2010年03月17日
ブログを引っ越しました。
新しいアドレスは、http://d.hatena.ne.jp/gorogure/ です。
また、藤宮史のホームページの『日記』からもご覧になれます。
http://www.g-kuroneko.com/f.htm
今後とも、よろしくお願い致します。
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2010年02月18日
銅版画で、まだ誰もやったことのない、まったく新しい技法を、ひそかに私は案出したと思った。実際、新発明だ! 新機軸だ! と思ったのである。はずかしい話、歴史に、美術史に名前が残ると思った。併し、苦労してあみ出したと思い込んでいた技法は50年以上まえに版画家の長谷川潔に幾度もためされ名作までのこっていた。ただ私が無知であっただけで、無駄に苦労して同じ轍を踏んでいただけであった。
21、22才であったか、私はその当時、下北沢に在った或る居酒屋にアルバイト店員として勤め、そして、辞めていた。
私の新機軸の銅版画を、その居酒屋に持参した詳しい経緯はわすれたが、その時、私はその日の飯代にも窮する生活をしていたから、ただ遊びがてら行ったけではなかった。また、居酒屋に居た若いアルバイト店員たちとも気心が知れた関係と云うのでもなかったから銅版画が売れると思ったとも思えない。いや、私は懐に100円もなく逼迫してたから、もしや、売れはしまいかと思ったのだろう。
併し、どう云う風の吹きまわしか、若いアルバイト店員たちに1枚300円で2枚売れたのであった。まったく、おどろいた。激越に嬉しさがこみ上げてきた。私にとっては、私の絵画が売れた最初であった。
それは、たしかに記念すべき最初の出来事であった。併し、銅版画を買った若いアルバイト店員は私の目の前で、こともあろうか銅版画を壁に押しあて、画鋲でじかにとめたのであった。
居酒屋の油じみた壁にいつまで私の銅版画が貼られていたのか判らない。売れたことは記念すべきことであったが屈辱的な気分に襲われることが多い。
併し、事実はもっと過酷で、冷笑的に棄てられたように扱われた銅版画で得た金で私は飯を喰ったのである。20年以上まえのことであるが昨日のことのように覚えている。下北沢に在った松屋で400円のレバニラ炒め定食の味はまことに複雑な味であった。たしかに飯は美味かったが、しばし咽喉をとおらぬようでもあった。これが自分の思いをぶつけた絵画を描き、その絵を売って他人から金銭を取って飯を喰うことなんだと思った。
21、22才であったか、私はその当時、下北沢に在った或る居酒屋にアルバイト店員として勤め、そして、辞めていた。
私の新機軸の銅版画を、その居酒屋に持参した詳しい経緯はわすれたが、その時、私はその日の飯代にも窮する生活をしていたから、ただ遊びがてら行ったけではなかった。また、居酒屋に居た若いアルバイト店員たちとも気心が知れた関係と云うのでもなかったから銅版画が売れると思ったとも思えない。いや、私は懐に100円もなく逼迫してたから、もしや、売れはしまいかと思ったのだろう。
併し、どう云う風の吹きまわしか、若いアルバイト店員たちに1枚300円で2枚売れたのであった。まったく、おどろいた。激越に嬉しさがこみ上げてきた。私にとっては、私の絵画が売れた最初であった。
それは、たしかに記念すべき最初の出来事であった。併し、銅版画を買った若いアルバイト店員は私の目の前で、こともあろうか銅版画を壁に押しあて、画鋲でじかにとめたのであった。
居酒屋の油じみた壁にいつまで私の銅版画が貼られていたのか判らない。売れたことは記念すべきことであったが屈辱的な気分に襲われることが多い。
併し、事実はもっと過酷で、冷笑的に棄てられたように扱われた銅版画で得た金で私は飯を喰ったのである。20年以上まえのことであるが昨日のことのように覚えている。下北沢に在った松屋で400円のレバニラ炒め定食の味はまことに複雑な味であった。たしかに飯は美味かったが、しばし咽喉をとおらぬようでもあった。これが自分の思いをぶつけた絵画を描き、その絵を売って他人から金銭を取って飯を喰うことなんだと思った。
2010年02月02日
私の場合で言うと、私の画家としての運命は1983年頃からのポール・セザンヌ、エドワード・マネ、クロード・モネの印象派絵画の模写油絵制作からはじまり、1987年頃には美術史を書きかえるような新たな油絵制作は自分には出来ないと挫折してやめてしまったことが序章であった。
そして、いつしか私はさまざまな私的な理由から、私の画家としての新機軸は書物の形体をもった表現であると思い込んでいった。
版画家の池田満寿夫の存在を詳しく知ったのは1984年頃の20才のときだった。
それまで私は池田満寿夫とは小説で芥川賞をとった人物であると云うことしか知らず、たしか版画家でもあった、と云うおぼろげなものでしかなかった。併し、池田満寿夫の銅版画を見たことは私にとって人生の転機になった。とくに20代の無名だった池田が自ら銅版画を印刷し、安価ではあったが、それを売って飯を食っていたと云うエピソードは刺激的であった。私も池田のように飯を食いたいと云う一念で無理算段して5万円のエッチングプレス機を買ったのである。併し、当時時給650円のアルバイトの生活で、切り詰めた中から捻出した5万円であったが、どうしてもうまく銅版画を製版して印刷することができず、結局1年程プレス機を押入れのなかに放置することになってしまった。併し、諦めきれずに、また銅版画を製版し印刷をして、併し、やはりうまくゆかずに挫折して、を繰り返していった。どうにか妥協できる銅版画をつくれるようになったのはプレス機を購入してから2年以上が経過していた頃であった。(つづく)
そして、いつしか私はさまざまな私的な理由から、私の画家としての新機軸は書物の形体をもった表現であると思い込んでいった。
版画家の池田満寿夫の存在を詳しく知ったのは1984年頃の20才のときだった。
それまで私は池田満寿夫とは小説で芥川賞をとった人物であると云うことしか知らず、たしか版画家でもあった、と云うおぼろげなものでしかなかった。併し、池田満寿夫の銅版画を見たことは私にとって人生の転機になった。とくに20代の無名だった池田が自ら銅版画を印刷し、安価ではあったが、それを売って飯を食っていたと云うエピソードは刺激的であった。私も池田のように飯を食いたいと云う一念で無理算段して5万円のエッチングプレス機を買ったのである。併し、当時時給650円のアルバイトの生活で、切り詰めた中から捻出した5万円であったが、どうしてもうまく銅版画を製版して印刷することができず、結局1年程プレス機を押入れのなかに放置することになってしまった。併し、諦めきれずに、また銅版画を製版し印刷をして、併し、やはりうまくゆかずに挫折して、を繰り返していった。どうにか妥協できる銅版画をつくれるようになったのはプレス機を購入してから2年以上が経過していた頃であった。(つづく)