あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2005年05月

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VHF電波の伝播異常と地震の関係を10年間かけて研究、分析していた八ヶ岳南麓天文台がホームページを閉じることになった。(6月末で閉鎖予定)*誤認があったので修正しました。
 
まきひめさま経由の情報によると千葉県北東部で震度3の地震が、7時39分と47分の2回、続けておきており、同天文台の予想があたったようだ。地震の予知はほぼ不可能といわれる中で、規模は多少違ったが、かなりの精度ではないか。
 
たった1、2名で10年余りもこつこつと観測と解析を行ってきた民間の小さな天文台だ。事前予想を発表したのも、人道上、黙っていられなくなったからだという。何人かの命がこの天文台の予想で助かるかもしれないと、非難も覚悟で公開してくださったものだ。
 
たとえ規模や地域が多少ずれてもいいではないか、はずれてもいいではないか。どこかで地震は起きる。大地震は起きる。これは日本の常識だ。だったら予行演習のつもりで心の備えをしておくことは必要なことだろう。
 
大規模な研究所が、多額な資金をつぎ込んでも予知はできていないのだ。小さな天文台であっても、研究方法が違っていても、可能性のあるものなら耳を傾けるべきだ。
 
精度がたとえ低くてもいいではないか。四六時中緊張して、用意して暮らすなど出来るものではない。この時期に注意が必要というだけでも、ゼロよりましだ。
 
天文台がホームページを閉じざるを得なくなったのは、多くの人たちが直接天文台に電話をして観測や解析の邪魔をするという愚を犯したからだ。時間を問わずかかってくる、多数の人の、それも答えて当然と傲慢に怒鳴りつける人たちからの電話に疲れ果てたのだという。
 
無償の、善意の人に何をするのだ。日本人は礼節と思いやりで有名ではなかったのか。
 
閉鎖の挨拶は「「皆様の希望にお答えすることができない自分が不甲斐ないと思います。どうかお許しください。申し訳ございませんでした」という言葉で結んであった。なぜここまで追い込まれるのだ。出た杭を叩くな。
 
声高な人が増えた。声高だと得をすると考える卑しい人が増えたのだ。そして面倒だからと声高な人の存在を許しているのは私たちが住んでいるこの社会だ。

知るということには悲しみがつきまとう。

月にウサギが住んでいないことを知り、サンタクロースが親であったことを知り、友達の裏切りを知り、自分が自分を裏切ることを知る。

感動したねという周囲の声に、音程がはずれたじゃないのと楽しめない。すごくいい本、読んでみてといわれた本は駄作にしか思えない。美味しかったわねに、アフロデーテ心の声はこの値段であの味じゃあと白けている。

ああつまらない。

若いときに最高のものを食べ、美しいもの、一流のものを見たり、聞いたりした。

基準が高すぎる。楽しめない。何も知らなければデパートの食堂で満足できたのに。

子供たちには本物が分かる大人になって欲しかった。手抜きをせず、素材も調味料も気を配り、必死に料理をした。おやつはすべて手作りだった。そのかいあってか、日本に帰国したときには虫歯1本なかった。半年後には全員に虫歯が出来ていた。

子供たちには本物が分かる大人になって欲しかった。小さいときにコンサートや美術館に連れて行った。毎晩欠かさず絵本を読んで聞かせた。誰一人美術愛好家にも、音楽愛好家にもならなかった。音程の狂ったような音楽を愛しており、美術館に行くような子供はいない。読書家もいない。

中年になって、本物の味、本物の芸術、本物の音楽に出会ったとき、もし感性があれば、私の倍の喜びを見いだすだろう。

知らずにいたおかげで素晴らしい感動に出会えるだろう。

人生ってなんて皮肉なんだ。なんて奥深いんだろう。

テレビ朝日の題名のない音楽会をぼんやり聞きながら新聞を読んでいた。
 
フルオーケストラをバックに日本舞踊を踊っているのが新聞の隙間からちらりと見える。
ふーん、いろいろ考えるのね、とちょっと冷たくそのまま新聞を読み続けていると、
音楽をバックに細い女性の声が聞こえてきた。なんだか気になる心に染みるような声だ。
 
cdce2c85.JPG視線を上げると女形の中村福助が羽織袴で朗読しているではないか。
 
フルオーケストラに負けず、競いもせず、淡々と声が流れていく。こういう女性であればという理想型の女性の声だ。女性固有の押しつけがましさや、図々しさ、媚びや気負いのない素晴らしい朗読だった。
 
女性から不要な負の部分を除き、純粋の女性らしさを抽出したものが、女形が表現する女性なのか。現代まで女形が存続している理由がちょっと理解できたような気がした。
 
どの世界でも自分の型を守っていてはそこからの進歩はない。歌舞伎のような古い世界でも勇気を出して前に出ようとしているのだ。失敗しても良い。やってみることが大事だ。
 
背景に引きずるものを考えれば、歌舞伎とクラシックの融合に比べれば、「非常に難しい」とか言われていたネットとテレビの融合など、問題にもならないじゃない?やる気、それが問題なんでしょうね。
 
 
乱読、粗読中  
 
米国サラリーマン事情 松浦秀明 中央公論社
ハードボイルドに生きるのだ 向井万起男 講談社
ワニはいかにして愛を語り合うか 竹内久美子 日高敏隆 新潮文庫

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大地震が来て、ひとまず生き延びたとして、その後何が問題かといえば、先のコラム「地震情報。あたりませんように」に寄せられたこぢろうさんからのコメントにもあったように、トイレ。
 
簡易トイレを5枚ほど購入済みなのだが、引っ越しの際に紛れて以来、今ではどこにあるのやら。普段の状況でもしまった場所が分からないのだから、地震の後の引っ越し荷物を全部ぶちまげたような状態では分かりっこない。第一、5枚や10枚ではどうにもならない。
 
なぜ、阪神淡路大震災の時の教訓が生かされていないか、広く報道されていないのか、とっても不思議。どうでも良いことは長々と報道するのに。
 
阪神大震災の時、ある地区では下水道を簡易トイレに仕立てたという。つまり、マンホールの上に囲いを作るなり、テントを張るなりし、マンホールの蓋を開けて、落ちないように材木を渡して固定すれば、素晴らしい、簡易水洗トイレの出来上がり
 
被災地ではトイレ待ちで何時間もならび、またあまりの汚さに我慢を重ねて亡くなった方も出たとは、知人の弁。マンホールなら、あちこちあるし、材木なら、残念ながら幸運にも、周りに多数転がっているはずだから、簡単にトイレが設置できるはず。
 
このマンホールトイレは阪神大震災の時にテレビで見たのだが、一度見かけただけだった。こういうニュースこそ繰り返し流して、知恵を伝えていって欲しい。
 
どんなに大変か、どんなにひどいかという話ばかり追っていないで、難問をどのように解決したのか、人間がどんなに強くて素晴らしいか、一度、後ろ向きでなく、前向きに視点と姿勢を変えていただきたいものだ。
 
テレビ局には、お気楽な、ネアカ人間が揃っているに違いないのだから。
 

 
地震が嫌いだ。なんていったって、依って立つべき地面が揺れるなど、許されてはならない。といったって、生まれたての赤ん坊と同じく、むこうは騒ぎたいときに騒ぎ、こちらはおろおろと走り回るだけ。
 
千葉、茨城、栃木とここのところ地震が多い。東京は周りをぐるっと包囲されたような気がしてならない。神が空白地帯を指さしているようでぞっとする。
 
06a5c78b.JPG巨大地震に遭遇したら、心臓麻痺で死ぬに違いないと信じている。守るべき者がいたときは母は強かった。心臓麻痺などで先に死ぬわけにいかない。が、孫が生まれてばあさまとなったのだから、まあいいやという気分の方が強い。
 
 
 
写真はコッツウォルツ地方カッスルクームの民家
 
で、まきひめさま(本人を知っているのでこの呼び名は呼びにくい。向こうはニヤリだろう)のブログで地震情報がでていたので唐沢塾さまのブログを拝見。
 
5月27日±4日で南関東に規模の大きな地震の可能性というんですよね。
 
家の中をうろうろしたけど、どうしようもない。さしあたり、ベッドの横上方にかけてあった絵を2枚ベッドの下に押し込み、スリッパをベッドの端に差し込み、好きなグラスを発泡スチロールで巻いたけど、震度6とか7とかきたら、海外から後生大事に抱いてもって帰ってきた薄手のグラスなどあっというまに木っ端みじんだろうな。だから大事な物ほどとっとと日常に使うべきなのだ。と論理もなにもあったものではない。
 
やれることはすでにやってあるし、やれないことは危ないと分かっていてもやれない。高い棚の上に、引っ越し時の段ボールがそのまま押し込めてあり、これが一番危ないが、私では背も足りない、力も足りない。そのまま放置。
 
どこかの企業、どこかの国と同じだな。大きな問題ほど後回し、どかんとくるまでなかったことにする。わかっちゃいるけどやめられないし、わかっちゃいるけど始められない、ということか。
 
 

接客にマニュアルが導入され始めたのはいつ頃からだろう。
 
某コンビニや某航空会社の接客マニュアルや防犯対策のマニュアルを十数年前に訳したことがあったがあの頃から本格化したのだろうか。
 
ファーストフード店でみんな同じ笑顔でにっこり笑っているうちは良かった。そのうち、毎日同じことを言うのは人間の習性とは反するのか、当然のことながら、恐ろしく早口になっていった。いつも行く店だといい。何を言っているのか分からなくても手順は分かっているから。
 
しかし初めての店だとそうはいかない。立て板に水に一気にまくし立てられたって、わかりゃしない。え、何があるの?どこに?どこに並ぶの?トッピングって何よ。年寄りなど、試してみたくったって入れやしない。おどおどと、どうすればいいのと、店員ではなくこちらに助けを求める視線が哀れだ。
 
こんなご時世に、若い人だけを相手にしようなんて、おかしいんじゃないの。経営者は自分が客になったことはないのかな。客に惨めな思いをさせるようなマニュアルは、やめてしまったほうがいいんじゃないの。
 
またお越しくださいという声かけを最初に聞いたときは、おっ、頑張っているなと思ったけど、スーパーでも、コンビニでも、あらゆるところで耳にすることになった。最近ではアザラシが前足を揃えて立っているような格好で、レジをするたびにお辞儀の形をするようになっている。
 
実質的なサービス、客の立場に立ったサービスがあれば、それでいいの。いちいちおざなりのお辞儀をして欲しいと思うほど客は馬鹿でも傲慢でもない。
 
一番嫌なのが、お釣りを渡すときに手を添えるやり方。なんかうっとおしいなと思っていたら、みるみるどこでもお釣りを渡すときにはこちらの手を握り込むように下から手をあてがう方式が大多数になった。
 
キムタクのようなイケメンが、にっこりとこちらの目をのぞき込みながら60円のお釣りです。またお越しくださいとでもいうのならともかく、脂ぎったにいちゃんに手をじとっと握られて、体温で暖まったような硬貨を手渡されたときには思わず、私の手を握るんじゃないと怒鳴りたくなったね。まったく。
 
 
もちろん、したたかなおばさんですから、にっこりこちらも笑い返し、お世話様とそつなく挨拶くらいしましたが、当分そちらには足は向きません。
 
こんなおぞましいサービス、誰が望んだのだろうか。
 

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人が本を選ぶのではない。本が人を選ぶのだ。byさなえ
 
とまあ、偉そうなことを書いたのにはもちろん訳がある。
 
この間からもやもやとしつこく頭の片隅にすくっていた五月闇というイメージ。それにぴったりの文が向こうからにじり寄ってきたのだ。
 
多分私は浅田次郎を読んだことがない。ベストセラーは読まないし、ここ何年かは物語にあまり食指が動かずノンフィクションを中心に読んでいるからまず普通なら手を出さない。
 
で、今粗読中の「浅田次郎ルリ色人生講座」スタッフ霞町著コアラブックスだが、これは閉館間際の図書館で手近にあったから借りただけなのだが、ざらざら読んでいたら、はっとした。
 
場面はやくざの親分、子分と一緒に何軒か、はしごで飲みにいっているところ。
 
「車から降りたとき、じっとりとしめった夏の夜の空気を吸って、浅田は何となく嫌な予感がした。いわゆる「虫が知らせる」という奴であろう。どこか遠くの方から、あの懐かしい「コンチキチン、コンチキチン」という祇園囃子が聞こえてきた」
 
わーい、と思わず思いましたね。私が思い浮かべていた五月闇のイメージにぴったりではないか。どうです?
 
この後、親分子分は馴染みのスナックで射殺され、浅田は美人のホステスを上手く逃がしたことでラブホテルへと行くのだが、後に、スナックのママと美人ホステスがグルであったことを知る…
 
うーん、ますます五月闇ではありませんか。
 
祇園囃子は練習を6月から始めるという。7月にはあちこちから祇園囃子を練習する音が京都の町に流れていることだろう。となると、もともと梅雨の頃をさしたらしいので季節もぴったり一致する。
 
縁のある異性とは赤い糸でつながっているという。糸をぷちりと切った私は、本とつながれてしまったのだろうか?
 
黒い糸で?

 
すちゃらかな日常松岡美樹さんのところで、匿名性について議論がもりあがっている。
 
私の場合は松岡さんのところの話とは多少理由がずれているかもしれない。
 
まず、完全に身元を隠したかったから。友人でこのブログを知っている人は数少ない。といっても、本来おしゃべりなのでつい漏らしてしまったが、最初の予定では誰にも言うつもりはなかった。
 
人間、この年まで生きているといろいろなしがらみがある。他の人の心の中で作り上げられたイメージがある。仕事上の関係もある。つまり、公私ともに多少のベールを被って生活しているということだ。
 
何でも開けっぴろげに言っているようで、結構これでも気を遣い、「これをいっちゃあおしまいだよ」という時限爆弾を踏まないか、ひやひやしながら綱渡りのように言葉をおそるおそる出している。さあ、これで満願か、もってけ泥棒。なんて、もうどうなっても良いけど、これだけは言いたいなんてときもたまにはあるが、それは関係を断ち切っても良いと覚悟したときの話。
 
自分の主義主張を話そうもんなら、うるさがられることが多いのは火を見るよりも明らか。この忙しいのに、なに寝言言っていると、向こうもベールの下から言っている。だから、こんな辺境の地のブログでさえ、万一を慮って用心を重ねるのだ。
 
私はこのブログでは、さなえという別の人間になり、文体だの世間体だのを振り捨てて、言いたいことを言いたいように言うんだ〜い!もちろん、legitimate(便利な言葉でっせ)であることが第一条件だ。
 
さらに、女性ならではの理由もある。
 
数年前だが、見知らぬ男性から電話が来た。私のデータをネットで購入した。それも3000円(馬鹿だねえ)!で、お金を出したのだからつきあえだと。僕は年上の女性が好きでして…わたしゃ嫌だよ。第一私の懐にお金が入った訳じゃないんだから。なんとかお引き取り願ったが、こういう思いはもう沢山。
 
258bce3d.JPGまだある。大昔、銀河通信という創世記のネットに加わって、チャットやオフ会にせっせと出ていた時期がある。そのときたまたま印象に残った本をネットで紹介したら、右翼だと言いがかりをつけられ、ネット上で袋だたきにあった。実名なら、多分家まで押し掛けてきたんじゃないかという勢いだった。ハンドル名で良かったとそのときしみじみ思いましたね。
 
右翼だとか、左翼だとか、男だ、女だ、若い、年寄り、そんなことを言っていては残りの半分の世界がみられない。人間、立場が違えば理屈も違う。いろいろなものを見て聞いて、正しいか正しくないか、好きか嫌いかを自分の頭で判断したい。井戸の中で騒いでいても何にもならない。
 
自由に議論する場合、実名はかえって邪魔。最初に背景だの年齢だの、場合によっては実名など分かっていれば、どうしても偏見をもって読んでしまう。偏見などないという偏見を持っている人もいるようですが(自分のことかもしれない)、まあ、人間、頭の方で勝手にフィルターをかけてしまう仕方のない生物でもあるわけで。
 
もひとつおまけに、どうやって実名を強制するんですか?出来もしないことを議論してもねえ。強制できるような社会にはそれこそ怖くて住めないし、住みたくない。じゃないですか。
 
そういうわけで、まあおおたかの方たちと同じ理由で、私は匿名派なのであります。
 
写真はノッティングヒルの街角。拡大できます。
 

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幸せなときは、仕事を一杯抱えていながら、締切が遠くに霞んでいるとき!?
仕事をしていて良かったと思えるのは、仕事が終わったとき!?
 
で、この二つの間には男と女の間くらい、深くて暗い河があるのです。
 
幸せなときは、セオリー通り一瞬の間に過ぎ去り、遠く霞んで見えていたものが山のように頭の上に覆い被さり、暗い影となって、昼も夜も私を脅かし始める。
 
私はひたすら頭を垂れ、きりぎりすとなって飲んで浮かれて、友人に馬鹿話の長電話をした前非を悔い、手首から肘までタイガーバームを塗った上からサランラップをぐるぐると巻き、肩にも首筋にもまんべんなく塗りつけ、これが蝶よ花よともてはやされたなれの果てか、タイガーバーム漬けの臭いおばさんとなって、一字ずつこつこつとキーボードを叩いていくのです。
 
締切という大きな山は夢の中にまで容赦なく侵入してきます。夢を見ていたはずがいつのまにやら英語の羅列へと姿を変え、あそこの解釈はあれで良かったのか、違う意味はないのか、考えながら目が覚めてしまうのです。不思議なことに本人が気付いていないのに夢が気付き、抜けている部分が浮かんでくることも一度や二度ではござんせん。こうなるともう神懸かり。
 
普段はのろのろ、あっちのブログ、こっちの通販、ゲームやらチャットやらなかなか仕事にかかれないものが、ランナーズハイならぬ、キーボード叩きのハイになったらもうこっちのもの、宙を飛ぶような早さで仕上がっていくのであります。まあ、ほとんどの場合、なんだこの日本語(英語)、こんなの理解できるかとうめき声と罵詈雑言を吐きながら、何だ坂、こんな坂とおまじないを唱えながら進んでいくのですが。
 
で、明けない夜はないように、終わらない仕事もない。
 
納品するやいなや電光石火の早業で駆けつけるのが豊島園の庭の湯。手近に温泉が出来たなんて、もう極楽。
 
死海のお湯にぷらりと浮いて、しばし、生きていることを確認。ああ、生きていて良かった。この充実感。堂々と真っ昼間から温泉で浮いていられるのも、お仕事をしたおかげ。
 
露天風呂に移動し、一人用の信楽焼の大きな壺の中に、すっぽりと入り込み、頭と足を壺から出しただらりとした姿のまま、風が次々と大木の梢を揺らして近づいてきて、すぐ横のジャスミンの花を散らして過ぎていくのや、寒冷前線に追われた雲が早足で通り過ぎるのをぼんやり眺めながら、どこのケーキを食べようか、それともバラカのチーズと赤ワインと夢想にふけっている間に、突然、またしても、紙の啓示がやってくるのです。そう、目の前に紙がおりてきて、意味を再度チェックしようと思っていたあの2ページ目、どうなっていると…
 
あわてて飛び出し、ケーキもワインも振り捨てて、家にたどり着き、修正して、「差し替えてください」と騒ぎ立て、かくして、いつもの夜が更けていくのでありました。
 
お粗末
 
 
乱読、粗読中  クライマックスになるまで前に読んだ本だと気付かないなんて、ひどすぎる。恥を忍んでメモを取ることに。たいてい数冊を平行して読んでいる。ひどい読み方だ。うん。
米国サラリーマン事情 松浦秀明 中央公論社
ロンドン骨董街の人びと 六嶋由岐子 新潮文庫
浅田次郎ルリ色人生講座 スタッフ霞町 コアラブックス
Happy 22巻 浦沢直樹 小学館
 

 
無精庵徒然草さんのコラムで五月闇という言葉を知ってからなんだか気になって仕方がない。
元々無精であり、赤ん坊を片手に抱き片手でキーを叩くような状態ではきちんと調べるいとまもないが、妄想をかき立てる言葉だ。
 
2b595939.JPG五月闇とは「五月雨の頃、どんよりと暗い昼や月の出ない闇夜」のことらしいのだが、じっとりと湿気を帯びた重い闇のような気がする。
 
かえるの合唱も止んだ、低くたれ込めた雲におおわれ、真綿でくるんだように音がこもる五月闇の中、裸電球がぽつぽつともるほの暗い小道を行くのは…
 
となると、やはり斬った這った(そう、この言葉は夜這っていく時に使うのが一番ふさわしいような気がする)の恋愛沙汰しかないし、私のような現実的な人間では無理だ…私なら、小道を行くのはおかんじゃないか。おかんのために酒買いに。とコメディ路線に走ってしまうからだ。
 
それにしても、日本語には美しい言葉が沢山ある。その多くが埋もれているのはもったいない。言葉は世相を映すのだから、美しくない世の中には美しい言葉は住めないのかもしれない。殺伐たる言葉と殺伐たる世の中と、どちらが先か…
 
日本の美しい言葉は煌々と輝くマンションの一室には居場所はないだろう。ひっそりとみんなから忘れ去られつつある過疎の村の古い倉の中にいるかもしれない。陰影のある美しい言葉をゆっくりと見聞きし、読めるような世の中は、きっと落ち着きのある大人の世の中だろう。
 
ブログというものがなければ、きっと無精庵徒然草さんのコラムを目にすることはなかっただろう。ここでも繰り返し強調したい。多様なブログは日本文化を伝えていくためにも必要だ。ブログの是非は参加者にかかっている。彼のような人たちに期待する。

朝起きるとキーボードの上にメモがのっていた。
 
 
敗北。
今晩の出来事を語るにはこの一言につきるだろう。
「涼しい顔をして眠りやがってコノヤロー」とおもっても
浮かんでくるのは
負け犬の遠吠え。というフレーズのみ。
そう、今晩、私は前代未聞の
かえりふんをあび
そのちょくご
ふみふんをしてしまった…脱力。
 
母よ 私はもう寝る。起きたらすべてを語ろう…
(遠い目)
 
34b5a2f7.jpg写真は犯人
 
 
 
 
 
 
 
 
ここ2週間というもの、良いオッパイにはよい食事とのたまう娘に振り回され、毎日山のような買い出しと料理、一日3回の洗濯に追いまくられていた母としては(そのうえ連休明けからで400字詰め原稿用紙にして100枚を大きく超える翻訳を仕上げてしまった)、大笑いの後、涙目。洗濯が〜あ。

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仕事が詰まって、身動きできなくなっている。昨日も一昨日も朝の5時から仕事をしている。とはいっても夜は11時には寝ているけど、普段は8時間睡眠の人だから苦し〜い。だから、本来はブログに近づいてはいけないんだけど…
 
今、画面で読んだニュース、夕刊フジ提供とあるのだから、夕刊フジが書いたんですよね。目が点になってしまった。なんという乱暴な論理、心ないというのはこういうことを言うのだろう。日本語自体もお粗末。JR西日本の車掌さんにインタビューした週刊文春の記事を引いたものだ。
 
--ここから引用-- 
 注目される現在の心境は、「夜も寝られへんでね」と睡眠薬を取り出し、「自殺を考えたりもしましたけど…とにかく死にたいと」と追い詰められた精神状況を披露し、嗚咽(おえつ)したという。

 遺族に対しては、「頭を下げて許されるのであれば。床に頭をすり寄せても」と話している。

 公共交通機関としての使命感や責任感の著しい欠如が指摘されているJR西日本。同誌のスクープを読む限り、松下車掌を含めて、関係者がすべてを語らない企業体質を感じざるを得ない。
 
--ここまで--
 
TBしてくださっただんなの裏部屋に寄せられたというコメントにも心が凍る思いをしたが、いったいどうなっているんだろう。
 
車掌の悲しみはどうだっていいってことなのか?ルールを破ったことは会社が処罰すべきこと。彼が犯したミスはミス。
 
でも彼個人のここまでの苦しみを哀れと思わないのだろうか。要するにたまたま巡り合わせで乗ってしまっただけではないか。これほど追い込まれて苦しむほどの罪を彼は犯したのだろうか?
 
冷静に、再発防止のために検証し、批判をすべきであるが、憎しみは何も生み出さない。世界中で憎しみの連鎖が生み出しているものをみれば、よく分かる。
 
腹は立つ。始終腹を立てている。だから、偉そうに言えた義理ではないんだけど、自分の兄弟が、肉親が、自分の会社が、ミスで大変なことをやってしまったと想像したら分かるのに。
 
私など、出来の悪い子供を抱えているから、もしこの子が人様に迷惑を掛けたら、犯罪に巻き込まれたら、事故を起こしたらと、気の休まるときはない。
 
組織の罪は罪。しかし、それをそれに属する個人への憎しみと変えないで欲しい。
 

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JR西日本に対するマスコミの対応を見ていて思い出したことがある。
 
20年ほども前のことだ。非常にショッキングな出来事だったのでまだ映像は目に焼き付いている。大規模な詐欺の容疑で逮捕が秒読みといわれていた豊田商事の会長宅の玄関前にマスコミ各社が詰めかけていた。マンションの一室だった。
 
各社が代わる代わるインターフォンを押して呼びかけていたような記憶がある。そこに2人の男がやってきて、玄関横の窓の格子を壊し始めた。大勢の記者やカメラの目の前でだ。男たちは格子を壊し、窓ガラスを破ると中に入り込み、しばらくすると、血のついた日本刀を下げて得意そうに戻ってきた。会長は大勢の記者やカメラマンの目の前で殺されたのだ。
 
記者と男たちの間には、緊張した空気は流れていなかったような印象がある。なにやら馴れ合いのような空気が感じられたが気のせいだったか。誰も男たちを制止せず、カメラは回り続けた。
 
このとき、マスコミはどうすべきであったのか、議論になった。暗い窓と、簡単に壊された格子の印象が強すぎて、議論の中身は良く覚えていない。だから違うかもしれないが、一人の記者がなぜ制止しなかったのかと聞かれて、誰かが制止すると思っていた。うちが制止すると絵が撮れず、スクープをもって行かれるからと答えていたと思う。
 
恐らく少ない人員でやりくりをしていると思われる、休めば大勢の人に迷惑をかけることになる公共機関にそのまま勤務したからといって、公休日に違う管区の人たちがボーリングをしていたからといって、まるで自分たちこそが正義だと言わんばかりに連日責め立てているマスコミの人たちは、殺人を傍観したばかりか、素晴らしいスクープだと言わんばかりの振る舞いをしたことをもう忘れたのだろうか。
 
テレビばかりか新聞まで、連日、何件のオーバーランがあったとか、何秒遅れたとか、重箱の隅をつつくような報道ばかりを流しているが、そういう報道が何かの役に立つのだろうか。これまで鉄道は日本の誇りではなかったか。時間の正確なこと、曲芸のようなダイヤ、これでは事故が起こると警鐘を鳴らしたマスコミはいたのか?
 
ブログをざっとみた感じではマスコミの対応がおかしいと考える人たちはかなりの数に上るようだ。なぜ、この国では、おかしいことをおかしいと言えないのだろうか。なぜ、JR西日本の人たちは、2人の運転士が次の勤務に就かなければ大勢の人たちに迷惑をかけることになっていたから、勤務に出かけたのだと2人とその上司を擁護できないのだろうか。もちろん、その後のマスコミのバッシングが怖いからだ。
 
なぜマスコミは裁くのか。人を裁く資格があるのか。自分たちの手も汚れているというのに。
 
人を裁くのは法であり、法からこぼれた部分は神の領域であって、マスコミの領域ではない。
 

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毎度のことだが、大きな事故が起こり、事故そのもののニュースが一巡した頃、会社を叩くワイドショーが始まる。
 
頭を下げる会社の担当者、泣き叫び、時にはつかみかかる遺族。マスコミはこれでもか、これでもかと、亡くなった人がどんなに前途有望で、優しくて、親思いで、素晴らしい人間であったかを流し、会社がどんなにひどい会社であったか、ひどい管理をしていたか、当事者がまるで鬼畜であったかのように報道する。
 
そして、おいおい担当者を追いつめ、しばしば担当者の自殺という事態を招く。
 
本当に事故の原因や不祥事はその会社特有のことなのだろうか?その会社は特殊な人間の集まりなのだろうか?枚挙のいとまがないくらい多数の会社で次々に事故や不祥事が生じている。これは何を意味しているのだろう。
 
JR西日本はいったいどういう会社なのか?マスコミがいうように駄目な会社なのか?なぜJR西日本は1秒の遅れを報告させたのか?企業がいじめを目的として1秒の遅れを報告させることがありうるなど、私は信じない。ダイヤの見直しなどの調査のためではないのか?停止異常は大変なことなのか?
 
激戦区で生き延び、収益を上げるため必死の企業が、いじめに大勢を振り向ける余裕などあるのか?本当にいじめが蔓延していたのなら、なぜ誰も報告せず、これまで問題にもならなかったのか?再教育の方法として適切であるかどうかを判断する人材が不足していたということではないのか?
 
運転手がなぜ無謀ともいえる運転をしたのか、その理由はいくつもあるだろう。技術的な問題もあっただろう。教育も、本人の資質も、会社のプレシャーも理由の一つだろう。
 
だが、本当に私たち一般市民には罪はなかったと言えるのか?駅員に対する暴行事件が多発しているというニュースがあったが、遅れて腹は立たないのか?1分でも早くとせかしていないのか?乗り継ぎができなくても平安でいられるのか?会社は故なくしてプレシャーを与えたのではないだろう。
 
ブログはあおってはいけない。マスコミの尻馬に乗って弱っている者を叩いてはいけない。ブログの長所は多様性にあると信じている。大勢の人間にはそれだけの数の意見と感性がある。 
 
ミスは生じる。人間が介在するもので100%完全なものはあり得ない。だからこそ、ミスの再発生を防ぐ手だてを講じなければならず、その分析や調査に力を注ぐべきだ。専門家も技術者も素晴らしい知恵者もプログの中にいる。冷静に違う視点からみてみようではないか。
 
JR西日本に責任があるのはこれは議論の余地はない。正当な批判は当然であり、必要である。しかし、感情的にたまたま担当者となった人間を叩いてさらなる犠牲者を作り出すことだけは避けなくてはならない。

今回の事故についてどうも腑に落ちない気がしていた。
 
日本全体に蔓延するルール違反を是認する風潮や、異なる意見や人物を排除しようとする内向きの傾向、内省ではなく他に要因を求めようとする攻撃的な逃げの姿勢…いくつも気になる点はある。運転手個人の資質や利益優先体質、技術的な問題なども分析されているとおりだろう。
 
しかし、単純なおばさん的視点に立つと、例え実際の運転経験が11ヶ月に過ぎないとしても、幼いときから運転手になることを夢見てきた人間がカーブに高速で突っ込んでいったときに急ブレーキをかけてはいけないと知らなかったのか、非常に疑問だ。運転手になりたくてなった人間はいわばおたくだ。運転系のゲームをして育っているに違いない。運転歴は短くとも、いくら焦っていても、果たしてそんな運転をするだろうか。
 
しかも私が読んだ限り、徐々にブレーキがかかったという話はない。ブレーキをかけないで最初から急ブレーキをかけたりするだろうか?急ブレーキをかけざるを得ない事態があったとみるのが普通ではないのか?
 
これについて、PJ和田牧夫氏による脱線事故の原因、別な解釈という見方もあって当然だ。
 
加えて、最近気にかかっていることに「叱られることへの免疫のなさ」がある。甘やかし、甘やかされることを正しいとするこの社会では、単なる小言にも全人格を否定されたような反応をする人たちがいる。一昔前であれば当然であった「叱責」や「注意」に過剰反応して逆切れしたり、自暴自棄になる人たちは周辺にも大勢いるだろう。
 
叱られるくらいなら、死んだ方がましだ…嫌な思いをするくらいなら辞めた方がましだ…
 
踏みとどまり、それを肥やしにしようとする強い(当然の)意志の力を持つ人が急減しているような気がする。失敗はマイナスではない。失敗をマイナスだと捉えることがマイナスになる。
 
危ないかもしれないと知りつつ、でもこれ以上マイナス点をつけられるくらいなら、一か八かやってみようと、ぷっつんしながら突っ走ったのでないことを運転手の名誉のためにも願う。
 
eurostar

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