カテゴリ:
いびつな… -8






悲鳴をあげたつもりだったが、声にならなかった。

駆け出そうとした途端に足がもつれ、その場に派手に転がった。

もつれたままの足を引きずり、走り出す。雨は再び土砂降りに変わっていた。

もはや何が幻想で現実なのかわからなかった。

すぐ眼先に、灰色の外装をした店が見えていた。先ほどまで、自分たちがいた場所。家族で夕食を食べるために訪れた所。

唖然とする。中に入ろうとするが、なぜか入り口が見当たらなかった。

(……莫迦な…)

 何かがおかしいことは確かだった。

ぐるりと外壁の周りを一周し、扉を探すが、入り口どころかひとつの窓枠すら見つけることができなかった。

緩やかな波の音が聞こえている。吹く風は冷たく、辺りは変わらずの闇に満ちている。冷風が、ぐっしょり濡れた髪と服の裾を靡き、そのまま凍ってしまうのではないかと思われた。

白い息を吐きながら何とは無しに海辺の方を振り返ると、あの恐ろしい屍の脇に、先ほどまではなかった筈の人影が見えた。眼を疑う。どこかで――遥か過去に見た、シルエット。どくどくと忌まわしい記憶の波が奔流する。

寒さに震える己の体を抱き込んだ。再びあそこに近づく勇気はなかったが、体はあきためたように、意識に逆らいゆっくりと歩みを進めていた。

しかし……辿り着くまでもないのかもしれない。すべてではないけれど、既に{行く先}はわかっているような気がした。閉じ込めてきたもの。トラウマ。自分の中で殺し続けてきたもの……。

すでに重要なピースは嵌まりつつあった。しかし――いや、まだ望みを捨てるわけにはいかない……。

かなりの時間を掛けて、再び砂浜に踏み込んだ。寒さは少しも緩和することなく、既に指先の感覚は失われていた。

軟らかな砂はひとつの足音――恐らく半分は風の音のせいで――も立てない。細かな粒子が無音で靴底の隙間に潜り込む。

眼先にはっきりと黒い人影が見えて来た。

やはり、とも、どうして、とも思った。重い失望が凍った心を打ちつける。

歩みを止めると、こちらに気づいたように、しゃがみ込んでいた影がのっそりと立ち上がった。

見れば見るほど、{あの時}のままの容姿だった。よれた黒いシャツに黒いズボン。違っているのは、服装が冬の装いであること、そして彼が今、全身ずぶ濡れになっていること。

違う……と、弱々しい声が言った。

「…違う……違うんだ…」どす黒い茶色に濡れた紫色の唇が、ゆっくりと間近に迫った。「……溺れかけていたんだ。助けようとしたんだ。あの日、最初から{彼}はこうして、すでに死んでいた――…」

雨に打たれながら、眼の前の男は哀しそうな、縋るような眼差しをこちらに向けた。

「罪悪感がなかったわけじゃない。現に、いまだって……。彼は、どこで負ったのか、もとから怪我をしていた。でも、怪我なんて、どうでもよかった。ただ、生きた体から溢れ出る血に、感動していた。ほんの少し、食べさせてくれれば、それで満足だったんだ。……でも、でも――…」氷のような手が肩に触れた。「……出血が、激しくて……それで、死体を、海に投げた……。あの時は、そうするしかなかった――……仕方なかった……仕方なかったんだ……」

 空しい告白だった。

 ざあざあと荒い波の音が聞こえている。夜の砂浜。醜く変貌した屍。這い出る魚。すべてが、回避されることなく、幼い頃の歪な記憶として形成されてゆく。

 ぼんやりと、吐かれる白い息が闇の中に溶けゆくさまを、眼で追いかけていた。震える男の指先が、思い出したように己の紫色の唇を拭った。

「と…父さん、僕は……」

「……赦して……赦してくれ……」

「……違う……僕は…僕は、ただ……」力なく口を開く。「昔から…家にあった、あの水槽を見るたびに、あなたの姿が歪んで見えたんだ……中には、何もいないのに……」

 ずっしりと心が沈み込んでゆく。もう{戻れる}手段は、ひとつしかなさそうだった。「父さん……違う、違うんでしょ、こんなのは…?僕たちは、分岐点にいるんだ。水槽の中には、泳いでいたんでしょ?そうなんだよね?…中に魚がいれば、僕は最初から父さんの歪な姿に眼がいくこともなかったんだよ。ねえ……父さん……」

「ち、違う!……違う、違う、違うんだ――」

 さく、と砂を踏む音がした。

 振り返ると、どこから現れたのか、ウエイターの格好をした男がびしょ濡れになりながら立っていた。濡れた前髪は顔にへばり付き、表情は見えない。しかし、なぜか男が笑っているような気がした。

「――……ここまで、当コースメニューを御堪能頂けた様で、誠に光栄で御座います。最後に……デザートが御座います」

 吹き荒れる風の中だというのに、なぜか鮮明に言葉を聞き取ることができた。

 男は両腕一杯に大きな{箱}を抱えていた。

 水の入った水槽だった。中で何かが揺らめいている。 

 黒い……ヒレのような…。中身をよく確認しようとして、近寄ろうとした腕を、冷たい父の腕が焦ったように引き留めた。

 ウエイターが嘲笑うかのように、水槽の中に手を突っ込むと、躊躇いなくそれを引き摺り出した。
 

「どうぞ、御召し上がり下さい――」

 




 

水槽に反射して見える自分の貌は、妙に歪んで見えたものだ。

 水の張った、透明な水槽。中では大きな鮒が一匹、ゆったりと泳いでいる。

 ゆっくりと水面に手を差し込むと、逃れるように素早く鮒が尾びれを翻した。

 逃がすつもりはなかった。両掌でぬるぬると滑る体を捕まえると、表面の鱗をいたずらにがりがりと爪で引っ掻く。しばらくそうして遊んでいたが、次第に飽きると、思い切り親指で腹を突き破った。魚は暴れるのを止め、依然として瞬きすらしない。ヒレは動いているが、それが自力によるものなのか水流のためなのか、どちらかはわからなかった。どろどろとした長細いものが飛び出し、みるみるうちに水槽の中が紅い色に染まってゆく。なんて奇麗なんだろう。なんて美味しそうなんだろう。

 水槽から{魚だったもの}を引き摺り出すと、まだ新鮮な赤い内臓を指で摘まみ上げる。口に入れると、生臭い薫りが鼻腔一杯に広がった。なんともいえぬ恍惚感に包まれる。ああなんて愉しいんだろう?

 ふと、同じく水槽を見つめていた男の、昏い眼とぶつかった。

 彼は何も言わない。ただ死んだような貌をして、自分の息子の行動をじっと見つめている。

 堪らない疑問が湧きあがる。この人はなぜ、いつもこんなに昏い表情をしているんだろうか?

 僕は優しく父の手を取ると、その指先をそっと口に含んだ。

(終)