新潮文庫『張込み』収録

 ある役者志望の男、日々彼の評価は上がりついに目標としてきた大役に抜擢されるまでに至る。しかし、彼はそれを望みながら役を演じることに躊躇する。一体なぜ……。

いわずと知れた推理小説界に社会派の波を呼び込んだ戦後の巨匠・松本清張。松本清張は推理小説を書き始める以前より文壇で活躍しており、「西郷札」で直木賞候補、「或る「小倉日記」伝」にて芥川賞を受賞している。推理小説による活躍はその後のことである。

氏の推理小説といえば昭和三十二年から連載された長編『点と線』が有名であるが、「顔」はそれ以前昭和三十一年八月に発表され、日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を授賞した短編である。

推理小説というよりも犯罪小説としての色が濃く出ており、犯罪に係わった二人の男の心理をリアルに浮かび上がらせている。特に犯人の苦悩という点においては日記調を部分的に用いることにより、止まることない時間・迫りくる決断のときを見事に描き出している。

 松本清張の推理小説の源流を初期短編「張込み」「顔」に見出せる、という内容の評論を読んだことがあるが、そういった意味では非常に興味深い作品である。「顔」は犯人と事件に係わった一人の人物の心理を描いているが、「張込み」は犯人を追う一人の刑事の心理を描いている。二つに共通するのは人間の心理を描いているという点である。『点と線』では時刻表トリックに目を奪われがちかもしれないが、所々に人間の生活というものが描かれている。

 人の心理を描く、ということにおいては戦前から戦後にかけて活躍した大下宇陀児もまたそのような作品を得意としており、山村正夫『推理小説文壇戦後史』には「社会派の先駆者 大下宇陀児」として記されている。少々色合いは異なるものの両者の作品を比較しつつ楽しみのもまた面白いと思う。

また、先に挙げた松本清張の推理小説の原点、社会派ブームの原点としてぜひとも読んでいただきたい一作である。