2005年12月19日

ルーブル美術館展鑑賞ノート

 横浜の桜木町駅で降りたのは、横浜美術館でルーブル展がやっているというので、それを観に行ったということです。駅から伸びる動く歩道で雑踏をすり抜け、ランドマークタワーに着いたのですが、乙女と青年のデートコースのようですね。そう思いつつも、辺りは人が疎らだけれども、休みには人も多かろうて、しかし、鈍い灰色の曇天とビルヂングが溶け込むような茫漠たる様に、僕は何度も歩みを止めたのでした。実のところ、歩を早めたにも関わらず、閉館は特別に8時となっており、気兼ねなく、ゆったりと展示室を見て廻りました。

 新古典主義からロマン主義との技法の変遷に加え、フランスの歴史や風俗も含めた作品群であり、その無尽蔵の創作の源泉もフランス革命やオリエンタリズムと色々なのでしょうが、感嘆を禁じ得ないのでした。何よりも絵画の構図に目が行きました。それは、絵画の設計図のようなものですが、実に練られた形跡が見てとれました。色彩もそうですが、絵画も構図を練ることが大事であると、自らも思うのでした。いつも思うのですが、時代は古くても、芸術としては新旧はない。そして、僕は、新古典主義の壮麗でな静かに佇む絵画にも、ロマン主義の情感豊かで鼓動を打つ絵画にも、同様に強い感動を覚えました。それがゆえ、僕もボッティセリやドラクロアの絵画の模写から学ぼうと思うわけです。もう少し構図をきっちりと考えた作品を、試しに一つだけでも描いてみようという気になりました。

 しかし、今日に、巨大で壮麗な絵画は、受け入れられ難く、歪んだ芸術的な観点が、有り触れた神秘を求め、そして、本来の絵画の美しさの色を褪色させても、数百年前とはいえ、美への感動とは時を越えうるもの。その感動と巡り会うというのは、色々と刺激になるものです。このような自堕落な一日もよいとしましょう。


gakusyuuhou at 23:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)芸術コラム 

2005年12月16日

ゴッホ展鑑賞ノート

 東京の竹橋駅で降りたのは、国立近代美術館でゴッホ展がやっているというので、それを観に行ったということです。駅から地下道を昇ると、美術館が見えたのですが、手前の交差点で人だかりが見えました。そう思いつつも、普段は辺りは人が疎らだけれども、展覧会場も人も多かろうて、しかし、曲線を描く高速道の背中と皇居の端整な表情が同居する不協和な様に、僕はふと歩みを止めたのでした。実のところ、歩を早めたにも関わらず、閉館には一時間待ちの列となっており、人ゴミの中をかき分けて展示室を見て廻りました。

 27歳に描き始めてから、パリの気風、浮世絵、アルルの風情の影響を受け、徐々に画風の変遷に加えた作品群であり、その無尽蔵の創作の源泉も牧師となることの挫折と色々なのでしょうが、感嘆を禁じ得ないのでした。何よりもやはり絵画の色彩に目が行きました。それは、絵画の音のようなものですが、実に抽象化された形跡が見てとれました。構図もそうですが、絵画も色彩による抽象化を探ることが大事であると、自らも思うのでした。いつも思うのですが、ゴッホの色彩は非常に論理的であり、絵を見て狂人などと言うのは失礼極まりない。そして、僕は、挫折と苦悩から色彩理論を生み出した敬愛すべき画家が、最後にロマン主義の情感を加えた、糸杉が鼓動を打つ絵画に、強い感動を覚えました。それがゆえ、僕も最近は、桜の乱舞する激動と竹の緩やかな静寂をモチーフにゴッホの色彩理論を応用して絵画を作成しています。以前、ブログで下書きを載せました。

 しかし、今日でも、ゴッホの絵画は、精神の解放が表す強い色彩の繁茂が目を覆い、そして、非日常的な色彩の美しさが無意識に伝わる。百年前とはいえ、芸術家の脈打つ鼓動とは時を越えうるもの。その鼓動と巡り会うというのは、色々と刺激になるものです。このような自堕落な一日もよいとしましょう。


gakusyuuhou at 00:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)芸術コラム 

2005年12月12日

絵画のテーマを持つ

 僕は、兄弟にデザイナーがいるので、そういう業界でプロとして仕事をする話をよく聞く。自分の絵に自信満々だったのに、それが打ち砕かれ、命じられた通りに直しても、ダメ出しをくらう。そして、極端に自信喪失してしまうとか。

 自分の絵画に対する態度を改めて考えてみると、実に中間的な状態にあると気づく。本業があるので、プロの業界に関係したいと思わないが、作品はやはり突き詰めてゆきたいと考えている。商業的な生産活動ならば、決められた期日に一定以上の品質のものを仕上げるということが必要だろうけど、僕は一つの作品にいくら時間をかけても誰からも何も言われないので、自分の品質まで描けるところがいい。だから、大切なのは自分の目を高めることにある。

 作家ならば色々テーマをもって取り組むだろうが、一般的には「存在を捉える」ことが絵画のテーマとも言える。それは目に見えないもの、例えば、情念なども含めての存在。僕は、特に哲学的な意味や歴史的な意味を求めて、絵画を考える。そこには、技巧や才能もある。僕は、才能というのは開花するものと考えるから、過去の強烈な才能に対して、焦りはあまりない。ピカソを見ると、そこにある価値は、才能の開花のみではなく、理性による明確な制御との結合で生み出される。

 絵画を創るにつれて、自分の方向性が見えてくる。自分の作品を意味付けるために、芸術を含む形而上学的な意味を明確に理解している必要がある。僕は、頭の中に明確なプランがあって、哲学の具象化であることには違いないけれども、そこに血や肉を持つ行動を持ち込もうと思っている。現在は、具象化が筆やキャンバスだけではできないかもしれないという懸念がある。しかし、もう少し進めてみないとはっきりとはわからない。

gakusyuuhou at 22:10|PermalinkComments(0)TrackBack(1)芸術コラム 

2005年12月09日

芸術の純度

たまには芸術に対する考えを記すことにする。多分、一般的な前提と少し違うのが、僕は、芸術や科学や文学は違わない、という前提を持っていることだ。そして、それが去年の暮れに得た僕の思索の結果なのであり、また、人生の転機だった。とはいえ、芸術や文学に、エミール・ゾラのように科学的な手法を用いなければならないというわけではない。僕は、芸術家の霊性は、当然の如く、認めている。実際、僕も物事を理解する時には、感覚的に捉えた後に、それを分解して、論理力で再構築するわけだから。そして、僕は、感覚を表層に過ぎないとは決して言わない。それは、芸術たる要素を抽出しているだろうから。

 話が反れたが、僕にとって、「芸術とは何か」というと、より深層では、全ては同じことなので、場合によっては、「手に持つ小石」と同じであるとも言える。それだと、話にならないから、より表層で芸術そのものを考えると、まずは技術なのではないかと思われる。芸術家たるものは、術を全て腹中に持ち、自在に使いこなせなければならない。そして、芸術家であり、また人間たるものは、まず哲学者であるべきだ。なぜなら、表現すべきものは、実は、もっと深くにあり、自分の内側の深淵に鋼鉄の袋で守られている。これを僕は指の爪を剥しながら開けざるを得なかった。だが、蓋を開ければ、実は世に有り触れた物、つまり「小石のようなもの」だった。そして、各表現者は、身体的な特徴を持つのであり、生得的な制限を持っている。それで向き不向きが出てくるやもしれないし、場合によっては、寧ろそれを生かすことができるやもしれない。ということで、心技体のどれが欠けても、強い作品は創れないと思う。 

 現在のところ、僕は、術を全て腹中に持ってはいないから、芸術家ではなかろう。僕は、ゴッホのように絶望から始めた絵画なのだから、未だ習作ばかりだ。従って、早急に、術を習得しているのであり、おそらくもって、数年は要するのではないかと思う。今、頭の中にあるのは、表現するのが、絵画の分野であれば、立体派の延長であり、もしかしたら、筆を使わず、数学を使うかもしれない・・・ということぐらいだ。

 結局は、芸術作品も迷いのある芸術か否か。芸術の純度とでもいうべきか。その純度が高ければ、結果的に、より多くの人も素晴らしいと思うのだろう。



gakusyuuhou at 23:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)芸術コラム 

2005年12月08日

デッサン7:馬

edf2bff1.jpg 7枚目ともなると、色々と考えるところも増えてくる。しかし、その分、色々と勉強になった一枚だった。納得がいかないところがあって、それを感じるのに、修正する方法がなかなか見つからなかった。僕が今回の一枚でよくよくわかったのは、見えたものを描いただけではよい絵にならないということ。当たり前のことのようだが、大切なこと。少なくとも、自分を納得させるに至らなかった。そして、自分とモチーフとの共感が必要だということもわかった。7枚のデッサンを通して、また一つ階段を上れた気がした。デッサンはこれぐらいで一度やめて、次は他の画材を用いてみようと思う。

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gakusyuuhou at 22:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)鉛筆デッサン 

2005年12月05日

絵画の構成要素

 絵画を構造に分解することで様々な構成要素がわかるが、実際、自分で絵画を組み上げることはできない。絵画もよく色や形態という要素に、補色や明暗対比、線の緊張と緩和、マチエールの変化などで、調和や不調和を作り出し、主題の顕在化させる。このような一般的な知識として持っていても、実際に用いるときには、知識はあまり役に立たない。やはり実践すると、知識以上に多くの細かいことが必要であることがわかる。どちらかというと感覚的に近い。それはなぜかというと、絵画の空間の中で概念は相互に関係しあうからだ。そして、画家は、要素が把握できないところまで持ち上げてゆく。とはいえ、鑑賞する時には、絵画の構成要素は、色々参考にもなると思うので、例を挙げて、考えてみることにする。

―杜夢
 油絵は、絵具の厚みを変えることで、造形的な効果が出る。例えば、強調したい部分を厚くしたりして、目立たせる。

⊆娘太
 繁茂した森林を写実的に描き、一方は広大な空を単純化して描く。このようにして、写真のように、一点に焦点を合わせ、主題を作る。

3肌の光沢
 滑らかな表面は滑らかな絵肌で描き、一方は、荒い表面は粗い絵肌を描く。このようにして、絵の表面の光沢を変化させ、調和を作る。例えば、絵に描かれた布などを良く見ると、シルクと麻袋の絵肌は違く描かれたりする。

ぬ整
 レンブラントが明暗の対比で有名だが、主題となる人に照明を当て、明るくする。それ以外の領域は、暗くする。

シ疎屬量度
 繁茂した森林を描き、一方は広大な空を描く。このようにして、絵の粗密を変化させることで、空間を感じさせる。

κ篆
 例えば、赤いリンゴがモチーフならば、緑の布を下に敷くことで、赤がより目立つ。

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gakusyuuhou at 21:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)芸術コラム 

2005年12月04日

木彫:面打ち

fb751ae4.jpg 僕はたまに気晴らしに木彫もやる。木彫をやる理由は、手触りにある。絵ではできない、作品を手で感じることができる。滑らかな凹凸、険しい凹凸、それが視覚だけでなく、手の平の感触でも味わうことができる。目をつぶって触ると面白い。この時、僕はある存在を手の平だけで精神に反映させようとしている。これは不思議で、色々と考えさせられる。あと削っていると、檜の香りがするもよい。そういう気晴らしの要素が大きい。油絵も造形的な要素が多分にあるので、彫刻をすることは良い勉強になるとも思える。ノミや彫刻刀の役割は、絵筆と同じように考えると面白い。ノミや彫刻刀の一つの削りが、絵画における一つの筆跡となる。
 いささか不気味な写真は、サーカスの団長をモチーフにして作成中の面である。デッサンの時に筋肉や骨格を意識するのと同じで、面でも肉の下にある骨をちゃんと意識しないといけないのだが、まだ作るのも2枚目でそこまで考えられてない。また何か作ったら、載せてみようと思う。

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gakusyuuhou at 08:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)木彫 

2005年11月30日

鉛筆デッサン6:うつむく青年

a5694487.jpg 僕は暗闇で光と交わりあった。影の中の囁きに耳をそばだて、その笑みから光への承認を得た。微かな逆光に慣れない目を細め、腕を交差させて、そっと光を影で優しく包んだ。少しの息でも、揺れ動く柔らかいうぶ毛のような、その存在を僅かな影で浮かびあがらせた。

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gakusyuuhou at 22:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)鉛筆デッサン 

2005年11月29日

疾走する馬の「線」に悩む

 最近は人ではなく、動物をモチーフに鉛筆で絵を描いている。今回、こだわろうと思っているのが、「線」である。前回の人物では、ほとんどタッチを見せなかった。服装のところで、質感を出すために少しあるが、その他は意識してない。今回初めは、ミュシャMUCHAのような、装飾的な線で描こうかと思っていた。しかし、モチーフである草原を疾走する馬に、その線を用いることが適切ではないような気がした。馬の肌を渦のように空気の乱流が流れる。全身の硬質な筋肉の緊張が生み出す風が、優美なたてがみや尻尾の流線型を作り出す。そういった複雑な要素が含まれているから、線も複雑な要素を説明できるように、ミュシャの線ではダメな気がした。はたと困って、線と思うと、僕は手元にあるシーレの画集をどうしても見てしまう。しかし、今回はシーレは置いといて、他の作家の作品を勉強してみようと思う。

gakusyuuhou at 22:09|PermalinkComments(1)TrackBack(0)創作ノート 

2005年11月26日

デッサン5:老女

4b1cce3c.jpg 今回は、ハリウッド女優の老女をデジタル画像から描きました。ペンシル画はシンプルな分、下手に隠せないですね。まだまだ粗が目立ちます。本来は、人物画ならば、僕はこの老女から感じたこと、そういったことも表現できなければならないんですね。それは描く対象と一言も話さずに、一枚の写真から得なければならないとすると、容易ではありません。なぜなら対象は写真に写された後ですから、既に対象そのものではありません。「写真や絵画は、対象を越えることはない。」というのは、よく言われることです。それは、自分の感情という内的なものを対象とした場合でも同じことだと思います。

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gakusyuuhou at 07:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)鉛筆デッサン 
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