角川文庫『人間の証明』

 目的の階に到着しながらエレベーターを下りようとしない客を不審に思ったエレベーターガールが客に近づくと、その客の胸にはナイフが突き立てられ息絶えていた。警察は殺人事件として捜査を進めるが、被害者がアメリカに住んでいた黒人であったことからアメリカの警察でも捜査が行われる。一方、時を同じくして一人の女性が夫と不倫相手の前から突如姿を消す。
 全く接点が見られないと思われた事象が細い糸を辿り一点に近づいていく。

 1969年『高層の死角』(※1)で第十五回江戸川乱歩賞を受賞した森村誠一が『人間の証明』を発表したのは1976年。この作品は当時角川書店の社長だった角川春樹から映画化を前提に依頼されて執筆されたものである。また森村誠一執筆の人気シリーズ「棟居刑事シリーズ」の第一弾でもある。

 『人間の証明』は仮にジャンル分けを行うのであれば社会派推理小説に属する作品となるのであろう。しかしながら、作中登場する伏線の弱さや事件の解決を犯人の良心に委ねるなど、そもそも推理小説としての色合いは非常に薄い。代わりに不確定多数の容疑者の中から犯人を絞り込んでいく展開が可能な社会派推理小説の特長を活かし、生活環境の異なる様々な人々の内面を描くことに力を入れている。殊に富裕層・貧困層それぞれの退廃した一面に焦点を当てており、若者の退廃を描いた村上龍『限りなく透明に近いブルー』を想起させるシーンも見られる。日本だけでなく当時近代文明の最先端を走っていたアメリカ・ニューヨークの社会構造に着目した辺り、人間関係が希薄化した社会に対する著者のメッセージがこめられており、終章「人間の証明」で描かれる人間の良心という部分に繋がっていくと思われる。

 尚、トリックに関して日本語と英語という言葉の発音・発声理解を利用した推理は完成されたものではないが面白い着眼点である。文章で音というものを表現することは不可能なため、単語として明確にしなければならない不便がある中果敢に挑戦している。

 推理小説としてではなく、一つの小説として読んでいただくといいのではなかろうか。


(※1)…『高層の死角』ハルキ文庫