたが、8代将軍徳川吉宗の代に復活した。

江戸幕府は安政5年(1858年)の日米、日英通商条約(安政五ヶ国条約)で「神奈川」を開港場とすることを約したが、繁華な場所への外国人の雑居により攘夷騒動などのトラブルが起こることを懸念し、出入りの管理が容易で街道筋から離れた対岸の横浜村(現在の神奈川県庁付近)に開港場を開設した。これは条約違反であったが、幕府は横浜は神奈川に含まれると強弁した[6]。当初、欧米列国は条約違反を主張していたものの、この外交論争は間もなく終息する。横浜の港湾設備その他の施設が充実してゆくにつれて、神奈川宿は衰退し、横浜が発展し始めたためである。

安政6年(1859年)、安政五ヶ国条約に基づき開港場とされた横浜と近傍区域(神奈川宿、程ヶ谷宿、本牧、根岸など)の行政を担当する神奈川奉行が設けられ、神奈川奉行所が武蔵国久良岐郡野毛村(横浜市西区紅葉ヶ丘、神奈川県立図書館付近)に、関内の現在神奈川県庁が建つ位置(横浜市中区日本大通)には神奈川運上所(横浜税関の前身)が置かれた。神奈川奉行は横浜周辺の行政とともに、条約で「横浜から十里四方」とされた居留外国人の遊歩区域に関する事務も管掌した。慶応4年(明治元年)3月19日(1868年4月11日)に神奈川奉行所および神奈川運上所は新政府軍に接収されて横浜裁判所となり、次いで同年4月20日(5月12日)には神奈川裁判所に改称された。さらに、同年6月17日(8月5日)には神奈川府となり、同年9月21日(11月5日)の太政官布告で神奈川県に改称された[7]。半年余のうちに4度も機構変革・改称が行われたことになる。なお、神奈川県史では横浜裁判所が設置された慶応4年3月19日(1868年4月11日)を立庁記念日としている[8]。

設置当初の神奈川県は従前の神奈川奉行所・神奈川裁判所の事務を引き継ぎ、「六郷川(多摩川)と酒匂川の間、横浜から十里四方」の旧幕府領・旗本領の行政を担当するものとされた。概ね武蔵国の久良岐郡・橘樹郡・都筑郡および多摩郡の一部、および相模国の三浦郡・鎌倉郡・高座郡・大住郡・淘綾郡・愛甲郡に相当する。ただし、藤沢宿以西の東海道筋や相模川以西の諸村の一部事務を韮山県が担当したり、小田原藩や荻野山中藩、六浦藩(武州金沢藩)の管轄区域との調整などに関連して、現実の支配関係は錯綜している。

明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県の後、同年11月14日(1871年12月25日)の太政官布告による関東地方の府県の統合・再編で、神奈川県の管轄区域は武蔵国のうち久良岐郡・橘樹郡・都筑郡および相模国のうち三浦郡・鎌倉郡とされた。また、相模国のうち境川以西の高座郡・大住郡・淘綾郡・愛甲郡・津久井郡・足柄上郡・足柄下郡の区域は伊豆国全域とともに小田原に県庁を置く足柄県に属するものとされた。これに対して神奈川県は、高座郡および武蔵国多摩郡が外国人遊歩区域に含まれることから従前の通り神奈川県の管轄とするべきであるとの上申書を政府に提出し、これを受けて当初は東京府と入間県とに分割されることになっていた多摩郡全域と、足柄県に属することになっていた高座郡とが改めて神奈川県の所属とされた。ただし多摩郡のうち東京の市街地に近接する中野村ほか31村(現在の中野区・杉並区)は明治5年(1872年)8月に再度東京府へ移管された。この結果、多摩地域が神奈川県の管轄となり、相模川が足柄県との県境となった。

1876年4月18日には足柄県が廃止され、同県の旧相模国地域が神奈川県に編入された。旧伊豆国は静岡県に編入される。1878年、郡区町村編制法により県内に横浜区および久良岐郡・橘樹郡・都筑郡・西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡・三浦郡・鎌倉郡・高座郡・大住郡・淘綾郡・足柄上郡・足柄下郡・愛甲郡・津久井郡の15郡が編成された(東京府管内の多摩郡は東多摩郡となった)。1893年4月1日、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡が東京府へ移管され、現在の県域が確定する。その後1896年3月26日、郡制の施行に際して大住郡と淘綾郡が統合されて中郡となる。

近代には東京の外港都市となった開港場・横浜を中心に京浜工業地帯が形成され、商業・工業が発展した。

1923年9月1日の関東大震災(関東地震)では、小田原と三浦半島の直下が震源となったことから、大きな被害を受けた。また第二次世界大戦では、1944年以降、横浜市を始めとする沿海都市が空襲や艦砲射撃を受けた。


横須賀・三笠公園の記念艦「三笠」東京湾の入り口を制する横須賀市に置かれた横須賀港は戦前から日本海軍最大級の軍港であり、戦後もアメリカ海軍第七艦隊司令部や海上自衛隊自衛艦隊司令部が置かれている。また、座間市から相模原市に広がるキャンプ座間、綾瀬市・大和市・海老名市に跨る厚木海軍飛行場、相模原市の相模総合補給廠など、神奈川県には現在沖縄県に次いで多くの米軍関連施設が存在する。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の直後には各施設に厳戒態勢が引かれた。


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