岩手

2008年12月19日

みちのく国際ミステリー映画祭

みちのく国際ミステリー映画祭 (Michinoku International Mystery Film Festival) は、岩手県盛岡市で1997年から2006年まで開催されたミステリーをテーマにした映画祭である。

日本・アジアの映画が中心で、「新人監督奨励賞」と「角川オフシアター・コンペティション」の2つのコンペティションがあり、毎年10月(1997年と1998年は6月開催)に開催された。第10回まで開催されたのを一区切りとし、2007年年度からは「いわて盛岡映画祭」と名称変更して、ミステリーの枠にとらわれない新しい映画祭へ継承されることとなった。

さらに2008年は、「もりおか映画祭」と再改称して開催されることとなった。

「映画を愛する街」盛岡で映画祭を開こうとの気運が、地元在住のミステリー作家(高橋克彦・中津文彦・斎藤純)や映画愛好者の間で高まり、地元マスコミや映画関係者の協力を得て1997年6月に第1回映画祭を開催し、以降毎年映画監督・俳優・作家などのゲストを迎えて開催された(第1回と第2回は6月開催、第3回以降は毎年10月開催)。イラスト・デザインは、和田誠(第6回から)。

主催・みちのく国際ミステリー映画祭実行委員会、支援・文化庁、助成団体・盛岡市、特別協力・仏コニャック国際ミステリー映画祭協会、オフィシャルスポンサー・角川書店、オフィシャルドリンクパートナーズ・キリンビール岩手支社など。


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南部鉄器

南部鉄器(なんぶてっき)は、岩手県盛岡市、奥州市で作られる鉄器。北上川沿いの両地域では、鉄などの材料が豊富にある。1975年には伝統工芸品に指定された。

南部鉄器と総称されているが、盛岡の南部鉄器と、水沢の南部鉄器の歴史は異なる(明治・大正の南部鉄器以降は、共通で著す)。

盛岡の南部鉄器
盛岡の鋳物は、始まりが慶長年間(1596年-1615年)の盛岡藩主南部氏が築城の頃といわれている。それからは、歴代藩主庇護の下、育まれてきた。盛岡の南部鉄器の歴史は、有坂家、鈴木家、藤田家、釜師小泉家の歴史とも言える。藩の鋳物の受注はこの4家がほぼ担っていたためである。


有坂家
初代は京都の人で、7代目のとき甲州に、13代目ときに、盛岡に移住してきた。


鈴木家
甲州から1641年(寛永18年)に、藩に召し抱えられた鈴木縫殿家綱を祖とする。製造したのは梵鐘や燈籠などの大作が知られていて、幕末には大砲も製造している。1646年(正保3年)には盛岡城の時鐘も製造しており、当時、藩随一の鋳物師だったことがうかがえる。これは、後に花巻城に移されるが今も現存している。


藤田家
甲州の出で、2代目から盛岡に移住。鍋類を主に製造し、その品質の良さから「鍋善」と呼ばれ、後に藩に召し抱えられた。


小泉家
藩主が茶の湯を好んだことから、1659年(万治2年)に召し抱えられ、茶釜を製作する。祖は京都出身の小泉五郎七清行といわれている。本業は茶釜だったが、現在も残る1679年(延宝7年)の時鐘を始めとする多くの製品に名を残している。このことから、藩から重用されていたと考えられる。

また三代仁左衛門は南部鉄瓶の創始者と伝えられ、四代仁左衛門は、大砲鋳造の技術を江戸で学んだ。


水沢の南部鉄器
平安後期に、豊田館(とよたのたち、藤原経清の居館。場所には諸説あるが、豊田館跡擬定地として、奥州市江刺区岩谷堂字下苗代沢が挙げられている)にいた藤原清衡が近江国(滋賀県)より鋳物師を招いて始めた。これが、次第に南下して水沢に伝わったと語り継がれている。中世の鋳物師は「歩き筋」と呼ばれるように、必要に応じて地域を転々することが常である。需要主である清衡が平泉に移ると、彼らも一緒に移ったが、一部が残り鋳造を続けた、と言われているが根拠はない。

しかし、この時期に平泉に鋳物師がいたことは疑いもなく、奥州藤原氏の時代の遺跡からは鋳型が出土している。藤原氏以降は、日用品を鋳造し、細々と継承していた。

水沢に鋳物師が定住するようになったのは室町時代初期で、黒脇千葉家がその始めだったといわれている。

そうして、江戸初期には地域に鋳物業が定着していく。1683年(天和3年)に鋳物業を興した及川喜右衛門光弘という人が、中興の祖と讃えられている。以後、仙台藩の庇護を受け、鉄鍋、鉄釜を中心に、仏具なども生産し、幕末には大砲も鋳造している。


明治・大正の南部鉄器
盛岡、水沢とも、盛岡藩、仙台藩の庇護の下、発展してきたが、この後ろ盾が明治維新により消え去り、衰退を余儀なくされる。しかし、生産と流通の体制が整い、展覧会にて入賞するなど名声を高まると、各地からの注文が増える。さらには、1890年(明治23年)の東北本線開通と相まって(盛岡、水沢とも、これに接していた)一気に販路拡大となった。

明治末には、再び停滞気味になるが、1908年(明治41年)の皇太子(後の大正天皇)東北行啓の際、八代小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演して見せて話題を呼んだことをきっかけに、県や市を挙げての取り組みが始まる。

1914年(大正3年)には、旧盛岡藩主南部利淳が「南部鋳金研究所」を開所。人材育成にも貢献した。


昭和・平成の南部鉄器
次第に戦争の足音が聞こえ始めると、鉄の素材とその技術は兵器に利用されるようになる。戦時体制により「銑鉄物製造制限規則」が施行され、平和工作物の製造が禁止された。武器製造を第一とされ、150人いたといわれる職人のうち、わずか16人の生産しか許されないことになる。

終戦後は、アルミニウム製などの軽い製品に押され、需要は減り、衰退する。それに対し、デザインを新鮮にしたり、新製品をもって対抗した(例えば、熊避けの鈴を作ってみたりなど)。最近では、海外への輸出用に鉄瓶に色を付けることなどもしている。また、昨今の健康ブームに乗って、南部鉄器で調理すると鉄が摂れるとのことで、復調の兆しが見えている。


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台焼

台焼(だいやき)は岩手県花巻市で焼かれる陶磁器。花巻温泉郷の一角、台温泉近辺にて焼かれる。

草創は明治中期で、地元の山に陶土を発見した杉村勘兵衛が開窯。彼は温泉水を使って陶土の鉄分を沈澱させ、混ざり物のない白磁を作ることに成功した。その後、杉村は自分の経営していた温泉を売却、その金を陶芸の研鑽に注ぎ込んだ。昭和に入ると陶器も焼かれるようになり、台焼は温泉名物として人気を呼び、近辺旅館の土産物として広く親しまれた。だが、大産地に圧され徐々に衰退。後に伝統的な台焼を守るため、県の窯業試験所に隣接する形で生産が続けられた。現在は有限会社台焼として営業を行っている。

台焼の特徴はやや鈍色の白い器肌であり、それに染付や釉薬を用いて意匠を作る。特に染付磁器は東北地方では珍しく、作品には菊花、唐草模様などがある。近年は陶器が主流であり、主に海鼠釉で彩りを添える。決して飾らない作りで、いかにも民芸品らしい趣がある。

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諸賞流

諸賞流(しょしょうりゅう)は、盛岡藩で伝えられてきた古武道の流派。柔術、剣術、縄術からなる。蹴り技と肘打ちが中心の特異な内容の柔術を伝えることで知られる。現在も岩手県盛岡市で伝承されており、昭和54(1979)年8月1日、盛岡市指定無形文化財の指定を受けている。

当流の伝承によると、遠祖は藤原鎌足で当初は狐伝流と称し、その150年後、伝承が絶えようとした時に坂上田村麻呂が流名を観世流と改めて復興させ、鎌倉時代、源頼朝が主催した相撲大会で観世流二十七代の毛利宇平太国友が活躍して源頼朝より称賛され、並み居る諸侯が称賛(賞賛)したという意味で、以後、諸賞流と名乗るよう申し渡された、と伝えられている。

この伝説に依拠して、当流の系譜では毛利宇平太国友を観世流27代、諸賞流初代としている。

諸賞流が盛岡藩に伝わったのは、諸賞流21代(観世流47代)岡武兵衛庸重の代である。 岡武兵衛庸重は盛岡藩で医業の家に生まれたが、武芸を好んで諸国を巡り多くの武芸を学んだ。 その際、鎌倉に隠棲していた石田辰之進定政より諸賞流を学んで印可を受けた。 後に岡武兵衛庸重は盛岡藩へ帰り、当時の盛岡藩第6代藩主・南部利幹に召抱えられ、盛岡の地で諸賞流が伝承されるようになった。


盛岡藩内御留め武術 古武道 諸賞流「和(やわら)」について

諸賞流のページ

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2008年08月23日

前沢牛

岩手の名産物の1つに前沢牛(まえさわぎゅう)がある。

前沢牛は岩手県奥州市で肥育される黒毛和種の和牛。

岩手県では古くから牛の飼育が盛んであったが、主に農業の労働力を補う家畜という要素が強く、生産規模も零細農家が多かった。しかし、1970年代から徐々に肉牛としての生産が活発化し、1980年代には全国肉用牛枝肉共励会にて名誉賞を獲得。

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