2009年02月09日

臼井時雄ですが♪

僕のブログへようこそ!
当人の口から元九州辺で運動に関係していたことがあると云われているばかりで、誰も確実な身元や経歴を知らなかった。いつの間にか診療所へ出入しはじめ、組合の活動に人手が足りなくなって来たら、これもまたいつの間にか、書記局の手伝いのようになった。二十四五の、後姿を見ると肩の落ちたような感じの小柄な男であった。
 ひろ子は、あんまり人嫌いしない性質であったが、この臼井がニュースなど持って来て、喋るでもなく、子供らと遊ぶでもなく、その辺を愚図愚図して自分たちの立居振舞を見ていられると、背中がむずついて来るような居心地わるさを感じた。いつになっても本能的に馴染(なじ)むことの出来ないところがあって、ひろ子に一種の苦しい気分を起させるのであった。臼井の云うことにはちぐはぐなこともあった。
 或る席で、ひろ子が臼井に対してもっている否定的な印象を述べた時も、大谷は例によって目を盛にしばたたき、口を尖らすようにして、あぐらをかいた膝の前でバットの空箱を細かく裂きながら注意ぶかく傾聴はしたが、決定的な意見は云わなかった。最後に頭を上げ、
「――調査する必要はあるね」
と云った。市電のことが起ってから、大谷は応援活動の方面での責任者となり、忙しさにまぎれて調査もおそらくそのままなのだろう。臼井のことを云うひろ子と大谷との心持の間には、それだけのたたまって来ているものがあるのであった。
 大谷は、土間に落した吸い殼を穿(は)き減らした下駄のうしろで踏み消しながら、
「――じゃ頼みました、八時に、山岸、ね」
どうでした?!またきてくださいね★

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2005年12月24日

と戸をひくようにした。

「駄目、駄目。こっちを先へもち上げなけりゃ」
 戸があくと同時に一またぎで大谷が土間に入った。
「なるほどこれじゃ骨が折れる。却って用心がいいようなもんだね」
 そして、持ち前の毒のない調子で目をしばたたきながらふ、ふ、ふ、と笑った。
「どうしたの、今時分」
「急に頼みが出来たんだがね」
「何だか音がしたと思って見てるのに、すぐ顔を出さないんだもの」
「失敬、失敬」
 大谷は首をすくめるような恰好をして笑いながら、
「しょんべんしてたんだ」
 低い声で云って舌を出した。

 大谷の用事は、ここから明朝誰か柳島の組会へ出てくれというのであった。強制調停に不服なところへ馘首(かくしゅ)公表で、各車庫は再び動揺しはじめているのであった。
「八時に、山岸って、支部長ですがね、その男を訪ねて事務所の方へ行けばいいことになっているんだ。突然ですまないけれど――頼む、ね!」
 ひろ子は、髪を編下げにし、自分に合わせては派手な貰いものの銘仙羽織を着て揚板のところにしゃがんでいるのであったが、
「――困ったナ」
とバットに火をつけている大谷を見上げた。
「――亀戸の方から誰かないかしら。こっちは飯田さんが広尾へ出るんです」
「あっちは臼井君にきいて貰ったんだ。錦糸堀があるんだそうだ」
「――あのひと……ききに行ったのかしら……」
 妙な工合ににやつきながら、大谷を見つめるひろ子の視線をまともに受け、大谷は煙草を深く吸いこみながら何か前後の事情を考え合わせる風であったが、
「いや、行ってるだろう。……行ってるよ」
 確信のある言勢で云った。


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2005年12月22日

 夜露に濡れたトタンが

月に照らされている、平らに沈んだその光のひろがりが、ひろ子の目をとらえた。見えないところで既に高く高くのぼっている月の隈(くま)ない光は、夜霧にこめられたむこうの原ッぱの先まで水っぽく細かく燦(きら)めかせ、その煙るような軽い遠景をつい目の先に澱(よど)ませて、こわれた竹垣の端に歪んで立っている街燈が、その下に転(こ)ろがっている太い土管をボンヤリと照し出している。夜霧にとけまじった月光と、赤黄く濁った電燈の色とは、そこで陰気な影を錯雑させている。
 貧しく棟の低い界隈の夜は寝しずまっている。ひろ子はそのまま雨戸をしめようとしたら、こっちの庇の下からいそいで男が姿を現した。足より先にまず顔をと云いたげに体を斜(はす)っかいに運んで二階の窓を振仰ぎながら、手をふった。細面の顔半面と着流しの肩に深夜の月は寒そうで、ひろ子は窓の奥から眼を見はったが、
「なアんだ!」
 お前さんだったのかという声を出した。それを合図に待っていたらしく、寝床に起き上っていたタミノが手をのばして、電燈をひねった。俄(にわか)の明りで、タミノは眠たい丸顔を一層くしゃくしゃさせた。
「大谷さん?――何サ今ごろんなって」
 寝間着の前をはだけ、むっちりしたつやのいい膝小僧を出したまんま腹立たしそうに呟いた。
「用事だったらまた起すから寝てなさい、よ、風邪ひくわ」
 片隅によせあつめものの古くさいテーブルなどが置いてある三畳の方から、急な階子段がむき出しに下の六畳へついている。ひろ子は暗がりの中を手さぐりでそこの十燭をつけ、間じきりの唐紙ははずしてある四畳半をぬけ、流しの前へ下りた。節約で、台所の灯はつけてない。水口の雨戸の建てつけが腐っているところをコトコトやっていると、外から少しじれったそうに、
「――どれ」


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2005年12月21日

泥棒とも思えなかったが

ひろ子の気はゆるまなかった。九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。ひろ子にはまた別の不安もあった。家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。御嶽山お百草。そういう看板の横へ近頃新しく忠誠会第二支部という看板を下げた藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった。脅(おど)しでなく、本当に畳をはいで、借家人をたたき出した。
 四五日前にもその藤井がここへやって来た。藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった襦子(しゅす)足袋の足を片組みにして、
「女ばっかりだって、そうそうつけ上って貰っちゃこっちの口が干上るからね。――のかれないというんなら、のけるようにしてのかす。洋服なんぞ着た女に、ろくなのはありゃしねえ」
 いかつい口を利きながら、眼は好色らしく光らせた。スカートと柔かいジャケツの上から割烹着(かっぽうぎ)をつけ、そこに膝ついているひろ子の体や、あっち向で何かしているタミノの無頓着な後つきをじろり、じろり眺めて、ねばって行った。いやがらせでも始めたか。畜生! という気もあって、ひろ子は六畳の小窓を急に荒っぽくあけて外を見おろした。


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2005年12月20日

乳房

  一

 何か物音がする……何か音がしている……目ざめかけた意識をそこへ力の限り縋(すが)りかけて、ひろ子はくたびれた深い眠りの底から段々苦しく浮きあがって来た。
 真暗闇の中に目をあけたが頭のうしろが痺(しび)れたようで、仰向きに寝た枕ごと体が急にグルリと一廻転したような気がした。寝馴れた自分の部屋の中だのに、ひろ子は自分の頭がどっちを向いているか、突嗟(とっさ)にはっきりしなかった。
 眼をあけたまま耳を澄していると、音がしたのは夢ではなかった。時々猫がトタンの庇(ひさし)の上を歩いて大きい音を立てることがある、それとも違う、低い力のこもった物音が階下の台所のあたりでしている。
 ひろ子は音を立てず布団を撥(は)ねのけ、裾の方にかけてある羽織へ手をとおしながら立ち上った。染絣(そめがすり)の夜着の袖が重なるぐらいのところに、もう一人の同僚の保姆タミノが寝ている。足さぐりで部屋の外へ出ようとして、ひろ子は思わずよろけた。
「なに?……あかりつけようか?」
 タミノは半醒の若々しい眠さで舌の縺(もつ)れるような声である。
「……待って……」


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2005年12月19日

彼女の心の前には

、「奕々(えきえき)たる美」に、燦然と輝きながら、千年の地下の眠りから呼び覚まされたアフロジテの像に、静かな表情でコンパスと定規をあてて
「……私は切に知りたいのですから……」
と云った人の姿が尊く浮み上った。ほんとに、舌を持つほどの者は、「知りたいのです」という言葉だけは知っている。
 彼女は、知らなければならない欲に燃えた。そして、彼女の知る最上の手段で、僅かずつもそれは、満たされつつあるのである。
 あの、「地下を流れる河」は、もちろん、その反響さえも、彼女までは伝えないけれども、彼女が永い間、鼓舞され、愛護されていると思った、「守霊」は違った解釈を与えられなければならなくなった。
 第一に、守霊は、その名が示しているような任務を負わさるべきではなかった。
 個人的に自分の霊の番をしているような、そんな狭小なものではないことが、少し分って来たのである。
 若し名をつけられるなら、それは、神という言葉の広義な場合が適当であろう。自分が、努力し、自分の力でその力のうちに、滲透して行きさえすれば、どこまでも拒むことなく入れてはくれる。けれども、自分が死ぬべきときがくれば、その同じ力は、自分を間違うこともなく、取りのけにもせずに死なせるだろう、自分がどんなに惨めらしい敗亡に陥っても、その同じ力は静かに、また次の来るものを迎えるほど、それほど、大きく、広いものであるらしいことを彼女は、感じたのである。
 そして、ごくごく微かだけれども、
「主与え給い、主奪い給いぬ、主の名に祝福あれや」
と云ったジョッブの心持と、
「主よ、汝の愛するもの病めり」
という文句のうちに籠っている心持とを感じられるような心持がした。
「主よ、汝の愛する者病めり……」


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2005年12月18日

彼女は、惨めな乞食に

一銭投げ与える年寄りは、永い年月に向って彼に定職を与える者より、無智な愛情の所有者であることは知っていただろう、けれども、人間にとって、最も多方面な発動の可能を持つ愛情は、それが力強くあればあるほど、無智にも傾きやすい素質を持つことを、自分から放射される愛情について考え合わせていなかったことが、いろいろな失策を産む原因であったことを、今ようよう、ほんとに今ようよう、ごく僅か覚ることが出来たのである。すべての自分の持つ才能と同じに――否、すべての才能より真先に、愛は最高の練磨を受けなければならないはずであったことを、からくも今知ったのであった。
「宇宙に対する完全なる知と、神に対する完全なる愛とは同一不二である」
 という言葉を読む。まったくそうであろう[#「あろう」に傍点]。そうであろう[#「あろう」に傍点]という心持を一層強められる――
 そうあるべきものだが、自分には分らない。自分のものになるものは、まだあまり遠い彼方にある、
 という心持である。神の愛とは何か。
 神の愛とは何か、人類の愛とは何を意味しているのか、
「非常に深い河は地下を流れる」
という同じ人の格言通り、彼女の霞んだ、近眼が見るには可哀そうなほど、深い深い奥にその解答はあるのである。
 彼女は、おぼろながら、それを自覚した。もう言葉の、魅力や完全さは望まない。それを自分の胸に感じ、魂に知り、ちょうど疲れたとき、一瞬の虚無に脳を休めるため知らず識らず深い欠伸(あくび)をするように、必要であり、適当である場合には、知らず識らず、自分の中から溢れ出すものとなりさえすればよいのである。
 人類の愛、神の愛。それは自分が、自分達すべての仲間に感じなければならない生活の根本になる理解であり、万物の生死を司り、この惑星の微妙な運行と変化とを支配している力への、持つべき根本の理解である。
「夢ではない。物語りの幻でもない」
 汝の、曇らざる眼を見開け!


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2005年12月17日

「自分は、彼等を愛した

それは確かである」
けれども、その愛が不純であり、無智であり、近眼であったからこそ、こういう失敗は来たされた。それは否定出来ない。
「それなら、ほんとの愛情、ほんとの愛情に到達する段階は何か」

 第一頁に書かれた、その文句と向い合いながら、彼女は、黙然とせずにはいられなかった。
 ほんとの愛……ほんとの愛……
「我々の眼で見えるもので我々の愛を受ける価値のないほどに小さなものは一つもない」
                         メーテルリンク
という言葉に、朱線を引き、感激した彼女は、今、その感激はちょうど、小さい子供が、頭の上の空で、美くしく拡がる花火の光りを、喝采(かっさい)しながら
 綺麗だなあ、綺麗だなあ
と賞揚すると、あまり大差ない程度の心の状態において、朱線を引かれ、感歎されたのだと思わずにはいられなかったのである。
 言葉の中には、非常に人の心を訳もなく動揺させる力を持っているものがある。
 人類を抱擁する愛。人類の解放。
 これ等の言葉は、言葉の箇々の響を知り、意味を知っている程度の者の心には、何となく崇高な、偉大な「感じ」を伴って来る。その「感じ」はどんなものだか分らないが、幾度も云ってみたいような何ものかがある。その何ものかに動かされて、響きばかりが、いつの間にか大切な、大切な、なかみを振り落したまま、恐ろしいくらい広い空間で、喧かましく鳴らされる。その響きに、自分の心も、フラフラと共鳴りを感じたのではあるまいかということが、彼女にとっては非常な恥かしさである、不安なのであった。
 寛容とか、謙譲とかいう言葉に、自分はホーッとなってしまわなかったか。
 人を愛することを知る自分に、自分から酔ってしまいはしなかったか。
 第一の詰問には、断然と、そうではありませんと云える彼女も、その次の前へ来ては、躊躇を感じさせられた。少くとも、「けっして」、そうでは、ありませんとは云えない何ものかが、心の奥にあったことを思い出さずにはいられなかったのである。
 親孝行というものが、ただおとなしく、親達の命令のままに暮して行くことではないということを知ると同じように、自分は自分の愛情――彼等への同情のうちに、理智の照り返しを与えただろうか。


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2005年12月16日

彼女は確かに失望もし、

情けない恥かしさに心を満たされもした。
 けれども、極度な歓喜に燃え熾った感情が、この失策によって鎮められ、しめされて、底に非常な熱は保留されているが、触れるものを焼きつける危険な焔は押えられた今、まったく思いがけないもの――静かに落着いて、悲しげな不思議な微笑を浮べながら、
 まあ、まあ落着きなさい。え、落着きなさい。
と囁くもの――を、自分の心の中に感じたのである。それは、あの守霊でもなかったし、神様でもなかった。まして、感情が戯れに見せる空想でもなかった。
 幾重にも幾重にも厚く重り、被い包んでいた感情が燃えぬけた僅かの隙間から、始めてほんとの理性が、今、静かな動ぜぬ彼の姿を現わしたのである。
 まあ落着きなさい、それからとっくりと考えてみなさい……
 彼女は、上気(のぼ)せていた頭から、ほどよく血が冷やされるのを感じた。そして、非常にすがすがしい、新らしい、眼の中がひやひやするような心持になった彼女は、もうまごつかなかった。あっちこっちへ、駈けずりまわる周章から救われた。理性の出生は遅すぎたかもしれないが今現われてくれたことは、ほかのどのときにおいてよりも、彼女にとって幸福な、ほんとに役立たれる場合であったのである。
 彼女は微かに、自分の性格が、根本的にある変化を与えられようとしていることに気が附いた。
 自分としては、この失敗とこの理性の目覚めを伴わなければ開かれなかったと思われる方へ、非常に非常に僅かではあったが望みを見出した彼女は、或る意味においての感謝をさえ感じながら、二冊目の帳面の扉へ
 求めよ、さらば与えられん。
と、丁寧に書きつけた。そして、反抗や焦燥や、すべてほんとの心の足並みを阻害する瘴気(しょうき)の燃(た)き浄められた平静と謙譲とのうちに、とり遺された大切な問題が、考えられ始めたのである。


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2005年12月15日

まったく。悲しき親友よ!
「私はきっと今に何か捕える。どんな小さいものでもお互に喜ぶことの出来るものを見つける。どうぞ待っておくれ」
 彼女は、否でも応でも、彼等に向って別れの手を振らなければならなかった。
 が、何かを捕えようとして延した片手の方角には、いったい何があったろう。
 失敗した計画が、しおしおとうなだれて行くあとについて、これこそ自分の一生を通じてするべき仕事だと思われた確信が、淋しい後姿を見せながら、今までより一層渾沌とした、深い深い霧の海の中へ、そろそろと彼の姿を没してしまうのばかりが見られる。
 そして、目前には、遺されたいろいろの問題――ほんとの愛情、善悪の対立の可不可――が、黒く押し黙って、彼女の混惑した心に、寒い陰をなげたのであった。
「私は、私の全部において失敗してしまった。大変悲しい。恥かしい思いに攻められる。そして、なおその上、失敗した思想以上に、一分も進んではいない頼りなさ、不安を感じずにはいられない。けれども、
 神よ我に強き力を与へ給え……。
 私は決して絶望はしない。絶望してはいられない。真面目な科学者は、彼の片目を盲(めしい)にした爆発物を、なお残りの隻眼で分析する勇気と、熱愛と、献身とを持つ」


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