奈良
2009年02月02日
三輪素麺
三輪素麺(みわそうめん)は、奈良県桜井市を中心とした三輪地方で生産されている素麺(そうめん)で、特産品となっている。三輪地方はそうめん発祥の地とも言われる。
伝説では大和三輪で、紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である、大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神の朝臣狭井久佐の次男穀主が創めて作ったとされる。
原料に小麦粉を使い極寒期に手延べ法により精製したもの。
腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを特徴とする。
製造から1年以上寝かしたものを『古物(ひねもの)』、2年以上は『大古(おおひね)』と呼ばれ珍重される。
伝統ある三輪では、昔はそうめんのランク(細さ)を上から●神杉(かみすぎ)…極細の最高級品、●緒環(おだまき)・・・神杉より少々太い高級品、●瑞垣(みずがき)・・・誉より少し細い高級品●誉(ほまれ)・・・通常の三輪そうめん、の大きく4つに区分していた。しかし、最近は各メーカーで独自に作成するそうめんの方が細くなり、この区分は不明確となっている。一般的には瑞垣(鳥居の金帯)、誉(鳥居の黒帯)という大まかな区分分けをされる。本来国内産の麦はグルテン量が少なく、細く作ることには不適なことから外麦が常態となった近現代で初めて今のような細さが実現できた、と考えるほうがよさそうである。
細さでは三輪そうめん山本の白髪・白龍、あるいは池利の蒼流の糸など、細さを極限まで追求したこだわり麺もある。ただし白髪・白龍などは長崎県でOEM生産しており、厳密には三輪そうめんと表示されていない。
伝説では大和三輪で、紀元前91年(崇神天皇7年)、大物主命の五世の孫である、大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その十二世の孫である従五位上大神の朝臣狭井久佐の次男穀主が創めて作ったとされる。
原料に小麦粉を使い極寒期に手延べ法により精製したもの。
腰のしっかりした煮くずれしにくい独特の歯ごたえと舌ざわりの良さを特徴とする。
製造から1年以上寝かしたものを『古物(ひねもの)』、2年以上は『大古(おおひね)』と呼ばれ珍重される。
伝統ある三輪では、昔はそうめんのランク(細さ)を上から●神杉(かみすぎ)…極細の最高級品、●緒環(おだまき)・・・神杉より少々太い高級品、●瑞垣(みずがき)・・・誉より少し細い高級品●誉(ほまれ)・・・通常の三輪そうめん、の大きく4つに区分していた。しかし、最近は各メーカーで独自に作成するそうめんの方が細くなり、この区分は不明確となっている。一般的には瑞垣(鳥居の金帯)、誉(鳥居の黒帯)という大まかな区分分けをされる。本来国内産の麦はグルテン量が少なく、細く作ることには不適なことから外麦が常態となった近現代で初めて今のような細さが実現できた、と考えるほうがよさそうである。
細さでは三輪そうめん山本の白髪・白龍、あるいは池利の蒼流の糸など、細さを極限まで追求したこだわり麺もある。ただし白髪・白龍などは長崎県でOEM生産しており、厳密には三輪そうめんと表示されていない。
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奈良漬け
奈良漬け(奈良漬、ならづけ)とは白うり、胡瓜、西瓜、生姜などの野菜を塩漬けにし、何度も新しい酒粕(さけかす)に漬け替えながらできた漬物である。
奈良漬けは、元々1300年以上も前より『かす漬け』という名で存在しており平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがある。なお当時の酒はどぶろくであったため、粕とは搾り粕ではなく酒の底に溜まる沈殿物のことであったようである。また当時は上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたという記録がある。
その後、奈良漬けは江戸時代に入り幕府への献上や奈良を訪れる旅人によって普及し、庶民に愛されるようになる。そして『奈良漬け』という名前に変わったのは、奈良の漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596年〜1615年)に名付けたからである。現在では一般名詞化し、奈良県以外で製造したものも奈良漬けと呼ばれる。
鰻の蒲焼きに奈良漬けの組み合わせは定番となっている。鰻を食べた後に口に残る脂っこさを奈良漬けが拭い去り、口をさっぱりとさせる効果がある。胃の働きを活発にし胸焼けを抑える、栄養面からも脂肪の分解やビタミンやミネラルの吸収を助けるなどの効果があるとされている。
なお、奈良漬けを多量に食べた後に自動車を運転すると、酒気帯び運転となる場合があるので、食後に運転する予定がある場合は注意する必要がある。ただし、アルコール健康医学協会によると、アルコール度数5%の奈良漬けの場合、約60切れ(約400g)もの量を食べなければ基準値に達しないということである。また、財団法人交通事故総合分析センターの実験によると、奈良漬け50gを食べた20分後に行なった走行実験では呼気中のアルコール濃度はゼロであり、走行にも影響を与えていない。酒気帯び運転で逮捕されて当初は「奈良漬けを食べた」と供述した事例でも、後の調べで飲酒していたことが判明している。
奈良漬けは、元々1300年以上も前より『かす漬け』という名で存在しており平城京の跡地で発掘された長屋王木簡にも「粕漬瓜」と記された納品伝票らしきものがある。なお当時の酒はどぶろくであったため、粕とは搾り粕ではなく酒の底に溜まる沈殿物のことであったようである。また当時は上流階級の保存食・香の物として珍重されていたようで、高級食として扱われていたという記録がある。
その後、奈良漬けは江戸時代に入り幕府への献上や奈良を訪れる旅人によって普及し、庶民に愛されるようになる。そして『奈良漬け』という名前に変わったのは、奈良の漢方医糸屋宗仙が、慶長年間(1596年〜1615年)に名付けたからである。現在では一般名詞化し、奈良県以外で製造したものも奈良漬けと呼ばれる。
鰻の蒲焼きに奈良漬けの組み合わせは定番となっている。鰻を食べた後に口に残る脂っこさを奈良漬けが拭い去り、口をさっぱりとさせる効果がある。胃の働きを活発にし胸焼けを抑える、栄養面からも脂肪の分解やビタミンやミネラルの吸収を助けるなどの効果があるとされている。
なお、奈良漬けを多量に食べた後に自動車を運転すると、酒気帯び運転となる場合があるので、食後に運転する予定がある場合は注意する必要がある。ただし、アルコール健康医学協会によると、アルコール度数5%の奈良漬けの場合、約60切れ(約400g)もの量を食べなければ基準値に達しないということである。また、財団法人交通事故総合分析センターの実験によると、奈良漬け50gを食べた20分後に行なった走行実験では呼気中のアルコール濃度はゼロであり、走行にも影響を与えていない。酒気帯び運転で逮捕されて当初は「奈良漬けを食べた」と供述した事例でも、後の調べで飲酒していたことが判明している。
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奈良茶飯
奈良茶飯(ならちゃめし)は、炊き込みご飯の一種で、奈良県の各地の郷土料理。江戸時代の川崎宿の名物料理だった。
少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものである。しじみの味噌汁が付くこともある。栄養バランスにも優れ、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。
元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。それが江戸や川崎に伝えられ、万年屋などで出されるようになったとされている。さらに十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に万年屋および奈良茶飯が登場したことで一層有名となり、万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う。
奈良茶飯
少量の米に炒った大豆や小豆、焼いた栗、粟など保存の利く穀物や季節の野菜を加え、塩や醤油で味付けした煎茶やほうじ茶で炊き込んだものである。しじみの味噌汁が付くこともある。栄養バランスにも優れ、江戸時代に川崎宿にあった茶屋「万年屋」の名物となった。
元来は奈良の興福寺や東大寺などの僧坊において寺領から納められる、当時としては貴重な茶を用いて食べていたのが始まりとされる。本来は再煎(二番煎じ以降)の茶で炊いた飯を濃く出した初煎(一番煎じ)に浸したものだった。それが江戸や川崎に伝えられ、万年屋などで出されるようになったとされている。さらに十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』に万年屋および奈良茶飯が登場したことで一層有名となり、万年屋は江戸時代後期には大名が昼食に立ち寄るほどの人気を博したと言う。
奈良茶飯
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2008年09月22日
法隆寺
聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされるが、確証はない。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれる。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。
法隆寺は「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解である。聖徳太子は謎の多い人物であり、20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反論も出されている。『<聖徳太子>の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。
現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。
法隆寺は「日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建した寺院である」とするのが、一般的・常識的理解である。聖徳太子は謎の多い人物であり、20世紀末頃からは「聖徳太子は実在しなかった」とする言説が盛んになっているが、これには反論も出されている。『<聖徳太子>の誕生』の著者である大山誠一は、超人的人物として信仰の対象となっている「聖徳太子」は架空の存在だとしながらも、「聖徳太子」のモデルとなった厩戸王という人物の存在と、その人物が斑鳩宮及び斑鳩寺を建てたことは史実と認めている。
現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。
fuzoku_master at 10:52|Permalink│
飛鳥鍋
飛鳥鍋(あすかなべ)とは奈良地方の郷土料理。鶏ガラの出汁とともに、牛乳を加えまろやかさとコクを加えるもの。具は普通の鍋料理と同じ。好みでネギやショウガを加えたり、片栗粉を水で溶かして加えて、汁に少しとろみを加えて食べることもある。
fuzoku_master at 10:49|Permalink│