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2008年08月

第十二回特別講習会

講師 鎗田 勝司
内容 陳式太極拳老架一路と推手および用法
日時 9月14日(日) 15:30〜18:00
場所 文京スポーツセンター 
一階 多目的室
 〒112-0012 東京都文京区大塚3-29-2 
(TEL.03-3944-2271)
受講料 2,000円

*詳細は事務局までお問い合わせください。

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2008年9月練習日程

9月7日 通常練習(西神田コスモス館 13:30〜)
9月14日 第十二回特別講習会(文京スポーツセンター 15:30〜)
9月21日 通常練習(西神田コスモス館 13:30〜)
9月28日 通常練習(西神田コスモス館 13:30〜)

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特別講習会の感想

 「三日坊主」の私ですがいつの間にか太極拳歴10数年になろうとしています。一年ほど前から中でも陳式太極拳の練習時間が多くなりました。太極拳が身体に無理の無い動きだった事と、習うにつれ奥深い技術と妙味に引かれた事が長続きの要因かと思います。
 通っている教室や講習会の方達と楽しく練習できた事、私の出逢った指導者は皆、人格的、技術的に尊敬できる方達だった事も幸運でした。日々の生活の中で、息抜きの場、週1〜2回程度の階段の踊り場的役割を担ってくれたので続いたのでしょう。
 先日の講習会では套路〜用法〜推手と流れの中で動作の意味を理論的に確認する事が出来ました。自分の太極拳の欠点、間違った思い込みを発見させてくれます。また失礼かとおもいますが、一連の練習は遊び感覚で楽しみつつも 用法が学べました。
 今後とも、よろしくお願いいたします!

 (A.Hさん よりいただいた特別講習会の感想です)


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ニュータイチを求めて

ニュータイチを求めて


東京陳式太極拳倶楽部 代表
鎗田 勝司



 現在、中国本土が中心となり、世界に広めようとしている武術(ウーシュウ)。それは闘うことなき型の勝負であり、いかに見せるか、難易度の高い技をこなせるかを競う、競技化した体操である。それはそれで武術のひとつの発展した形であり、私はそれについてどうこう言うつもりはない。
 しかしながら、中国武術はすぐれた戦闘技術、格闘術であり、日本の武道に勝るとも劣らない武技だと体験的に信じている私にとって、日本では 一部の門派を除いてはほとんど格闘技として認められていない現状は、あまりにも中国武術の本当の魅力が知られていないアンバランスな状態であり、健全な発展をしているとは思えない。こういうと伝統の中国武術をやっている人々から反論されるかもしれない。われわれも格闘技として当然使える武術をやっているのだと。しかし、門外漢である他の格闘技の人たちから見ると型だけ練習している武術をほんとうに実戦的だと思っている人は少ないし、実際に型と用法を知っているだけで戦えると思っている自己満足派が日本に多いのが現状なのである。怪しい中国武術まがいの師範が他の格闘技の若者に手も足も出ずやられたり、テレビという公開の場でも中国武術は空手にほとんど歯が立たない姿をさらしたりしているのである。
 私は、これはひとえに日本の中国武術の指導者に問題があると思っている。表演武術、健康法を含めて型を演じることを楽しむ運動としての武術、護身術としての武術、また散打のような格闘試合の選手を目指す武術と、さまざまな武術の取り組み方があるなかで、自分が何を教えているかをはっきりとさせていくことが日本の中国武術の指導者に求められていることなのであり、このことは日本における中国武術の普及を考える上で最重要なことだと私は思っている。しかしながら、日本ではここのところがあいまいな指導者が多い。中国からいらしている老師たちの多くは、このことを区別してきちんと教えているのに、肝心の日本の指導者たちがあいまいな、幻想の中にいるため、部外者から見ると非常にわかりにくいのだ。
 中国武術の日本における普及について考える時、非常に興味深い例がある。それは中国武術の源流を持つ空手である。ここでちょっと空手の本土における普及の歴史の一端を紐解くことによって、日本の中国武術とくに太極拳の未来の姿を模索する参考に供したい。

 現代では最も実戦的な武術といわれている空手が本土にはじめて紹介されたのは、大正11年の5月、当時の文部省主催の第一回体育展覧会のときであった。紹介された当初は現代における太極拳のように、単独で行なう型はいくつか紹介されていたが、空手の武術としての実力は神秘的なものとされていた。(ちなみに当時空手は唐手〔とうでぃ〕と表示されていた。唐手が空手になったのは「唐」は当時の日本にとっての敵国であった中国を意味したため、大日本武徳会に意向により空手に改められた)唐手は一人で行なう単独型中心の鍛錬であり、実際の組み手への応用は確立しておらず、一部の実戦的な沖縄の空手家たちは、「掛け試し」といわれる自分の実力を試すために行なう辻斬りのようなもので腕を磨いた。今でいえば歌舞伎町や池袋の繁華街で屈強そうなやつに喧嘩を売るようなものである。とにかく、日本武術で行なうような、相対練習ではなく、単独型の練習が主な唐手は、一人でも練習ができるという利点があるが、反面技を自分勝手に解釈し、自己満足に陥り、実戦の場での応用はむずかしいという欠点を含んでおり、「掛け試し」をするような度胸や喧嘩の天才でないかぎり、戦い方の基本を習得するのは困難だったのである。唐手が相対練習としての体系が整うのは本土に渡って、本土の武術と接してからだといわれるが、対人練習を主とする本土の武術、とくに柔道あるいは柔術に大きく影響されたようである。
 唐手の本土普及当初、実戦唐手家といわれた本部朝基は、掛け試しによる経験から、型を分析、その使用法を“琉球拳法唐手術・組手編”として大正15年に著すが、この本は単独型に飽き足らなくなった本土の唐手研究者に歓迎されたそうである。
 本土に初めて唐手を紹介した富名腰義珍が、当時の柔術経験者の弟子たちと協力を得て、対人練習を含んだ練習体系を発表したのは、昭和10年発行の“空手道教範”においてである。このように現代一般的な空手の練習体系にある、一本組手・三本組手、自由一本組手、自由組手などは昭和になってから取り入れられた練習方法であり、もともと空手の練習にあったものではなかったのである。
 このように現代では日本武道に大きな位置をしめる空手道といえども日本の武術として根付く過程では、やはり日本(本土)なりのやり方、工夫、研究が必要なのであった。
 空手は、後にも他の武術や格闘技との交流により、さまざまな形で発展し、今日の興隆を見る。
 (この項「本部朝基と琉球カラテ」岩井虎伯著 を参照させていただいた)

 さて、この空手の歴史の事例は現代の中国武術の日本における普及、発展に大変参考になると思うのは私だけであろうか。
 中国武術といえばまず套路である。昔日の武術家が実戦の経験から套路という一つの記号化した型に、その門派の技術や戦闘思想を盛り込んだ。もともと套路そのものは人に見せるものではなかったことはいうまでもない。むしろ、人に見せないように練習するのが常であったし、また一見しただけではその使い方がわからないように意識的に隠していた部分もある。伝統の武術といって伝統の套路を練習していてもこの本質が理解できないと、套路と用法を理解すれば、空手や柔道のように使えるという思い違いが起こることになるのである。
 私は、空手の歴史をみればわかるように(空手も源流は中国武術であるが)、対人練習を抜きにして格闘技としての武術としては語れないと思うし、武術の本来の意味である護身術として練習するならば、ある程度まで、相手の動きに反応する練習は必要だと思う。
 中国武術には推手のように非常に優れた対人練習法があるにもかかわらず、現代では形式化してしまい、型を覚えることが主で、武術的な理合や反応について語られることは少ない。
 套路練習は先にも述べたように、門派の技、戦闘理念、理合を理解するために最重要な練習であることは間違いない。套路の練習は、身体を動かすことによって内面から門派を理解するものであり、ここが外からどう見られるかという表演武術と格闘を本質とする武術の違いなのである。
 近年、「散打」が中国武術愛好家の中でも行なわれ、一部では試合も行なわれている。これはこれで中国武術の一つの競技スポーツとしての発展的な形であり、望ましいことであると思うが、この「散打」にこだわるあまり套路は不要であるというようなことを言う人もいることには異論がある。私は、武術のスポーツ化ということ事態は意味のあることだと思うが、「散打」イコール中国武術だとは思っていないので、この説を受け入れることはできない。これも空手の普及に伴う歴史的変遷において、突く、蹴るという打撃系の技が強調されるあまり、型の持つ幅広い意味や技が失われたように、中国武術それぞれの門派がもつ特徴が失われる可能性があるし、しかもルールの範囲で技しか出すことができないとなれば、力の強いもの、身体が大きいものが有利になり護身術としての武術の本質をも失う結果になるであろう。
 意拳は日本において非常に実戦的であるといわれている。套路らしい套路はないが、站とう功を中心にした練習方法は決して限定した技しかないことを意味してはいない。むしろ套路にこだわらないだけに無限の変化をもっているといえる。歴史が新しいだけ現代的な格闘技に対応し、早くから散打のような組手練習を多く行なっているため、とくに実戦的だと言われるのであろう。しかし、本来武術はすべて実戦的なのだ。実戦的でなければ武術とは言わない。中国本土では武術のチャンピオンというのは表演選手をさすが、対人なくして武術ということに違和感を感じるのは日本人なら当然である。中国本土の伝統武術家たちも中国武術が世界的になった現在、対人の技を披露するようになってきたが、これは自然の流れであり、そうしなければ武術として世界に広まることはないだろう。
 
 日本の表演武術家の中には伝統的な套路を練習し、それなりに用法も理解して、あたかもその武術は実戦に有効であるがごとくマスコミなどで語る者がいるが、伝統の套路を練習して用法を知っているだけでは使えないのは、言うまでもない。動いている相手に技をかけるのが容易ではないことは少し組み手を経験すればわかることである。他の武道と同じで簡単に強くなる道はない。理屈ではなく、研究と練習が実のところ技の上達にとって一番重要なことなのである。
 また、たくさん套路を知っていることとその人の武技が優れていることとはまったく関係がないことも言うまでもないだろう。むしろ実戦的な武術家は、少ない套路を数多く練習している人が多い。

 表演武術と本来の格闘を目的にする武術はまったく別なものであり、それぞれ目的をしっかりと把握して、行なうべきである。そうしなければかえって弊害が生じるということを日本の指導者たちはしっかり認識する必要がある。大切なのはそれぞれの違いを認識した上で、それぞれの分野で深めていくことである。そしてその多様性こそが、中国武術のすばらしさであり、多くの大陸からの文化が日本において発展してきたように、現代的な意味をもたせた「武術」を我々の手でつくっていける可能性を、ここに見るのである。

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