あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2005年06月

今回のこの「音楽の輪」は個人的には非常に楽しいものでした。
 
概念としての存在でしかなかったブログ上の諸氏が生き生きとした「人」として、身近に感じられました。
 
バトンを受け取っていただきありがとうございました。お礼申し上げます。
 
みなさん、それにしても多種多様ですね。本を問われると見栄や外聞が頭をかすめ、身構えることが多いのではと思いますが、音楽はその点、感情に直結したもので、個性や背景、年代が露わになるにもかかわらず、かなり素直に応じていらっしゃったのではないでしょうか。
 
リーズ城庭園題名も聞いたことのない曲が沢山あるのを見て、自分の世界の狭さを思い知りました。推薦盤として今後少しずつ聞いてみようと考えています。
 
バトンが渡っていくさまを見物するのも楽しく、忙しくしいのになぜこんなに時間を費やしてしまうのだろうと、大量の仕事、ゲップ担当としての赤ん坊のみならず、頭も抱えこんでおります。
 
そこでひらめいたことがあります。これは駅伝なんですね。駅伝おたくで、駅伝の最中はテレビにしがみついているのですが、全く同様の興味を持ってついつい見守ってしまうのです。たすきならぬバトンが落ちると、ああと悲鳴を上げ、うまく渡ると安堵のため息。
 
ブログも多種多様で、こういう企画があると普段目にすることのない素敵なブログも発見でき、ああおもしろかったというのが私の感想です。
 
ブックバトンが始まっておりますが、これは沿道の旗振り役に徹しさせていただきますので、ご容赦のほどよろしくお願いします。

なにげにのKyoさんからバトンが渡ってきました。
支離滅裂な人間なので、一貫性なく聞いています。インターネットラジオで流しっぱなしのことも多いです。
 
1.コンピュータに入っている音楽の容量
   あちこちに入っているので分かりません。私の頭の中や部屋の中と同様、雑然と混乱、そのままです。

2.今聴いている曲
  今現在、エディット・ピアフ フランスの奇跡というシャンソンアルバムの中のバラ色の人生が流れています。 

3.最後に買ったCD
   Best of Ray Charles。ファイティング・テンプテーションズという映画の中のビヨンセが素晴らしかったのでサントラ盤を買いに行ったものの品切れでしたので、本来ならビヨンセなんだけど…
       ごく最近、明日咲くつぼみに(小林啓子)をK子の甲斐性のあるダンナに貰い、Best Classics 100という、さわりばかり集めたCDを私の精神安定剤こと下の娘から母の日のプレゼントで貰いました。細切れなのでなんだかなあとちょっと思いましたが(ごめん娘)、アリアとか自分では買いそうもないものが入っていて楽しい。

4.よく聞く、または、思い入れがある5曲

  .泪襦ΕΕールドロンのレフト・アローン、古いから知っている人は少ないでしょうね。
  ▲癲璽張▲襯箸離譽イエム、カラヤン版。落ち込んだときにもっと落ち込むために聴く曲です!自分を哀れんでいるうちにばかばかしくなり、復活するために必要です。  
  エルビスのAre You Lonesome Tonight。この歌の情緒や背景が理解できる歳になったなあというか、越えてしまった。  
  な‥朕憤譴砲茲襯丱奪呂離轡礇灰鵐漫バイオリンではシャコンヌが一番美しいと思っていたのですが、バイオリンと違う魅力があります。
  ヂ召砲眤山ありますが、敬意を表して美空ひばりの川の流れでしめます。テクニックと力で乗り切っていたときではなく、晩年は枯れたうまさが光ります。
 
5.次にバトンを渡したい人
 
昔息子が小さな女の子のバトンをふざけて屋根の上に放り投げ、大騒動になったことがありました。このバトンは放り投げても、あらぬ方向に投げても、押入にしまい込んでも大丈夫です。
どういう音楽を聴いていらっしゃるのか興味があるので次の5人の方に
 
おおたよういちろうのしょーと・しょーと・えっせいのおおた葉一郎さん
五番館のつぶやきのsatochinaiさん
花崗岩のつぶやきのtanntannmenさん
吟遊旅人のつれづれのピピさん
Espresso Diary@信州松本の斎藤さん
 

ブログを始めたときアフィリエートなるものも始めようかと考えた。何もしないで稼げるなんて、実に嬉しい話ではないか。好き勝手なことを書き散らし、それを読んで貰えるだけでもオドロキなのに、そのうえうまくすれば腹の足しになる。なんてうまい話なんだ。
 
で、やり方を旧知のまきひめさんに聞いた。ホラ簡単でしょと、ホント簡単そうだったが、そのうち、稼ぐ人はほんの一握り、何事にも努力が肝心と分かり、断念した。
 
ところが、何もしていないはずなのに、右下に本の一覧が出てくる。無料でブログを使わせて貰っているのだから所場代のつもりでそのままにしておいたliveddorデパートからの宣伝だった。これってデパートの出店であって、こちらに関係のないものなのだろうか。それとも反対に所場代としてこちらにポイントか何かはいってくるのだろうか。
 
つらつら眺めるが私が買いそうなものはない。時々入れ替わったりしているのがおもしろい。多分私がよく使う言葉を分析してそれに対応する本を自動的にアップしているのだろうが、なんて悲観的な人間なのだ、私は。危機でしょ、死でしょ、くよくよ、負担に、亡命者。うーん。鈴木大拙と来て、後はハウツーもの。まったく何なのだ。なぜカラフルなおしゃれな表紙の本は並ばないんだ。
 
おまえの本質はこうなんだと、見破られて突きつけられているような気もする。携帯のメールの候補もそうだ。愕然とする。とても人には見せられない。本人は脳天気に結構楽しく生きていると思い込んでいたが、悲、怒、淋、などの漢字の行列をみると、人様にこういう漢字の入っているメールを送っているのかと申し訳ない気分になる。人生もっと楽しまなくては、上を向いて生きて行かねば、頑張れ私。で、今度は坂本九の評伝当たりが並んでいたりして。
 

隣のイングリッシュガーデン


魅力的なガーデニング―スタイル別イングリッシュガーデンから学ぶ

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「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」へぇと思いましたね。ボーヴォワールの「第二の性」の中の有名な言葉である。
 
ボーヴォワールとサルトル、カッコいい。とまるでアイドルの話をするように、友人たちと騒いでいた。単なる本好きのミーハーとしての読み方しかしない私らしく、彼女の思想はとうに忘れてしまったが、この1行はずっとひきずっていた。
 
で、我が家の不安材料こと長男が生まれたとき、男だ女だという育て方をするのはやめよう。男の癖にとか、男の子だからと言わないようにしよう。男の子らしいおもちゃは買ってくるのはやめようと決めた。男も周辺状況により、男になるのだろうと浅はかにも考えたからだ。
 
しかし、わずか2歳あまりで、男は男に生まれているということがはっきりした。ぬいぐるみといっしょに寝はしたが、客がおみやげに持参するピストルやトラックを偏愛した。いつもミニカーを握りしめ、3歳で家出をし、4、5歳になると近所の男の子たちと繰り返し盛大なとっくみあいの喧嘩をした。
 
小さな体から「俺は男だ」オーラが放射していた。頑固で、自分のやりたいことをやりたいようにしかやらず、お尻をたたかれてもあくまで自分の流儀を通し、好奇心でいつも目がきらきら光っていた。しかし、少年になった彼の目から光は失われ、笑うことも希になった。私にはどうしてやることもできなかった。彼は男で、男は女の言うことをきかないものなのだ。
 
小さな獣を大人の男に育てるには、女と同じ教育方法で良いのだろうか。男と女の両方に向いた教育など可能なのだろろうか。男としての資質を殺すことなく、大人のいい男に育てる教育はないのだろうか。
 
現代は男にとって実に生きにくい時代にみえる。男としてやりたいことは往々にして現代の倫理や慣習、マナー、時には法に反している。現代は男が雄のままでは生きていけない時代だ。生来持っている腕力も、瞬発力も、前後を省みない勇敢さも、活かすところがない。森や野原を駆けめぐり、獲物を捕らえるときに発揮した男を男とした能力は現代では役立たない。職場は疑似戦場であるのに、理不尽な力に力で対抗することもできず、堪え忍び、すごすごと敗北感を背に帰ってくるしかない。
 
女は自由に生きられる。自分の生き方を自分で決められる。セーフティネットとして男がいると女はみんな知っている。失敗することも、無知すら許される。専業主婦として社会で働かない道を選ぶこともできる。男にはそんな選択肢はまず存在しない。男はこうあるべきだという概念に縛られている。心すら自由ではあり得ない。働かずにいるなど、女にすがって生きるなど、自分の中の男がそれを許さず、それ以前に社会的に容認されない。
 
男を考えると行き場を失い、小さな箱の中に、長い手足を折り曲げて無理やり収まっているような、そんな情景が目に浮かぶ。飼い慣らされた熊のようにじっと耐えているが、いつか、耐えられなくなって箱をぶち壊し、でてくるのではないのか、突然暴れ出すのではないのか、そんな危うさを男に感じる。
 
男には大きなもの、広いものが似合う。自然が似合う。本物の檻に入れられない前に、自分を発散する方法を見つけてほしいと思う。せめて年に数回でも自然の中で、自分の体と心を解放してほしいと思う。
 
自信に満ちて、寛容で、力にあふれていて、厳しいが優しい。男が男らしくなければ、女は女らしくなれない。ポジとネガなのだから。 
 
 

いつ頃からだろう、処女性に価値を認めない風潮が広がったのは。
 
数年前には、ニューヨークでは結婚までに女性は50人の男性を経験するなどというホラ話が広まっているのを耳にした。しかもどうやら本気で信じている人がかなりいるようなのだ。
 
生物的な成熟度が早まり、生物としての巣作り年齢は低下しているのに、社会的な巣作り可能な年齢は高くなっている。そこのギャップが男女ともに安易な疑似巣作りに走らせる要因の一つかもしれない。
 
また、女性が性に奔放であることがまるで魅力の一つでもあるような扱われ方をしているが、それは男性側のおとぎ話、都合の良い男性側の作り話に過ぎない。古今東西、男性は生理的に自分の性に振り回され、その衝動を上手く乗り越えるために四苦八苦するらしい。性の問題につまずき社会的な落ちこぼれとなる男性も多い。それ故の夢想だ。
 
椅子のブーケ苦悩があるからそこには文学を始めとする芸術も花開く土壌もあるのだが、自分と対峙し、自分を磨くというような辛気くさいことはせず、昨今の男性は口を磨くらしい。
 
女性はどうだ。中高生というまだ自分が何者かも分かっていないような幼い段階から、自分の性が売り物になることを雑誌やテレビで知る。しかもみんながやっているという。たいしたことではなさそうだ。ちょっと嫌な思いを我慢すればお金になる。しかもちやほやされる。こういう少女たちが将来どんな暗い夢を見ることになるのか、心が痛む。
 
愛があればいいとみんな言うではないか。毎日電話くれる。おしゃべりしていて楽しい。毎日会いたい。だからベッドを共にしてもいいんだと、少女たちは考える。そして落とし穴に落ちる。
 
少女たちは、未だにマスコミに働く人のほとんどが、雑誌やテレビの制作者側のほとんどが男であることに気付かない。男たちが自分たちの願望を形にしているだけなのに気付かない。女の側に立ち、女を守るための配慮はこの国では驚くほど少ない。
 
これほど性犯罪が頻発し、幼い少女を含め女たちが犠牲になっているというのに、実効ある対策が進んでいるとは思えない。刑罰も、犠牲者が受けた傷に対して軽すぎる。
 
恋愛は自由だと言うが、その結果は女が引き受けることになる。最終的に傷つくのは女だ。残念ながら、不公平だし、不平等だが事実だ。確固たる絆を作る気持ちも能力もなく、経済的な裏付けも、責任感もない男はごまんといる。子供が出来てから最低の男だと分かってもどうしようもない。男に対する制裁は?子供の人生を丸ごと引き受ける女に比べ、なきに等しい場合も多い。
 
 自分の性を大事にすること。それが自分を大事にする第一歩だ。目を良く開けて、相手が何を目当てなのか、自分の心か、それとも単に体なのか見極めて欲しい。そしてもし万一、一人で育てなくてはならなくなったら、あらゆる手段を使い、公的な補助、援助を最大限に利用し、前を向いて進んでいくことを考えよう。家庭裁判所に養育費と認知を求めて訴えることが出来る。婚姻外の子供であっても東京都の場合なら、都営交通、水道など無料で手に入るサービスもある。
 
自分を大事にしよう。元祖、女は太陽だったのだから。
 
 
乱読、粗読中
働きながら書く人の文章教室 小関智広岩波新書
謎の娘キャロライン E.L.カニグズバーグ岩波少年文庫
在日韓国人三世の胸のうち 李青若 草思社
万物の死 小原秀雄 ブルーバックス
男 柳美里 メディアファクトリー
 

社員バーゲンの招待状を貰ったのでK子を誘って雨の中出かけていった。名刺と自筆の紹介状がなければ入れないバーゲンは見逃すわけには行かない。
 
ともくん泣き出かける間際になって気がついた。なんと、ダイアモンドと化粧品、両方とも全く縁のない世界だ。我が家の刺激剤の、すっぴんで、アクセサリーもナシで化粧品とダイヤのセールに行くの?どうせ帰ってきてから、買えば良かったと騒ぐんでしょうとの挑戦的な言葉をかいくぐり、赤ん坊の泣き声を背に家を出た。いざ出陣だ。
 
わずか10畳ほどのちっぽけな会議室がダイヤのセール開場だった。入り口には警備員が立っていて、真ん中のテーブルにダイヤの指輪やネックレスが並べられている。革の犬の首輪らしきものもあったが定価が12万近い。世の中、物好きな人がいるものだ。
 
一粒ダイヤのネックレスには400万円を超す値札のものも。100万を大きく越える定価の指輪やネックレスが台の上にごろごろ無造作に置かれていて自由に手に取れるということは、手に取らねば。こんな機会は滅多にあるものではない。
 
貧乏人はこういうときは慎ましい。まずは逆立ちしたら買えそうな金製品と、小粒のダイヤを触ってみる。横目で150万の値札のダイヤが光っているのをちらりと見るが、とても首にかけようという勇気が出ない。何たってすっぴんなのだ。似合わないのは分かっている。鏡を覗くと自分の顔が目にはいる。それも避けたい。
 
うじうじとする私を尻目にK子はさっさと一粒ダイヤのネックレスと指輪を買った。もちろん世界一流ブランドのダイヤが大値引きセールなのだから絶対お得だ。リスク管理の点からも後で捌ける一粒ダイヤの高級品の方が安物をいくつも買うよりはるかに賢い。ここらがすっかり男の目になってしまっている。あとさき忘れて「綺麗」と飛びつくことが出来ない。
 
左の薬指には誰も買ってくれないので自分で買ったスクールリングを男除けにはめっぱなしにしているのだが、この年になってスクールリングはやはり変かもしれない。シンプルな一粒ダイヤの指輪が半額近いたったの80万。これは投資だ。ダイヤは早晩掘り尽くされるに決まっている。としたら、最高級のカットのダイヤはかなり高値で売れるに決まっている。下手な株よりましかもしれない。買おうと覚悟したときに、結婚指輪をわずか2年でなくしたことを思い出した。それにヨーロッパに2回半行けるではないか。うーん、さんざん迷って、いや迷う振りを楽しんで結局買わなかった。
 
分不相応なことはしない。気持ちの良くないものは着ない、はめない。原則を貫こう。アクセサリーも化粧品も、自分を縛るものが好きではないのにダイヤなんてちゃんちゃらおかしい。K子のように甲斐性のあるダンナを見つけてからにしよう。
 
帰ってから、刺激剤に、すごく綺麗なダイヤだった。やはりスクールリングじゃねと言ったら、ほら、また帰ってから騒ぐ。うるさいから今度からちゃんと買ってくるんだよとトドメのパンチが飛んできた。

やはりO.J.シンプソンと同じ結果となった。マイケル・ジャクソンは無罪評決を勝ち取った。陪審団は白人が多数を占め黒人が含まれていなかったので検察側に分があるようにもみえたが、弁護団が優秀だったのだろう。原告がうさんくさく見えた、またはうさんくさく見せることに成功したということでもあるだろう。
 
O.J.シンプソンはその後民事で敗訴し、大枚をむしり取られたが、マイケルにも同様な運命が待ち受けている可能性がある。刑事事件では金に糸目をつけず大弁護団を雇っただろうが、もう金が底をついている可能性があるからだ。
 
電車の窓からロンドン郊外それに対し、原告側は裁判費用を負担する必要なく訴えることができる。成功報酬という奴だ。マイケルほどの大物であれば、勝訴したときの報酬と名声、その後の顧客獲得を考えれば、今頃多数の弁護士が殺到して、原告をたきつけていることだろう。
 
先に勝ち取ったと述べたのは、無罪ではあっても、完全に無実なのか、そうでないのか、神のみぞ知る領域に属するからだ。神経科医であるオリバー・サックスの一連の著者にあるように、脳は嘘をつく。原告は本当にマイケルにいたずらされたのかもしれないし、いたずらされたと思いこんだのかもしれない。マイケルは単純に子供が好きで一緒にいたかったかもしれない。金に目がくらんだ両親が思いこませたということも十分あり得る。
 
やっかいなことは、マイケルは色は白いがれっきとした黒人であり、黒人の文化を背景に持つことだ。家族のあり方や子供の育て方は、白人と黒人では両極に位置する。絶えず触れあい、大勢で集まることを好む黒人と、個人として確立することを目的に子育てをする白人では、解釈の違いが発生するのは当然だ。
 
昔、子供が食べかけて残したたものをさっさと捨ててしまう白人のお母さんたちにびっくりしたことがあった。また友人たちは子供がなめたアイスクリームをそのままなめた私に奇異の目を向けた。双方が、声を出して、ええっそんなと驚いたのだが、友人だったので互いに説明をすることができたが、一事が万事で、細かな相違が大きな相違となる。
 
マイケルは黒人文化に従って、かわいくて仕方のない子供を抱きかかえ可愛がっただけなのかもしれないが、白人文化ではこれはわいせつ行為ととられかねない。
 
殺人事件の犯人としてきわめて黒に近かったシンプソンが刑事で白で、民事で黒。マイケルも黒になるにしても、その後、告白本やマスコミの露出、映画化など、裁判費用を取り返す道は残されている。
 
必要に迫られ本業に力を入れざるを得なくて、再び輝きを取り戻し、偉大な歌手となる可能性もある。案外、来年あたりマイケルのコンサートが日本で開かれるかもしれない。全く、人生はどう転ぶかわからない。
 
 

あざらしサラダさんからTBをいただいたので、貼ってみました。トップとかに貼る方法がまだ分からないので、とりあえずエントリ(この言葉嫌いなんですが、なんか良い表現方法はないのかしら。コラムじゃ駄目なのかなあ…)に貼り付けました。
 
あざらしサラダさんの文中の言葉、
 
○「今の私にできること」は、このように小さなことかもしれませんが、みんなが同じ気持ちを持って行動すれば、大きな力になると信じています。

嬉しいですね。
 
声の小さな者は集まって大きな声になればいいのです。筋が通らなければ筋が通らない、おかしいことはおかしいと言えばいいのです。
 
で、やれるじゃないか日本とか、背骨をちゃんとしろ日本とか、恥ずかしくない日本になーれとか、なんかいいステッカーはないですか?昔娘がアルバムにステッカーを集めて貼っていましたが、美しいものであれば(貼り方がわかれば)、コレクションしようかしら。
 
 

柵から葉高校時代からの友人Nと飲みに行った。1、2ヶ月に一回、もっぱら愚痴を聞いて貰っている。2人とも食いしん坊であり、かつ飲兵衛だ。だから会話はいつもどこで食べるかで始まる。
 
丸の内オアゾをうろうろした。プリオープニングの時に2人で開店前の店を片っ端から冷やかし、ご馳走になり、酔っぱらい、良い思いをしたからそのとき良さそうだったお店に行こうということになった。ここは、うーん、これは、どうもね、とうとうすべての店を品定めしただけで出てきてしまった。食指が動かない。まるでデパートの専門店街だ。それぞれの店はブランドものなのだろうが、まとまると皆印象が同じで入る気がしない。安くもない。
 
CやらDやらVの字のついた広告でしかないバッグを嬉しそうに持ち歩く年齢をとうに過ぎたおばさん2人は要求がうるさい(Nは世慣れた大人なのでうるさいのは多分私一人かもしれない)。高ければそこそこ美味しいのは当たり前。まずければ詐欺だ。えーえ、こんなに美味しかったのに、こんなに居心地が良かったのに、この値段というオドロキのある店でなければ満足できない。そういう店はなかなかない。
 
そこで仕方がない。ここ数年来通っているかいはらへまたしても向かった。ここはすぐ満員になり断られてしまう。3回連続で断られた記録もある。たこ入道のような大将と、どうやって口説いたのとからかいたくなるような美人の女将がいる。大将はごつい顔に似合わず丁寧な仕事をする人で、一時期ランチに通い詰めていた。レディースランチは予約が必要だが、いろんな意味でこれよりお得なランチはなかなかお目にかかれない。
 
かいはらの今日のお勧めは本当にお勧めだ。〆鯖のあぶり焼きは絶品だった。ごくごく新鮮で、脂がのったとろりとした舌触りは今まで食べた中で多分最高のものではなかったか。本来魚嫌いの私が、Nの顔色を窺い、これ食べちゃって良い?と聞いたのだから。
 
この店は酒の種類も豊富だ。来るたびに違うお酒を試している。Nは体調が万全でないとのことでなんとサワーを頼み、ちょっとびっくりしたが、よくある水っぽいサワーではなく、しっかりとした果汁の本物のサワーが出てきた。飲ませて貰ったのだが、こういうものにまで神経を使っているところが嬉しい。
 
何よりも愚痴を聞いてくれ、同じグラスから回しのみ出来る友人がいることが嬉しい。馬鹿を言いあえることが嬉しい。わがままな私につきあって、文句も言わずうろうろとお店を探し回ってくれるN、ありがとう。
 
写真は枯れ木に葉が!
 
乱読、粗読中
ワニはいかにして愛を語り合うか 竹内久美子&日高敏高 新潮文庫
幕が下りてから 安岡章太郎 講談社文芸文庫
働きながら書く人の文章教室 小関智広岩波新書
謎の娘キャロライン E.L.カニグズバーグ岩波少年文庫
日本語の磨きかた 林望 PHP新書

リーズ城夢見る夢子さんと呼ばれたことがあった。本が好きで読み終わってもその世界に半分入ったままで出てこれないことが往々にしてあったからか。それとも気が利かないことを好意的に諭してくれていたのか。
 
近所の子供たちを集めて探偵団を組織して神社の裏の林を駆け回ったり、チャンバラごっこ(こういう思い出のある人は絶滅危惧種だろう)に熱を上げたりしていたので部屋にこもりきりというわけではなかったが。
 
伯母に呼ばれて、何事かと思えば、しみじみと、勉強ができればいいってもんじゃないんだよとお説教されたこともあったくらいだから、周りが見かねるくらいぼんやりだったんだろう。
 
本人はいろいろ気がつくし、目にはいるので、しっかりものの良く気が利く人間だと思い込んでいたのだが、私が思う私と、他から見た私は違うのだろうか。妄想か。
 
小学生の頃、夕方一人でバスに乗ったことがあった。一番前の座席に座り、前の景色を眺めている内、どういう訳かカボチャの馬車に乗っている気分になってしまった。そう、そのとき私はシンデレラだったのだ。多分お気に入りのちょうちん袖の木綿のワンピースを着ていたせいだ。丸くふくらんだ袖と、胸と裾に黄色いひまわりが描かれ、黄色いサッシのリボンを後ろで結わえ、麦わら帽子をかぶっていた。
 
私の思いがこのバスに通じて、私の行きたい方向にきっと行くに違いない。そう、こっちに行くのよ。目の前の金属製の板を軽くとんとん蹴っていた。蹴って合図を送れば曲がって行くに違いない。そのとき、運転手が声をかけてきた。「お客さん」
 
どきどきした。やっぱり思ったとおりなんだ。どちらに行こうかな。次の瞬間、無愛想な声で、「そこ蹴るの止めて」と言われ、夢は砕け散った。
 
娘と壮大な喧嘩をする。娘は不器用で、気が利かない、でも人の言うことは一切聞こうとしない。多分私と似ているのだろう。目の前にゴミを散らかしていても、娘の目には映らない。娘の目には私が散らかしたゴミだけが映っている。
 
喧嘩をしてどう文句を言おうかと考えているうちに、空想がどんどん膨らんでいく。たいてい、私のお棺にすがって、ごめんなさい、お母さん、私が悪かったと大泣きしている娘が頭の中に出現し、もらい泣きして許すことになる。やはり私は馬鹿かもしれないと思う瞬間だ。
 
他の人たちは空想にふけったり、夢想したり、それを現実と取り違えることはないのだろうか。
 
たとえば、靖国に参拝するときには小泉さんの頭の中にはどんな図が浮かぶのだろう。国の威厳を守ったと歓声のあらしが聞こえてくるのだろうか。良くやったという「英霊」の声が聞こえるのだろうか。
 
郵政民営化を決断するときには、過疎地帯のお年寄りが、これで商店も、医院も、郵便局もなくなった。運転も出来ないし、どうしたら良いんだろうと嘆く声ではなく、反対を押し切って信念を貫き通した平成の名首相という金文字付の胸像の除幕式が目の前に浮かんでいたのだろうか。
 
夢想や空想、妄想は、ひっそりと、個人に属するものだ。ポルノと同じだ。日本の政治家諸氏が夢想や空想を現実と見間違わないことを切に祈る。
 
写真はリーズ城

新聞が好きだ。ブログのあちこちから新聞は終わりだという声が聞こえてくるが、私に関しては終わりではない。新聞なしでは朝食をどうやって食べたらいいか分からないほどだ。毎朝、時には2時間くらいかけてゆっくりと紅茶2杯とトースト、果物をかじりながら新聞を読む。紅茶はミルクティ、トーストは薄切りのパリパリでなくてはいけない。
 
日経は一面に目を走らせ、大見出しを読むとそのまま一番後ろの私の履歴書に進む。野村監督の履歴書が始まっており楽しみだ。大抵その横の美術の紹介に行き、下へと目をやると、
 
ベルサイユ噴水なんということか、ながながとまだ例のポルノ小説が連載されているではないか。前回、サラリーマン諸氏に大好評だったという失楽園の二匹目のドジョウを狙っているらしい。前回はなんだなんだなんだと思いながらもうかうかと読んでしまった。しかし、一度で止めて欲しかった。
 
上からざっと読んでいくと目に入ってしまう。まだじとじとしつこく濡れ場だ。作者のねっとりした筆遣いが実に気持ち悪い。ストーリーも何もあったものではない。ただ濡れ場が書きたいだけじゃないか。何でだ、何で朝刊なんだ。こんなもの朝から読ましてどうしようというんだ。日経はどういうセンスをしているんだ。
 
おおた葉一郎氏のブログを読んで謎が解けた。日経の「新聞部」の部長は渡辺氏だそうだ。公私混同?一挙両得?
(*後におおた氏一流の冗談をそそっかしくも真に受けたことが判明したが、そうとでも考えない限り日経のセンスのなさ、女性蔑視の謎は解けない。抗議の意味を込め、本文は訂正していない)
 
 
「ワニはいかにして愛を語り合うか」(竹内久美子および日高敏隆著新潮文庫)におもしろいことが書いてあった。ポルノは平和のシンボルだというのだ。性的な信号は攻撃をなだめる信号にもなっていて、だから戦争の時にはポルノを嫌うが(口紅やパーマすら禁止し、振り袖は切られたという話もありますよね)、占領した国には勧めるという…中近東にはポルノどころかなだめる信号(唇などの露出)さえ禁じているからひどく闘争的…(要約)
 
なるほど。日経の読者には、夕刊フジの読者より、独断だが、仕事人間が多いだろう。つまり日経は企業戦士たる諸氏に、そんなに闘争的に仕事をするな、平和に生きよう。人間的に愛に生きよというメッセージを送っているわけですな。
 
そういう深慮遠謀があったなんて、知らなかった。一般紙にさえポルノ小説が堂々と掲載される日本はいまだ平和の象徴なのだ。日本男児が朝からああいう小説を読んで牙を抜かれているのを見せれば、他の国々は泣いて喜ぶでしょうね。
 
 
 
 

あちこち地震だらけ。今朝熊本で震度5弱の地震があったという。情報はここ。地震国に生まれた運命と諦めるしかないのか。ただじっと何かが起きるのを待つのは私の性に合わない。何とかしたい。何とかしなくちゃ。何とかして〜。
 
約30年前に東京での地震について69年周期説というのが流行った。危険な時期に入っているというのだ。同じ頃ノストロダムスの大予言という本も大流行。おっちょこちょいの私はじっと地震など待っていられないと、それが主な理由で!日本を離れた。
 
何年経っても東京に大地震は来なかった。紆余曲折を経て、こうしてまたもや地震におびえながら東京にいる。
 
tantanmenさんから先の「地震情報について」にコメントをいただいたが、首都機能や人口の分散ができれば被害は減少するだろう。そうできればいいのだが、私にはどう考えても不可能に思える。
 
移転先はこれまでにいくつか挙がっていたが、どこであっても地震がおきないという保証はない。ここは日本なのだ。
 
社会主義国でもない限り、強制的に施設や機関を移転させることは不可能だ。例え公的機関であっても建物は移動できても人間を異動させるのは簡単ではないだろう。
 
さいたま市や横浜市のようなサテライトを東京から1時間程度のところにいくつか作ることも案としては良いのだが、現実にはそれらサテライトまで呑み込んだ巨大な東京圏となるような気がする。
 
地方への移転や分散ということになれば、もちろん、巨額な資金が絡み、金が動くところには利権が発生する。人と共に金が右往左往し、何が正しいかとか、より不公平が少ないかではなく、一番声の大きなところに金も一緒に落ち着くことになるだろう。今の日本の状況では、声の小さな人が勝利することは無理だ。
 
バース通路新首都がどこかにできるとして、人の移転は住居やゴミ、インフラの移転も意味する。新しいところに作るのは金さえ出せば出来るだろう。そこには新たな問題が生じるだろうが。
 
だが、人が出ていった後の東京はどうなる?移転する人たちの家を誰が買うのか?残る人たちの財産的価値は?幽霊ビルや廃墟と化した住宅は誰か買い上げて公園にでも整備してくれるというのか?その資金は?残されたインフラは朽ち果てるに任せるわけには行かない。その保守費用は誰が出すのか?
 
公務員やサラリーマンはまだ良い。移転費用や引っ越し費用、自宅を借り上げたり、ことによっては買い上げてくれるかもしれない。しかし、自営業者は?退職者は?その他声の小さな人たちは?
 
これまで築いてきた人と人との絆、つながり。これはどうなる?人が集まるところに新しいアイデアが生まれる。どんな時代になっても人とのつながりを全くなくすわけには行かない。分散すれば、ますます忙しく、都市と都市の間を右往左往しなくてはならなくなるのではないのか。
 
結局、人間は群れたがる。移転すれば移転先が第2の東京となり、そう遠くない未来に再び一極集中のリスクがさけびだされるのではないだろうか。
 
で、個人はどうすればいいのだ。座して地震を待つだけなのか。
 
今の東京を少しでも安全な町にするしかないのではないか。声を大きくして、近隣とのつながりを復活しようと叫び、交番の機能を充実させるよう迫り、せめてブロック塀を禁止し、せめて危険な看板やプランターの設置を禁止させるしかないのではないか。
 
ではどうすれば、どこから始めればいいのだ、とメビウスの輪のようにいつまでたっても私は自分のしっぽを追いかける。
 
 
 

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