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練習雑感(会員の感想)

生ける

 夏になると、靖国神社参拝の事でいろいろ世間でとりざたされますが、私は“靖国神社”と聞くと、生け花の“奉納生け”を毎年思いだします。奉納なんて言うと相撲の奉納相撲みたいだと思う方もいらしゃる事と思いますが、“奉納”するのは何もお相撲だけに限りません。
 生け花の奉納生けは1月1日朝行われます。私の様なペーペーはもちろん参加などできませんが、生け花の先輩方が朝早くから着物を着込んで、大変な思いでとりおこなっていたようです。
 私が習っていた生け花の流派の先生は、草木のあるがままの姿(有り様)を大変重視されていました。生け花でもよく有る、針金を巻いたり差し込んだりして、思い通りの形にする事を極端に嫌がられていました。「そもそも生けると言う事は“生かす”という事に他ならない。何を生かすか見極める事こそ生け花です」と静かに言いながら、不要な枝葉は徹底的に切り落としてしまうのが常でした。
 生け花の先生の生けたものは、ハッとするほどシンプルでしたが、何回も見極めを繰り返し、選択を積み重ねてできた枝と葉の隙間あるいは空間と、生かされた枝とのバランスは、確かに意味のある重要な”間合い”でした。

 今から半年以上前だったと思いますが、私は愕然として目がはなせなかった事がありました。
 毎週日曜日、いつもの太極拳の練習メニューを順にこなしていって、いつもの単推手の練習の次の、四正推手練習の時でした。TさんもHさんも、もう何年も太極拳を練習されている男性方で、これもいつもの通り2人で四正推手を練習しはじめました。私は何となく観ていましたが、その時、昔、生け花の先生が生けた一杯(生け花では一つの作品を一杯と杯で数えます)と突然重なってビックリしました……何気ない枝ぶり、シンプルに伸びた葉、それらが緊張感ある空間を仕切って、意味のあるバランスを保っている……
 その枝が、その葉が、取り立てて美しいわけでもなんでもないのにある意味をもった空間が存在する事によって、たちまち美に変わってしまう……
 TさんもHさんも、平素においては、美を意識することなどはまったく有り得ない生活を送られている方々だと思いますが、相手の出方を意識し合い、集中して練習している時、おそらく無駄の無い動きで、相手とたまたま絶妙な間合いを取った一瞬の時のことだったのだろう思いました。
 その日以来、套路の練習の時はもちろん、自由推手のとき、散打の時、色んな動きをする生徒さん達に、ハッとする事が出てきました。
 一瞬だけの動く生け花、一秒もたたずに消えてしまう美しさは、まさに無駄が存在しない美しさです。私は、それまで、手の動きが柔らかくて奇麗だとか、高いジャンプが奇麗に決まったとか、そんな事が美しい事だと思っていました。確かにそれも美しいことではありますが、それだけではない、太極拳をしている人を取り囲む空間の一瞬の絶妙なバランスが、このように美しく見せるものなのかと、想いました。私は、今までとはまた違う太極拳が存在していることに気が付きました。
 先生が「視線は右で、肩を落として、腕はのびのびと伸ばして、肘と膝は合わせて……」と言われますが、私にとって、単に腕や足の形だけでなく、腕の肘と足の膝を合わせた時に出来る空間が……の問題になってきたような気がします。
 人が美しさを感じる時、その題材というよりは、美しさに対する一種の普遍性に共感するようです。太極拳って武芸だと想いますけど、ヤッパリ奇麗かもしれないです……

 *蛇足
 西洋美術においての機能美の先駆者にマルセル・デュシャンという人がいます。この方は“泉”という題名で何処にでも有る便器を展覧会に出品したことで有名です。誰でも知っている様に、便器の中のしずくは全て内側に跳ね返るように設計されています。この無駄の無い緻密な曲線と便器内の程よい空間のバランスを機能美として芸術だと定義しました。

 『泉』は2004年12月、世界の芸術をリードする500人に最もインパクトのある現代芸術の作品を5点選んでもらうという調査の結果、ピカソの名作『アヴィニヨンの娘達』を抑えて堂々の1位を獲得した(ターナー賞のスポンサーとジンの製造会社が実施)。『泉』の発表後、20世紀の多くの芸術家は『デュシャン以降、何が制作できるのか』という命題に直面しており、それに応えた作品が多く生まれている。
(ウィキペディアより抜粋)

 あのピカソの絵より便器が重要だという結果に驚きを禁じ得ませんが、そのものがもつ素材の高価さ、制作の複雑さで決まるのでは無いのが、近代、現代の価値観、ということでしょうか。機能美の芸術性は絶対揺るぎないものみたいですね。私達はみんな、毎日、芸術のお世話になっているみたいです……

 (Sさん よりいただいた練習の感想、第三弾です)

fyotphskfyotphsk  at 13:49 この記事をクリップ! 

小説

 私が、初めて太極拳に触れたのは、家の近くにできたスポーツクラブのエクササイズのメニューの中にあった、太極拳簡化24式でした。練習は套路の繰り返しでしたが、何の気無しにやり始めて、その内なぜかその動きに夢中になり、そこの教室にも友達が何人かできてしばらくの間は楽しく練習していました。この頃は24式套路の順番を覚えたり、友達と足の位置や手の動きをああだこうだとおしゃべりしながら練習したりして、ただ楽しい・・・それ以外の事は何も気にかかりませんでした。
 その内太極拳にも色々あって、「陳式」と言う太極拳が「太極拳の元祖」みたいなものだという事をウッスラ聞きかじり、YouTubeの動画を見たりDVDを見たり、本をチラッと立ち読みしてみたり、その柔らかい独特の動きにだんだん興味を持ち始めました。でも「これって、強いのかな?」とか「力を抜いて套路の練習するのなら、24式と変わらないんじゃないかな?」などと思ったりして、でもチョットやって見たいかも・・・とたいして深くも考えず陳式太極拳の教室を探して、今在籍している東京陳式太極拳倶楽部に巡り会いました。

 気に入った本を購入したその時は、その時だけではなく何度も読み返す事があると思います。10代、20代、30代・・・同じ本を読んでいるのに、当然ではありますが、その時その時の年齢によって感じる事が違ってくるとおもいます。
 小学生や中学生のころは、夢中になって色々な小説を読んでは、胸の内を感動でみたしていました。この頃は、ひたすらに冒険や恋愛は、素敵な事だと思っていたように思います。たいがいの人はみんなそうだと思いますけれど、いつの間にかその単純な気持ちは、何人かの人に出会って、社会に出ていくうちに変わっていってしまいます。そんな時、昔読んだ小説をまた手に取ってみると、子供の頃とはひと味もふた味も違う感動を覚えるのは、私だけではないと思います。「ああ、昔読んだときはこんな事は考えなかったのに」とか「前読んだときはここがこうだとは気が付かなかった」などと色々思いだしてみたりして、懐かしんだ事も何回かありました。
 でも、私は、なぜか若かった頃の純粋さ、あの頃の気持に戻りたいと思った事は一度もありませんでした。・・・どちらにしても、知ってしまった以上、戻れるはずも無いのですけれど・・・

 「え!!24式辞めちゃうの?どうして・・・ああ・・・サトちゃんは実際に戦うような事が好きみたいだからね・・・」「何でそんなに一生懸命になるの?」と24式の教室を辞めるときにそこの友達に言われて、私は返ってビックリしました。私は「戦うのが好き」と思った事は一度も無いし「そんなに一生懸命」なつもりも無かったのです。・・・楽しいからなんとなく夢中なダケなのに・・・
 私は陳式太極拳の教室の練習メニューにある、推手の練習で、相手に合わせて動きながら相手の出方を意識する事がチョットできる様になりました。対打の練習では、関節技やぶつかりあいで相手に対してどう動くべきかチョット考え始めました。散打の練習では相手のパンチをよけながらどう体を動かしていったらいいかもチョット考え始めました。けれどチョットどころでは到底うまくなんていきません。うまくいかないと知らず知らずの内にもっと練習してみたくなって、一層夢中になってしまうありさまです。
 その内、套路の練習をしている時に「今、套路として生き残っている技は・・・」と先生が言われていた事を突然思いだし、・・・生き残っている・・・って命がけ?!・・・ケッコウ血みどろ・・・自分や家族の命を守るために何世代にも渡って・・・洗練されて隙がないわけだ、命がけなんだから・・・本当に・・・そんなに重い事なのだろうか?それはどういうことなのだろう?今、考えた所でわかるわけもありませんが・・・
 私は戦争や動乱を経験した事が無い幸せな世代の一人なので、今までウッスラ知ってはいても、そんな実践の場などあったわけでも無く、その様なことを意識する事はありませんでした。ただ友達と練習するのが面白くて単純に楽しかった思い出は、かけがえの無いもので、それはそれでとても良いことだったと思います。でもこのなんとも言えない辛い味、ただ楽しいからやっていただけではすまされない凄さを知ってしまったら、もうもとには戻れません。

 陳式太極拳という小説を私はまだ初めの方を読んでいるにすぎませんが、いつか一通り読み終えても、きっと何度も読み返す事になると感じています。この小説がハードボイルドか大河ドラマの様な物かはまだ解りませんし、恋愛物になるべくも無いのは残念ですが、再び読み返してみる未来、その時、どう思うのかチョット楽しみです。

 (散打の練習はヤッパリ怖いんですよ・・だってみんな強いんですから・・・それでも、私は相手に後に回られた時の怖さもチョットわかったので、自分の後も意識できるようになりました。チョットです。だからって何か技を繰り出せる訳でもないんですけど。)

 (Sさん よりいただいた練習の感想、第二弾です)

fyotphskfyotphsk  at 20:19 この記事をクリップ! 

ピアノの発勁

 何週間か前の練習中に、鎗田先生が…あの時は春日カイロに行かれた後だったと思います…“骨”の話を少しされていました。そのとき確か「力は骨より発し…」とおっしゃっていたと思います。私はその時“なぜ硬い骨から力が出るのだろう??力は筋肉から出すのでは??”と不思議に思っていました。でも私はいつもの様に、疑問はそのまま放ったらかしにて、何週間もボーッと過ごし、今、何となく”発勁”という熟語をネットのウィキぺディアで検索して読んでいました。

 その中に『力は骨より発し、勁は筋より発する』という一文が目にとまりました。この言葉を見た瞬間、鎗田先生と、なぜか後もう一人の先生の事を思い出して衝撃をうけました。私のボーッとしている脳に突き刺さったもう一人の先生は、…本当は痛くなんか無いはずなのに…私の頭の前側より少し上の方に突き刺さったきり、今でもビリビリ痛みを感じます。

 T先生というその方は、私の小学校の頃のピアノの先生でした。この先生に、初めてお会いした時、「何か弾いてみろ」と言われ、私は渋々、バッハの曲の一つを弾きました。弾き終わる最後まで、先生が黙っていらしたのは、作曲家バッハに対する敬意のためだけだった様で、弾き終わってホットしている私の頭ごなしに、「全く弾き方が違う!!」と口惜しそうに言われ、「ピアノの才能は全く無い。それでもピアノを弾きたいのか!?」と言われました。黙り込んでしまった親を尻目に、私は泣きながら「弾きたい」と言い返してしまいました。「練習は厳しいぞ!!」と念のためにダメダシもされました。それからは、確かに厳しい練習が始まりました。その厳しい練習とは、基本練習どころかそれ以前の練習で、それだけを3ヶ月以上やっていたと思います。(その後,その練習方法は、調子が出ない時やスランプに陥ったときの…運動をする前の準備体操の前の深呼吸の様に…私の大切な練習方法になっています。)

 その練習内容は、ピアノの椅子の座り方に始まり、先生の指示した姿勢で、先生の指示した肩の位置、肘の位置、手首の位置で、ピアノの鍵盤の上に先生の指示した形で指を置き、座って正しい姿勢を保つ程度の筋力以外は全ての力を抜いて、右手と左手の親指でそれぞれの位置の“ド”を弾くというものでした。しばらくの間、私は先生に「まだ力が入っているぞ!!」と怒鳴られ、弾いている最中に「ここに力が入っているんだ!!」と手首や肘、肩をグリグリつかまれ、“先生がつかんでいるから弾けないんだ”と心の中でののしり、泣きながら鼻水を垂らして歯を食いしばりピアノの“ド”を弾いていたのを覚えています。(泣くのも歯を食いしばるのも力が入るのでダメなんですけど。)

 …もちろん、ピアノの鍵盤というのは、ある程度の速さと力を使わなければ押すことはできないし、鍵盤を押す事によって、その先にあるハンマーを振り上げて、ピアノ線を叩かなければ全く音など出ません…で、ピアノの鍵盤に、力を抜いて指をのせただけの私は、初めのうちは音さえも出す事はできませんでした。私の家族もこの練習方法にはびっくりして、本当にこれが先生の教え方なのかと心配していました。そのうち、腰周辺の筋肉を少し動かして(両足は椅子の前側1/3 に掛けただけの腰を支えるためだけに少し足をひらいて、力を抜いてゆかの上に置いておきます。)からだ全体の重みを指先にこめる事が出来る様になりました。その“こつ”をつかんでからは、信じられないくらい指を速く動かせる様になりました。小さい音も大きい音も表現は思いのままで、しかも、力を入れて弾いていないので、疲れずに何時間も練習することができるようになりました。

 どんなに大きな音を出すときも指を鍵盤から離さないのは、指を高速で動かさなければならないので距離が有ると時間がかかるし、正確に動かせないからで(ピアニストがよく大げさに腕を振り上げたりするのは、感情的な高ぶりを表現しているだけに過ぎません。)、体のほとんどの力を抜くのは、筋肉が緊張していたら腰周辺の小さな動きがそれぞれの関節に伝わらない上、自在な関節の動きの妨げになりますし、最終的にその動きを、指先に伝えて鍵盤を押すことができないからでした。でも、この基本的な弾き方が出来る様になっても、指揮棒で手の甲をたたかれ、怒鳴られる練習はその後もずっと続きましたが…ピアノのレッスンにも体育会系があるようです。

・力は骨に由り、肩背に没して発することが出来ない
・勁は筋に由り、能く発して四肢に達することが出来る
・力は有形であり、勁は無形である
・力は方(四角)であり、勁は円である
・力は滞り、勁は暢やかである
・力は遅く、勁は速い
・力は散じ、勁は集まる
・力は浮き、勁は沈む
・力は鈍く、勁は鋭い
 
 陳炎林談

 ウィキペディアの説明を読み進めながら、「肘や手首は左右、あるいは上下に円を描く様に回しながら指の位置を変えるんだ!!」とピアノの先生の言葉をようやくはっきり思いだした私は、この…太極拳に似ていなくも無い…貴重な思い出をこれからドーやって生かしていったら良いのか、また、ボーッと考えています。

 追:子供の頃は怒ってばかりいるピアノの先生が怖かったのですが、何故か嫌いではありませんでした。その理由はスッカリ大人になってから解りました。先生はピアノに対して、音楽に対して真面目で真剣だったからでした。泣きべそをかいて鼻をズルズルさせている私を脇に立たせて、先生がいつもお手本で曲を弾いてくださった時、どんなに簡単なフレーズであろうとそのピアノを弾く姿は真摯でした。そこには、“たとえ一音でも音楽である。ゆえにそこには常に理想がある。”という態度が表れていたからでしょうか、子供であっても何となく感じる物があったのだと思います。

 (Sさん よりいただいた練習の感想です)

fyotphskfyotphsk  at 00:27 この記事をクリップ!