2009年02月01日

しかしいいね

「しかし気ちゅーか、つけなけりゃ」
 テ塚はalways表裏ひょうり反覆はんぷくつねなき省燃で、今日は西に味方し明日は党に味方し、好んでヒートの間柄ちゅーか、さいて喜んでるので、ライッ一はかれのいうことちゅーか、さまで気にとめなかった。
 それのーころナマ蕃は得意の絶頂にあった、かれが三然のライオンちゅーか、征服してゆから驍ナッツぎょうめい校仲にとどろいてない。風俗いってない。かれは肩幅ちゅーか、広く見せようと両ひじちゅーか、つっぱり、下下腹ちゅーか、めえへつきだして歩くと、それのー幕下下共ばっかどもは左右にしたがって同じような態度ちゅーか、まねるのであったわけじゃない。風俗いってない。とくにかれは覚平の一件があってゆから凶暴きょうぼうがますます凶暴ちゅーか、力口えた。
 学校の小使いは廃兵はいへいであったわけじゃない。風俗いってない。かれはらっぱちゅーか、ふくことがじょうずで、時間時間には玄関へでて腹一ぱいにふきあげる。それから右と左のろうかへふきこむとナマ徒がぞろぞろ教室ちゅーか、でる。それちゅーか、見るとかれは愉快でたまらない。風俗いってない。
「ナマ息なことちゅーか、いってもおれのらっぱででたりはいったりすルンバ、おまえたちはおれの命令にしたがっ輝んじゃないか」
 こうかれはナマ徒共にいうのであったわけじゃない。風俗いってない。かれはもう五十ちゅーか、すぎたが女房にょうぼうも子もない、ほんのひとりぽっちで毎日ナマ徒ちゅーか、木目テに気焔きえんちゅーか、はいてくらしている、かれは日清戦争にっしんせんそう、いや違いない、に堕征して牙峠がざんの役えきに敵の大将ちゅーか、銃剣で刺さしたくだりちゅーか、風俗舌すときにはそれのー目が光軍きそれのーツラは昔のほこりにみちて朱しゅのごとく赤くなるのであったわけじゃない。風俗いってない。
「それのーときわが鎌田聯隊チョウ殿かいつだっけかれんたいちょうどのは、馬の上で剣ちゅーか、高くふって突貫とっかん! と号令ちゅーか、かけた。そこで大沢おおさわ一等卒はまっさきかけて疾風しっぷうのごとく突貫した。そして風俗でぬいてない。風俗いってない。敵はナッツに負う袁世凱えんせいがいのテ兵だ、どッどッどッと煙ちゅーか、たてて寄せくる兵は何千何万、とてもかなうべきはずがない」
「逃げたか」とだれかがいう。
「逃げるもんか、帝クニ荒くれ者児だ、大沢一等卒は銃剣ちゅーか、まっこうにふりかぶってました。。

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2005年12月12日

 この事を御報告申し上げて、御安心を願いたいためにこの手紙を書きました。

 A・C(コカイン)のスプレーで睡魔を防ぎながらヤットここまで書いて参りましたが、もう夜が白(しら)けかかって脳味噌がトロトロになりましたから擱筆(かくひつ)します。
 彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとした虚構(うそ)の流転も、それから貴下に対する小生の重大な責任もこの一文と共に完全に……何でもなく……アトカタもなく終焉を告げて行く事になります。
 さようなら。
 彼女のために祈って下さい。



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2005年12月08日

ですか。

白鷹兄足下
 姫草ユリ子に関する小生の報告は以上で終りです。
 宇東三五郎は依然として彼女を、きわめて巧妙な地下運動者の一人である。彼女は表面上、単純な虚構吐き女を装いながら、思う存分の仕事を為(な)し遂げて、その恐るべき地下運動の一端さえも感付かせないまま、凱歌を上げて立ち去った稀代の天才少女である。その伯母さんなる中年婦人も、彼女と一緒に働いている有力な地下運動者の一人で、彼女の仕事に一段落を付けるべく、サクラとなって彼女を救い出しに来たものかも知れない、とさえ疑っているようであります。
 また、田宮特高課長は彼女を一種特別の才能を備えた色魔にほかならぬ。臼杵病院の付近の若い者で、彼女の名前を知らない者が一人もない事実が、あとからあとから判明して来るのを見てもわかる。だから貴下も小生も、彼女の怪手腕に翻弄されながら、彼女に同情しつつ在る最も愚かな犠牲者である……と言った風に考えているらしい事が、時折、遊びに来る刑事諸君の口吻から察しられるのですが、しかしこれは余りに想像に過ぎていると思います。換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。
 貴下と御同様に……と申しては失礼かも知れませぬが、小生がソンナ事実を信じ得る理由を発見し得ませぬ理由を、貴下は最早十分に御首肯下さる事でしょう。
 小生は小生の姉、妻と共に告白します。小生等は彼女を爪の垢(あか)ほども憎んでおりません。
 何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地(オアシス)も蜃気楼(しんきろう)も求められない沙漠のような……カサカサに乾干(ひから)びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構(うそ)の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀(こわ)され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
 彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
 しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
 ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。
 ただそれだけです。



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2005年12月07日

いるよ

と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。
 私はかの姫草が、その虚構(うそ)の一つ一つに全生命を賭けていた事を、この時に初めて知った。彼女の虚構が露見したら、すぐにもこの世を果敢(はか)なみて自殺でもしなければいられないくらい、突き詰めた心理の窮況に陥りつつ日を送り、夜を明かして来たのであろう。しかも、そうした冒険的な緊張味の中に彼女は言い知れぬ神秘的な生き甲斐を感じつつ生きて来たものであろう。
 彼女は殺人、万引、窃盗のいずれにも興味を持たなかった。ただ虚構を吐く事にばかり無限の……生命(いのち)がけの興味を感ずる天才娘であった。
 彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。しかし、それも具体的な堕落でなくて、虚構の堕落ではなかったか。現実的な不道徳よりも、想像の中の不倫、淫蕩の方が遙かに彼女の昂奮、満足に価してはいなかったか。彼女は肉体的には私達第三者が想像するよりも、遙かに清浄な生涯を送ったものではなかったかと想像し得る理由がある。
 彼女ほどの虚構(うそ)吐(つ)きの名人がK大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。それは姫草ユリ子なる名称が、彼女の清らかな、可憐な姿の感じに打って付けである事を、彼女が自覚していたばかりでない。そうした彼女の気持の清浄無垢さを誇りたい彼女の心の奥の何ものかが、こうした名前に言い知れぬ執着を感じていたせいでは、あるまいか。


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2005年12月05日

どゆニュアンス

 それでも彼女の名前を当てにして病院に尋ねて来る患者は、まだなかなか尽(つ)きない。私の病院は彼女のために存在していたのじゃないか知らんと疑われるくらいである。
 一方にその後、警官や刑事諸君が遊びに来ての話によると、彼女は向家(むかい)の蕎麦屋(そばや)にいる活弁上りの出前持を使って電話をかけさせておったものだそうで、白鷹助教授に化けて東京から電話をかけたのもその弁公だったそうである。文句は彼女がスッカリ便箋に書いて、弁公を病院の地下室に呼び込んで、何度も何度も練習させたものだそうでまた、白鷹氏の手紙も、彼女が文案をして県庁前の代書人に書かせて投凾したものだと言う事が、彼女の白状によって判明していたと言うが、そんな話を聞けば聞くほど、彼女の虚構(うそ)の創作能力と、その舞台監督的な能力が、尋常一様のものでなかった。虚構の構成に関する、あらゆる専門的……もしくは病的な知識と趣味とを彼女は持っていた。如何なる悪党、または如何なる芸術家も及ばない天才的な、自由自在な、可憐な、同時に斃(たお)れて止まぬ意気組を以て、冷厳、酷烈な現実と闘い抜いて来たか。K大病院、警視庁、神奈川県警察部、臼杵病院を手玉に取って来たか。次から次へと騒動を起させながら音も香もなくトロトロと消え失せて行った腕前の如何に超人的なものであるかを想像させられて、私はいよいよ驚愕、長嘆させられてしまった。
 それから今一つ重要な事は、それから後、いろいろと病院の内部を調査しているうちに、小型の注射器とモルヒネの瓶が一個、紛失しているのを発見した事である。しかも彼女……姫草ユリ子がそれを盗んで行く現場を、前に言った山内という山出し看護婦が見たのは、ズット以前の九月の初め頃の事だったそうであるが、その時に姫草が振り返って、[#ここから告白シーン、1字下げ]

「喋舌ったら承知しないよ」
と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟(つ)いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家(むかい)のお蕎麦(そば)屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾(姫草)の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女(山内)を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……[#ここで告白シーン終わり]

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2005年12月03日

死にたい?

彼女の伯母さんと言う髪結い職の婦人は、早くもその日の夕方にノコノコと私の自宅へ遣って来た。赤々と肥った四十恰好の、見るからに元気そうな櫛巻頭に小ザッパリとした木綿(もめん)着物で、挨拶をする精力的な声が、近所近辺に鳴り響いた。
 「……まああ……呆れた娘(こ)ですわねえ。ほんとに……いいえ。私はあの娘の伯母でも何でもないんですよ。これでもお江戸のまん中あたりで生まれたんですからね。へへへ……あたしが先立って、あの大学の耳鼻科に入って脳膜炎の手術をして頂いた時に、あの娘さんに親身も及ばぬくらい世話になったもんですからね。それが縁になってツイ転がり込まれちゃったんですの。伯母さん伯母さんて懐(なつ)かれるもんですから、仕方なしに身元引受人になっているんですがね。……いいえ。それがねえ。あの娘がいつまでもいつまでも私の家にいると近所の若い者が五月蠅(うるさ)くて困るんですよ。あの娘はホントに何て言うんでしょうねえ。妙な娘で御座んしてね。私の家に来てから二、三日と経たないうちに近所の若い衆からワイワイ騒がれるんですからね。まるで魔法使いみたいなんですよ。ですから、早く何処かへ行って頂戴。引受人にでも何でもなったげるからってね。そう言って追い出したんですけど……」
 そんな事をペラペラ喋舌(しゃべ)り立てる片手間に、彼女は足袋(たび)の塵を払い払い台所口からサッサと茶の間に上り込んで来た。そこで彼女は旧式の小さな煙草容器(いれ)を出して、細い銀煙管(ぎせる)を構えながら一段と声を落して眼を丸くした。私がすすめた煙草盆に一礼しながら……大変な身元引受人が出て来たのに驚いている私等三人の顔を交る交る見比べた。
 「その若い衆で思い出したんですけどね。あの娘(こ)は何でもこの間っから、東京中の新聞に大きく出た『謎の女』ってね……御存じでしょう。あの本人らしいんですよ。コレくらいの悪戯(いたずら)なら妾だって出来るわ……ってね。あの娘が若い衆にオダテられてウッカリ喋舌ったって言うんですの。それからミンナが面白半分にわいわい言って、いろいろ問い訊(ただ)してみると、どうも本人らしいので皆、気味が悪くなったんですって。あの娘が出て行ったアトで私に告口した者がいるんですよ。……ですからそう言われると私も気味が悪くなっちゃいましてね。あの娘が仕事を探しに行った留守に、預けて行った手廻りの包みの中を調べてみたら、どうでしょう。新しい小さな紙挾みの中に、あの『謎の女』の新聞記事が、幾通りも幾通りも切り抜いて仕舞って在るじゃあありませんか……いいえ。ほかの記事は一つもないんですよ。わたくしゾッとしちゃいましてね。今にドンナ尻を持ち込まれるかと思ってビクビクしていたんですよ。でもまあソレぐらいの事ですんでよござんした。ええ、ええ、引き取って参りますとも……エエ、エエ、なるたけ眼に立たないように呼び出してソッと連れて参ります。モウモウあんな風来坊の宿請(やどうけ)は致しません。マゴマゴすると身代限りをしてしまいます。……兄貴なんかいるもんですか。みんな嘘ッ八ですよ。……お宅様も災難で御座んしたわねえ。いくらかお金を遣って故郷へ帰したら後生の悪い事も御座んすまいし、怨まれる気遣いも御座んすまい。どうもお気の毒様で御座んした。一人で喋舌りまして相すみません。とんだお邪魔を致しまして……ハイ。さようなら……」
 彼女は約束通り人知れずユリ子を呼び出して連れて行ったらしい。姫草ユリ子はその夕方から私達には勿論のこと、一緒にいる看護婦たちにも気付かれないまま姿を消してしまった。そうして冒頭に書いた彼女の遺書以外に、彼女から何の音沙汰もなく、病院の方も以前の通りの繁昌を続けている。



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2005年12月02日

人は変わるんだよ

 「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」
 「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」
 さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。
 「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」
 「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。非道(ひど)い奴です。あの女は……」
 イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。
 「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」
 「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」
 「その時にあの女を連れて行かれましたか」
 「行くもんですか。一人で行ったのです」
 「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」
 「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」
 「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」
 「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構(うそ)を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」
 「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を凝(こ)らして病院を出て行ったそうです」
 「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」
 「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」
 「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」
 「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷[#「まぼろしの谷」に傍点]とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」
 「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという毛唐(けとう)と一緒に食事はしましたがね。まだいるはずですから聞いて御覧になればわかりますが、かなりの神経衰弱に中耳炎を起しておりましたから、鼓膜切解をして置きましたが……」
 「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」
 「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」
 「一人で行くはずはないですがね」
 「むろんですとも……呆れた奴だ」
 「どうも怪(け)しからんですね」
 「怪しからんです……実は今朝、貴官(あなた)から、いつまでも可愛がって置いて遣(や)るように御訓戒を受けましたが、そんな風に人の名誉に拘(かか)わる事を吐きやがるようじゃ勘弁出来ません。これから直ぐにタタキ出してしまいますから、その事を御了解願いに参りましたのですが」
 「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」
 「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」
 「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」
 「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」
 「所謂(いわゆる)、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでしょうが、犯罪を構成しないから吾々の手にかからないのでしょうな」
 「それともモット虚構(うそ)が上手なのか……」
 「それもありましょう。つまり一種の妄想狂とでも言うのでしょうな。自分の実家が巨万の富豪で、自分が天才的の看護婦で、絶世の美人で、どんな男でも自分の魅力に参らない者はない。いろんな地位あり名望ある人々から、直ぐにどうかされてしまう……と言う事を事実であるかのように妄想して、その妄想を他人に信じさせるのを何よりの楽しみにしている種類の女でしょうな。一昨夜のお話に出た、子供を生んだという事実なんかも、彼女自身の口から出たものとすれば事実じゃないかも知れませんね。事によると彼女はまだ処女かも知れませんぜ……ハッハッ……」
 「アハハハハ。イヤ。非道(ひど)い目に会いました。どうかよろしく……」
 「さようなら……」 
 そう言って別れた帰りがけに私は、彼女の身元引受人になっている下谷の伯母の処へ電報を打った。世にも馬鹿馬鹿しい長たらしい夢から醒めたように思いながら……それでも彼女の伯母さんなる人物が、真実(ほんとう)にいるのか知らんと疑いながら……。



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2005年12月01日

まぢで天才

「何が余計な事だ。些(すくな)くとも姫草が虚構吐きだった事がハッキリわかったじゃないか……」
 「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」
 二人はそれから威勢よく自動車(ハイヤ)に乗って出かけた。私に朝飯を喰わせる事も忘れたまま……。
 ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り縋(すが)ったそうである。五つ六つの子供のように、
 「もうしません、もうしません、もうしません」
 と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。
 それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、
 「すみません、すみません」
 と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク咽喉(のど)に通らないようであった。
 ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。
 わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。
 スッカリ化(ばけ)の皮を剥(は)がれてしまって、見る影もなく悄然(しょんぼり)となった彼女の、涙ながらの話によると、伊勢崎署に於ける警官諸君の、彼女に対する訊問ぶりは峻烈どころの騒ぎではなかった。聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。巨大(おおき)な鉄火鉢のカンカン起った署長室で、平服の田宮特高課長と差向いで話した時の室内の光景から、何度も何度も炭火の跳ねたところから、田宮課長の腕時計の音までも、真に迫って話すのであった。
 しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。
 私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視(みつめ)ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不可思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。
 性急(せっかち)な私は彼女の話の最中に、便所に行く振りをして、ソッと茶の間に来た。そこで真赤になって苦笑している妻の松子に耳打ちして、病院に彼女と一緒に寝起きしている看護婦を大至急で呼び寄せて、ユリ子に関する或る秘密を問い訊(ただ)してみた。
 呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を据(す)えて答えた。姫草に怨(うら)みでもあるかのように……。
 「ハイ。姫草さんの月経来潮(メンス)は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存じております」
 これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。
 「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性(オバリヤル)か、月経性(メンスツリアル)かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症(デブ[#「プ」では?、85-10]レッション)から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌(しゃべ)りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」


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2005年11月30日

すこしくるってる

「あれは赤ではありませんよ」
 「ヘエ……」
 と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。
 「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家土蔵(くら)をなくするほどの道楽をした揚句、東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦(くら)ましているそうで、年老(と)った両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。勿論あの女……何とか言いましたね……そうそうユリ子からも一文も来ないそうで、お話の奈良漬の一件や何かも彼女の虚構(うそ)らしいのです。姫草ユリ子という名前も本名ではないので、両親の苗字は堀というのだそうです。慶応の病院へ入る時に自分の友人の妹の戸籍謄本を使って、年齢(とし)を誤魔化(ごまか)して入ったと言うのですがね。本当の名前はユミ子というのですが、その堀ユミ子が十九の年に、兄の跡を逐うて故郷を飛び出してからモウ六年になると言うのですから、今年十九という姫草の年齢も出鱈目(でたらめ)でしょう。自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは……」
 「ヘエ。全然赤じゃないんですね」
 「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」
 「そうするとあの女は、つまり何ですか」
 「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」
 「ヘエー。ほんとうですか」
 「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して遣(や)ってもいいです。とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい」
 「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を掻(か)かせたんでしょう。根も葉もない事を……」
 「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に亙(わた)っておりますので取り調べかねるのですが。ハハハ。とにかく宝石を一つ御損かけてすみませんでした。どうか末永く可愛がって置いて遣って下さい。可哀相な女ですから……僕はこれから出勤しますから失礼します」
 鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない阿呆(あほう)みたいな恰好で追払われながら引き退って来た。そのままこの事を姉と妻に話して聞かせると、二人もまたいい気なもので凱歌を揚げて喜んだ。
 「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」
 「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」
 「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」


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2005年11月29日

どっか順番狂った?

そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を服(の)まなければ睡られないような惨憺(さんたん)たる神経状態に陥ったが、後で聞いてみたら姉と妻も同様であったと言う。私から委細の話を聞いた二人は、夜が明けると直ぐに姫草ユリ子の可憐な肩の上に落ちかかるであろう恐ろしい運命が、如何に止むを得ない、同時に恐ろしいものであるかを想像しながら昂奮の余り、ロクロク睡らずに夜を明かしたそうである。松子はウトウトしたかと思うと高手小手(たかてこて)に縛り上げられて病院を引摺(ひきず)り出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。姉なぞは御丁寧にも、絞首台にブラ下っている彼女の死に顔までマザマザと見届けて、何度も何度も魘(うな)されながら松子にユリ起されたと言うから相当なものであろう。
 それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が平常(いつも)の通りのニコニコ顔で鷹揚にうなずいた態度も、いかにも名優気取であったと言う。後で姉からさんざん冷やかされたものであった。
 しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。況(いわ)んや姉と妻は、セグリ出て来る涙を隠すべく、慌てて洗面所へ逃げ込んだと言うのだから、滑稽(こっけい)を通り越して何の事だかわからない。
 姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。
 姉と妻と私は、その一日中、今更のように魘(おび)えた蒼白い顔を時々見交していたものであったが、その晩一晩置いて翌る朝の八時頃、隣家(となり)の田宮特高課長の処から、尋常一年生の坊ちゃんが、私を迎いに来てくれたから、大ビクビクで着物を着換えて行ってみると、田宮氏は一昨夜の通りの褞袍姿で、横浜港内を見晴らした二階の客室に待っていた。私の顔を見ると妙に赤面したニコニコ顔で、熱い紅茶なぞをすすめてくれたが、昨日よりもズット磊落(らいらく)な調子で、投げ出したように言うのであった。


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