いびつな…3(短篇ホラー)
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いびつな…3
一
ドアを開く音が、聞こえたような気がした。
ざあざあと滝のような雨粒が、窓硝子を叩く。遠くの空で、雷鳴が響いている。
夕闇というには、まだ早い。しかし、真昼間だというのに、部屋の中は気の滅入るような薄闇に満ちている。
雨の音が、また、激しくなった。………違う。波の音だ。窓を閉め切っていても臭う、潮のにおい。ここは、こんなにも海が近かっただろうか。
瞼を開けたまま瞬きもせず、ベッドの上でしばらくじっとしていたが、ようやく一つ寝返りを打つと、黴の臭いに混じって、畳の芳ばしい稲わらの匂いが鼻腔を突いてきた。
昨日?一昨日?一週間?一か月……すでに、途轍もない時間が経過しているように思う。いつからか、水と、記憶にないほどの微量なご飯粒しか、口にしていない。
妻がいるが、最近なかなか会えてはいない。子供は……いたような気がするのだが、いまとなっては、あまり思い出せない。……或いは、子供がいたというのは、夢か、ただの幻だったのかもしれない。
何を食べても、何を飲んでも、すべてが砂を噛むようにしか感じられない。一体、いつからこんなことになったのか……。
到底、心当たりと言えるようなものではないが……思い起こされるものは、どれも、断片的な記憶だ。
ある時、まだまともな食事ができていた頃、街角の寂れた店で出された冷たいスープに、ぽつんと、大きな目玉が浮かんでいることに気が付いた。
目玉の模様をした、蛾の翅だった。
僕はすぐさま、通り掛かったウエイター服の男を呼び止めた。
「何か、御用ですか……」
「これ、取り換えてくれ。ありえないだろ」
「在り得ない、とは」
「虫だよ、虫」
そう言った僕に、ウエイターは呆気にとられたように、しかし穏やかに、言葉を並べた。
「当冷製スープには、味わい、見た目共に、インディアナ産の、イオメダマヤママユがベストなのです。シェフの拘りです。何か、御気に召しませんでしたか……」
「……ふざけているのか?」
「はあ……」
「見ろよ、気持ち悪いんだ」
「かしこまりました……」
少しも悪びれた様子もなく、ウエイターは、信じられない言葉を続けた。「では……特別に、グラスウィング・バタフライを御持ち致しましょう。彼らは透明な翅を持ち、まるでステンドグラスのような美しさに、スープを風靡致します。刺身を彩る菊の花、檸檬に添える蜥蜴の肉……それら以上の魅力が、彼らにあることは、御納得頂けるでしょう……」
「何……なんだって……」
「蛾は御希望に添えないようですので、蝶を……」
「…蝶……」
「グラスウィング、本日の入荷は、フロリダ産で御座います。コロンビア産とは、また違った風味を御愉しみ頂けます……」
グラスウィング……。
全身から、血の気が引いてゆく。眩暈がした。
青ざめて、立ち上がると、汗ばんだ手で、ウエイターの肩を掴んだ。
「………オーナーは……」
「御気に召しませんか……」
「いるのか、ここに……」
「………」
かしこまりました。
言うが否や、ウエイターは隅の暗がりへと姿を消してしまった。
どくんどくんと、心臓が波打っている。
頭皮を掻き毟り、まさか……と呟いて、すぐに、ありえないと頭を振った。
テーブルの上で俯き、ひたすら得体の知れない緊張に息を殺していると、寸分して、足音が近づいて来た。……ヒールの音。
こつんと、音が、体のすぐ傍で止まった。
動けずにいたのは一瞬。恐る恐る、顔を上げた。
「本日は……御来店頂きまして、有難う御座います。冷製スープは、御客様の為だけに材料を取り寄せ、特別に調理したものです。どうぞ、御愉しみ頂けますよう……」
美しい、女だった。
心臓を、撃たれたようだった。まるで、全身に暴力を受けたような衝撃に、再び目が眩んだ。
「僕の……ためだけに……」
「そうです。貴方の為だけに……」
何かを考えようとして、女の言葉に、途端にすべてが靄に呑まれてしまった。
深く息を吐き、どうにか気持ちを静めようとするが、体を蝕む異様な昂揚は、解けそうもなかった。
頭上から、擽るような女の声が、降り注いだ。
「……これも……何かの、縁なのでしょう。当店の、コースメニューを召し上がられますか?普段は御出し出来ない、特別なものなのですが……」
「…ど、どうして……」
「如何致しますか……」
一体、いま何が起こっているのか……。女の言葉の意味は何なのか……。なぜ自らの心が、こんなにも激しく揺す振られているのか……。ひたすらに、わけが解らない。何もかもに、頭が追い付いていかない。
無意識だったのかもしれない。僕は、脂汗を滲ませながら、女に向かって頷いた。
「……コースメニュー……?」
「“コースV”……。貴方にとって“沢山の大切なもので満たされた”……最も味わい深いメニューを御案内致しましょう」
替えのスープを、御持ち致しました……。
すっかり、忘れかけていた。ウエイターが、天井の灯りと同じ色のスープが入った皿を手に、暗がりから現れた。
ふと、女の指が、スープの中央を指した。すると、じっとスープの表面に横たわっていた何かが、ぴくぴくと動き出し、翅を広げ、ちょんと女の指先に停まった。
思わず、固唾を呑むと、
「……グラスウイングは、わたくしが最も愛する宝石なのです……」
そう言ってあなたは、あの時と同じように、僕に微笑んだ。
(続く)
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