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太極拳についてあれこれ

私見、日本の中国武術界の現状

私見、日本の中国武術界の現状


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 武術の神髄は目に見えないところにあります。勁自体は感じることはできても目で見ることはできません。それは電気に例えることができます。電気は目で見ることはできませんが、触れば感電します。電気そのものでは役に立ちません。そのエネルギーをコントロールし、明かりつけたり、車を動かしたりいろいろに応用することによって、生活に役立てることができます。電気を研究し、その性質を把握するからこそ人々の役に立つのです。
 勁も同じで、勁力をつけることも大事ですし、それを応用することも大事で、運動という目に見える形で何らかの現象を生み出すことによって、実際に使うことができるのです。
 武術として套路を学ぶことは、この勁を理解するために練習するといっても過言ではありません。というより、この目的こそ大事であり、どの套路を選択するかは問題ではありません。同じ先生から習っても人によって型が違うこともこれで理解できます。また用法においても先生によって違うことも同じ理由から説明ができます。基礎ができれば応用は個人個人で違うのはどの芸でも同じでしょう。しかるに、表演や体操でやっている人の多くはこの理解ができていません。先生の研究の結果である新しい型を後生大事に定期的に習えばその道の権威者になるというおかしな現象があるのは日本だけではないでしょうか。このような行為からは決して套路の本質を理解することはできません。もう少し先生の修業の歴史というものを理解すべきだと思います。ちなみに、戦う時に勁をはっきり見せるバカはいません

 私は太極拳を表演や体操としてやるな、と言っているわけではありません。目的もはっきりしないで、あいまいな意見を言えば習う人は混乱します。つまり日本の指導者に問題があると私は思います。(もちろんすべての指導者ではありません。)はっきり言えば、欧米では陳式太極拳も含め、中国の武術を武術として習う人が多くなっているのに、いまだに日本では武術としてのステイタスが確立していません。受け入れてきた歴史は世界の中でも古いのに、武術としての研究は他の国に負けていると言わざるをえない状況だと思います。

 もともと日本にはさまざまな格闘技があり、空手にしてもさまざまな格闘技の要素をいれた新しい流派が生まれるというように、より強いものを求めて柔軟性を持って世界に発信していくという風土があります。中国の伝統武術は本当に素晴らしいものですが、型を保存するだけなら宝の持ち腐れです。
 
 先日の松田先生の三回忌の追悼表演会では、真摯に武術として修業されている方々と交流ができ、本当に素晴らしい時間を過ごすことができました。これからも機会があれば、お付き合いさせていただきたいと思っています。

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武術と精神とのかかわりについて

武術と精神とのかかわりについて


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 太極拳を武術として鍛錬するときに、すなわちルールに基づいたスポーツ競技としてではなく、日常いつ起こるとも限らない状況に対処するために身体反応を鍛錬するときに、忘れてはならないことは、やはり精神との関わりであろう。どのような心構えで日常を過ごし、いざという時に冷静に対処し、的確な行動が取れるかということである。とは言うものの実際にその時になってみなくてはわからないというのがほんとうのところである。できるだけ危機管理意識を持ち、練習に励むしかない、ということだ。
 そこで今回は武術と精神の関わりについて私見を述べてみたいと思う。

 「備えあれば憂いなし」というが、人の心に憂いがある限り、いくら備えても安心だということはない。逆説めいた言い方だが、武術においては技術だけではなく、精神もやはり鍛錬が必要だということだ。武術は、健康法としてやる、組手が好きだからやる、型を演じるのが好きだからやる、というようにさまざまな目的があってもちろんいいのだが、学ぶ課程においては実用を意識しなければ、太極拳から「武術的な智恵」を学ぶことはできない。実用を意識するということは、なぜそのような動きが武術にとって必要なのか、そこに表現されている理合とは何かを探りながら練習することを意味する。その過程で見えてくるものは、それは言い古された言葉ではあるが、やはり「精神と肉体は一つである」ということであり、そのどちらもおろそかにしてはならないということなのである。

 武術の練習をする時に、肉体だけではなく、意識して精神を鍛錬することは重要であるが、物理的な法則を理解したうえで、合理的な動きを学ぶということは、同時に精神の法則というものを学んでいるといえるのではないだろうか。つまり物理の法則は、精神の法則と同じ原理でなりたっているのではないか、ということだ。私は武術、とくに散手や自由推手をやっているときにこのことをしばしば感じるのである。我々の倶楽部で行う散手とは試しの場であり、目の前の勝ち負けは、一つの結果として次のステップへの課題を発見する材料として行っているのだが、勝ち負けにこだわらず、相手との技のやり取りのなかでできるだけ客観的にその時の自分の気の持ち方を振り返ってみると、作用反作用の法則や、慣性の法則、同じものを引き付けたり、反発しあったりという磁力の法則が、気持ちの上でも作用していることに気づくのである。しかもその気持ちの状態は技の効果に大きく作用する。中国の武術用語としての「気」は、日本人には分かりづらい部分もあるのだが、このように考えるとイメージしやすいのではないだろうか。気をあわせる、気をはずす、気を引くなどの言葉は、「気持ち」というものを力学的に表現したものだ。そして気を自由自在に使うためには、自分を客観的に見ようとする気持ち、すなわち冷静で澄んだ精神が必要とされるのである。この精神と人間行動のあり方こそ、「精神の科学」または「精神の力学」と呼んでもいいものではないかと思うのだ。

 私はこの倶楽部では多くの技を教えるが、学生の皆さんにそれら一つ一つの技に精通してもらいたいと思っているわけではない。よほどの天才が武術一筋に努力しない限り、そんなことは不可能だろう。私が多くの技を教えるのは、そこに流れている技の原理を理解してもらいたいからである。中国武術の技とは套路の動きからうまれる。重心の動きと全身を使った力の流れから技が生まれるので、それは常に変化している。その変化こそが技なのである。それらは物理で学ぶ力学から離れるものでは決してない。
 太極拳の技は千変万化だ。朱天才老師はかつて日本の講習会で「太極拳には技はない。あるのは変化だけだ」とおっしゃっていた。きまった技があるというより、その状況に応じた動きこそが技につながるのである。形にこだわっているうちはとっさの状況に対処することはできない。

 多くの技から共通の理を探るのは、あたかも多くの人のさまざまな人生から、人間としての基本的な生き方を求めるようなものである。
 科学が、人種、思想、男女の違いを超え、人類共通の福利をもたらすことを理想とするならば、私の武術修行も科学的方向性を持ったものでありたいと思っている。しかしながらその科学も用い方をあやまれば人をたいへん傷つけることがあるように、武術もそれを扱う人によっては毒にも薬にもなるものである。武術を鍛錬する時に、技と共に精神を学ぶ意義もそこにある。武術は人間を野生化するものではなく、人間として生きる智恵を身につけるためのものでなければならない。
 よく鍛錬し、技が使えるようになると今度はその技術をつい使いたくなるものである。しかしながら、われわれ武術を学ぶ者は、技の原理を理解することによってその技術をコントロールできるようになるのと同じように、精神の理を学ぶことによって自分自身の心をコントロールできるようにする必要がある。
 戦うべき相手は実は自分自身であり、武術をもって精神を鍛錬するということは、己を最大の敵とみなして、エゴとの戦いに臨むことを意味する。こんな風に私は思っているのだが、皆さんはどう思われるであろうか。

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套路の重要性について

套路の重要性について


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 この倶楽部も立ち上げからもうすぐ3年になる。会員数は多くはなく、入ったり来なくなったりで、特別講習会を除けば、通常練習に来ているのは6人〜8人くらいのものである。常に来る人は時々参加する人と比べると格段の差でうまくなっているので、やはり武術は地道に続けることが大切だとつくづく思う。はじめたころは覚えが悪く、いつまで続くかなあ、と思っていた人も、長く続けていると確実に強くなっている。もちろん才能ということも関係がないわけではないだろうが、上達の速い遅いがあっても続けられるということ自体、一つの才能といえるのかもしれない。
 人数が少ないということで毎回毎回お互いに研究しあいながら、技の向上に努めやすい反面、自由推手や散手では、やっている相手がいつも同じなので、手の内がわかっている者同士なかなか思った技がかからない。本倶楽部の散手練習は、勝ち負けよりも自分の思うとおりの動きを研究する場、と位置づけてはいるが、やはり相手に向かうとお互いに勝とう勝とうという意識がでてくるので、思いきった技が出しにくくなるものである。そこをいかに乗り越えるかというのが個々の課題となる。そんな状況のなかで時々体験に来る他の格闘技経験者との軽い組み手や推手は、我々にとって大変に刺激になり勉強になる。私自身中国武術以外の格闘技経験がほとんどないので、他武道経験者の会員の方から多くを学んでいる。
 どのような武術も、その歴史にはさまざまな武術との交流があったはずであり、基本原理は変わらないとしても、技自体は変化していくのが自然だと思っている。現代における空手などはそのよい例で、伝統空手、フルコンタクトの空手、さまざまな格闘技の要素をいれた総合格闘技的な空手など多種多様な考えを持った先生方によって多くの流派が生まれ、技も多様化してきている。それを発展と呼ぶかは意見の分かれるところだと思うが、時代を反映しつつ柔軟に変化していることは、私はすばらしいことだと思っている。中国武術も同じで、門派が確立するまではさまざまな武術を研究し、取り入れていたはずである。このことは陳家溝の武術の歴史を紐解いてもわかることである。要は強くなる理を求めるということであろう。
 私は単純に古い武術がいいとは考えないし、伝統をそのまま継承することにこだわるつもりもない。我々の目指すところは「伝統芸の保存」ということとは違うのである。

 さて、この倶楽部は陳式太極拳をベースした中国武術を練習している団体であるので、陳式太極拳での戦い方もしくは陳式太極拳を武術として使えるような身体能力づくり、ということを中心に練習をしている。そのため套路練習は必須であり、套路の上達によって技が活きてくるようでなければならない。もちろん「套路の上達」というのは表演の試合で高い点数を取ることとイコールではないことは言うまでもない。しかしながら私は武術として太極拳をやるのなら、表演選手以上に套路にこだわり套路練習に時間をかけるべきだと思っている。

 この倶楽部での練習では、比較的対人練習時間が長い。すなわち、推手とその応用、関節技を含む套路の用法などを套路練習と同じくらいの時間をかけて練習をする。およそ3時間の練習のうち90分以上は対人練習をしているのである。しかしこれは決して套路練習を二の次に考えているわけではなく、ひとり練習は普段の日々のなかでもできるので、相手のいる時に対人練習をやっておこうというにすぎない。基本は套路練習であり、練習中は套路のチェックももちろん行なうし、会員の方たちには次回までに教えたところは充分に自分で練習してきてほしいと思っている。そうしなければまた元に戻ってしまい、先にすすむことができない。套路を覚えてからが練習なのだ。
 しかしながら、往々にして他の武術、特に日本の武術をやっている人に多いのだが、套路練習よりも対人練習ばかりに興味を持ち、套路を覚えるのは二の次、というより覚えようとさえしない人がいる。このような練習態度では、中国武術、特に太極拳のような武術の本質を理解することは決してできない。用法を習うことによって技を多少使えるようになったとしても、結局は力んだ状態で技を使う、いわゆる力任せの技で満足してしまい、太極拳本来の動きから生まれる自然の力を利用した使い方を理解することはできないのである。結果をあせっては本来の効果を得ることはできないのだ。

 套路を学ぶことにより、バランス感覚、力の緩急、瞬間的な爆発力、ある部分に力を集中させる能力、よどみのない動きなど多くの能力が養われる。太極拳における真の放松(ファンソン)の効果によって、これらが養われるのである。放松の効果は大変に深く、練習すればするほどその効果が肉体を通じて感覚的に理解できるので、練習せずして理屈だけで太極拳を理解することは不可能である。その効果を言葉で簡単に説明することはできない。練習の過程でさまざまな発見があるので、いくら同じ套路を繰り返しても新鮮さが尽きることがないのが太極拳の套路なのだ。
 多くの技の中にある普遍の原理を追究するところに私は太極拳をやる意義を感じている。まさにそれは武術の先達たちが目指した最高の境地、すなわち宇宙普遍の原理を探すことに通じるのかもしれない。

 武術として太極拳をやるのであれば、套路練習をよくやっていただきたい。いきなり悟ることを期待するよりも少しずつでもいいから地道に練習をかさね、進歩していただきたいとこれからこの道に入る人に、切に願う次第である。

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東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 今年の夏休みは、車で出かけることが多かった。サンデー・ドライバーの私は長距離の運転が苦手だ。長く運転していると疲れてしまう。運転している時は、アドレナリンが出続けていてとまらないかと思えるくらい神経が張りつめた状態でいる。もう少し運転を楽しくリラックスしてやれればといつも思うのだが、なかなか慣れない。
しかしこの夏休みは比較的長距離を走ったせいか、車を運転することが少し楽しくなった。長く運転したので身体が慣れたと言えなくもないが、それでも運転した後はどっと疲れが出たので、楽ではないことは変わらない。それならばなぜ運転することが楽しくなったのだろう。
 そこのところを自分でよくよく考えてみたところ、運転することそのものではなく、道を探りながら走るということが楽しい、ということに気づいたのだ。
 まだ一度も通ったことがない道を地図で探り、そこを実際に走る。知らない道を走っていると突然以前通ったことのある道に出て驚いたり、電車の中から見たときと車で走ってみたときとでは、同じ道でも景色がずいぶん違うことに気づいたりと、新たな発見とスリルを感じることが多かった。

 私の車にはナビがない。知らない道を行く時は、ロードマップと看板が頼りなのだ。だから時々道を間違えたり、思わぬ渋滞に巻き込まれたりする。そんなときはもちろんあせったり、イライラしたりする。しかし車を運転する人ならわかると思うが、道というものは間違うことによって覚えるものなのだ。まちがえついでにこの道行ってみるかなんて走っていると、意外な道につながっているのがわかったりして面白い。もちろん時間的な余裕がない時にはそんな暢気なこと言ってはいられないので、一応地図を頭に叩き込むのだが、地図にない新しい道ができていたり、地図に目印として書いてあるお店が変わっていたりして地図に頼っていると意外に危険なのである。曲がるべき道をまっすぐに行ってしまったり、行き過ぎて後戻りして、そしてまた迷ったりと余分な時間を費やしてしまう。ナビとは違ってタイムリーな情報の地図というのがないので、やはり最後は自分の感覚を頼りに行くことが多い。

 かつての日本人は何でも「道」とつけるのが好きであった。華道、書道などの芸事はもとより、武術においても柔術、剣術、合気柔術を、それぞれ柔道、剣道、合気道とした。「道」とつけることにより、先達たちは、技術を磨くことで人格形成の道としたのである。このような日本的な考え方を私はすばらしいとは思うが、現実としてこのような目的意識を持ち続けて修行することの難しさは、芸に精通した人が必ずしも人格的にも優れているといえない例が多いのを見ても、充分窺い知ることができる。しかしながら私はこのような考え方に意味がない、と言いたいわけではない。むしろ完全な人間はいないし、人格に優れているということも、何をもって優れているといえるのか、はなはだあいまいなものである。芸の追及が人を精神的に高めるかどうかは別にしても、何事においてもこうした目的意識を持たせようとさせる日本人の考え方に、私はたいへん共感を覚えるのである。

 人格の完成などは程遠い私だが、道を歩むということの楽しみ方を、車の運転から学んだような気がする。目的地を目指し、我々は先達たちが残してくれた地図を見ながら、試行錯誤をくりかえし、進んでいくのである。時には間違えた道を進み、おかしいなと思ったら、そこでまた考え、選び直してまた歩んでいく。まちがっていたと思ったことも実は正しいやり方のヒントになっていることもある。また遠回りの道もあれば、最短の道もある。最短の道だからといって、通りやすいかどうかはわからない。また通りやすいと思ったところが実はとんでもない方向に向かっていることもある。いやでも通らざるをえないこともあるだろうし、意外にいやだと思った道が楽なこともある。自分に合ったペースで、自分で選んだ方法で進んでいくしかないのである。

 師ができるのは、何かを教えるのではなく、弟子になにができるかを気づかせることだという。忘れてはならないことは、我々は自らの力で道を歩かなければならない、ということだ。師がすべての面倒を見てくれるわけではない。失敗を恐れることなく、目的に向かって歩いていく人こそが進歩していくのである。

 私は太極拳の道をどこまで行けるわからないが、車で道を尋ねるように、自分なりのやり方で歩んでいきたいと思う。

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太極拳修行試論

太極拳修行試論


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 私の教室では、武術として太極拳を練習していることは、何度もこのブログで述べてきた。私は学んでいる人たちに、套路、用法、推手と練習の段階がすすんでいくに従って、一つ一つの練習の正しいやり方がもたらす効果を実感してもらい、ただ套路だけを学びそれを修正する教室とは違う魅力を感じてもらいたいと思っている。なぜなら私は、套路と共に対人技を学び、常に相手の動きやその場の状況に合わせた動きができるようになったり、危険を察知しすばやく反応できる能力を磨いたり、最小で最大の効果をあげる原理を学んだりなどの形に現れない部分を鍛錬することにこそ、武術として太極拳を学ぶおもしろさがあると思っているからである。

 武術というと、命をかけて戦い、相手を倒す、といった殺伐としたイメージがあるが、現代の我々はまず自分の心身を守ることを考えねばならない。我々の心の中の危機的な状況に正面から向き合う、いうなれば自分と戦うことこそ、いつの時代にも必要なことではないだろうか。
 
 価値観が多様化しているといわれる現代、多様化というよりむしろ一人ひとりが自分の価値感をもち、それを表現することをはばからなくなっているだけ、人はわがままになっているといえるのかもしれない。しかし、このことは決して悲観的に見るべきことではなく、人間社会が成熟していく過程の一つであり、自然なことのような気がするのは私だけであろうか。むしろこの社会を受け入れ、自分自身のコミュニケーション・スキルを磨くことによって対応していくことが現代に生きる我々の課題なのではないだろうかと私は思う。ここに私は武術修行の現代的な意義の一つを見出す。

 武術はいうなればコミュニケーション力の向上を目指すものであるといえる。
 武術には当然戦うべき相手がいる。常に相手の動きを察知しながら、自分の動きを決めていく。しかもそれは瞬時に行なわなければならない。勝とう勝とうという意識が強すぎると視野がせばまり、逆にスキをつくってしまうし、過度に恐れれば萎縮して、自分の動きを止め、相手にやりこまれて、最後には自分を失うことになる。このことはちょっと自由推手や散手をやってみればわかることで、その根底にはやはり情報のやり取りあり、いかに正しい情報を得、それに応じて動けるかということに、勝負を決する鍵がある。
 私たちは相手の命を奪うために武術を用いてはならないが、しかし自分が傷つけられないように守れなければ、武術の意味もない。

 コミュニケーション力という時に、次の三つの力が考えられる。
 一つ目は、相手の情報を得る力、いわゆる聴く力である。二つ目は、相手に逆らわない、相手のコミュニケーション傾向にあわせる力、そして三つ目はマナー、いわゆる礼儀を持って接する、ということである。この三つは太極拳の練習によって養われる。このことは何も推手や散手の練習にかぎることではなく、太極拳の練習全般を通じて、学ぶことができることであると私は思う。
 心静かに、自己の内面と対話するがごとく、套路を練習し、推手や対練によって相手に合わせて動くことを学ぶ。また練習仲間と技を掛けあうことによって、共に研究する心が生まれる。自分の身体の痛みを、相手の痛みと共有し、技を掛けることだけではなく掛けられる人の気持ちをも理解するのである。

 もちろん、套路をひたすら繰り返したり、身体を鍛錬したりとひとりでストイックに行なう練習は必修であるし、このことは自分の目的意識を高めるためにも、またそれを確かめるためにも必要なことではある。しかしながら、私たちは社会性をもった人間として、他人の存在が認識できるからこそ、自分自身の存在を確認できるのである。

 修行、修行と言って、たしかに偉大な業績や人格を作り上げた人も多い反面、身につけた知識、技術とともにエゴをも高め、他人に自分を強く印象付けようとする人も多くいる。私は、修行とは本来、自分を無くしていくことではないかと思っている。今の自分にこだわらず、より大きな智恵へと近づいていくことにこそ修行の意味があると私は思うのだが……。

 このように太極拳の練習からはその目的意識によってさまざまなことが学べるのである。

 もし、人間関係で悩んでいる人がいたら私たちと一緒に太極拳で汗を流してみませんか。いままで知らなかった自分が発見できるかもしれません。どんな目的であれ、私たちはあなたを歓迎します。

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太極拳学習論

太極拳学習論


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 先日陳家溝太極拳師四傑のひとり、王西安老師の講習会に参加させていただいた。老師とは13年ぶりの再会である。老師との再会、老師の太極拳について書くのは後日に譲るとして、定員をはるかに上回る参加者の中で、私が日本の太極拳事情について感じたこと、特に武術として学んでいく場合、どのようなことに注意していったらいいのかについて、私なりに考えたことを書いてみたい。純粋に太極拳を楽しんでやっている人、また健康法としてやっている方については、対象として念頭においているわけではないが、共通することがあるかもしれないので、参考にしていただければ幸いである。

 まず一般的に物事の学習順序について語学を例にとって解説してみたい。
 語学の学習の第一歩はもちろん単語を覚えることから始まる。そして単語を組み合わせることによって文を作り、コミュニケーションがとれるように意味を明確化するのだが、そのためには文法を知らなくてはならない。そして文法そのものを理論的に学んでも抽象的になってしまい理解しづらいので、文章の構造を理解するために、私たちはいくつかの基本的な単語を使った例文をもとにその仕組みを考える。その上でより複雑な文を学んでいき、単語さえわかればどのような文も理解できるようになる。その結果自分でも文章を書くことができるようになり、会話ができるようになるのである。
 私は武術として太極拳を学ぶこともまったく同じであると思う。というよりむしろこのような過程を経ることが、(少なくとも日本人にとって)武術としての太極拳を学ぶのに、必要なことだと思うのである。
 套路をとにかく覚えようと形を追っている段階は、基本的な単語を覚えている段階であり、内勁を意識するのは基本的な文法を学んでいる段階にあたる。二路や最近できた太極散手などもあるが、形を学んでいる段階であれば変わりはない。この段階では対人練習で技をあらそう事はできない。
 その次に、具体的に基本となるいくつかの技、つまり、打、拿、摔(手へんに率)などを学ぶ。太極拳は推手のなかでこれらを学ぶのである。ここでは勁というものをどういう風に技に生かすのかを、基本技を通して理解するのである。語学で言えば基本的な文法を理解し、簡単な文章なら読めるようになる段階である。基本文法を理解したら今度は応用として、よりむずかしい文章を読めるようにし、さらに自分でも簡単な文章を書けるよう練習する。そして何度も繰り返して文章に接していくうちに、書くことも読むことも自由自在にできるようになる。武術で言うならば勁を理解し、基本的な技を学んだ後、その原理を理解し、応用して実戦へと向かう段階である。もちろんそれぞれの段階での練習は充分行ない、武術的な動きを体に叩き込むことが必要なことは言うまでもない。

 これはあくまでも私の個人的な感想なのだが、日本で伝統的な太極拳をやっている人は、他の伝統武術、例えば八極拳や心意六合拳などをやっている人に比べて、武術として練習する意識が薄く、武術的な段階としては、10年は遅れているのではないかと思えて仕方がない。もちろん伝統太極拳を学んでいるすべての人というわけではない。しかし套路の動きや表面的な形の違いにこだわるばかりに、いかに使うかの意識に乏しく、武術としての本質から離れたところに重点を置き、恰もそれが太極拳のすべてだと思い込んでる節が多くの人に見受けられると感じるのは私だけであろうか。太極拳はこれらの拳法に比べて高級なので10年以上やらなければ武術としてつかえないとでも思っているのであろうか。彼らの多くは、内勁でさえも本当の意味を理解していない。そのため残念ながらいつまでもたっても同じところにとどまっているように私には思えてしまうのだ。
 私は、太極拳は理論的にも実戦的にも非常に優れた拳法だと思っているし、中国武術の優れた特性を代表する拳法だと思っているので、太極拳が10年やっても使えない拳法というのはどこかおかしいとしか思えない。中国の老師もおそらくもう少し先の段階を教えたくても、習う私たちの多くが、いつまでも同じ段階にとどまっているために教えようがないのであろう。
 それにはいくつかの理由がある。たとえば、纒絲勁の原理はむずかしいために時間がかかる、日本では武術的な指向をもってやる人が少ないので、老師がそこまで教える必要性を感じない、などが考えられるが、いずれも我々習うほうの意識に問題がある。

 日本で10年陳式太極拳をやっている人と10年八極拳をやっている人では、圧倒的に八極拳の人のほうが実戦的である。八極拳や心意六合拳をやっている人はとにかく功夫をつけるために苦しい練習を繰り返すが、陳式の人はどうも理屈が先に来るような印象を受ける。
 武術には完璧はありえない。常に修行である。練習を続けていれば、常に新しい発見がある。套路が完璧にできなければ対人練習がやれないのなら、いつまでたっても実用的にならない。勁の表現は無限であるといえるほど深いものであることは間違いないが、勁の表現とはなにかを考えれば、套路の本質が理解できるはずであり、精度の高低があったとしても対人技としての理解も深まるはずである。
 ある程度の技を覚え、用法を理解し、内勁を充実させていかなければ、それこそ絵に描いた餅であることは、太極拳だけではなくすべての中国武術に共通して言えることである。また、武術性ということを考えれば昔ながらの練習がすべてではなく、習ったものを研究、発展させ、現代の格闘技を研究し、新たな時代の太極拳を作っていくことも、今日的な流れとして当然出てくることも考えられる。
 
 当倶楽部では、初めの段階でも対人練習をする。それは対人ということに慣れてもらうためであり、また体ができてないうちは技が効かないということを、身をもって知ってもらうためでもある。だからもちろん無理な対人練習はけっしてしないが、それを行なうことで、套路で体をつくることの大切さを知り、套路の深さを理解できるのである。あくまでもそれを理解したうえで練習に励んでもらうために、簡単な技を練習するのである。中には、特に日本武術の経験者に多いのだが、套路や推手は武術として使える身体または能力を高めるための鍛錬として大変重要であるということを理解せず、対人練習ばかりやり、套路は体操ぐらいにしか考えない人がいる。これでは中国武術の本質をいつまでたっても悟ることはない。
 基本の原理を理解したうえで、次は応用で技を開発していく。套路にはそれを演じる人の中から、技を生み出させる力があることを忘れてはならない。当然その過程ではじめに老師から習った套路が変化していく。だから中国では同じ先生から習っても形が微妙に変わるのであるが、このことは日本の学生にはたいへん理解しにくいところでもある。
 内勁の基本を理解したら、表面的な形の変化に囚われる必要はない。いつまでも目に見えるところの変化に気を取られると本質を見失う。大自然の目で見えるものから、目に見えないものを探ることによって、人類の科学は進歩してきたのだ。これが科学的な研究というものでないだろうか。一つ一つの単語を覚えるところから文法、そして応用、自分なりの文章を書く(自己表現)、このような過程を経て語学を学ぶこと、またこのような過程を踏まえ語学を指導していくということは、武術として太極拳を学習または指導をしていく上でもまったく同じあると私は考える。

 我々は進歩し続けるべきであり、その場にとどまることはない。変化する形に貫く共通の原理を知り、それを技に応用するところに中国武術の醍醐味があるのであって、自己の感覚の段階でとどまっているうちは、やはり「絵に描いた餅」なのである。

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健康法としての太極拳

健康法としての太極拳


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 太極拳は武術です。いうまでもないことですが、それを行なう人がどのような意識を持って練習しようが、太極拳そのものが武術であることは間違いがありません。
 私は試合用の套路については良くわかりませんが、武術として使う、使わないは別にしても、やはり套路の正しいやり方の基準は、武術の鍛錬として有効であるか否か、ということではないかと思っています。太極拳をやり始めた頃私は、いろいろな人がいろいろなことを言っていて、なにが正しいかわからなくなり混乱した経験があります。「3年かかっても良師をさがせ」という言葉がありますが、ほんとうにわかっている人は、言葉よりもその技で示してくれるものだと今では私はつくづく思います。現在では実力のある先生方が多く中国から来日され、また日本人の指導員も育ってきて、中国武術の武術としての優秀性が日本でも認められつつあるので、一愛好家として大変に喜ばしいことだと思っています。
 とは言っても、純粋に健康法として太極拳を愛好されていらっしゃる方も多いこともまた事実です。私は経験的に伝統の武術が、その正しいやり方を追求していくことで優れた健康法となると感じていますので、今回はこのことをテーマに少し述べてみたいと思います。

 私が「健康法としての太極拳」について書こうと思ったきっかけは、ある本の中で、以下のようにウォーキング効果が書いてある部分を読んだことによります。

「(1)血圧を下げる、脳卒中を予防する
  下半身の筋肉が発達することにより毛細血管も新生され、下半身に血液がプールされる。このため血圧が下がり、脳血管への負担が解消する
 (2)心臓病の予防・改善
  歩くことで第2の心臓と呼ばれる足の裏を刺激することになり、心臓の働きを助ける
 (3)ボケ予防
  歩くと下肢の筋肉(ふくらはぎ)、臀筋(お尻の筋肉)、背筋が鍛えられることになり、その結果、脳への覚醒刺激が増す
 (4)骨粗鬆症の予防・改善
  歩くことで自分の体重で骨と筋肉が刺激され、骨へのカルシウムの沈着が促される
 (5)腰痛・ヒザの痛みの予防・改善
  下肢・腰の筋肉が鍛えられることにより、腰の骨やヒザへの負担が軽くなる
 (6)糖尿病、高脂血症、脂肪肝、肥満の予防・改善
  人間の筋肉の70%以上を占める下半身を動かすことにより、筋肉が糖や脂肪を存分に消費してくれる
 (7)ストレス解消
  歩くと脳からα波(リラックスした時に出現する脳波)が出るうえ、快感ホルモンのβ−エンドルフィンも分泌されるので、自律神経失調症やノイローゼ、うつ病などの予防・改善になる
 (8)肺の機能強化
  歩くことで呼吸が深くなり、肺の病気(風邪、気管支炎、肺気腫など)の予防になる」

 (『「体を温める」と病気は必ず治る  石原結實 著』より)

 太極拳をやっている方はお気づきかと思いますが、この八つの効果は太極拳に全部当てはまります。むしろゆっくりと深呼吸に合わせた動きは、ウォーキング以上に上記八つの効果を高めてくれるのではないでしょうか。
 ウォーキングは動きを覚える必要がなく誰でも簡単にできる、という声が聞こえてきそうですが、逆に私は型を覚えようとするからこそ、脳のトレーニングにもなると思います。また変化ある動きは、多くの筋肉に刺激を与えることになりますし、飽きることなく続けることができる要因でもあります。型(套路)もさまざまな種類があり長さも違うので、自分に合ったものが選べます。また、高さを変えることで足の筋肉に対する負荷を変えることができ、同じ型でも体力に合わせて動くことができます。特別な道具も服も要らない、室内でもできることなど、太極拳にはウォーキングをしのぐ効用が充分にあると思います。
 私は自分の26年の体験から、太極拳は優れた健康法の一つであると、自信を持って言えます。
 ぜひ皆さんも太極拳で、強いからだと強い精神、そして共に汗をかく、すばらしい仲間を得ていただきたいと思っています。

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反応

反応


東京陳式太極拳倶楽部 代表 鎗田 勝司



 先日、ある駅でのこと。到着した電車に乗り込もうとしたら、私の横で、女性が扉に手をかけながら、扉の脇に寄りかかっている人に向かって、何か話しかけていた。私はその横から電車の中に乗り込んだのだが、その時その女性が、「私は足が悪いので、誰か手を貸してください。」と言っているらしく思い、私は振り返りざま、反射的に手を差し伸べ彼女を車内へと導いた。駅に立っていた時は、車椅子でもないし、杖も持っていなかったので、足が悪いとは気づかなかったのだが、確かに電車が来て扉に手を突いていたときは動こうともしないのでおかしいな、とは感じていた。
 このとき彼女の前には若い女性が立っていたし、反対側には若い男性も立っていたが、声が聞こえなかったのか、誰かがやると思ったのか、手を貸そうとする様子はなかった。私は彼女の横から中へ入ろうとした時、言葉自体がはっきり聞こえたわけではないが、その様子と「誰か・・・」という言葉から判断して、手を差し伸べたわけである。おそらく扉にいた二人も私が手を差し伸べなければ、手を貸したであろう。私の前にいた中年の男性などは自分が乗り込むのに夢中なのかまったく無視したように乗り込んでいた。
 私はこのような動きができたことを誇りに思うと同時に、いつでもこのように動けるだろうかと自分自身に対する疑問をも感じた。周りには若い人がいる、近くに人がいるのだから誰かが助けるだろう、自分から動くのはなにか気恥ずかしい、等どこかで素直な動きを躊躇させる考えが頭をかすったら、すばやくは反応することができなかっただろう。最後には他人のせいにしていたかもしれない。もちろん、知らない人にいきなり手を貸すというのはあまりにも危険ではないか、と武術家らしい理由を考えたかもしれない。

 武術は、反応である。状況を瞬時に把握して適切な行動をとる、武術を修行するものはこのことを念頭において訓練しなければならない。私にとって日常こそが修行の場である、ということを改めて痛感した出来事であった。

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王宗岳の「太極拳論」

王宗岳の「太極拳論」


東京陳式太極拳倶楽部 代表
鎗田 勝司



 太極拳を練習するものにとっての聖典ともいうべき、王宗岳の「太極拳論」(もしくは、太極拳経)の日本語訳です。
 この拳論は太極拳理論の原典で、各伝統太極拳門派の先達が理論的に自分の拳を語るとき引用されるものであり、太極拳と言う名称もこの拳論から起こったと言われています。全文は400字とわずかなものですが、内容は宇宙の根本原理から武術の極意を説明するというもので、この拳法がなぜ太極拳というのか、また拳法はどうあるべきなのかといった、私たちの練習における目標、進むべき道といったものを示唆してくれる非常に深い意味を含んだ内容となっています。
 この拳論は武派太極拳の開祖で、楊露禅の門人であり、後に陳青萍(陳式)に師事した、武禹襄が1852年に河南省舞陽県塩店において入手し、武派一門より各派の太極拳にも広まったということです。
 この拳論が書かれた時期は、はっきりとはわかっていません。また、作者の王宗岳は謎の人物で、近年では王宗岳は実在の人物ではなく、武禹襄のペンネームだったのではないか、という説を唱える人もいます。
 いずれにせよ、実戦的な太極拳をやっているからこそ、その内容の深さを理解できると思われますので、良く研究し各自自分の拳の向上に役立てることを期待しつつ、ここに記します。

《太極拳論》  王宗岳


太極は無極より生ずる  陰陽の母なり  動ずれば分かれ  静で合する
互いに過不足なく  曲伸自在に  人が剛ならば  我は柔でこれをかわす
人、逆らえば  我、従ってまといつく
動き急なればそれに応じ  動き緩ければそれに従う
千変万化なれども  道理は一貫したものなり
老練によりトウ勁を悟り  トウ勁により極致の域に及ぶ
力を用いずこと久しい成果であって 突然に悟るものにあらず
うなじを伸ばし、精神集中 冷静にして
気は丹田に沈める
かたむき揺るがず  忽然と現われるかと思えば隠れる
左へ右へと、虚実の変化つかみどころなく
上空へはより高く  地へはより深くの意をこめ
前進、後退ともに際限なき余裕を持つ
一枚の羽根の重さを感じる敏感さ
うじ虫の如きも落とすことのない綿密な技
人に我を知らさず  我のみ人を知る
英雄向うところ敵なく
これ以上優れたるものなし
門外の技はなはだ多く  技もまたさまざまであっても
中身は外観ほどではなかろう
緩慢なれど、気配すばやく、手の快慢を自在に
これすべて先天自然の本領であり
天からの授かりもの
四肢の巧みな合力で、千斤をもはじくの言句は
力のみで勝つにあらず
齢をかさねても  人々の模範とされ
いかようにも快速にこなす
立てば姿勢端正にして
動けば車輪の如し
一方にかたむけば全体がくるい
虚実がなければ停止する
数年の鍛錬を経ても勁を連ね
動きをかわせない者は  自らを人に制せられる
虚実の道理  いまだ悟れぬゆえんであり
この欠点を改めようとするならば
陰陽を知るべきであり
相手にふれてかわす
動きは粘着に
陽は陰に離れず
陰は陽に離れず
陰陽をともに存在させることで
正しい勁を知り
勁を知れば  鍛錬はますます精進す
黙々と真を求めれば
おのずと心の欲するままになり
真に己を捨て
人に従うことができる
あせって近道をすれば  誤り多く
1ミリの差が  千里の誤りとなる
学ぶ者は不明瞭のままであってはならない
これを論とする
長拳は  長江大海の如く
滔々と絶えざるなり
朋履斉按採列肘靠*
これ八卦なり
前進  後退  左右  中間
これ五行なり
朋履斉按
すなわち乾坤坎離(東西南北)の四方をいう
採列肘靠
すなわち巽震兌艮(東北、北西、西南、東南)
四斜角なり
進退左右中間
すなわち金木水火土なり
合わせてこれを十三勢となす。

 (*いくつかの箇所で漢字の手へんを省略してあります。)

 歴史を習うことは、今の現在やっていることの意味を改めて考えることになります。
 世間には文献からのみ歴史を語る中国武術研究家も多いですが、私は基本的には技または套路そのものの歴史的変遷の観点から、太極拳のルーツをさぐり、太極拳とはなんぞやという問に答えていきたいと思っています。これは私個人の考えですが、太極拳の技法の変化のなかにこそ中国武術の本質が隠されているように思っています。なぜ八極門でゆっくり練習することを秘伝としたのでしょうか。もともとは長拳のような拳法が、なぜ柔派と呼ばれるような動きに変化したのでしょうか。なぜ金剛搗碓は陳式にしかないのでしょうか。
 おいおいこのようなことについて考察を深めていこうと思います。

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ニュータイチを求めて

ニュータイチを求めて


東京陳式太極拳倶楽部 代表
鎗田 勝司



 現在、中国本土が中心となり、世界に広めようとしている武術(ウーシュウ)。それは闘うことなき型の勝負であり、いかに見せるか、難易度の高い技をこなせるかを競う、競技化した体操である。それはそれで武術のひとつの発展した形であり、私はそれについてどうこう言うつもりはない。
 しかしながら、中国武術はすぐれた戦闘技術、格闘術であり、日本の武道に勝るとも劣らない武技だと体験的に信じている私にとって、日本では 一部の門派を除いてはほとんど格闘技として認められていない現状は、あまりにも中国武術の本当の魅力が知られていないアンバランスな状態であり、健全な発展をしているとは思えない。こういうと伝統の中国武術をやっている人々から反論されるかもしれない。われわれも格闘技として当然使える武術をやっているのだと。しかし、門外漢である他の格闘技の人たちから見ると型だけ練習している武術をほんとうに実戦的だと思っている人は少ないし、実際に型と用法を知っているだけで戦えると思っている自己満足派が日本に多いのが現状なのである。怪しい中国武術まがいの師範が他の格闘技の若者に手も足も出ずやられたり、テレビという公開の場でも中国武術は空手にほとんど歯が立たない姿をさらしたりしているのである。
 私は、これはひとえに日本の中国武術の指導者に問題があると思っている。表演武術、健康法を含めて型を演じることを楽しむ運動としての武術、護身術としての武術、また散打のような格闘試合の選手を目指す武術と、さまざまな武術の取り組み方があるなかで、自分が何を教えているかをはっきりとさせていくことが日本の中国武術の指導者に求められていることなのであり、このことは日本における中国武術の普及を考える上で最重要なことだと私は思っている。しかしながら、日本ではここのところがあいまいな指導者が多い。中国からいらしている老師たちの多くは、このことを区別してきちんと教えているのに、肝心の日本の指導者たちがあいまいな、幻想の中にいるため、部外者から見ると非常にわかりにくいのだ。
 中国武術の日本における普及について考える時、非常に興味深い例がある。それは中国武術の源流を持つ空手である。ここでちょっと空手の本土における普及の歴史の一端を紐解くことによって、日本の中国武術とくに太極拳の未来の姿を模索する参考に供したい。

 現代では最も実戦的な武術といわれている空手が本土にはじめて紹介されたのは、大正11年の5月、当時の文部省主催の第一回体育展覧会のときであった。紹介された当初は現代における太極拳のように、単独で行なう型はいくつか紹介されていたが、空手の武術としての実力は神秘的なものとされていた。(ちなみに当時空手は唐手〔とうでぃ〕と表示されていた。唐手が空手になったのは「唐」は当時の日本にとっての敵国であった中国を意味したため、大日本武徳会に意向により空手に改められた)唐手は一人で行なう単独型中心の鍛錬であり、実際の組み手への応用は確立しておらず、一部の実戦的な沖縄の空手家たちは、「掛け試し」といわれる自分の実力を試すために行なう辻斬りのようなもので腕を磨いた。今でいえば歌舞伎町や池袋の繁華街で屈強そうなやつに喧嘩を売るようなものである。とにかく、日本武術で行なうような、相対練習ではなく、単独型の練習が主な唐手は、一人でも練習ができるという利点があるが、反面技を自分勝手に解釈し、自己満足に陥り、実戦の場での応用はむずかしいという欠点を含んでおり、「掛け試し」をするような度胸や喧嘩の天才でないかぎり、戦い方の基本を習得するのは困難だったのである。唐手が相対練習としての体系が整うのは本土に渡って、本土の武術と接してからだといわれるが、対人練習を主とする本土の武術、とくに柔道あるいは柔術に大きく影響されたようである。
 唐手の本土普及当初、実戦唐手家といわれた本部朝基は、掛け試しによる経験から、型を分析、その使用法を“琉球拳法唐手術・組手編”として大正15年に著すが、この本は単独型に飽き足らなくなった本土の唐手研究者に歓迎されたそうである。
 本土に初めて唐手を紹介した富名腰義珍が、当時の柔術経験者の弟子たちと協力を得て、対人練習を含んだ練習体系を発表したのは、昭和10年発行の“空手道教範”においてである。このように現代一般的な空手の練習体系にある、一本組手・三本組手、自由一本組手、自由組手などは昭和になってから取り入れられた練習方法であり、もともと空手の練習にあったものではなかったのである。
 このように現代では日本武道に大きな位置をしめる空手道といえども日本の武術として根付く過程では、やはり日本(本土)なりのやり方、工夫、研究が必要なのであった。
 空手は、後にも他の武術や格闘技との交流により、さまざまな形で発展し、今日の興隆を見る。
 (この項「本部朝基と琉球カラテ」岩井虎伯著 を参照させていただいた)

 さて、この空手の歴史の事例は現代の中国武術の日本における普及、発展に大変参考になると思うのは私だけであろうか。
 中国武術といえばまず套路である。昔日の武術家が実戦の経験から套路という一つの記号化した型に、その門派の技術や戦闘思想を盛り込んだ。もともと套路そのものは人に見せるものではなかったことはいうまでもない。むしろ、人に見せないように練習するのが常であったし、また一見しただけではその使い方がわからないように意識的に隠していた部分もある。伝統の武術といって伝統の套路を練習していてもこの本質が理解できないと、套路と用法を理解すれば、空手や柔道のように使えるという思い違いが起こることになるのである。
 私は、空手の歴史をみればわかるように(空手も源流は中国武術であるが)、対人練習を抜きにして格闘技としての武術としては語れないと思うし、武術の本来の意味である護身術として練習するならば、ある程度まで、相手の動きに反応する練習は必要だと思う。
 中国武術には推手のように非常に優れた対人練習法があるにもかかわらず、現代では形式化してしまい、型を覚えることが主で、武術的な理合や反応について語られることは少ない。
 套路練習は先にも述べたように、門派の技、戦闘理念、理合を理解するために最重要な練習であることは間違いない。套路の練習は、身体を動かすことによって内面から門派を理解するものであり、ここが外からどう見られるかという表演武術と格闘を本質とする武術の違いなのである。
 近年、「散打」が中国武術愛好家の中でも行なわれ、一部では試合も行なわれている。これはこれで中国武術の一つの競技スポーツとしての発展的な形であり、望ましいことであると思うが、この「散打」にこだわるあまり套路は不要であるというようなことを言う人もいることには異論がある。私は、武術のスポーツ化ということ事態は意味のあることだと思うが、「散打」イコール中国武術だとは思っていないので、この説を受け入れることはできない。これも空手の普及に伴う歴史的変遷において、突く、蹴るという打撃系の技が強調されるあまり、型の持つ幅広い意味や技が失われたように、中国武術それぞれの門派がもつ特徴が失われる可能性があるし、しかもルールの範囲で技しか出すことができないとなれば、力の強いもの、身体が大きいものが有利になり護身術としての武術の本質をも失う結果になるであろう。
 意拳は日本において非常に実戦的であるといわれている。套路らしい套路はないが、站とう功を中心にした練習方法は決して限定した技しかないことを意味してはいない。むしろ套路にこだわらないだけに無限の変化をもっているといえる。歴史が新しいだけ現代的な格闘技に対応し、早くから散打のような組手練習を多く行なっているため、とくに実戦的だと言われるのであろう。しかし、本来武術はすべて実戦的なのだ。実戦的でなければ武術とは言わない。中国本土では武術のチャンピオンというのは表演選手をさすが、対人なくして武術ということに違和感を感じるのは日本人なら当然である。中国本土の伝統武術家たちも中国武術が世界的になった現在、対人の技を披露するようになってきたが、これは自然の流れであり、そうしなければ武術として世界に広まることはないだろう。
 
 日本の表演武術家の中には伝統的な套路を練習し、それなりに用法も理解して、あたかもその武術は実戦に有効であるがごとくマスコミなどで語る者がいるが、伝統の套路を練習して用法を知っているだけでは使えないのは、言うまでもない。動いている相手に技をかけるのが容易ではないことは少し組み手を経験すればわかることである。他の武道と同じで簡単に強くなる道はない。理屈ではなく、研究と練習が実のところ技の上達にとって一番重要なことなのである。
 また、たくさん套路を知っていることとその人の武技が優れていることとはまったく関係がないことも言うまでもないだろう。むしろ実戦的な武術家は、少ない套路を数多く練習している人が多い。

 表演武術と本来の格闘を目的にする武術はまったく別なものであり、それぞれ目的をしっかりと把握して、行なうべきである。そうしなければかえって弊害が生じるということを日本の指導者たちはしっかり認識する必要がある。大切なのはそれぞれの違いを認識した上で、それぞれの分野で深めていくことである。そしてその多様性こそが、中国武術のすばらしさであり、多くの大陸からの文化が日本において発展してきたように、現代的な意味をもたせた「武術」を我々の手でつくっていける可能性を、ここに見るのである。

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