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”……御来店、有り難う御座います。
特別料理〈コースV〉を、御案内致します。

どうぞ……目眩く悪夢を、最期まで御堪能下さい”




 






 

いびつな…3














 ドアを開く音が、聞こえたような気がした。

 ざあざあと滝のような雨粒が、窓硝子を叩く。遠くの空で、雷鳴が響いている。

 夕闇というには、まだ早い。しかし、真昼間だというのに、部屋の中は気の滅入るような薄闇に満ちている。

 雨の音が、また、激しくなった。………違う。波の音だ。窓を閉め切っていても臭う、潮のにおい。ここは、こんなにも海が近かっただろうか。

 瞼を開けたまま瞬きもせず、ベッドの上でしばらくじっとしていたが、ようやく一つ寝返りを打つと、黴の臭いに混じって、畳の芳ばしい稲わらの匂いが鼻腔を突いてきた。

 昨日?一昨日?一週間?一か月……すでに、途轍もない時間が経過しているように思う。いつからか、水と、記憶にないほどの微量なご飯粒しか、口にしていない。

 妻がいるが、最近なかなか会えてはいない。子供は……いたような気がするのだが、いまとなっては、あまり思い出せない。……或いは、子供がいたというのは、夢か、ただの幻だったのかもしれない。

 何を食べても、何を飲んでも、すべてが砂を噛むようにしか感じられない。一体、いつからこんなことになったのか……。

 到底、心当たりと言えるようなものではないが……思い起こされるものは、どれも、断片的な記憶だ。

 ある時、まだまともな食事ができていた頃、街角の寂れた店で出された冷たいスープに、ぽつんと、大きな目玉が浮かんでいることに気が付いた。

 目玉の模様をした、蛾の翅だった。

 僕はすぐさま、通り掛かったウエイター服の男を呼び止めた。

「何か、御用ですか……」

「これ、取り換えてくれ。ありえないだろ」

「在り得ない、とは」

「虫だよ、虫」

そう言った僕に、ウエイターは呆気にとられたように、しかし穏やかに、言葉を並べた。

「当冷製スープには、味わい、見た目共に、インディアナ産の、イオメダマヤママユがベストなのです。シェフの拘りです。何か、御気に召しませんでしたか……」

「……ふざけているのか?」

「はあ……」

「見ろよ、気持ち悪いんだ」

「かしこまりました……」

 少しも悪びれた様子もなく、ウエイターは、信じられない言葉を続けた。「では……特別に、グラスウィング・バタフライを御持ち致しましょう。彼らは透明な翅を持ち、まるでステンドグラスのような美しさに、スープを風靡致します。刺身を彩る菊の花、檸檬に添える蜥蜴の肉……それら以上の魅力が、彼らにあることは、御納得頂けるでしょう……」

「何……なんだって……」

「蛾は御希望に添えないようですので、蝶を……」

「…蝶……」

「グラスウィング、本日の入荷は、フロリダ産で御座います。コロンビア産とは、また違った風味を御愉しみ頂けます……」

 グラスウィング……。

 全身から、血の気が引いてゆく。眩暈がした。

 青ざめて、立ち上がると、汗ばんだ手で、ウエイターの肩を掴んだ。

「………オーナーは……」

「御気に召しませんか……」

「いるのか、ここに……」

「………」

 かしこまりました。

 言うが否や、ウエイターは隅の暗がりへと姿を消してしまった。

 どくんどくんと、心臓が波打っている。

 頭皮を掻き毟り、まさか……と呟いて、すぐに、ありえないと頭を振った。

 テーブルの上で俯き、ひたすら得体の知れない緊張に息を殺していると、寸分して、足音が近づいて来た。……ヒールの音。

 こつんと、音が、体のすぐ傍で止まった。

動けずにいたのは一瞬。恐る恐る、顔を上げた。

「本日は……御来店頂きまして、有難う御座います。冷製スープは、御客様の為だけに材料を取り寄せ、特別に調理したものです。どうぞ、御愉しみ頂けますよう……」

 美しい、女だった。

 心臓を、撃たれたようだった。まるで、全身に暴力を受けたような衝撃に、再び目が眩んだ。

「僕の……ためだけに……」

「そうです。貴方の為だけに……」

 何かを考えようとして、女の言葉に、途端にすべてが靄に呑まれてしまった。

深く息を吐き、どうにか気持ちを静めようとするが、体を蝕む異様な昂揚は、解けそうもなかった。

頭上から、擽るような女の声が、降り注いだ。

「……これも……何かの、縁なのでしょう。当店の、コースメニューを召し上がられますか?普段は御出し出来ない、特別なものなのですが……」

「…ど、どうして……」

「如何致しますか……」

 一体、いま何が起こっているのか……。女の言葉の意味は何なのか……。なぜ自らの心が、こんなにも激しく揺す振られているのか……。ひたすらに、わけが解らない。何もかもに、頭が追い付いていかない。

 無意識だったのかもしれない。僕は、脂汗を滲ませながら、女に向かって頷いた。

「……コースメニュー……?」

「“コースV”……。貴方にとって“沢山の大切なもので満たされた”……最も味わい深いメニューを御案内致しましょう」

 替えのスープを、御持ち致しました……。

 すっかり、忘れかけていた。ウエイターが、天井の灯りと同じ色のスープが入った皿を手に、暗がりから現れた。

 ふと、女の指が、スープの中央を指した。すると、じっとスープの表面に横たわっていた何かが、ぴくぴくと動き出し、翅を広げ、ちょんと女の指先に停まった。

思わず、固唾を呑むと、

「……グラスウイングは、わたくしが最も愛する宝石なのです……」

 

 そう言ってあなたは、あの時と同じように、僕に微笑んだ。

(続く)