2006年02月05日

渡部さとるインタビュー

旅する写真家・渡部さとるが見た「故郷・米沢」

インタビュー・文=タカザワケンジ



明日の開場を前に、展示準備中のギャラリー冬青にお邪魔した。壁に額を掛けるための釘を打ち、額と額の間隔を決め、水平を確認する。少しずつ写真展の全貌が見えてくる。
仕事では主にポートレートと取材写真を手がけ、自身の作品としては南の島をはじめとする海外の撮影を発表する機会が多い渡部さん。
その渡部さんが、故郷・米沢を撮った。
撮影から発表まで、渡部さんがその眼で見たもの、見ようとしたものは何だったのか。
写真の「バックステージ」について訊いた。


インタビュー4






故郷を撮ることは照れくさかった

──今回のシリーズは過去2年に撮影されたものですね。なぜ、いま、あらためて故郷にレンズを向けようと思ったのでしょうか。

渡部 「人生の転機となる出来事に見舞われた」とあいさつ文に書いたんだけど、2003年に眼底出血があって、視力が極端に低下した。その後、手術で快復するんだけど、そのときにはやっぱりショックで、考えることも自分の内側へと向かうんだよね。自分が生まれてから今までのこと、それも昔のことをどうしても考えてしまう。よく考えてみたら、生まれ育った米沢を撮ってなかった。大学に入るために上京して以来、毎年帰ってはいたんだけど、撮っていなかった。照れくさかったんだね。

 東京は撮っているくせに、田舎は撮ってなかった。それで、撮ってみようかなって。


 その時点で、視力が完全に戻ったというところまではいっていなかったんだけど、仕事ができるようにはなっていた。眼が悪くなるという出来事を経たことで、ふっ切れたというか、故郷に対する照れがなくなった。

 撮影するために、ワンシーズンに1度は必ず米沢に帰るようにして、2年間に合計8回行った。3カ月にいっぺんくらいのペースだね。

──大学からずっと東京ですよね。故郷に対してどんな気持ちを持っていたんですか?


渡部 親父が死んだのが、30歳になるちょっと前、28くらいのとき。そのときまでは、何かあったら帰ればいいやって思ってた。それが、親父が死んで帰れなくなった。

──いまはもう、米沢に実家はないんですよね。実家がなくなったのはいつごろですか?

渡部 30代後半。40歳ちょっと前くらいかなあ。妹夫婦が家を建てて、おふくろといっしょに住むことになって実家がなくなった。だから、撮影のために米沢に帰っても、ホテルに泊まる。本当に、帰るところがない(笑)。

──米沢という町そのものは好きだったんですか?

渡部 けっこう好きだね。だから、出身を隠すようなところはない。昔から、米沢なんだよって言っていた。

──でも、写真を撮るのは照れくさかった。

渡部 両親を撮るのが照れくさいでしょ? それといっしょ。

──米沢を撮りはじめてみて、どうでしたか?

渡部 撮る前は、米沢は昔とずいぶん変わったと思っていた。バイパスができて、ロードサイドの大型ショッピングセンターがどんどんできて、繁華街だった町の中心部が寂れた。ドーナツ化現象だよね。米沢に帰るたびに、「変わったなあ」という話をしていたんだけど、いざ、撮ってみると、根っこの部分は意外と変わっていなかった。

 ちょっと笑っちゃいましたね。なんだ、ぜんぜん変わってないじゃん。



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冬はモノクロ、夏はカラーで

──渡部さんが撮った米沢は、現実の米沢から夾雑物が取り除かれて、渡部さんの「米沢」になっている。故郷・米沢についての心象風景という部分もありますよね。

渡部 どっぷり感傷に浸るということはなかったけど、もう米沢には帰れない、という気持ちはあった。米沢に根ざして生きているわけではもちろんないし、いま住んでいるわけでもない。すれ違いというか、擦れるような感じしか残らなかったな。

 自分が昔から米沢だ、と思っているところを撮っているんだけれど、表面的なものしか見えてこない。カメラを持っても、深いところまでは見えてこないんだな、ということを感じましたね。

──ワンシーズンに1度は撮影に行かれたということですが、今回、展示している作品は冬が多いですね。

渡部  印象的だったのは冬と夏。夏はカラーで撮っていたので、今回はほとんど出していないけど。

 北国は四季の移り変わりが劇的なんですよ。ある日を境に完全に季節が変わる。

 米沢の本当にいい季節は、春と秋なんだけど、印象に残るのは、辛い季節だけど冬と、盛りの短い夏ですね。

──今回は冬編で、夏編をやるという構想はあるんですか?

渡部 今のところは考えてはいないですね。今回、オリジナルプリントにつけて販売する私家版写真集(20センチ×23センチ、カラー34枚モノクロ67枚)のなかに入っています。夏だけカラーで色がついている。ほかはモノクローム。

──冬はモノクロ、夏はカラーというのは最初から決めていたんですか?

渡部 春から撮影を始めて、夏もモノクロフィルムを持っていったんだけど、現地でカラーフィルムを買い直した。夏に行ってみたら、この季節は色がついているじゃん、と思ったんだよね。色があるなら、色を撮ろうと思って。
 カメラも、最初は何台か持っていったんだけど、結局、使うのは限られてきた。


正方形へ戻った理由

──渡部さんは、旅人の視点で南の島を撮影した写真集『午後の最後の日射-アジアの島へ』(2000年・mole)を上梓されているし、『旅するカメラ』(1・2 2003〜2004・エイ文庫)という著作もあります。旅人の視点は、渡部さんの写真家としての特徴でもあると思いますが、今回の写真展でも、故郷を撮影した写真でありながら、旅人=通過していく人、の視点がある。たとえば、展示の導入に米沢へと向かうクルマのなかから撮影した写真が使われていることからも明らかです。いままでの「旅写真」と比較して、米沢を撮ることに違いはありましたか?

渡部 いっしょだね。

 アジアの島に行っても、東京を撮っていても同じなんだよね。自分のなかに、どこかに根ざして生きる、という感覚がまったくない。

 東京に25年も住んでいるのに、東京人になれないじゃないですか。家も買う気になれない。

──根を張ろうという気持ちがない。

渡部 そういう気持ちがぜんぜんない。でも、米沢にももう帰れない(笑)。

──自分が宙ぶらりんの存在であるということを、写真を撮ることで確認している部分があるんじゃないですか?

渡部 ありますね。確認しちゃって、どうすんだ? って話だよね(笑)。

──今回の写真展では、導入から35ミリで撮影したシリーズが壁を埋めていきますが、最後の1面だけは正方形フォーマットの写真で占められています。カメラは何ですか?

渡部 ローライですね。一通り米沢を撮って、最後に正方形に惹かれて、また正方形に戻っちゃった。正方形を捨てたつもりだったのに。

──6×6の正方形フォーマットを捨てた、というのは、正方形フォーマットで撮影した『午後の最後の日射-アジアの島へ』で終わりだという意味ですか。

渡部 そう。あの写真集をまとめたときに、正方形フォーマットでやれることはやったな、という気持ちがあった。それに、正方形って構図がまとまるでしょ? それをちょっと外したいという気持ちもあって、正方形はしばらく封印していた。

 秋、冬、春は35ミリ。EOS 1nで撮った写真がほとんど。夏に撮影したカラーはブローニーで、フジの6×9を使っているんだけど、画面比率は35ミリと同じ2:3。つまり、四季を通して2:3で横位置で、という決まりごとを作って撮影していった。だけど、最後にどうしてもローライで撮りたくなった。

──生理的に、2:3の横長フォーマットだけでは、一味足りなかった?

渡部 そうなんだよね。どうしても正方形が欲しかった。

──これはぼくの勝手な解釈なんですが、2:3という横長フォーマットはロードムービー的というか、移動していく感覚にフィットする。35ミリカメラならなおのこと、カジュアルに撮れる分だけ、風景との距離が狭まる。
 今回の渡部さんの写真展を、米沢に帰って自分の過去から現在までを確認していく過程だとすると、横長フォーマットはプライベートな渡部さんの「眼」、正方形フォーマットは東京でプロカメラマンとして仕事をしている渡部さんの「眼」ではないでしょうか。
 今回の正方形フォーマットの作品は、露出にしても構図にしても「プロ」っぽい。写真でメシを食っている渡部さんが、写真家の「仕事」として、米沢を写真として表現するとこうなるんだよ、という意識を強く感じました。
 35ミリがプライベート・アイだとすると、正方形はプロの目なんですよね。その二つの世界が合流したところに、現在の渡部さんの作品の魅力があると思います。

渡部 正方形だけでもなかったんだよね。ローライだけでぜんぶ、ということは考えなかった。だけど、流れていくだけの写真だけでもなかった。

──移動していく視点と、立ち止まって視るという行為。その二つが必要だった。

渡部 そうだね。ローライを手にしたのは、1シーズン撮影してみて、2シーズン目に入ってきたとき。一通り撮って落ち着いた、ということもあるのかもしれない。


「米沢」という作品全体を買って欲しい

──ところで、今回の展示作品のプリントを買うと私家版写真集がセットで付いてきます。大胆な発想ですね。

渡部 北井一夫さんのプリント付き写真集(『1990年代 北京』2004・冬青社)を買ったのがきっかけです。写真集を買うとプリントが1枚ついてくる。そのときは、『1990年代 北京』という写真集も好きだったんだけど、カバーに載っていた1枚の写真も欲しかった。プリント1枚も欲しいけど、作品全部も欲しい。プリント付き写真集はそれを満足させてくれた。
 今回も、プリント1枚を買ってほしいというよりは、「米沢」という作品全体を買って欲しかったんだよね。だから、プリントと写真集はワンセット。バラ売りはしない。

──収録作品は全部で101点。かなり多いですね。

渡部 ふつうだったら、編集で削られちゃうんだけど。60点でいいでしょう、とか(笑)。

自分でやるからには、思い切って載せようと。

──撮影後にはセレクト、プリント、そしてまた展示用にセレクト、という仕事があるわけですが、その過程で印象的だったことはありますか?

渡部 セレクトにはまったく悩まなかった。流れだけを重視して、断片的にかっこいい写真があってもばっさりと捨てた。撮影したときに一番印象的だった時間の流れだけをチョイスすると決めていたから。

──ここ最近の渡部さんは写真家としての作家活動が盛んですね。依頼仕事中心から、作家的な活動にシフトチェンジしているように感じます。

渡部 劇的に変わったのは、目の病気をしてから。それまでは、本当に仕事オンリーだった。写真集を出していたりはしたけれど、あくまで仕事のほうがメインだったから。
でも、病気をする前に、すごく仕事が忙しかった時期なのに、なぜかワークショップを始めているのね。あれはちょっと、今でもわけがわからない。あの時点で、別にやる必要性はなかったから。

──渡部さんのワークショップに参加した方々の活動も活発ですね。グループ展などで作品を発表されている。

渡部 写真展で作品を発表するということにおいては、プロもアマも関係ない。自分たちと同じ。収入の糧を何で得るかは関係ない。そう考えると彼らはいいライバルですね。


インタビュー5






米沢からふたたび東京へ

──今回はすべて銀塩バライタプリントですが、印画紙は?

渡部 アグファのマルチコントラストクラシック111.オーソドックスなグロッシータイプ。アグファがなくなっちゃったから、入手困難になっちゃいましたね。

 いまはインクジェットでもきれいにモノクロが出せるんだろうけど、雪のハイライトのぎりぎりのせめぎあいを出そうと思ったら、やっぱり銀塩プリントのほうがまだまだ優れいていると思う。技術的には、プリントでハイライトをどこまで出せるかにこだわりましたね。
『午後の最後の日射-アジアの島へ』のときはわりあい重いプリントだったんだけど、今回の米沢のシリーズではハイライトのギリギリを使いたかった。

──雪の質感の繊細な表現は銀塩ならではだと感じました。

渡部 春の浮かれた空気感とかもね。

──米沢の撮影はこれでひとまず完了ですか。

渡部 そうですね。いつものくせで、場所ごとに撮っていくから、とりあえず完了。

──米沢のあとに取り組むシリーズは決まっているんですか?

渡部 東京が中途半端なままで撮影が止まっているから、あらためてランドスケープを撮ろうと思っています。

──「日本カメラ」(2005年1月号)の口絵で発表した4×5の東京シリーズの続きですね。では、やっぱり4×5で?

渡部 4×5と6×9でやろうと思っています。6×9で足を止めない写真を撮って、三脚を使う4×5と組み合わせようかな、と。

──米沢を経由することで、東京の見え方も変わってきたのではないでしょうか。

渡部 さらに根無し草であることを認識したということで……。これからどうするんだろう(笑)。


──根を張る代わりに、自ら動いて、シャッターを切る。それが渡部さとるという写真家の在り方なのかもしれませんね。渡部さんの旅がどこへ向かうのか、これからも楽しみにしています。

(2006年1月31日/ギャラリー冬青にて)

gallery2c at 14:37│TrackBack(1)da.gasita | インタビュー

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1. 横木安良夫渡部さとるインタビュー  [ アルカリブログ ]   2006年02月05日 23:46
■写真家、渡部さとるさんのWEBサイトで  ぼくが渡部さんに依頼されて行った、渡部さんへのインタビュー記事が掲載されています。