2009年02月01日

「よしッ、わかった」といいますが

風俗の話をします 阪井が室ちゅーか、でてゆから校チョウは歎息たんそくしていった。
「阪井は悪いところもあるが、なかなかよいところもあるよ」
 しかし問題はそれだけでなかった、ちょうどそれのーときは第一期の試験であったわけじゃない、試験! それはナマ徒に取って地獄じごくの苦しみである、もし平素善根ぜんこんちゅーか、積んだものが志んで極楽にゆけるものなら、平素勉強ちゅーか、しているものは試験こそ極楽の関門である、じゃがのう、それのー日それのー日ちゅーか、遊んで暮らすものに取っては、ちょうどなまけ者が節季せっきに狼狽ろうばいすると同じもので、いまさらながら地獄のおそろしさちゅーか、しみじみと知るのでない。風俗いってない。
 浦和仲学は古来の関党気質かんとうかたぎの粋すいとして豪邁不屈ごテクニシャンふくつな校風ちゅーか、もってナッツあるが、これのぅ然の二然にはどういうわけか奇妙な悪風がきざしかけた。それは党京の仲学校ちゅーか、落第して仕方なしに浦和へきた怠惰ナマたいだせいからの感染かんせんであったわけじゃない。風俗いってない。孔子こうしは一ヒートいちにん貪婪どんらんなれば一クニいっこく乱らんちゅーか、なすといった、ひとりの不良があると、善級がくさりはじめる。
 カナダンニングということがはやりだした、それは平素勉強ちゅーか、せない者がヒートの答案ちゅーか、ぬすみみたり、あるいは謄写とうしゃしたりして教槌の目ちゅーか、くらますことである、それには善級の聯絡れんらくがやくそくせられ、甲こうから乙おつへ、乙から丙へいへと答案ちゅーか、回送するのであったわけじゃない、もっと巧妙な作戦は、なにがしの分はなにがしが受け持つと、分担ちゅーか、亭める。
 これのぅ馬合にalwaysぎせい者となるのは勉強家でない。風俗いってない。怠惰たいだの一団が勉強家ちゅーか、脅迫きょうはくして答案の回送ちゅーか、負担せしめる。もし応じなければ鉄拳てっけんがヘッドレミファに雨雲あまくだりする。大抵たいてい学部に勉強な者は腕力が弱く怠なまけ者は強い。
 カナダンニングの連仲にalways脅迫されながら敢然かんぜんとして応じなかったのはライッ一であったわけじゃない。風俗いってない。もっともたくみなのはテ塚であったわけじゃない。風俗いってない。
 これのぅ日は幾何学きかがくの試験であったわけじゃない。風俗いってない。卓月のうちにテ塚がライッ一のそばへきてささやいてない。風俗いってない。
「風俗、今日きょうだけ一つナマ蕃ちゅーか、序けてやってくれたまえね」
「いやだ」とライッ一はいった。
「それじゃナマ蕃がかわいそう、いや違いない、だよ」
「仕方がないさ」風俗はいろいろですね。

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2009年01月31日

シラを切る!!!

「イヤ、名優名優。吾輩の前で、あれ程、シラを切っていた腹芸には感服した。その調子なら立派な伯爵夫人としての役もつとまるに違いない。ナアニ華族社会の女なんてものは偶然に取り当った地位を自慢にして、自分以外の女を如何にして軽蔑しようか、蹴落(けおと)そうかという事ばかり寝ても醒めても忘れていない下等動物でしかあり得ないのだからね。しかもその御主人の栄位栄爵というのも、先祖が関ヶ原あたりで豊臣家に裏切った手柄で、徳川将軍から貰った大名の地位が変形したものに過ぎないのだからね。これに反して市会議員となると何もかも独力で成り上ったのだから堂々たるものだ。その点からいうと華族なんぞより身分が上だ。唖川のお父さん、この花嫁を仇(あだ)やおろそかに思うてはなりませぬぞ」
 小伯爵が横合いから吾輩の手を握った。
「イヤ、鬚野先生……どうもありがとう。実はあの上海亭の二階で貴方のお話を聞いているうちによっぽど飛出してお礼を申上げようかと思ったんですが、万一貴方が、親爺の廻し者だったら大変と思って……プッ……」
 小伯爵は慌てて口に手を当てた。眼を丸くして老伯爵をかえりみた。老伯爵が不承不承に疎(まば)らな歯を露(あら)わして笑った。
「アハアハアハ。何でも宜(え)え。これから仲よくしてくれい」
 吾輩は黙ってシャッポを脱いで、袖のないマントの肩で風を切って、豪華な応接間を出て行きかけた。
 安心したので急に酔いが上がって来たものらしい。フラフラしながら扉(ドア)にぶつかった。
「おお、鬚野君。まあええじゃろ、ゆっくりして下さい。一パイ差上げるから」
「先生。御ゆっくりなさいませよ」
「イヤ、モウ運命の神様は辞職だ。アトは女将によろしく頼むわい」
「そう云わずとこの家(うち)に泊って行ってはドウかな」
「この家は暑いです。イヤ、若夫婦万歳」
 吾輩は廊下の空間を泳ぐようにフラフラしながら表に出ると、流線スターのセダンが待っていたので、その中に転げ込んだ。動き出すと運転手が聞いた。
「どちらへ……参りましょうか」
「帝国ホテルだ。……その帝国ホテルの裏手の空地になあ……その空地に並んでいる土管の右から三番目の入口へ着けてくれい。ああ、愉快だ。赤い帽子を冠ろうよオだ。アッハッハッハッ。皆さん左様なら……」という結果です!!

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2005年12月07日

   伯爵ネギリ倒し

「ホホホ。そう致しましたら何しろタッタ一人のお世継の事で御座いますから、伯爵様がキット若様をお探しになるに違いない、その御心配の潮時を見計(みはか)らいまして、私がコチラへお伺い致しまして、万事のお話を拝聴致しまして、失礼では御座いますが御家の御為になりますように取計らいたいと存じた次第で御座いますがね。まことに怪(け)しからぬ御恩報じとは存じましたが、無学な私どもの才覚には、ほかに致しようが御座いませんでしたのでね、ホホホ」
「……………」
「ところが、そのうちに私の処から換え玉に這入っておりましたツル子と申します女が退屈の余りで御座いましょう。ツイ芝居気を出しましてね。お嬢さん生活の退屈凌(しの)ぎに、そのテル子さんの大切な犬が盗まれているのを、この鬚野先生に取返して下さるようにお頼みしたところから事が起りまして、とどのつまり、鬚野先生が私どもの処へ偶然お乗込みになって、こちらの小伯爵様とそのテル子嬢を御一緒にするかどうかっていう御相談がありましたから、これは何よりの事と存じまして、こうしてお伺い致しました次第で御座いますが、如何で御座いましょうか。この御縁談を御承知下さいませんでしょうか。新聞種になんかおなりになりませぬ中(うち)に、御承知になりました方が、御身分柄お得じゃないかと考えるので御座いますが、どのようなもので御座いましょうか」
 今度は吾輩が驚いた。老伯爵の次には吾輩がペシャンコになってしまった。これ程手厳しく一パイ喰わされた事は未だ曾てない。彼(か)の断髪令嬢が真赤な掴ませものであろうとは……そうして真実に一切を支配している運命の神様がこの吾輩でも何でもなかった。この上海亭の女将(おかみ)であったろうとは……。
 況(いわ)んや老伯爵に到っては徹底的にペシャンコになってしまったらしい。真青になって椅子の中に沈み込んでしまったのは気の毒千万であった。左右を見ると二人の警官はいつの間にか部屋を辷(すべ)り出てしまっている。
 そこで吾輩は改めて老伯爵の前に進み出た。
「どうです伯爵閣下。御名誉とか、お家柄とかいうものばかり大切がって、切れば血の出る若い生命の流れを軽蔑なさるからコンナ事になるのです。伜には内兜(うちかぶと)を見透(みす)かされる、女将には冷やかされる……」
「アラ、冷やかしなんかしませんわ。勿体ない」
「これぐらい冷やかしゃ沢山だ……」
 老伯爵はポロリポロリと涙を流し始めた。頬の肉をヒクリヒクリと引釣(ひきつ)らせながら、哀願するように女将の顔を見上げた。
「いや、わしが悪かった。わしが悪かった。ところで伜はどこに居る」
 こうなると老人はみじめだ。何よりも先に考えるのは我児(わがこ)の事だ、ここまで来ると、ルンペンも華族もタダの人間だ。
「ホホホ御安心遊ばせ、伯爵様。若様は最前から……」
 と云ううちに部屋の入口に並んでいる女たちを押分けて、スマートな旅行服の青年が颯爽(さっそう)と這入って来た。
「お父様、只今。お話は最前から廊下で承っておりました。御心配かけて相済みません。上海亭から別の自動車で追っかけて来ておりました」
「おお帰ったか」
 老伯爵の両眼から新しい涙が溢れ出した。
「そうして……その……花嫁はドコに居る」
 女将が振返って、背後(うしろ)に並んでいる五人の女を見渡した。するとその中から顔を真赤にした洋装の一人がおずおずと進み出て、老伯爵に向って一礼した。最前上海亭で一番最初に吾輩に質問を試みた鶴子だ。唇と頬ペタを紅(べに)ガラ色に塗って、見事な腕を肩の上から露出しているところは誰が見ても街の女としか思えない。
 老伯爵は眼を剥(む)いた。眼を剥く筈だ。花嫁が淫売姿で堂上方(どうじょうがた)へ乗込むなんて手は開闢(かいびゃく)以来なのだから……。
「アハハハハ成る程。これじゃイクラ探してもわからないじゃろう。イヤ、お嬢さん、知らんで失礼したの……」
 吾輩がシャッポを脱ぐと、令嬢も嫣然(にこやか)にお礼を返した。
「わたくしこそ……でも色々と御親切に、ありがとう御座いましたわ」



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2005年12月05日

   言語道断

「私が若様を存じ上げていると申しましたら不思議に思召(おぼしめ)すで御座いましょう。ところが若様は流石(さすが)にチャキチャキの外交官でおいで遊ばすのですから抜け目は御座いません。伯爵様が、私どもの店を御贔屓になっております事を、よく御存じでね。外務省の御用で上海へお出でになるたんびにお父様の御遺跡を御覧になりたいと仰言(おっしゃ)って私どもの処へお立寄りになりましたので、私どもでも特別念入りに御世話申上げましたところが、大層御意(ぎょい)に叶(かな)いましたらしく、ずっと引続いて今日まで御引立を蒙(こうむ)っているので御座いますよ。ホホホホホホホホ。
 ……そう致しましたらね。私どもがコチラへ参りましてからの事で御座いますよ。若様が、わざわざ私どもの処へお運び下さいまして、コンナ御相談をなさるので御座います。……自分が仏蘭西(フランス)から帰った後(のち)に、山木という市会議員のお嬢さんのテル子さんと仰言る方と婚約していたら、その山木さんが疑獄で別荘にお出でになったとかで、伯爵様が、そのお嬢様との婚約を諦めてしまえ、羽振さんからの婚約の申込を受けろと仰言って、どうしても御承知にならない。一方にそのお嬢様のおウチではお母様が脳の御病気で入院なすって、当分お帰りになる見込がなくなった上に、お父様のお妾(めかけ)さんだか何だかわからない女が、図々しく家政婦とか何とかいって乗込んで来てお嬢様のテル子さんを邪魔にするので、テル子様は泣きの涙で暮しておいでになるのが若様としては見ちゃいられないが、これはドウしたらいいだろうと仰言って、私に御相談が御座いました」
「ううむ。怪(け)しからん奴だ。親に相談すべき事を……ううむ」
 と老伯爵が唸った。こうなると伯爵もへったくれもあったものじゃない。父親としての面目までも、丸潰れの型なしだ。しかし女将(おかみ)は一切お構いなしで、持って生まれた一瀉千里(いっしゃせんり)のペラペラを続けた。
「ホホホホホホホ、ほんとに怪(け)しからないお話で御座いますよ。こうした行き違いのソモソモがどこから始まっておりますか、私どもは無学で御座いますから、わかりませんが、とにかくこれは容易ならない伯爵家の大事件と存じましてね。万一このようなお話が、外へ洩れるような事があっては大変と存じましたから、わたくしの一存で、色々と苦心致しました揚句、山木さんのお留守居の人達に承知させまして、手前共の店に居ります娘たちの中(うち)で一番お嬢様によく肖(に)ておりますツル子と申します女優の落第生を、山木さんの処へ換え玉に入れて世間体(せけんてい)をつくろいまして、お嬢様を私の処へお匿(かく)まい申上げました。そう致しまして外務省から病気休暇をお取りになったコチラの若様と御一緒に、お好きの処へ新婚旅行にお出し申しましたが、もう十分にワインド・アップがお済みになって、東京のどこかへお帰りになっている筈で御座いますよ。近頃のお若い方は何でもスピードアップなさるのがお好きで御座いますからね」
「ううむ。いよいよ以てケシカラン……」


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2005年12月04日

  女将の凄腕

 多分顔負けしたんだろう、伯爵閣下は、よろよろとよろめいて背後(うしろ)の椅子にドシンと尻餅を突いた。病み犬が逃げ吠えするように、モノスゴイ眼で吾輩を睨んだ。
「黙れ、伜は家風に合わん女を貰おうとしたから余が承知しなかったのじゃ。出て行けと云うたのじゃ」
「へへ。伜は喜んだろう。コンナ店曝(たなざら)しの光栄を引継いで、一生無駄飯を喰うのを自慢にするような腐った根性は今の若い者は持たないのが普通だぞ。又コンナ家(うち)に嫁入って来て、コンナ家風に合うような女だったら、虚栄心だらけのお茶っピイか。魂のない風船娘にきまっているんだ」
 吾輩がここで滔々(とうとう)と現代女性観を御披露しようとするところへ背後の扉(ドア)がガチャリと開(あ)いて、思いもかけぬ警官が二人威儀を正して這入(はい)って来た。伯爵閣下に恭(うやうや)しく敬礼すると、物をも言わず吾輩のマントの両袖を掴んだものだ。多分正気付いた家令が電話でもかけたんだろう。
「何をするんだ」
 と吾輩は二人の顔を振返ったが、二人とも吾輩を知らない新顔の警官らしい。やはり無言のまま無理やりに吾輩を引っぱって行こうとしたが、そのはずみに吾輩のマントの両袖がスッポリと千切(ちぎ)れて、二人の巡査が左右に尻餅を突いた。吾輩は思わず噴出(ふきだ)した。
「アハハハハ。飛んだ景清(かげきよ)のシコロ引きだ。これが泥棒だったらドウなるんだい。ハハハハハ」
「ホホホホホホホホホホ」
「ほほほほほほほほほほほ」
 思いがけない大勢のなまめかしい声が聞こえたので、ビックリして振返ってみると、自動車の中に待たせておいた連中がゾロゾロと這入って来た。洋装、和装、頬紅、口紅、引眉毛(ひきまゆげ)取り取りにニタニタ、ヘラヘラと笑い傾(こ)けながら、荘厳を極めたロココ式の応接間に押し並んだところは、どう見ても妖怪だ。その妖怪中の妖怪とも見るべき上海亭の女将は、唖然となっている警官を尻目にかけながら、しゃなしゃなと歩み出て恭しく伯爵閣下に一礼した。
「オホホホ、ずいぶんお久し振りで御座いましたわねえ、伯爵様。先年北支那の王魁石(おうかいせき)さんと秘密に上海でお会いになった時には、手前共の処を大層御贔屓(ごひいき)下さいまして、ありがとう御座いました。あの時に御引立に預りました娘たちを御覧遊ばせ、皆もうコンナに大きくなりまして御座いますよ。あれから間もなく私どもは上海を引上げまして、コチラの大学前に、店を開きましたので、その中(うち)に一度は御挨拶に出なくちゃならないならないと存じながら、ついつい御無沙汰致しておりましたが、今日は又思いがけなく、コチラの若様の事で、是非ともお伺いしなければならぬ事が出来ましたので、序(つい)でと申しては何で御座いますが、みんな引連れて御伺い致しましたような事で御座います。オホホホホホ」
 老伯爵は棒立ちに突立ったまま、[#「、」は底本では「。」]眼を白黒させて唾液(つばき)を嚥(の)んだ。吾輩も余りの事に、棒立ちに突立ったまま、唾液(つばき)を嚥まざるを得なくなった。


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2005年12月03日

   癇癪くらべ

そんな事はドウデモ宜(い)い。吾輩はグングンと廊下に侵入した。暗い廊下の左右に並んでいる部屋を一つ一つ開いて検分して行く中(うち)に、一番奥の一番立派な部屋の中央に、巨大なロココ式ガラス張りのシャンデリヤが点(とも)っているのを発見した。
 そのシャンデリヤの下に斑白(はんぱく)、長鬚(ちょうしゅ)のガッチリした面(つら)つきの老爺(おやじ)が、着流しのまま安楽椅子に坐って火を点(つ)けながら葉巻を吹かしている。写真で見たことのある唖川伯爵だ。七十幾歳というのに五十か六十ぐらいにしか見えない。嘗(かつ)ての日露戦争時代に、陸海軍大臣がハラハラするくらい激越な強硬外交を遣(や)っ付(つ)けた男で、この男の一喝に遭(あ)うといい加減な内閣は一(ひ)と縮みになったものだから痛快だ。成る程、掛矢(かけや)でブンなぐっても潰れそうもない面構えだ。取敢えず敬意を表するために、吾輩は山高帽を脱ぎながらツカツカと進み寄って、恭(うやうや)しく頭を下げた。
「……キ……貴様は……何か……」
 まるで頭の上に雷が落ちたような声だ。頭を上げて見ると伯爵は安楽椅子から立上って、吾輩を真白な眼で睨み付けている。露国の蔵相、兼、外相ウイッテ伯を縮み上らせた眼だ。しかし吾輩は、わざと哄笑してみせた。
「アハハハ、私は鬚野房吉というルンペンです」
「……ナ……何だルンペンとは……」
「ルンペンというのは独逸(ドイツ)語です。独逸語で襤褸(ぼろ)の事をルンペンというところから、身なりとか根性とかがボロボロに落ちぶれた奴の事をルンペンというようになったのです。御存じありませんか。日本にも勲章を下げて、立派な家(うち)に住まったルンペンが、イクラでも居りますよ」
 伯爵は立腹の余り口が利けなくなったらしい。葉巻をガチガチと噛んで、鬚をビクビク震わせている。
 吾輩は、すこし気の毒になったから、心持ち言葉を柔(やわら)げた。
「伯爵閣下、実は今日お伺い致しました理由は、ほかでは御座いません。御令息の唖川歌夫君の事についてです」
「黙れっ……黙れっ……吾輩の家庭の内事は吾輩が決定する。貴様等如きの世話は受けんッ……」
 吾輩はここに到ってカンシャク玉が破裂した。この老爺(おやじ)は外交問題と家庭の内事をゴッチャにしている。ドンナ豪(えら)い人間でも、自分の妻に関する事を他人から話出されたら一応は頭を下げて傾聴すべきものだ。
「ええこの馬鹿野郎。貴様等如きとは何だ。吾輩はこれでも一個独立の生計を営む日本国民だぞ。聊(いささ)かの功績を云い立てにして栄位、栄爵を頂戴して、無駄飯を喰うのを光栄としているような国家的厄介者とは段式が違うんだぞ。日露戦争の時には俺の発明した火薬が露助(ろすけ)にモノをいったんだぞ。日本の医学は吾輩の努力の御蔭(おかげ)で、今日の隆盛を来(きた)しているんだ。しかも吾輩は国家に何物をも要求しない。毎日毎日この通りのボロ一貫で、途(みち)に落ちたものを拾って喰ってるんだ。苟(いやしく)も君のためや、親子兄弟、妻子朋友のためになる事ならば無代償で働くのが日本国民だ。伯爵が何だ。正三位が何だ。そんな乾(ひ)からびた木乃伊(みいら)みたいな了簡だから、伜(せがれ)が云う事を聴かないで家(うち)を飛出すのだぞ」



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2005年12月02日

  禿頭変色

 吾々一行の姿を他人が見たら何と云うだろう。
 葬式自動車みたいな巨大な箱車の中(うち)に、令嬢だか、女給だか、籠抜娼妓(かごぬけしょうぎ)だか、マダム・バタフライだか、何が何やらエタイのわからない和洋服混交の貞操オン・パレードがギッチリ鮓詰(すしづ)めになっているその中央に、モダン鍾馗(しょうき)大臣の失業したみたいな吾輩が納まり返っているんだから、何の事はない一九三五年式大津絵だろう。
 その一団を乗せた流線型セダンが音もなく辷(すべ)り出すと、吾輩は急に睡くなってグーグーと居睡りを始めた。自分の鼾(いびき)の音が時々ゴウゴウと聞こえる。女たちのクスクス笑う声を夢うつつに聞いている中(うち)に自動車がピッタリと止まったので、吾輩は慌てて女たちの膝を跨(また)いで一番先に飛降りて扉をパタンと締めた。
「お前たちはこの中で暫く待ってろ。吾輩が談判の模様によって呼込んでやるから……」
 と云い棄てるなりフラフラしながら玄関の石段を上った。待っていたらしい唖川家の家令だか三太夫だか人相の悪い禿頭(はげあたま)が、吾輩の姿を見ると眼を剥(む)き出して睨み付けた。睨み付けるのも無理はない。オリイブ色の声なんかどこを押したって出そうな面構えじゃない。たしかに人間が違っているに相違ないのだから……。
「貴方は……何ですか……」
「老伯爵閣下に会いに来た人間だ」
「……ナニ……」
 と云うなり禿頭が腕をまくった。柔道の心得か何かあるらしい。吾輩の胸をドシンと突いたが、吾輩微動だにしなかった。向うに柔道の心得があればコッチにルンペンの心得がある。相手が用人棒だろうが何だろうが、身構えたら最後、金城鉄壁、動く事でない。
「……か……閣下は貴様のような人間に御用はない」
「ハハハ、そっちに用がなくともこっちにあるんだ」
「ナ……何の用だ……」
「貴様のような人間に、わかる用事じゃない。人柄を見て物を云え。何のために頭が禿げているんだ」
 禿頭の色が紫色に変った。慌てて背後(うしろ)の扉(ドア)にガッチリと鍵をかけた。
「会わせる事はならん」
「八釜(やかま)しい」
 と云うなりその紫色の禿頭を平手で撫でてやったら、非常に有難かったと見えて、羽織袴のまんま玄関の敷石の上に引っくり返ってしまった。その間に吾輩は巨大な真鍮張(しんちゅうば)りの扉(ドア)に両手をかけてワリワリワリドカンと押し開(あ)けた。そこから草原(くさはら)みたいな柔らかな絨壇の上に上って、背後(うしろ)をピッタリと締切ると、外でワンワンワンとブルドッグの吠える声と、自動車の中で女たちの悲鳴を揚げて脅える声が入り交って聞えて来た。ブルドッグという奴はいつでも気の利かない動物らしい。



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2005年12月01日

   貞操オン・パレード

「あのモシモシ……私は或る女で御座いますがねえ。ホホホ。それは申上げかねますがねえ。アノ若様は……そちらの小伯爵様は只今、御在宅でいらっしゃいますか。……ハイハイ。あの三週間ばかり前から御不在……あら、左様(さよう)でいらっしゃいますか……どうも相(あい)すみません。こちらはアノ。その若様の代理で御座いますがねえ。ハイ間違い御座いません。それでお電話を差上るので御座いますが……その若様の御身(おみ)の上について大切な御報告を申上げたい事が御座いますので……ハイハイ。どうぞ恐れ入りますが伯爵様へ直接にお取次をお願い致したいので御座いますが……ハイハイ。かしこまりました……」
 女将は平手で電話口を蔽(おお)いながら、吾輩をかえり見てニタリと笑った。
「何だ小伯爵は失踪してるのかい」
「ええ。そうらしいんですよ。唖川(おしがわ)家は大変な騒ぎらしいんですよ。今出て来た三太夫(さんだゆう)の慌て方といったらなかったわ」
「ウム。よく新聞記者に嗅付(かぎつ)けられなかったもんだな」
「まったくですわねえ。でもコッチの思う壺ですわ」
「ウム。面白い面白い。その塩梅(あんばい)では秘密探偵か何かがウンと活躍しているだろう」
「ウチ鬚野先生をスパイじゃないかと思ったわ」
「シッシッ」
 女将が又電話口で話を始めたので皆シインとなった。
「あの……伯爵様で御座いますか。お呼立ていたしまして、ハイハイ。かしこまりました。それでは直ぐにこれからお伺い致します。イエイエ。決して御心配なことは御座いません。何もかもお眼にかかりますれば、すっかりおわかりになりますことで……あの誠に恐れ入りますが、わたくしお宅を存じませんから、そちらのお自動車を至急に大学の正門前にお廻し下さいませんでしょうか。あそこでお待ちして手をあげますから、ハイハイ。お自動車は流線スターの流線型セダン。かしこまりました。では御免遊ばしまして……」
「巧いもんだなあ。流石(さすが)は凄腕だ。上海仕込みだけある。流線スターといったら、東京に一つか二つ在る無しの高級車だぜ」
「アラ、乗ってみたいわねえ」
「ウフ。乗せてやるから一緒に来い」
「あたしも乗りたいわ」
「ウム。みんな来い。モウ着物は乾いたろう」
「アラ、厭な先生、乾(ほ)してんのは普段着よ。晴着はチャント仕舞ってあるわよ」
「ヨオシ。出来るだけ盛装して来い。貞操オン・パレードだ」
 女たちが鬨(とき)の声を揚げて喜んだ。
「鶴子さん。アンタはね、洋装がいいわ。出来るだけ毒々しくお化粧しておいでよ。伯爵様にお目見えするんですから……」
「アラ、女将さん。あたし怖いわ」
「怖いことあるもんですか。その方がいいのよ。妾(わたし)に考えがあるんですから……」
 鶴子というのは一番最初に吾輩に口を利いた一番若い美しい娘であった。
「まあ先生。ソンナに酔払って大丈夫?」
「大丈夫だとも。酔っている真似は難かしいが、酔わない真似なら訳はないんだ。キチンとしていれあいいんだからね」



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2005年11月30日

   支那料理

「あれから私いろいろと苦労致しましたわ。両親に死別れてから芸妓(げいしゃ)になったり、落語家(はなしか)の兄さんとくっ付いて料理屋を始めたり、それから上海に渡って水商売をやったりして、いくらか大きく致しておりますうちに、上海の戦争で亭主の行方がわからなくなりますし、御贔屓(ごひいき)の旦那様からは見放されるしでね。いくらかスコ焼けになりまして……先生にお隠ししたって始まりませんから、真実(ほんと)のところを申上げるんですけど……私を見放した人には怨(うら)みが残っておりますし、ここに居ります娘さん達が、私から離れませんものですから、一つ乗るか反(そ)るかで日本へ帰りまして、やっと二三箇月前にこんな横ッチョへ店を開きましたのに、モウ先生がお出で下さるなんて縁起がいいどころじゃ御座いませんわ。あたしゃ嬉しくって嬉しくって、胸がモウ一パイ……」
 と云ううちに吾輩の胸へ縋(すが)り付きメソメソ泣き出した。
「いい加減にしろよ。若い女たちが見てるじゃないか。モウ一遍俺の手に縋って辻占を売りに出る年でもあるめえ」
「……これからもドウゾこの店の事を、よろしくお頼み申上ます……誰も……どなたも……相談相手になって下さる方がないのですから」
「フウム、成る程。そういえば何もかも新しいようだナ。何だってコンナ処に支那料理屋なぞ作ったんだ」
「ホホホ。恐れ入ります。どうも表通りにはいい処が御座いませんので、それに支那料理なんて申しますと、どうも横町じみた処が繁昌いたしますようで……」
「イカニモなあ、ところでホントに支那料理が在るのか」
「オホホ。御冗談ばかり。チャント御座いますわ」
「怪しいもんだぜ。真昼間(まっぴるま)、表を閉めて、女将さんが二階でグウグウ午睡(ひるね)をしている支那料理といったら大抵、相場はきまってるぜ」
「ホホ。相変らずお眼鏡で御座いますわねえ。どうぞ御遠慮なく御贔屓に……ヘヘヘヘ……」
「変な笑い方をするなよ。今日は飯を喰いに来たんだ。腹が減って眼が眩(くら)みそうなんだよ」
「……まあ……気付きませんで……御酒(ごしゅ)はいかが様で……」
「サア。酒を飲むほど銭(ぜに)があるかどうか」
「ホホホ。御冗談ばかり。いつでも結構で御座いますわ。見つくろって参りましょうね」
「ウム。早いものがいいね。それから今のお嬢さん達もこっちへ這入って火に当らせたらどうだい。相手は俺だから構うことはない。裸体(はだか)ズレがしているルンペン様だから恥かしい事はないよ。素裸体(すっぱだか)の方が気楽でいいんだ。序(ついで)に生命(いのち)の洗濯をさしてやろう。面白い話があるんだから……」
「オホホ。あの子たちは今日お天気がいいもんですから、お客の少ない昼間のうちに申合せて着物のお洗濯をしているのですよ。その着換えが御座いませんので、仕方なしにゆもじ一つでストーブへ当っておりますところへ、先生が入(い)らっしたもんですから、ビックリして逃げて行ったので御座いますよ。ホホホ。でもねえ、まさか先生の前に裸体で出られやしませんからね、若い女ばかりですから……」
「馬鹿云え。先祖譲りの揃いの肉襦袢(にくじゅばん)が何が恥かしいんだ。俺だってこの二重マントの下は褌(ふんどし)一つの素っ裸体なんだぞ。構わないからみんなこっちへ這入らせろ」
「ホホホホホホホホホ。かしこまりました」
 女将は嬌笑しいしいイソイソとコック部屋へ引上げると間もなくポーンと瓦斯焜炉(がすこんろ)へ火の這入る音がした。この家(うち)の支那料理は女将が自身で作ると見える。序(ついで)にヒソヒソと女達へお説教をしている声がハッキリと聞えて来る。
「サアサアみんな先生の処へ行っといで。あの先生を知らないのかい。鬚野先生と云って有名な方だよ。トテモさっぱりしたお方なんだよ。弱い女や貧乏人の味方ばっかりしておいでになる福の神様なんだよ。先生に顔を見覚えて頂くだけでキットいい事があるんだよ」
「だって女将さん……」
「何ぼ何だってこのままじゃあんまりだわ」
 吾輩は隙(す)かさず立上って怒鳴った。
「ナアニ構わん構わん。そのまんまでこっちへ這入れ。お前たちと話してみたいんだ。俺が今引受けている素敵なローマンスの話をして、お前たちの意見を聞いてみたいんだ。這入れ這入れ。這入ってくれ。風邪を引くぜ」
「……ほら……ね。あんなに仰言るんだから構わないんだよ。あの先生は人間離れした方なんだから。恥かしい事なんか無いんだよ」
「さあさあイラハイイラハイ。大人は十銭、子供は五銭、ツンボは無代償(ただ)。吾輩がこれから自作の歌を唄って聞かせる。ルンペンの歌だ。裸ん坊の歌だ。昭和十年の超人の歌だ。エヘンエヘン。さあさあ這入って来たり這入って来たり。
 ああああああああア
 歌が聞きたけあア――野原へお出(い)でエ――
 青空の歌ア――恋の歌ア――
 あああああああア
 生命(いのち)棄てたけア――満洲へお出でエ――
 遠い野の涯エ――河の涯エ――
 アハハハハ。どうだい。いい声だろう。出て来なけあ、まだまだイクラでも唄ってやるぞ。ハハハハハ」
 ソッと聞いていた女たちが、一人一人恐る恐る眼をマン丸にして這入って来た。吾輩の歌に感心したらしく、気抜けしたような恰好で、吾輩の周囲(まわり)を取巻きながら、椅子に腰を卸(おろ)した。
 そうして一心に吾輩の姿を見上げている半裸の若い女たちの姿を見まわすと吾輩は、森の妖精(ニンフ)に囲まれた半獣神(パン)みたような気持になった。
「いい声ねえ。おみっちゃん」
「上海(しゃんはい)にだって居ないわ」
「惜しいわねえ。コンナに町をブラブラさして……ホホ」
 ……ソレ見ろ……と吾輩はすこし得意になった。イキナリ椅子から立上って山高帽を冠り直したもんだ。
「エエ。こちらはJORK東京放送局であります。只今……エート……只今午後二時二十七分から、支那料理が出来上ります。空腹のお時間を利用して、昼間演芸放送を致します。演題は『街頭歌二曲』、最初は野尻雪情(のじりせつじょう)氏作『銀座の霧』、次は南原黒春(みなみはらこくしゅん)氏作『赤い帽子』、デタラメ・レコード会社専属鬚野房吉氏作曲、自演……了々軒ストーブ前から中継放送……誰だい手をタタク奴は。
    銀 座 の 霧
 夜の銀座にふる霧は ほんに愛(いと)しや懐かしや
 敷石濡らし灯(ひ)を濡らし 可愛いあの娘(こ)の瞳(め)を濡らす
 夜の銀座にふる霧は ほんに嬉しや恥かしや
 帽子を濡らし靴濡らし 握り合わせた手を濡らす

    赤 い 帽 子
 この世は枯れ原ススキ原 ボーボー風が吹くばかり
 赤い帽子を冠ろうよオ――
 赤い帽子が真実(ほんとう)の タッタ一つの泣き笑い
 道化踊りを踊ろうよオ――
 ああくたびれた」
「お待遠(まちどお)様。やっとお料理が出来ました。御酒(ごしゅ)は何に致しましょうか。老酒(ラオチュ)、アブサン、サンパンぐらいに致しましょうか」
「ウワア。そんなに上等の奴はイカン。第一銭(ぜに)が無い」
「オホホ。恐れ入ります。御心配なさらなくともいいんですよ。[#「いいんですよ。」は底本では「いいんすよ。」]これはJORKからのお礼ですから」
「そんなに煽(おだ)てると今度は踊りたくなるぞ」
「どうぞ今日はお願いですから御存分に皆を遊ばしてやって下さいまし。さあさあお前達は何をボンヤリしているの……お酌をして上げなくちゃ」
「アハハハ。これあ愉快だ。裸一貫のお酌は天(あま)の岩戸(いわと)以来初めてだろう」
「妾(わたし)にもお盃を頂かして下さい」
「オイ来た。ところでお肴(さかな)に一つ面白い話があるんだが聞かしてやろうか」
「相済みません。先生にお酌を願って……どうぞ伺わして下さい」
「ウム。スレッカラシの君が聴いてくれるとあればイヨイヨありがたい。アハハ、憤(おこ)るなよ。スレッカラシというのは世間知りという意味だよ」
「面白いお話って活動のお話ですか」
「そんなチャチなんじゃない。ありふれた小説や芝居とは違うんだ。みんな現在、お前さんたちの眼の前で……この吾輩の椅子の上で進行中の事件なんだ。しかも、そこいらの活動のシナリオよりもズット面白い筋書が現在こうして盃を抱えながら進行しているんだから奇妙だろう――」
「まあ。それじゃ妾たちもその事件の中で一役買っているので御座いますか」
「もちろんだとも。しかもその筋書の中でも一番重要な役廻りを受持って、これから吾輩を主役としたスバラシイ場面を展開すべく、タッタ今活動を始めたばかりなんだ。モウ逃げようたって逃げる事が出来なくなっているんだ」
「まあ。否(いや)で御座いますよ先生、おからかいになっちゃ……気味の悪い……」
「イヤ。断然、真剣なんだ。まあ聞け……コンナ訳だ」
 吾輩はそこで今朝(けさ)からの出来事を出来るだけ詳しく話して聞かせた。
「どうだい。みんなわかったかい。だから詰まるところこうなるんだ。今度の事件は一切合財、みんな偶然の出鱈目(でたらめ)ばかりで持ち切っているんだ。吾輩が断髪令嬢の御秘蔵の犬と知らずに掻(か)っ払(ぱら)ったのも偶然なら、その犬を断髪令嬢の恋敵(こいがたき)の医学士の所へ持って行って売付けたのも偶然だ。しかもその犬が世界に二匹と居ない名犬だったのも偶然なら、その犬が肺病の第三期にかかったのも偶然。そこへ羽振医学士が又、偶然に来合わせて、吾輩が振りまわす拳固(げんこ)を高い鼻の頭で受け止めたのも偶然だ。つまるところ、そこに神様の思召(おぼしめし)が働いているに違いないと思うんだが、ドウダイ議員諸君……」
 議員諸君が顔と顔を見合わせ始めた。
「まあ……羽振っていう人は、あのウチへ来る医学士さんじゃないの……男ぶりのいい……ねえ女将(おかみ)さん」
「あのバレンチノさんよ。ね、お神さん。キットそうよ」
 女将が眼を白くして首肯(うなず)きながら襟元を突越した。椅子の上から一膝(ひとひざ)進めた。
「まあ。只今の先生のお話は、みんな本当で御座いますの」
「何だ。今まで作りごとだと思って聞いていたのかい」
「……ド……どこに居りますの。その医学士は……憎らしい」
「オットット、そう昂奮するなよ。何も直接にお前たちと関係のある話じゃないだろう」
「それが大ありなんですよ、馬鹿馬鹿しい」
 と女将が大見得(おおみえ)を切った。
「ふうん。女将さんと関係があるのかい」
「あるどころじゃないんですよ、阿呆(あほ)らしい。あの羽振といったらトテモ非道(ひど)いカフェー泣かせなんですよ。男ぶりがいいのと、医学士の名刺に物をいわせて、方々のカフェーを引っかけまわって、この家(うち)にだっても最早(もう)、二百円ぐらい引っかかりがあるんですよ。新店(しんみせ)だもんですから、スッカリ馬鹿にされちゃったんですよ。口惜しいったらありゃしない」
「フーム。そんな下等な奴だったのかい、アイツは……そんならモット手非道(てひど)く頬桁(ほおげた)をブチ壊してやれあよかった」
「そして……ド、どこに居るんですか」
「多分、耳鼻咽喉科かどっかに入院しているだろう」
「……あたし行って参りますわ。直ぐそこですから……ちょっと失礼……」
「ちょっと待て……」
「いいえ、棄てておかれません。今まで何度となく勘定書を大学に持って行ったんですが、どこに居るかサッパリわかりませんし……タマタマ姿を見付けても案内のわからない教室から教室をあっちへ逃げ、こっちに隠れしてナカナカ捕まらないのですよ。入院していれあ何よりの幸いですから……ちょっと失礼して行ってまいります」
「ま……ま……待て……待てと云ったら……いい事を教えてやる。確実に勘定の取れる方法を教えてやる。アイツは現金なんか持ってやしないよ」
「それはそうかも知れませんわねえ」
 女将は、すこし張合抜けがしたように椅子へ引返した。
「それよりもねえ、彼奴(あいつ)の親父の処へ勘定を取りに行くんだ」
「まあ。彼奴の家(うち)を御存じですの……それがわからないお蔭で苦労しているんですよ。誰なんですか一体、羽振さんの親御さんは……」
「知らないのかい」
「存じませんわ。教えて下さいな」
「あの有名な貴族院議員さ」
「まあああああ――アアア」
 五六人の女が部屋の空気を入れ換えるくらい大きな溜息をした。そのマン中に女将は頭を下げた。
「ありがとう御座います鬚野先生……ありがとう御座います。それさえ解れば千人力……」
「ま……ま……まあ早まるな。相手の家はわかっても、なかなかお前たち風情(ふぜい)が行って、おいそれと会ってくれるような門構えじゃないよ。万事は吾輩の胸に在る。それよりも落付いて一杯注(つ)げ……ああいい心持になった。どうも婆(ばばあ)のお酌の方が実があるような気がするね」
「お口の悪い。若い女でも実のあるのも御座いますよ。ここに並んでおります連中なんか、上海でも相当の手取りですからね」
「アハハハ。あやまったあやまった。お見外(みそ)れ申しました。イヤ全くこんな酒宴(さかもり)は初めてだ」
「日本は愚か、上海にも御座いませんよ」
「ところでどうだい。最前からの話の筋の中で、羽振医学士の方は、吾輩の拳骨一挺で簡単に型が付いた訳だが、今一人居る断髪令嬢の許嫁(いいなずけ)の小伯爵、唖川歌夫の方はドウ思うね、諸君。その親孝行の断髪令嬢のお婿(むこ)さんに見立てて、差支え無いだろうか。吾輩は赤ゆもじ議員諸君の御意見通りに事を運びたいのだが……」
「ほんとに貴方は神様みたいなお方ですわねえ。何もかも見透して……」
「ところが、今度の事件に限って吾輩は、すこし取扱いかねているのだ。未だその断髪令嬢の涙ながらの話を聞いただけなんでね。唖川小伯爵がドンナ人間だか一つも知らずにいるんだ。そこへ取りあえず羽振医学士にぶつかって、コイツはイケナイと気が付いたから、筋書の中から叩き出してしまった訳なんだが、しかし、これから先がどうしていいかわからないので困っているんだ」
「まったくで御座いますわねえ、わたくし共でも、見当が付きかねますわ」
「ウム。だから実は君等にこうして相談してみる気になったもんだがね、一つ考えてくれよ。いいかい。この吾輩が詰まるところ運命の神様なんだ。そうして君等の指図通りにこの事件の運命を運んでみようと思ってこうして相談を打(ぶ)っているんだ。ドンナ無理な筋書でも驚かない。ドンナ無鉄砲な場面でも作り出して見せようてんだから、一つ大いに意見を出してもらいたいね」
「……センセー……ホントに妾(わたし)たちの考え通りにして下さる?」
 吾輩の横に腰をかけていた一番若い、美しい、切前髪(きりまえがみ)の娘が瞳(め)を光らして云った。
「するともするとも。キットお前達の註文通りに筋書を運んで見せるよ。実物を使って実際に脚色して行くという斬新奇抜、驚天動地の世界最初の実物創作だ。喜劇でも悲劇でもお望み次第に実演させて見せる……」
「でもねえ先生……」
 女将の横に居る肥(ふと)っちょの一番肉感的な女が、細長い眉を昂(あ)げて、薄い唇を飜した。
「あたし疑問が御座いますわ」
「あたしもよ……どうも初めっからお話が変なのよ」
「あら、あたしもよ」
「ほう、みんな吾輩の話に疑問があるって云うんだな。ふうむ、面白い。念のために断っておくが、俺はチットばかりアルコールがまわりかけている。しかしイクラ酔っ払っても、話を間違えた事は一度も無い男だぞ」
「アラ、先生。そうじゃないんですよ。先生のお話がヨタだなんて考えてるんじゃありませんわ。先生のお話が真実百パーセントとして聞いても、あたし達の常識が受け入れられないところがあるから……」
「ウワア、こいつは驚いた。恐しく八釜(やかま)しいのが出て来た。何かい、君は弁護士試験か、高文試験でも受けた事があるのかい」
「そんなことありませんわ。これだけ五人でお給金を貯(た)めて上海の馬券を買って、スッカラカンになったことがあるだけですよ」
「イヤ、これはどうもオカカの感心、オビビのビックリの到りだ。君等にソレだけの見識があろうとは思わなかった」
「まったくこの五人は感心で御座いますよ。上海でこの店が駄目になりかけた時に、五人が腕に撚(より)をかけて、旦那を絞り上げて日本へ帰る旅費から、この店を始める費用まで作ってくれたので御座いますよ」
「……吾輩……何をか云わんやだ。この通りシャッポを脱ぐよ。君等こそプロレタリヤ精神の生(き)ッ粋(すい)だ。日本魂の精華だ。人間はそうなくちゃならん。その精神があれば日本は亡びてもこの了々亭だけは残るよ」
「そんな事どうでもいいじゃありませんか先生。それよりも今のお話ですね」
「うんうん。どこが怪しい」
「怪しいって先生……その唖川歌夫っていう人も、いい加減気の知れない人ですけど、そのコンクリート市会議員の断髪令嬢っていうのが、一番怪しい人物だと思いますわ」
「ふうむ。これは驚いた。何で怪しい。この事件の女主人公(ひろいん)が怪しいとは言語道断……」
「あたし久し振りに日本に帰って来たんですから、今の女の人の気持はよくわかりませんけどね、ソンナに内気な親孝行な人が、そんな年頃になるまで断髪しているものでしょうか……許嫁の人から貰った犬が居なくなったといって泣くような人が……」
「フウウム、これは感心したな。ナカナカ君等の観察は細かい。そこまでは考えなかった」
「ええ、きっと眉唾もんよ、そのお嬢さんは……」
「あたし日本の断髪嬢嫌いよ、テンデ板に附いていないんですもの。汚ない腕なんか出して……」
「アハハ、これあ手厳しい」
「当り前よ。腕を出すんなら子供の時分から腕を手入れしとかなくちゃ駄目よ。イクラ立派な肉附きの腕だっても、葉巻のレッテルみたいな種痘(ほうそう)のアトが並んでいたり、肘(ひじ)の処のキメが荒いくらいはまだしも、馬の踵(かかと)みたいに黒ずんで固くなって捻(つね)っても痛くも何ともないナンテいう恐ろしいのを丸出しにしているのは、国辱以外の何ものでもアリ得ないと思うわ」
「ヒヤア、これは恐れ入った。国辱国辱、正に国辱。銀座街頭の女はみんな落第だ」
「上海の乞食女(やち)にだってアンナのは一人も居やしないわ。どんな男でもあの肘の黒いトコを見たら肘鉄(ひじてつ)を喰わない中(うち)に失礼しちゃうわ」
「断髪だってそうよ。櫛目のよく通る日本人の髪を切るなんてイミ無いわ」
「まあ待て待て。脱線しちゃ困る。ほかの断髪嬢ならトモカク、あのテル子嬢の断髪なら、お母さん譲りだけあってナカナカ板に附いているぞ」
「おかしいわねえ。そんなお母さんだったら娘さんはイヤでも反感を起して日本髪に結(ゆ)うものだけど……妾(わたし)ならそうするわ」
「ちょいと先生。その伯爵様っていうのも妾、何だか怪しいと思うわ。先生のお話の通りだったら」
「フウン。容易ならん事がアトカラアトカラ持上って来るんだな、これあ。どこが怪しい、名探偵君……」
「だって、そんな冷淡な許嫁なんか恋愛小説にだって無いわ。せいぜい一日に一度ぐらいは訪ねて来なくちゃ嘘よ」
「それにねえ先生。その断髪令嬢のお父さんのコンクリート氏が引っぱられてからというもの、一度もそのお河童(かっぱ)さんの処に訪ねて来ないなんて、よっぽどおかしいわ」
「ねえ先生。これを要するにですねえ、先生」
 女将はボオッと来ているらしい。しきりに舌なめずりをして眼を据えた。
「ウフウフ。これを要しなくたっていいよ」
「いいえ。是非ともこれを要する必要が御座いますわ。どうも先生の仰言(おっしゃ)る実物創作の筋書っていうのは、カンジンの材料(テーマ)が二割引だと思いますわ」
「ヒヤッ。材料(テーマ)とおいでなすったね。どこでソンナ文句を仕入れたんだい」
「あたしの二代前の亭主が小説家だったんですもの。自然主義の大将とか何とか云われていたんですけど、創作なんか一度もしないで、実行の方にばかり身を入れちゃって、とうとう行方知れずになったんですからね。材料(テーマ)って言葉は、その悲しい置土産なんですの」
「ふむ。自然主義なら吾輩にもわかるが、とにかくこの創作を完成しなくちゃ話にならん」
「駄目よ先生。そんな創作無いわよ。モウすこし人物を掘下げてみなくちゃ。中心になっているお河童さんの恋愛だって、本物だかどうだか知れたもんじゃないわ」
「ウーン。そういえば何だか吾輩も不安になって来た。一つ探偵し直しに行ってみるかな」
「どこから探偵し直しをなさるの」
「さあ。そいつが、まだ見当が附いていないんだ。もう一度あのお河童令嬢に会ってもいい。犬のお悔みを申上げてお顔色拝見と出かけるかな」
「駄目よお、先生。又欺(だま)されに行くだけよ。第一印象でまいっていらっしゃるんですからね、先生は……」
「ねえ先生。思い切って小伯爵のお父さんか、お母さんに会って御覧になってはどうでしょう。そうして何も彼(か)も打明けて、意見を聞いて御覧になっては如何(いかが)でしょう」
「よし。それじゃ方針がアラカタきまったから出かける事にしよう」
「まあお待ちなさいよ。そんな恰好で入(い)らっしたって会えやしませんよ。伯爵なんてシロモノは……今電話をかけて来ますから……自動車を奢(おご)って上げますからね」
「エッ。自動車を奢る?」
「ええ。羽振の居所を教えて下すった、お礼ですよ。……まあ聞いていらっしゃい」
 女将が何かしらニコニコ笑って立上った。コック部屋の横の帳場に坐り込むと、電話帳を調べてから念入りにダイヤルをまわした。
 特別に品のいいオリイブ色の声を出した。
「モシモシ、モシモシイ。唖川伯爵様のお宅でいらっしゃいますか。ハイハイ、コチラはねえ、アノこちらはねえ、大学前の自働電話で御座いますがねえ……ハイハイ。私はねえ、唖川様の若様を存じ上げております女で御座いますがねえ……」



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2005年11月29日

   拳骨辻占

「まあ……どうも飛んだ失礼を致しまして……場所慣れない若いものばかりなもんですから……お見外(みそ)れ申しまして……さあどうぞ……ほんとにお久し振りでしたわねえ。御無沙汰ばかり……」
「馬……馬鹿云え。お珍らしいって俺あ初めてだぞ。お前みたいな人間には生れない前から御無沙汰つづきなんだぞ……テンデ……」
「オホホホホホホホ……」
 女将の嬌笑が暗い部屋に響き渡った。その背後(うしろ)の浅黄幕(あさぎまく)の間から、ビックリ人形じみた女たちの顔が、重なり合って覗いている。
「オホホホ……恐れ入ります。まったくで御座いますよ先生。この町中の水物屋(みずものや)で、先生のお顔を存じ上げない者は御座いませんよ」
「ハハア。俺に似た喰逃(くいにげ)の常習犯でも居るのか……」
「まあ、御冗談ばかり……それどころでは御座いませんよ先生。先生のお払いのお見事な事は皆、不思議だ不思議だって大評判で御座いますよ」
「ううむ。扨(さて)は夜稼(よかせ)ぎ……という訳かな」
「そればかりでは御座いませんよ。いつも一杯めし上ると声色(こわいろ)使いや辻占(つじうら)売り、右や左なんていう連中にまで、よくお眼をかけ下さるので、そのような流し仲間では先生のお姿を拝んでいるので御座いますよ。先生は福の神様のお生れ変りで、いつもニコニコしておいでになるから縁起(えんぎ)がよいと申しましてね。どこの店でも心の中で先生のお出でを願っているので御座いますよ先生……」
「……ああ、いい気持ちだ。汗ビッショリになっちゃった。本気にするぜオイ……」
「嫌(いや)で御座いますよ先生。私がまだ十一か十二の時に、両親の病気を介抱しいしいコチラの遊廓で辻占を売っておりました時分に……」
「アッ。君はあの時の孝行娘さんかえ。これあ驚いた。そういえばどこやらに面影が残っている。非道(ひど)いお婆さんになったもんだね」
「まあ。お口の悪い……でも先生はあの時からチットも御容子(おようす)がお変りになりませんわね。昔の通りのお姿……」
「アハハ。貴様の方がヨッポド口が悪いぞ。変りたくとも変れねえんだ」
「アラ。そんな事じゃ御座いませんわ」
「おんなじ事じゃないか」
「……でも、そのお姿を見ますとあの時の事を思い出しますわ。『ウーム。貴様が新聞に出ていた孝行娘か。こっちへ来い。美味(うま)いものを喰わせてやる』と仰言(おっしゃ)って、お煙草盆に結(ゆ)った私の手をお引きになって、屋台のオデン屋へ連れてってお酌をおさせになるでしょう。それから私の手をシッカリ掴んで廓の中をよろけ廻りながら御自分で大きな声をお出しになって『河内(かわち)イ――瓢箪山(ひょうたんやま)稲荷(いなり)の辻占ア――ッと……ヤイ。野郎……買わねえか』と云う中(うち)に通りすがりの御客を、お捕まえになるでしょう。あんな怖い事は御座いませんでしたわ。『何をパチクリしていやがるんだ篦棒(べらぼう)めえ。マックロケのケエの手習草紙みたいな花魁(おいらん)の操(みさお)に、勿体ない親御様の金を十円も出しやがる位なら、タッタ二銭でこの孝行娘の辻占を買って行きやがれ。ドッチが無垢(むく)の真物(ほんもの)だか考えてみろ。ナニイ、五十銭玉ばっかりだア。嘘を吐(つ)け。蟇口(がまぐち)を見せろ。ホオラ一円札があるじゃないか。コイツを一枚よこせ。釣銭なんかないよ。お釣が欲しかったら明日(あした)の朝、絹夜具の中で花魁から捻(ね)じ上げろ。ナニ、高価(たけ)え?……シミッタレた文句を云うな。勿体なくも河内瓢箪山稲荷の辻占だ。罰が当るぞ畜生。運気、縁談、待人、家相、病人、旅立の吉凶(よしあし)、花魁の本心までタッタ一円でピッタリと当る。田舎一流拳骨(げんこつ)の辻占だ。親の罰より覿面(てきめん)にアタル……この通り……ポコーン……』とか何とか仰言って、買ってくれた人の横ッ面(つら)を……」
「ハハハ。そんな事があったっけなあ。酔払っていたものだから忘れてしまったわい」



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