石川

2008年09月10日

珠洲焼

珠洲焼(すずやき)は、12世紀後半頃から15世紀末頃に石川県珠洲市付近で生産された、中世の日本伝統風俗を代表する陶磁器のひとつ。古墳時代から平安時代にかけて焼かれた須恵器の技法を受け継いでいた。

約400年前、忽然と姿を消した珠洲焼を昭和52年珠洲市が復興した。

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白峰弁

白峰弁(しらみねべん)とは、石川県白山市旧白峰村で話されている日本語の方言である。北陸方言の一種。ジゲ弁・白峰ことばとも言う。

音韻は表日本的で、京阪式アクセント。文法や単語に古風なもの・特殊なものが多い。地区内でも白峰北部・南部、桑島東島・西島・山間部と違いが見られる。

白山麓旧5ヶ村中最も山深いところにあり、山一つ超えれば福井県という地点にある。昭和9年に発生した手取川大洪水では石川県側へ下りる道路が遮断され、いち早く援助物資を届けてくれたのは福井県の勝山市であった。

江戸時代は加賀藩でなく福井藩預かりの天領であった。廃藩置県後しばらくは本保県(福井県)に属していた。

旧白峰村は、牛首(うしくび=今の白山市白峰)・桑島(くわじま=今の同市桑島)の二つの大きな集落と山間部に点在した出作り集落(今は消滅)からなるが、牛首地区の住民は地域風俗上、自分たちの集落のことを「ジゲ」と言い、桑島のことを「シマ」と言った。「ジゲ」は漢字を当てると「寺家」であり、熱心な真宗門徒衆である地域柄(人口1,000人強の村に寺院が5つも存在する)が伺える。


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合鹿椀

合鹿椀(ごうろくわん)は、石川県柳田村合鹿地方の漆器椀のこと。

床に置いた状態で、食事が出来るように、通常より高台が高い特有の形で知られる。
室町時代ころから作られている。

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ごいた

ごいたは石川県旧能都町(現・能登町)の漁師町に伝わる伝統ゲームである。

ごいたは、将棋の駒に似たコマと盤を用いて行われる。

盤は適当な板でよく、普通は将棋盤や碁盤が使用される。

コマは将棋の駒と同じ形の物である。将棋のものとは違い裏に何も書かれておらず、「桂馬」は「馬」・「歩兵」は「し」と書かれている。構成も将棋とほとんど同じであるが、「し」のコマは10枚であり、全部で32枚である。

コマは手作りの物が多い。かつては、海が荒れて漁に出ることができないときに一週間くらいかけて作られていた。

コマをカードなどで代用することも可能である。

ごいたは4人で行われる。最初にコマを引いて2人の組を決め、同じ組の人が向かいになるように席を決める(この席順はコントラクトブリッジなどと似ている)。上位のコマを引いた組の一人が親となる。

盤上にすべてのコマを伏せて並べ、親から順に1枚ずつ取っていく。全員が8枚のコマを取ったら競技が始まる。

最初の親は手持ちのコマの1枚を伏せて置く。親が盤上に手持ちのコマを一枚出す。次の人は

出されたコマと同じコマを持っている場合、そのコマを出して新たな親となることができる。
同じコマを持っていない場合や持っていても出したくない場合は、「なし」と言って次の人に手番を回す。
親以外の3人が「なし」といった場合、親は手駒から1枚伏せて捨て、新しいコマを出すことができる。

このようにして手持ちのコマを減らしていき、最初にコマをなくしたプレイヤーのいる組が勝ちとなる。最後に出したコマによって得点が決まり、最終的に決められた点に到達した組が勝ちとなる。

王は特別なコマであり、親が飛角金銀馬を出したときにも出すことができる。


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石川県の歴史

県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡(灯台笹=とだしの)など、極めて少ない。続く縄文時代の遺跡では能登町の真脇遺跡や金沢市新保本町のチカモリ遺跡で、大量の木柱根が出土し話題となった。同遺跡で縄文後期風俗の祭祀施設らしい巨木を配置したウッドサークルが見つかっている。

県域は古くは越前国の領域に含まれていたが、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国守に赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。また823年には越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立国され、これが令制上最後の立国となった。

奈良時代から平安時代初期には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し、現・志賀町に渤海使接待のための能登客院も設置され、風習・風俗も栄え、交易も行われた。源平の戦いでは、木曽義仲が倶利伽羅峠で四・五百頭の牛の角に松明を付け、平家の陣に追い入れる「火牛の計」を用い平家をやぶり、京都に進んだ。室町時代には加賀の守護は冨樫氏、能登の守護は畠山氏であった。

応仁の乱のころ浄土真宗が加賀に進出、やがて農民らによる一向一揆が守護の冨樫氏を破り、武士の支配を脱却した統治が約100年にわたって行われた。これが、加賀地方が「百姓の持ちたる国」と呼ばれた所以である。本願寺は後の金沢城の位置に金沢御坊を作り、ここを拠点にして支配した。本願寺と敵対する織田信長は、柴田勝家らを派遣してここを平定し、能登を前田利家に、加賀を佐久間盛政に与えた。信長の死後、豊臣秀吉が実権を握ると、前田利家は加賀も領して、金沢に入城した。


関ヶ原の戦いで家康についた利家の息子、利長は越中全域も含め、約120万石を領する大大名となった。前田家は産業・工芸に力を入れ、城下町金沢は江戸末期には人口で日本4位の都市へと発展した。江戸時代に置かれた藩は金沢藩、大聖寺藩があり、城代の置かれたものに小松城がある。

明治維新後、廃藩置県で1871年7月14日に金沢県と大聖寺県が成立した。同年11月20日に金沢県と大聖寺県を廃止し、旧金沢県より射水郡以外の越中国の3郡を分けて新川県を設置、能登地方と越中国射水郡に七尾県を、加賀地方に金沢県を置いた。明けて1872年2月2日に、金沢県庁を石川郡美川町(現・白山市)に移し、この郡名より石川県と改称した。現在の県名はこれに由来する。なお、石川は古くから氾濫を繰り返し石ころ河原だった手取川の別名という説がある。県庁の移設は、旧加賀藩の影響力を弱めるための時の政府の方策等諸説あるが、公式には金沢では県域の北に寄りすぎであるためという理由であった。

同年9月25日に七尾県より射水郡を分け石川県に併合、11月に足羽県より白山麓11か村を併合し、現在の石川県と同じ県域となった。これにより、先の県庁移転の根拠が消滅し翌1873年に再び県庁は金沢に移転したが、県名はその後も石川県のままとされた。

その後、1876年に当時の新川県(現在の富山県にほぼ相当)、敦賀県(現・福井県)の嶺北地域を編入し、富山と福井に支庁を置いた(現在の石川県と区別する意味で「大石川県」と呼ぶことがある)。しかし、1881年に福井県が、1883年に富山県が、それぞれ分離して現在の県域となる。

2007年3月25日、能登半島沖を震源とする震度6強の能登半島地震があった。



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