April 30, 2012

沖縄問題と改憲と日本人

日本人の殆どは生まれた時から日本人なので、そもそもなぜ自分が日本人なのかわからない人が多い。国旗や国歌を云々する議論などは、要はそんな日本人が議論しても全く意味を成さない。沖縄問題の根底にあるのも、このことがらなのである。もっといえば、現在の不景気、貧困など、今問題とされていることの殆どの根底にあるのもこのことがらなのである。


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October 13, 2011

映像ビジネスの未来memo

より人間らしく、現在に対しての近未来的問題提議的ありかたをコンセプトとしたメッセージを含ませた表現が鍵。
広告に限って言えば、単なる商品情報の羅列ではもはや戦えない。
商品特徴を通じて生活の付加価値を、醸成するのではなく呈示するものでなければ、すぐれたコンテンツとはいえない時代がすぐそこまできている。
つまり、タイアップ的な楽しさ等の追及だけでは消費者や視聴者のマインドに入り込むことはままならない。
もともと商品の価値優劣は消費者の趣向によって変化するものである。一方で消費者の趣向にいちいち同調させることも無視することも出来ないとすれば、趣向を変えさせることができればそれが最大効果となるわけで、そこをどう目指すのかがこれからのすべての企業にとっての命題となるだろう。
こういった状況を乗り切ってゆくためのパーソナリティの質は、個性的でありながら協調性を持っているということが必要不可欠。そのための教育、環境づくりは今すぐにでも必要。
これからの映像ビジネスの厳しさは、平均製作費の減少よりも、こういったパーソナリティの醸成にある。
いくら儲かるか、の前に、何が創れるのかということ。
社会構造の庇護とは切り離した部分での強み・有為性をどう最大値に漸近させてゆけるか。
コピーや、コピーのコピーなんかではもはやまったく通用しないと思った方がよい。
要はグローバルに広く受け入れられるオリジナリティを確立する道しか残されていないわけだから、さっさとその道を行けばよい。






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May 06, 2011

memo

企画→脚本→絵コンテ(台本)→撮影→編集
この一般的な製作の流れの、映像表現における合理性とは、はたして疑いの無いものだろうか。
設定→撮影→編集→企画→撮影→編集→企画→編集→撮影・・・・・
これは一見無駄な作業のようにも思えるが、時間の流れというものを紡いでゆく作業として考えれば、より確実な工程であるようにもおもえる。つまり、常にすでにある時間の流れの上に成り立つものを付けたして(あるいは削って)ゆくというやりかたであれば、予定調和の危険を排除しつつ進めることができるという利点が見いだせるのではないかということ。
たとえばあらかじめ一週間おきに撮影日だけが決まっていて、企画のもとになるアイデアと設定だけを用意して臨んでゆくとどうなるだろう。初日にまずぼんやりとした何かが撮れるだろう。それを編集してみればある小さな時間の流れが生まれるはずである。そこで次に何をするか考える。次の撮影日が来る。これを繰り返す。
おそらくだが、最終的な破綻は見ないのではないか。それどころか、見る側の補完機能を最大限活用できる可能性が大きく増すことが期待できるのではないか。全てが時間の流れに左右される、つまり時間の流れを最大限利用するのであれば、この方法は邪道・奇道ではなくむしろ正道なのかもしれない。

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April 29, 2011

描くということ

少し前だが、また誕生日が来た。
この歳にしてなお描くことを続けているのは、歳を追うごとにちゃんと描けたかなと思うことがすくなくなっているように思うからかもしれない。それは才能の限界を示すものかもしれないし、さらなる可能性を示すものかもしれない。そうおもいつつ全ては私自身の意思に委ねられている。

もともとモチーフやテーマが何であろうと、描くことというのは、自分自身を描くという範疇を逃れるものではない。しかし自分というものは変化するものである。昨日の自分と今日の自分が違うように、10年前に描いたものを今同じように描くことはできないだろう。かといって10年前に描けなかったことを今描くことができるということもある。要はものの見方、とらえ方、その変化が描くものをも変化させているということ。まあ、ちょっと前にわかってはいたのだけれども、この頃はそれを実感するようになった。

若さというのは、表現においての不条理性へのチャレンジではないかと振り返ってみて思う。音楽でのそれが叫びや祈りとして表現されるように、映像のそれもまた然り。逆にいえばそのチャレンジこそが若さの意味であり可能性であるように思う。若い才能を見るときの一つの見方がそこにある。つまりは、正しい表現者への入り口がそこにあると。

さて、もはや若くはない?老いの入り口がぼんやりと見えてきた私はどうすればよいのだろうかw卑屈な言い方をすればそれはたぶん、これまでまあいろいろと叩かれたり無視されたり陰口を叩かれたりしてきたものを愛しつつ形にしてゆくということなのだろう。期待できるのは人間そのものが描けるようになってゆくという楽しみが、これがまあ楽しめるかどうかは保証できないが、とにかくあるということだ。ちょっと怖いところまで来ているのかもしれないなと思う。でも、たぶんこれからが本番だと思わなきゃいけないんだろう。

しかしここまであっという間だったなと思う。人生は短い。まだ今は、先を急ごう。



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March 22, 2011

情報の質と管理

以前ここに書いたかどうかは忘れたのだが、インターネットによるコミュニケーションが一般化すればするほど情報の質と管理というものが重要になるということが、今顕在化している。
買い占め、風評被害にそれが現れているのである。
送り手側と受け手側の信頼関係が100%でないなかでの情報のやり取りにはその質の担保は難しいということ。さらに、常識の範囲を超えた判断、あるいは専門的知識に基づく判断を、一般の一個人に委ねるのは相当に無理があるということ。これらの問題によって、正しい判断を行うことができない人が出てきてしまうのは必然である。
ネットに対する情報のスピードと、テレビ局というコミュニティの小ささによる情報量の限界から、既存のマスメディアの有用性が疑問視された昨今ではあるが、情報の質と管理という側面で言えばこれほど信頼できるメディアは他にはないのである。一方で、ネットにおいてもそれは可能であるという論もあるだろうが、ネット内マスメディアというものでもない限り、一個人が質の面で太刀打ちするには相当の時間と努力と才能が必要なのではないだろうか。

さて、それでは私ごとであるCMは一体どうなってゆくのか。テレビを中心としたマスメディアがいまだかつ将来的に有用であることを鑑みれば、テレビCM不要論はいささか行き過ぎた考え方であるように思う。これは不要なCMが駆逐されるということであって、CMそのものが無くなるということではない。では、不要なCMとは何か。それはマスメディア以外のメディアでの広告活動で十分な商品のCMがそれにあたる。これまでは、のべつまくなしに、情報発信の効果的な方法がCMに集約されていたというだけのことなのである。もちろんこれによる全体の本数の減少は否めず、各広告代理店はのみならず中小企業主体である製作業界において苦しくなる企業が出てくることにはなる。単に不景気なだけでなく現状すでにそうなっていると見るむきは、間違っていない。

問題なのは生き残っている方である。これから如何にすべきかという問題に悩みつづけるしかないのだ。しかしそれに対する一つのヒントがある。それはやはり、情報の質をどう高めるのかということにあるのではないか。言い換えるならばメディアを合理的に利用できるか否かということ。つまり、視聴者にとっての必要かつ十分な情報にまとめるために、情報の合理化、整理が必要なのではないだろうか。これはクライアント側の問題でもある。発信したい情報が、視聴者(購買者)に対してそもそも必要かつ十分であるのかどうかをあらかじめ吟味する必要があるのである。それは、商品の開発の前、企画の部分から「何を売りにするのか」をより強く意識しなければならなくなってきたということでもある。要は、顧客ニーズに基づいた商品開発から始めなければ、CMしたところで売れない、我々製作者からすれば、売り上げにつながらないCM=不必要なコミュニケーションを繰り返すこととなり、結果首が締まってしまうことになるということである。

コミュニケーションとは、元来楽しい方がよい。マンネリ化したコミュニケーションは、お互いに興味を失ってしまうものだ。広告の送り手側と受け手側も、健全なコミュニケーションをとるべきだ。そしてそれは楽しくあるべきで、我々はそこに製作者として関わりたい。思えば、昔からのこれは、基本ではなかったか。


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March 20, 2011

感情

国内で、海外で。
おびただしい数の思いが三陸に送られている。
その全てを届けることができるかどうか、
いま、我々は試されている。

それほどの大きな思いが潜在的にこの国にあったということに
私はちょっと驚いている。
これをどこまで信じてよいのかどうか、正直慎重に考えなければいけないようにも思うのだが、しかし現地の被災者のくったくない感謝の言葉の前に、これらの思いを絶対的な肯定として以外にとらえることはできない。素晴らしいことだと思う。

一方懸念もある。「ブーム」で終わらせてはいけないということ。
すべての支援は、継続されなければならない。
そのためには今の「思い」を持ち続けなければいけない。
100%を続けることは不可能だが、ほんの数パーセントを続けることは出来るだろうし、その蓄積が一時的な100%を超えることだってあるだろう。しかし逆にいえば、ほんの数パーセントでしかないからこそ無視されるということもある。たぶん多くの人間はそうなってしまうのではないか?だからいま、それを踏まえて、思いというものを心に刻んでおかねばならないと思う。

ふと思うことがある。
善に囲まれた世界は人間に可能なのだろうかと。
許せる悪までも消すことは、正直あり得ないと思う。
なぜならすべての価値は、経験によって決定されるからだ。
そうでなければ、赤ん坊は全て罪人となってしまう。
つまり悪を否定し排除することは自己の内部完結として行う以外に、他人に対してそれを要求するのは、どこか自分のことを棚に上げることをしないかぎり無理だということ。このことを今、人間は事の大きさでもって、つまり比較の問題で棚にあげる物の大きさを決定し、社会通念的なバランスをとろうとしているのである。

ひるがえって考えると、今一番怖いのは、皆が棚に上げている物に気づいているかどうかということなのだが、まあ、それは言っても仕方がないことなのかもしれない。いずれにしろ、この思いが一時的な感情であったとしても、その感情が被災者の感情を癒すことにはかわりがないのだから。

もう一ついま若い人たちに対して思うこと。
支えあうということは、前提ではない。結果としてあるものなんだよということ。一人では生きていけないとか、君は一人じゃないとか、言葉の美しさを鵜呑みにしているだけでは、この国は滅びる。無償の愛は、一部にしか、もっといえば概念的にしか存在しない。そこから始まるのが人間であり社会であるからこそ、それらが尊く思えるのである。その尊さをより高く達成するためには、自分がまず、強くならねばならない。孤独や不遇に負けない互いがいればこそ、支えあうことの意味が大きくなるのであるから。最初から仲間をあてにしているのは、泥棒のようなものだ。やさしさは必ず強さにいずるのである。

不謹慎な言い方かもしれないが、避難所で活動している中高生のみなさんは、肌でそれを知ることができたね。それはまさに、彼らに与えられた天賦の財産だと思う。大事にしてもらいたいし、どんどん活用してもらいたいとおもう。

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March 16, 2011

良識

昨日まで、被災者のために水や食料を贈りたいと言ってた奴が、今日になって原発の不安が報じられると、とたんに食料品を買い占める。
正しさをいつも自分勝手に解釈している、そんな自分に気づかない。
完全に、自分好みの自分を鵜呑み。
そういった、自分の中の虚栄心に気づかないような人間が「誰かのためにできること」なんて言ってみても、所詮大したことなんてできるはずはないでしょう。
なのでせめて、義援金を贈りましょう。
援助の実際に、あなたの「やりがい」は必要ないのだから。
当事者ではない自分にできる最大の努力は、その程度のものなのです。

一連のメディアの報道を見ていても思う。
良識はいったいどこにいったのだろうか?
報道に、しかも国難と言えるこの状況に、野次馬のごときエンタテインメントは全くもって必要ない。結果的に危機をあおってしまうのは無知であるならば仕方のないことであるかもしれないが、知ることをおろそかにしている怠慢を、仕方ないこととして見過ごすのは、それなりに腹立たしさを覚える。

物事を知るというのは、文字を読んだり写真を見たりすることではなく、体感するということである。情報とは、それ自体が知識なのではなく、知識の一部でしかない。そこに自分という人間の価値観をぶつけ、咀嚼し、呑み込んではじめて、情報は知識となるのである。そしてその蓄積が良識を生むのである。

誰もが自分を素晴らしいものだと思いたい。
豊かな現代だから、つい自分を高尚に思えてしまうのかもしれない。
現実は、見たいものだけで構成されているわけではない。
見たくないような物事が実は多いにある。
知るための覚悟には、そんな見たくないことまでも正視する欲が必要だ。その欲を、持っているか?


援助にしろ情報の発信にしろ、良識の無いところで行われるその姿は、けっして美しくない。それが本来の人間の姿であるからこそなおさら、良識を求めてやまないのである。


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March 15, 2011

3.11/14:45

<未来へ>
過去に経験したことのない痛み。
家族や友を想い、冷たい現実の前におもわず膝をつく。
そうするしかないだろう。今はそれでいいんだよ。
心が乾くまで、涙を流すんだ。
ただ、人はいつかは前を向かなければならない。
それぞれのタイミングで、明日に向けて歩き始めなければならない。
その時人は、自分の命の意味を知るはずだ。
それは、まさにかけがえのない価値。
復興ではない。復活でもない。
輝ける明日の自分にむかって、
この犠牲に見合う未来にむかって、
前へ。前へ。

<償い>
僕の食べる料理をうらやましそうに見ている子供に手招きをして分け与える。
それは気高いやさしさなのか、
それとも自分の気まずさへの償いなのか。
考えても一向によくわからない。
それをする自分はきっと正しい人間だなんて到底思えないし、
それをしないことが正しいことだとも、到底思えない。
そこにあるのは、余裕の差?
優越?劣等?
信じたくなくても、それが人間なんじゃない?
フツーにそんな社会で生きてるんじゃない?
だけど、、
その子がうれしそうな顔をするから、
僕は一番おいしいところまで二人で食べてしまおうとしている。
それが自分の貧しさへの償いであったとしても、
その笑顔が見れるとしたなら。

<みち>
いつもと同じようにただ歩いていたら躓いてころんだ。
うちどころが悪くてしばらく立てそうにない。
誰かが優しい声を掛けてくれた。
それはそれで嬉しいけれど、
痛みは一向に消えないし立ち上がれそうにもない。
そんなときは目を閉じてじっとこらえるしかないんだよ。
大丈夫。
しばらく時間がたって、少し目を開けてみればまた
みちが見えるだろうから。










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February 11, 2011

2011所感!

景気が悪い。のみならず情報がグローバルに共有され、日本語や日本的作法での情報発信は本当に日本ローカルでしか用をなさなくなってきている。国内の景気が良ければ日本ローカルはそれだけで我々業界のマーケットとして必要十分な規模を保つのだが、今はそうではない。このような状況において現代を生き残ってゆく企業を目指しているようではいけない。まず企業はどんな状況においても勝ち切るという基本姿勢が無くては後塵を拝するしなかいのである。

昨今の状況において経営を考えるとき、ついつい念頭に置いてしまうのが、売上げ額である。前期と後期、前年と前々年、来期予想など、それはそれは気になる事この上ない。しかし、昨今の状況とは少々景気が悪いといった状況とは全く違うのだ。つまり、対症療法で完治するような状況ではないということ。今考えるべき最も大事なことは、社員のやりがいとは何か、社員の人生の精神的幸福とは何かを根本に、企業のコンセプトをしっかりと定め、確実に実施することだろう。

夢を達成した人というのは、それ以外の人から見ればある種の終着点に達したかのように見えるものだが、大概本人は道半ばであるという感覚でいるものだ。つまり、夢とは次の夢に向かうための越えるべきひとつの壁なのである。これを次々越えてゆく達成感、なかなか超えられないことによる努力がもたらす充実感。仕事にも人生にもこれが無いといけない。人として生きることの醍醐味はここにあるのである。つまり、企業において最も大切なこととは「いくら儲けるか」ではなく「何がしたいのか」だと。誰しもつまらないことはしたくない。素晴らしいことならば誰しもしたくなるものだ。その素晴らしいことを実践した結果の報酬は、同じ金額でもかけがえのない付加価値を感じることができるだろう。

しかし、企業はこの期に及んで社員を全員入れ替えるわけにはいかない。これまでの流れを無視することはできないのだ。つまり、考え方はあっても実践することが難しいということがあるだろう。古い社員が多いほど、意識改革は難しいのである。書店に行くと、意識改革をテーマにした本のいかに多いことか。しかし個人的には読んでも無駄だと思う。なぜなら、自分の意識を棚に上げて他人の意識は変えられないだろうから。結局のところまずは自分の意識を改革し実践してゆくしかないのである。それをやっていくうちに共感者が現れ、小さくても実績をあげてゆけば徐々に注目される。これ以外のパターンで変化が起きた事例を私は知らない。

こういった自分勝手な改革の芽があちこちにあるようなら、その企業はかなり可能性のある企業といえるのではないだろうか。そういった土壌を一から作る覚悟が、まず必要だ。そうでなくても安定とは改革の連続からしかもたらされないのであるから。



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September 04, 2009

育成。。ってw

 以前から弊社では、若手ディレクターの育成に力を注いでいる。その結果、ここ数年間においてはかなりの確率で、世界的評価を得る若手が育っている。おかげで最近は社外から驚きや賞賛の声が聞こえてくるようになった。しかし、本当のスタート、本当の競争はその後に始まるのであって、そこで勝てるようになるのかどうかは未だ未知数だとおもう。ただ、現時点としてはこれ以上は望むべくもないほどの成果があがっている。このアドバンテージを今後にフルに生かすことを考えなければならない。導く側としても、ここからが正念場といえる。


 社外の人はよく「なぜ育つのか?」という素朴な疑問を投げかけてくる。が、その度に私は言葉に窮する。なぜなら、たいしたことはしていないからである。私が継続的にしていることといえば、とてつもなく高い目標を設定させることと、本人が迷ったときに正しいとおもわれる方向へメンタルをコントロールしてやることくらいだ。あとはほとんど放任である。本当に何もしていない。なのに気がついたらそこそこのものが出来るようになっている。一体何なのだろうか。

ひとつ外せないのは、原石としての個のポテンシャルがあるかどうかということ。これに関しては採用試験でしか測れないのが実情だ。毎年100名を超える希望者の中から0〜2人に絞る。これはかなり厳しい。しかし絞った時点ではこちら側としても100%の自信があるわけではない。50〜60%の自信しかない。うまく磨かないと駄目だなと、毎回思うものである。そんな新人が数ヶ月の研修を経て私の手元にやってくる。そこで演出助手という仕事を数年間続けることになる。そして平均すると3年目前後で若手ディレクターのコンペに出品し、上位入選を果たす。大体こういった流れになっている。大して何もしていないのにだ。

新人が演出助手として私のところに配属されると、必ずする質問がある。それは、「何をしに来たのか?」ということと、「最悪乞食をする覚悟があるか?」ということだ。言いたいのは「一流でなければ生き残れないし、定年まで現役でいられるのは業界で数人しかいない」という現実で、とにかくこれを理解させる。で、理解をさせた上でひとつの通達をする。「何も教える気はない」と。
あとは、それ以外に必ずすることといえば、夏ごろに靖国神社の遊就館を見学にいくくらいだ。初年度には、まあそれらのことで、三つ子の魂のバックボーンの設定くらいはするようにしているということになる。


さて結果としては、こんな程度のことをやっとけばよいということになるのかもしれないが、逆に言えば他社さんではそういうことはしていないのだろうか?あるいはしているけれどうまくいかないのか?単純にまとめると、適正な原石選びとその原石の初期設定をきちんとすればほっといても育つ。ということになるわけだが、それぐらいのことみんなしているようにも思うのだが。不思議だ。

ここのところ若手の育成についてそんな風に思っていたのだが、昨日、ある若手コンペでまたひとりTOP3に入ったというニュースが・・・。またかと。いったい何なんだと。
まあとはいえ、本当の勝負はこれから。教習所で100点取ればF1に乗れるというわけではない。結局わからないなりに進むしかない。








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August 27, 2009

衆院選

あれよという間に今年の夏も終わろうとしている。東京の気温はお盆を過ぎてから随分としのぎ易く、早朝など昨今はかなりすずしい。思えばこの感覚は、季節感として子供のころに味わったものと重なって、少し懐かしさを覚える。その証拠に、たとえば花火が夏の終わりの風物詩として本来の姿を見せたのはここ10年記憶に無い。そうだ、日本は四季によって彩られた文化を持つ国であったのだ。これを思い出さなければいけない日常を先祖に詫びねばならぬ気がするのは私だけだろうか。

そんな今年の夏を終わらせまいと、走る、走る。そいつは選挙カー。
衆院選も投票まで数日を数えるほどになり、蝉に負けじと演説の声をはりあげている。自民か、民主か?信じるか、信じないか。互いのマニフェストを重箱の隅をつつくような目線で嘗め回し、舌戦のネタをさぐる。そのうちどちらが正しいのか判らなくなり、清き一票はその意思を失うのだが、それは今に始まったことでもあるまい。

さて、結論からいえばとりあえず自民に一票投じてみるということに。
昨年9月より世界的な大不況がつづき、国内企業がどんどん倒産・破産してゆくなかで、我々はさらにリスクを冒す必要があるのかどうかをよく考えなければならない。今というのは絶対に失敗できない時期だ。つまり政権与党を変えるならば、しかもそれが初めての体験だというのなら、実は今はその時期ではない。もてるものを最大限生かし、生き延びねばならぬことが当面の命題。その点で自民党の実績は捨てがたい。対応の即時性が必要な状況に対して<根っこからかえてゆきましょう>というのは説得力に欠ける。出来が悪いからといってピッチャーをいきなり未経験者に変える監督はいないだろう。言ってみればそういうことだ。

たとえば仮に、任せてあまりある信頼感を民主党が見せるのであれば即時政権交代すべきだろう。が、しかし残念ながら民主党の実力はまだそこまで至っていない。見るのとやるのは大違いなのだ。その違いのギャップが生まれないような力を見せない限りは一人前として認めるべきではない。それはわれわれの普段の仕事の価値観と同じだ。

さて、いよいよ明日は投票日。報道されているとおり民主党が圧勝するのかもしれないが、勝つにしても負けるにしても僅差でなくてはいけないように思う。国民自体が利口でなければ政治も利口にはならないのだから。

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October 17, 2008

経済が世界をつまらなくする

此処2年にわたり海外に出かけて仕事をしてきたのだが、ここへきてそれも一段落したということもあり、所感を記録しておきたい。

今、世界的に表現は混沌としていて、その一番の原因は人類がお金を発明してしまったことによるのだということ。さらに現在、インターネットによる情報の伝達スピードの速さがこの混沌を加速させているということ。結果として民族文化の価値が曖昧なものとなりつつあり、土着ということにおいての表現の足場が揺らいでしまった。
そうなるともはや表現は消費されるものとしてしか存在できないのかもしれない。地球の文化を一くくりに出来ない状況の中では、価値基準をブームとしてしか設定できないのではないだろうか?「我々」の垣根が仮想的にとりはらわれてしまった場合の「正論」は文化的強者に因るのではなく、経済的強者による。そしてそれは根本的な多様性というものを無視し、消費活動の名のもとに一元的な仮想価値を出現させてしまう。これがもはや現実化しつつあるのが今の世界だ。
これがよいことなのかどうかは正直わからないが、表現の根の部分が仮想的に存在してしまうことの気持ち悪さは、今に生きるものとしてはかなり受け入れがたい。

映像のこれからはドキュメンタリズムを大事に考えてゆかねばなるまい。なぜならファンタジーは仮想的現実の中に於いて特異性を発揮できないからである。夢想的であることは商業的であるということになってしまいそうに思えるからである。つまり全ての映像や表現は、一つの情報として一元的に取り扱われてしまう危険性が大きいということだ。情報としての価値は仮想的であればあるほど低くなるのだから。

しかしこれは映像のプロとしてはジレンマである。

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September 14, 2008

ショートフィルム実製作

 仕事で知り合ったモデル君のブログを見ていて、そういえば自分もブログつくってたなぁと呑気に思い出し、久しぶりに更新してみようかと思い立った次第ー。

前回奇しくもショートフィルムについて投稿していたのだが、実はとあるレコード会社の記念事業で、ここ数ヶ月の間にショートフィルムを4本も創るハメになってしまっていたのである。出来栄えはというと、まあ久しぶりに自分らしさが多少表現できたんじゃないかという気はするのだが、一般視聴者からすれば可も不可もなくといった感じなんじゃないかしら。2ch等に多少反応があるみたいだが、こちらの仕掛けに見事に引っかかってくれているようなので、皆おおむねこちらの意図どおりにストーリーの読後感を感じ取っているとおもわれる。その点では少し安心した。

現場を振り返って思うにいちばん印象深かったことといえば、あらためてスタッフの重要さを感じたということ。普段のCM製作の現場でこれを感じることができる監督はほんの一握りなのではないだろうか。というのは、CMというものは本来的にクライアントのためのものであるからである。コンテの必然性がクライアントの意思をよりどころとしている以上、全てのスタッフは代弁者としての立場を逃れることは許されない。一方、今回のような場合はどうなのかというと、コンテの必然性はほぼ純粋に監督の意思を拠り所としているのである。つまり、全てのスタッフは監督の意思の代弁者ということになる。これは責任が大きい。クライアントのために動いてもらっている状態というのは、裏を返せば別に監督がしたいとおもっているわけではないということでもあって、それゆえ表現の責任はほとんどクライアントのものですよという言い方さえできるような普段の現場から比して、今回のような場合に監督が背負う表現の責任は、それと比べようもなく大きいのである。撮影中にふと思った、<なぜスタッフはここに集まっているのだろうか?>という事の答えとしては、<監督の意思がそこにあるから>ということ以外に根本的な理由はないということ。そしてその責任は良いものに仕上げるという方法以外に果たすことは出来ないということ。今回あらためて基本に立ち返ったような気がするのは、そういったことを再確認出来たことによる。たまにはこういう仕事もしてみるもんだなと。

ちなみに、今回の仕事はDVDで販売される予定。おそらくは10〜11月頃に発売されると思われる。vol.1〜5の4か5(あるいは両方)に収録されるようで、1〜3についてはすでに販売されているということのようだ。一枚につき20作品が収録されており、有名タレントも多数参加している。ショートドラマがこれほど集まっているのもめづらしいということで、興味があれば買ってみるのもいいかもしれない。面白いかどうかは一切保障できないがw。



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December 02, 2007

ショートフィルム

 とかく大金を要する映像制作だが、比較的に安価で作れるという理由で若手の製作者達がこぞってつくっているのがショートフィルムである。大体が5〜15分程度の尺でつくられる場合が多い。安いとはいっても、やはりそれなりにお金はかかってしまうからである。弊社に於いても年間に数本のショートフィルムがつくられ、若手ディレクターのshow reelに彩をそえている。中には海外で高い評価を得て、世界の若手No.1と云われる者も出てきた。会社にとってはこの上ない名誉である。

 ショートフィルムというものを、明確にカテゴライズするのはなかなか難しい作業だ。というのは、映像を尺によって語り分けることが簡単ではないからである。短くてよいものもあれば、長くても寝てしまうものもある。ただ、良いショートフィルムに関しては何となくではあるが特徴が在るようにも思える。

 尺が短いということは、あまり複雑なストーリーは展開しづらいということがある。それなりの短い時間の中で何をどう伝えるのかということが、作品の質に大きくかかわるといえるだろう。つまり表現コンセプトは明快でなければならない。ディレクターの一般的な悪い癖として、「シーンを豊かに表現する」ということがあるのだが、ショートフィルムの場合は豊かな表現がコンセプトを隠してしまうということが起こりやすい。それは演出する前の段階から、即ち脚本の段階からすでに起こってしまうことがある。

 映像の構築に於いての常道として、ストーリーテリングというものがあるわけだが、それはコンセプトの表現ということにとって重要では在るものの所詮はひとつのツールでしかない。起承転結の結はあくまでストーリーの結なのである。本当のコンセプトはどこにあるべきなのかといえば、それは観客の心の中にあるべきものなのである。つまり、起承転結によって示されるものがそれにあたるということだ。それが共感というものだ。全ての感動はそれなくしては起こらないだろう。

 ひるがえってショートフィルムを制作する場合、脚本はどうあるべきか。演出は、編集はどうあるべきか。これを考えた場合、いわゆる長尺の映画と同じようなわけにはいかない。むしろ、TV-CFの手法に近いだろう。理由は上記の通りである。
良いショートフィルムには、シーンをあたかもトランプカードを華麗に一枚ずつめくって見せるような適度なテンポ感があり、いい主役がいる。そしてそれは概してシンプルに動く。コンセプトがシンプルならばこそ、動きもシンプルにまとまるということなのである。



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July 03, 2007

DIE HARD4.0

 例によって会社で会議をしていると、映画通のスタッフからこの映画の話が出た。それによるとかなり面白いとのこと。話の脱線ついでにネットで上映状況を調べると、深夜12時からスタートする回がある。時計を見ると23時過ぎである。というわけで、そそくさと会議を終了し、新宿3丁目のシネコンに向かった次第。

このシネコンはWALD9(バルト9)という名称で、その名が示すとおり9つの映画館の集合体となっている。最近出来たばかりということもあり館内は非常にきれいで、さながら映画パークとでも言いたくなるようなたたずまいである。映画文化の享受者としての映画館ではなく、映画文化を醸成する場所としてあらんとする心意気を感じ、少しうれしく思った次第である。こういう施設はどんどん増えてほしい。

チケットカウンターの隣のフードコーナーでラージサイズのダイエットコーラを買い、いざ入場してみると。。。客がほとんどいないw月曜日の深夜の素晴らしさに感動。たった十人のために上映してくれるのだ。ありがたいことこの上ない。おかげでかなり集中してみることが出来た。

 さて、観終わった感想をば。。
これはなかなかいい映画です。というか、まさにTHE映画という感じ。なんの捻りもないコンセプトをどう魅せていくのかということしかしていないわけなのだが、結果としてそこに力が集中され、完成度が高くなったというふうに見受けられた。悪く言う人の言い方はきっと、「ワンパターン」「マンネリ」「ベタ」などと言うのだろうけれども、表現的にはマンネリを魅せきると言うのは非常に難しいことなわけであって、そのあたりを価値観に入れて考えれば、この作品の素晴らしさを疑う論を持たないはずである。



 ここらで「ベタ」ということに触れておこう。表現的に「ベタ」というのは実は「普遍性」というものを包含している。つまり「イマドキ感」というものは「ベタ」なくしては生まれないのである。そう考えるのが難しいのは、巷にあふれる映像の種類がこの二つに分かれているだけではないところにある。「イマドキ感」というのは常に更新され、そして更新された瞬間に「ベタ」になるからである。引いてみれば総体としてほとんどの表現が「ベタ」ということになる。だから「ベタ」は価値としての希少性を持たないというのが一般人の感覚だろう。だが、それだからといって「ベタ」を切り捨ててしまうのは早計である。
ベクトルを逆にしてみると、どうだろう。過去を振り返ったときにあんなにあった「ベタになってしまったイマドキ感」は、時間を遡るにつれて激減する。つまり、普遍性という軸においては「イマドキ感」のほとんどが一過性の域を出ていないということになるわけだ。つまりものを創るという行為のベースとして、「ベタ」をどう考えるのかということが普遍的な完成度の為には必要だということなのである。だから表現者は「POP」というものに対して気を配らねばならない。細心の注意をして望まないと、野心というのはなかなか抑えられないものだ。ゆえに「ベタ」というのはそう簡単には出来ない。ここに「ベタ」の希少性は存在するのである。


この映画はそんなようなものである。「ベタ」を「ベタ」で塗り替えていくことを成功させるのは並大抵ではない。上質な工芸品でも見るかのように観てほしいものだ。







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May 03, 2007

環境と才能

ーあらゆる成功には、それに伴うリスクがつきものである。
成功を手に入れる為に必用なものには、実は本人の才能と努力だけでなく、リスクヘッジのためのキャパシティーというものが必要不可欠である。
あらゆる若さというものが可能性に満ちているのは、体力があるからだけではない。何も持っていないということこそがその根底に泰然と存在するのである。
つまり、賭け金を何にするかという問題に対して最もシンプルな答えを持つのは何も持たない者の特権であるということだ。
簡単に言うと、歳を重ねるごとにそういったキャパシティーの容量は少なくなっていくということ。これは由々しきことであると悪あがきをしても仕方が無い。そのことによって世代は更新されてゆくのであるから。これはもう、摂理である。
しかしこのことは年老いた者にとって別に悲しむべきことではない。なぜなら失った物と同じだけの経験を手にしているはずだからである。喜びも悲しみも人生にとって必要なことなのである。

さてと。以上のことが摂理であるとして、視点を本人から環境に移して見るとこういったことが言える。
ーある個人又は団体を成功に導くためには、それに伴うリスクヘッジのためのキャパシティーが必要である。
いま、巷に注目されている人たちはもれなくその環境に恵まれている。運であったり実力であったり、そのきっかけはいざしらず、結果的には良い環境が良い成績を生んでいるのが事実である。
いかに成功するかを考えた時に、いかに良い環境を手に入れるかということは、非常に大切なことだ。もっというと、成長に応じて次々と良い環境を手に入れ続けなければ極みに達するのは不可能にちかい。つまり本当のトップ以外の人間は皆不遇であるともいえる。不遇であるからこそ努力するというのが、賭けを続ける者のモチベーションを担っているとすら言えよう。

少し話をずらそう。
それにしてもこの国の人間はスポーツと芸術を軽視しすぎてはいないだろうか。
あらゆる合否試験科目において体育と芸術は排除されていると言っても過言ではない。人生の基礎、生活の基礎がそこにあるにもかかわらず、だれもその必要性について訴えようとしないのはなにか変である。
能力と言うものを語るときに、どうも脳みそとそれ以外の人体部分を別々に考えてしまっているように思えて仕方が無い。能力と言うのは総合的なものである。知力・体力・主体的な意思。これらのもたらす結果が能力というものである。これはまさしくスポーツそのものであり、芸術そのものでもあるのだが。どうやらそれは世間的には認知されていないようである。

ひるがえって、アスリートであれアーティストであれ、そういった人たちはほんとはもっと社会的に支援されるべきである。現状では一部のメジャーなスポーツのみ良い環境を与えられ、マイナースポーツは貧弱な環境にあえいでいるのが事実である。商業主義的にいえばあたりまえのこの状況ではあるが、スポーツや芸術の本質を考えれば、人間社会としてありえない状況であるといっても言い過ぎではないのではないかだろうか。

なにも景気をよくすることと戦争に勝つことだけが政治ではない。文化を醸成し、国体を維持成長させていくこともまた政治なのではないだろうか。そのことが結実する日が早く到来することを願う昨今である。




gamitti2001 at 16:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

April 14, 2007

2007+10

 最近、選挙演説であるとか政見放送であるとかを聴いていると、勿論いちいちごもっともな政策やらそれは無いでしょといったことまでまあ様々な考えに触れることは出来るわけだけれども、同時にどこか古臭さというかマンネリというか、むしろ変わらないことに対する諦めのようなものを感じてしまう。おそらくは資本主義というシステムが古くなってきてるのではないかと、そう思うのである。わかりやすく言えば、バージョンが低いということか。
 
 このブログではこれまで「表現」というものを軸にそこに必要な要素やそれらの関係性について少なからず語ってきたと思うのだが、上記のことがらについても実は同じ視点でそのように思うのである。
 これは特に自分が日本人であり、日本に居を構えているからこそ感じることなのかもしれない。なぜなら、日本人ほど資本主義のシステムの中にどっぷり浸かった、、つまり土着と伝統を犠牲にできた国民は世界中どこにも居ないだろうからである。逆に言うと、現行の資本主義思想をつきつめたひとつのモデルがこの国であるともいえるのではないだろうか。
そんな国の国民を観察するにつけ目立って見える欠陥が「文化的後退」というものであり、それゆえ自らを根無し草と呼び、刹那に消費を繰り返すことでしか人間として生きるということの意味を表現できなくしていると、厳しく言うとそういうことになってしまう。
 つまり今の日本としては、これを続けるのや否やということが真っ先に考えられなければならないのである。つまるところこれはお金以外の価値基準を定めるということなんだけれども、それがなんであるかというと「思想の持つ価値」という答えぐらいしかみつからないのではないか。自己の存在をすべて回帰しえるような場所や時間といったものにどれだけの価値を見出せるのかということ。これをお金で買うのではなく、自ら見つけ出すという思想。自由主義の本質には本来こういった厳しさがあって然るべきなのではないだろうか。さらに資本主義とはそのように質の高い自由主義の下でしか人間を本質的な幸せに導くことが出来ないのではないか。バージョンが低いとはそういった事を指して言ってみたのである。

2007+10。そう、十年後に我々はこれらのことに関してどれだけの進歩が出来るのだろうか。今や地球全体が資本主義で包まれてしまったのである。そこでこれから起こる問題をいち早く人類に提示していくことが出来るのは、実は我々だけなのではないだろうか。表現することを捨て去ってしまってはもはや人間ではないということをよくよく考えてみるべき時期に、もはや差し掛かってしまっているのである。

gamitti2001 at 05:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

January 05, 2007

硫黄島からの手紙

 愛する人への想い、、、この映画でそれは果たして充分に描かれ、かつ観る者の魂を充分に揺さぶったといえるだろうか。これが正直な感想である。

 去る12月27日に、前作に続き再び渋谷に足を運んだ。映画館の入り口には、予想に反して入場券を求める人の列が出来ていた。そしてその顔ぶれはまさに老若男女、様々なジェネレーション&カルチャーの入り混じった一見不思議な様相の集団に見えた。さらに云うなら列を成す彼らの表情もまた各人各様、それぞれが期待する感動の予感をそれぞれ勝手に浮かべていたのである。一瞬、この集団を前にたじろいだ自分も、数分後には同じような表情をしてそこにいることとなった。未だ見ぬ物への期待。良くも悪しくもまずこれが伏線となって、この映画は上映された。

 さて、前置きはともかく結果として苦言を呈することになってしまったその理由を述べよう。

 そもそもこの映画のおとしどころは、兵士の想いのつまった戦場からの手紙が残念にも配達されること無く戦地に取り残されたという事実の、人間にとっての重大さにあるあずである。これが確かに構造的には示されたかもしれないが、その印象はあくまで図説的であった。このような状態になってしまった理由は云うまでも無くディテールの欠如にある。そしてそのディテールの欠如が説明不足感を生み、さらに説明的な構造を必要としてしまうという悪循環が起きているように見えた。描くということはアウトラインをひくことではない。まさに描かない限り、リアリティーは充足しないのである。つまりこのことが本来必要とされるべき結末の事実の重厚さに致命傷を与えることとなったのである。

 前作の感想を述べることを留保せざるをえなかったのは、おそらくこのことがあったからではないかと思える。ただ、前作の場合はアメリカを描くという点においてぎりぎりリアリティーが充足したのではないかということがいえる。これは作り手がアメリカ人であるということに他ならない。この一点があるかぎり、前作のリアリティーは否定されるべきではないし、それはむしろ尊重されてしかるべきものと思う。ゆえにある種の難解さが生じ、結論としてまとめることを保留したのである。
 また、この2本の関連性、相対性に関しては、まさにこちら側の勘繰りでしかなかったことも判明したといえるだろう。まあ、これについては広報戦略に上手くはまってしまったということで、多くを語ってもさして意味は無い。続けて2本の映画を見た。これが事実であり、全てである。

 一つ同情するならば、システムで映像を作り上げることの限界に対してである。表現は文化を必要とするという観点において、システムに文化を投げ込んでみても表現となりきらないことは明白である。おにぎりから稲穂が出来ないのと同じことである。それに気付いていないのがアメリカ人であると言い切るのはやや乱暴であるかもしれないが、おおむね外れてはいないようにも思える。つまりこの映画の試みはアメリカ人の文化をして語るべからざる領域にややさしかかっていることをやってみたということなのではないだろうか。当初から匂っている実験的な香りはそのようにして纏われたと、そう思うのである。観客はその実験に立ち会っただけなのかもしれないのだが、そう考えるとイーストウッド監督のチャレンジに多少は拍手を贈ってもよさそうな気がしてくる。少なくともファンにとっては喜ばしいことだろう。個人的には習作を高値で取引する気は全くないのだが、映像の実際を鑑みる上で悲観しても仕方がないことはいうまでもない。


 エンディングのタイトルロールが終わる頃、ロビーには帰宅を急ぐ観客と次の上映時間を待つ人たちがあふれていた。そこには感動の予感といつまでたっても実感に届きそうにない予感との対比があった。映像とはかくも正直なものであり、製作者にとってはかくも恐ろしいものである。そこはまさにビジネスの入れない領域であり、まさにそこにこそ映像の魅力はやどるのである。
 

gamitti2001 at 21:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

January 02, 2007

2007ねぇ。どうすんの?

 むぅ。。新年がやってきちゃったんだよね、勝手に。気がついたら郵便受けに年賀状届いてるし。年末ちょっと頑張りすぎたかもなぁと。27日夜忘年会を終え、28日早朝からゴルフの社内コンペ。終了後いったん家に戻り車の荷物を入れ替えて21時過ぎに会社へ向かいそのまま後輩ら5人を連れて白馬にスキーに出発、猛雪にはばまれ29日朝5時すぎに現地着。3時間くらい仮眠してスキー場へ。夕方滑り終わって夕食をとり26時ごろ就寝。翌日30日は朝6時半に宿を出発し菅平へ移動。9時過ぎにゲレンデに到着し終日スキー、そのまま夜22時に帰京した。当然その日はすぐに就寝したのだが、翌31日は全身の疲労で気がつけばうとうとしているような調子。元旦も近所の神社に初詣はしたものの同じような調子で終了。今日になってやっと疲れも取れてきたというわけである。スケジュールをこなすことで精一杯だとこういうことになる。まったく新年の実感の湧かないまま、明日はもう3日。しかも一件仕事の打ち合わせが入っている。このままだらだらと新年につながってゆくのがどうにも気持ち悪いなと思い、よく考えて見たら、今年でデビュー11年目を迎えるという節目の年ではないか!この十年の計はこの元旦にあったのかと。なるほど。
 おもえばこの10年、比較的安定した仕事ぶりであったように思う。それはそれで良かったともいえるが、同時にややマンネリ化のジレンマも感じてきたことは事実である。これからの10年をどうするかということを考えても目標が具体的にならないだろうから、とりあえず1〜2年先にむけて考えてみるのがいいかもね。



 というわけで、今日より数年間のテーマは、


            「冒険」


 です。やっぱこれがなきゃねぇ。楽しくないでしょ。まあというよりはこれが無かった事の方が問題だね。ビジネスに埋没するのはもっと後でいいや。自分が楽しくなきゃしょうがないわけだし。なんてまあやや強がりな気がしつつも、当面これがテーマです。はい決定。。てなわけで、これからどうなるのやら、夢が見れるからハッピーニューイヤーなんだなとおもいつつ、年明け一発目の更新終了〜w




gamitti2001 at 23:54|PermalinkComments(5)TrackBack(0)clip!

November 24, 2006

父親たちの星条旗

 先日、渋谷にこの映画を観にいった。渋谷。かなり久々に歩いてみたけれど、相変わらずガキの街である。それゆえにムンムンとした生気が充満している。これが次代を支えてゆくエネルギーなのだろう。そんな空気の中に忽然とこの映画が上映されている。その状況に私は妙な違和感を感じざるを得なかった。この充満するエネルギーに圧倒されながら、事実としてそこに存在する意思のちからにおもわず敬意を抱いたのと同時に、そこに投じられるこの街のエネルギーの過少ぶりに一抹の寂しさを憶えたからである。

 それでは、とりあえずこの映画の感想を書き留めておくことにしようとおもう。

 この映画、どうやら結論として像を結んでいないようだ。それが意図的なものなのかどうかは、残念ながらうかがい知ることはできなかったのであるが、しかしこのクリント・イーストウッドという監督の意欲だけは十分に伝わってきた。もしかすると私の気づかないところに重大な結論が隠されているのやも知れない。なぜならこの監督はもやは娯楽作品の域を超えたものづくりが出来るはずだからである。まあ、それとて到底は思い込みの域を脱しない理屈ではあるが、とにかく最初のインプレッションはそのようなものであった。
 これは推論である。この映画は実は二本立てのうちの一本であるというところがおそらく鍵になるのである。立場が違う人間のお互いの想いの対比、そのものが目的であるならば表現というよりは実験的意味合いの方が大きくなるだろう。見るものに結論を委ねるという方法の中でメッセージを明確に描ききるという行為は矛盾した手法になるからである。一方で、互いの想いの相乗効果によって「人間」が描かれるという場合もある。そうなれば面白いなと個人的にはおもうのである。

 まあ、結論としては次回作を見てみないことにはなんともいえないということになる。12月9日が楽しみである。そうか、映画には待つ楽しみというのもあるのか。とはいえ公開初日は混雑するだろうから、どうせ私のことだからやや落ち着くのを待ってからしか観にいかないんだろうな。待つ楽しみを待つ苦しみが上回るときまで、ニヤニヤしていようかと、いまのところそういう趣向である。明らかに、楽しみだ。

gamitti2001 at 16:41|PermalinkComments(0)TrackBack(1)clip!
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