あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2005年07月

まあ世の中色々な人がいるもので、10億円をこれっぽちと思える人もいれば、100円安くなっている、ラッキーと閉店間際のスーパーで喜ぶ人もいる。私のことだ。
 
まこと、「箱根山、籠に乗る人、担ぐ人、そのまたわらじを作る人」であり、私はわらじを作る人なのでこつこつ、ちまちまといくしかない。
 
マリー・アントワネットの村諸般の事情により2年前にマンションを買った。一棟ではない。一ユニットだ。住宅ローン減税で利息1%分が10年間控除されるという期間限定お得なバーゲンセールに滑り込んだのだ。
 
都銀からは変動金利で1.085%、固定金利は3年で2.5〜3%近辺だったと思うが、提示があった。デフレは当分続くとみていたので変動金利を選んだ。頭金は、管理費込みで当時の賃貸家賃約14万円を下回る額になる程度を入れた。
 
テレビの家計相談を見ていると、常に、銀行ローンをなるべく早く繰り上げ返済し、保険を解約するようにと言っているが、もちろん、時と場合によるが、私はこれには反対の行動をとっている。
 
課税所得がなければ住宅ローンは組めないし、組んではいけない。固定費を増やせば、自由度が損なわれ、後で苦しくなる。
 
課税所得があれば、実質的に手取り分を増やす王道はできる限り税金を減らすことだ。各種税金や国民保険料は課税所得に基づくので、課税所得額の差は小さくとも実に大きな差になる。
 
利息1%分を10年間控除というのはたいした大盤振る舞いで(16年度から1%の控除期間は5年間に縮小)、これは最大限に利用しなければ馬鹿だ。年末の借入残高の1%が控除されるので、借入残高を減らす繰り上げ返済などもってのほかだ。この制度が続くあと8年間は私の住宅ローン適用金利はこのままの金利が続くと仮定すれば実質0.85%になる。
 
こういう甘い話が長続きする訳はないが、私の場合は来年6月まではどうやらこの金利が適用されそうな状況だ。
 
で、もちろんヘッジはしてある。株だ。といってもわらじを作る人なので多くはない。しかし、インフレ懸念(期待という人もいるだろう)が生じて金利が上がるような局面では、株も上がる。上がるはずだ。10年の期間内に適用金利が3%(つまり実質的に2%)を超えるようになれば、株を売り繰り上げ返済しようと考えている。
 
または、課税所得がなくなれば繰り上げ返済するが、宝くじにあたったり、世界一周旅行に出かけたりというのでなければ、課税所得が稼げないという状況はまだあまり考えたくない。

集中力がないと娘によくいわれる。
 
パソコンの前には終日張り付いているのだが、調べものをしようとすると、いつの間にかうろうろとお気に入りのブログを回遊している。そして調べようとしていたこと自体を忘れてしまっている。目の前を鳩が飛ぶとガラス戸越しに威嚇したり、カラスを観察したりですこぶる忙しい。仕事にはいると1日5、6杯もコーヒーを飲むのだが、カップが空になる度に台所に立って、ついそこらにあるチラシだの新聞だのを読み始めてしまう。
 
水辺のカモ翻訳をしている最中も、途中でばたばた立ってはお米をといだり、洗濯物を回したり、ひどいときには10分おきに立ったり座ったりしている。
 
だから娘の言う通り集中力はあまりないのかもしれないと密かに思っていた。
 
ところがとんでもなかった。私には抜群の集中力があったのだ。
 
少し前、朝早くのことだ。トイレからでてみると、リビングでなにやらパソコンをいじっていた息子が何をしているんだよ。Kさんが待ってたけど外に行っちゃったよ。というではないか。娘と赤ん坊を引き取りに婿がやってくることになっていたが予定よりかなり早かったから、またふざけて私をかついでいると思った。
 
トイレは玄関を入ってすぐの廊下にあり、リビングに行くにはそこを通るしかない。第一チャイムの音も話し声も、気配すらまったくしなかったではないか。
 
娘にあんなこといっていやあねと同意を求めると、本当に来たのだという。しばらくいて話していたのに何で聞こえないのよ。恥ずかしすぎる。第一トイレが長すぎると叱られた。
 
我が家のトイレには本棚が作ってある。離婚して最初にしたことはもしかしたらトイレに本を持ち込んだことかもしれない!最初は文庫本だけの小さな入れ物だったのがだんだん増えて積み重なっていたものを今年初めに下の娘が木でできたかなりの大きさの本棚をプレゼントしてくれた。
 
それなのに下の娘のアパートに行くと、絶対にトイレに本を持ち込まないでと、「私が持参した私の本を」持ち込むことさえ拒否する。物心ついたときからトイレに本がある家で育っているのに、ここら辺は理解できない。
 
トイレは主に勉強部屋と化している。数頁、いや数行ずつ読むような本を主に置いてある。事典やことわざ集もここにいくつかある。じっくりトイレで読まれるのと、ざっと寝ころんで読まれるのとでは、どちらが本にとって幸せだろうなどと馬鹿なことを考えたりするのもトイレに本棚があるせいだ。
 
いやはやしかし、すごい集中力だ。全く何も聞こえず、気配すら感じなかったとはすごいと変なことから自分を見直してしまった。
 
上の娘とは、言った、言わないでよく喧嘩になるが、その理由もついでに分かった。他の人は私が何をしているのか見てから話すのに、上の娘は私が何をしているかにおかまいなく、自分が言いたいときに言いたいことを言うので、私が何かに集中しているときに言った言葉は、聞こえていなかったのだ。娘には虚言癖があるのかと心配したこともあったが安心した。これで娘にも嘘つきといわれないで済む。
 
集中力がないのも困るが、ありすぎも困りものなのだ。
 
 

この間の地震、怖かった。座して地震を待つにもあるように地震が大嫌いなのだ。本来なら田舎で草むしりをしているはずだったのに、前夜母から父が死にそうだと言って騒いでいるという電話がかかってきて1日繰り延べし、地震に遭遇してしまった!

 

この父は風邪をひいても死ぬと騒ぐ男だが、数週間前に肺炎を患ったことだし、何せ高齢者なので邪険にもできず行ってみると、もちろんぴんぴんしていて、お酒で頭のてっぺんまでピンク色に染まってご機嫌だった。100まで生きるに違いない。

 

地震が嫌いなので対策は立ててある。2年ほど前に現在のマンションに引っ越したのだが、その理由の1つは地震だった。何せ物の多い家でそのままでは地震の際には文字通りペタンコになるのは必至だった。

 

地震の際にはエレベーターは止まる。しかも、地震でエレベーターに2度も閉じこめられた恐ろしい体験がある。エレベーターなしで大丈夫な階数で、最上階というのが私の絶対条件だったので5階。地盤はこの辺は固いと知人のダンナで建設会社付属の研究所に勤めていた人の言葉を信じることにした。

 

机の横、ちょうど私の頭の高さに重たいレーザープリンターがあるので、これが凶器となる可能性はあるが、それ以外は、台所を除き、まずまずの安全性だろう。

 

この間の地震ではこの辺りは震度4程度だったらしいが、そんな揺れではなかったね。机の両側に積み重ねてあった書類と辞書が音を立てて落下し、本棚から本が雪崩落ち、その後から日差しに輝いて大量の埃が…

 

テーブルの下から朝帰りで眠っていた息子を声の限りに呼び立てたがとうとう出てこなかった。夕方になってのっそり出てきた息子に何で助けに来なかったとなじると、たいして騒いでなかったじゃん、だと。以前、揺れておもしろいじゃないか、何を騒ぐことがあると言ったこともある。

 

全く男という奴は…

 

富士山急がねば今日も終わる…締切に追われて、大変。もうこんな時間だ。

今朝、我が家のベランダから富士山が見えた。夏には富士山はまず見えないのだが、久しぶりです。富士山さん(笑)。色が薄いけど、分かるかな。

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道祖神どうも世の中、おかしなことが多すぎる。ちゃんと目を開けていないからだと言われれば返す言葉もないが、世の中一般、理解力の点からすれば私と似たり寄ったりの人も多いのではないだろうか。
 
tantanmenさんがおっしゃるように、デジタル放送についてはニッポン放送買収騒動の時に、ちらりと問題になりかけたことがあった。私も以前、「いまさらながらデジタルテレビのこと」というエントリで物知らずぶりを恥ずかしげもなく公表したことがあったが、多少理解は進んだものの、やはり、腑に落ちない。総務省でさえ迷走しているのであれば、こちらが理解できないのも無理はないか。
 
斎藤さんの説明も当然だし、良く分かる。デジタル機器やコンテンツに国の未来がかかっているし、通信事業は国の根幹だ(根幹を分解しようとしているがこれをいいだすと風呂敷が広がりすぎるのでまた今度)。
 
必要性は分かるのだが、やり方が正しくない。どうもごまかそう、うまくまるめこもうとしているとしかいいようがない。おおたさんのコメントで、今更ながらだがはっと気付いた。なぜケーブルテレビなのだ。
 
手元に二種類のケーブル会社のチラシがある。一方は東京23区内で配られたもので、もう一方は東京から4時間ほどの山間部で配られたもの。どちらも地上デジタルテレビ放送がスタートしたということ。デジタルテレビ放送がどんなに素晴らしいものであるかということ。今加入すると非常にお得であるということ(山間部のチラシには今なら工事費は1万円だが、通常5万円とある)。そして2011年にはアナログ放送が終了するということが書いてある。
 
これだけ読めば、ケーブルに加入しなければもうテレビは見られないと誘導している書き方だ。丁寧に読めば、ケーブルに加入しなければどうなるかは書いていないので、加入の必要はないのではとの疑問もわくが、流し読みする限り、そんな疑問はでてこない。
 
東京の大規模団地に住んでいるが、この地域は今年の春までに分譲、賃貸併せてケーブルに移行した。工事は修繕積立金から支払われたので直接的な支出はなかったが、支出には変わりない。説明会にも出席したが、何が視聴できるか、どのように得するか、工事の進行について説明があっただけで、電波という言葉はでてこなかった。
 
工事には2人一組でやってきた。2人とも工事の人だと思っていたが、そのうち、1人は営業であることが後に判明。けちなおばさんは断固判を押さなかったが、同じ地域に住む両親は一番良いようにしてやるとの言葉で、電話まで変更。毎月ケーブル会社に6000円前後を支払う羽目に陥っている(+NHK受信料)。しかも格安で提供したので6ヶ月間は機器を取り外しても課金されるという。
 
インターネットは最大30MBしか出ないのに、ネット接続料、プロバイダ料、ケーブルモデムレンタル料併せて月額5500円だ。山間部用のチラシにはそれについての記述はないが、同程度だろう。
 
けんちさんのいうとおり、僻地まで電波が届かないため共同アンテナを立てるか、ケーブルを敷設するしかないというのはまあ、理解できる。しかし東京都内であれば、微弱な電波でも届くというのであればなぜケーブルが必要なのか?
 
こうすることができるというだけではなく、こうしないでいることもできるという情報も流すことが必要ではないのだろうか。ケーブルが必要だと錯覚させることで、誰が得し、誰が損をするのか。表に出ないところで、またもやいろんな人間が組んでもぞもぞやっているということか。
 
山間部の方の家はアナログが廃止されるまで待って、見えないと騒ぐことにする。bloodsucked子飼さん、ありがとう。あなたの血税が投入されることになるかもしれませんが、悪しからず。

どうもうまく真意が伝わっていないようなので追加します。
 
私が田舎暮らしーデジタル化で「NHKさえ見えればいいと律儀にお金を払っている人たちには、NHKや、この政策を推進している政府、またはこの政策で儲けることを考えているメーカーが責任を持って視聴できるようにするというのが筋じゃないかと思うのだが。」と述べたのは、地方自治や、地方交付税、大きな政府、小さな政府などといった問題には関係なく、正しいか正しくないかを問うたものだ。
 
つまり、既存の権利としてアナログのテレビを見る権利が与えられているときに、国策として、それをすべて取り上げるのであれば、それに代わるものを与えるのが正しいことだと考える。
 
アナログとデジタルが選択できるのであれば、そして、例え数局であれ、アナログ放送が存続するのであれば、デジタルを選ぶのはその人の責任と権利において行うことであり、デジタルを選ばない人が多い地方がそれによりIT文化に乗り遅れたとしてもそれはその地方が決めることであり、国税の投入には反対する。
 
しかし、現実には選択権は与えられていない。既存の権利を取り上げるが、それに代わる権利を得るには金を支払えということは正しくない。代替物を提供すべきだ。それができないのであれば国策とすべきではない。
 
次に、子飼さんのコメント欄に残した私のコメントに対する子飼さんのゴーストタウン上等という主張に反論させていただく。考えさせるために煽ったのだろうが、都会に移住させるというのは現実的でないばかりか無謀だ。東京からの視点だけで日本を考えてはいけない。私自身、東京に住み、多額の税金を支払い、区役所から督促を受け、自宅まで徴収に来られてしまったこともあるので、子飼さんの気持ちは理解できる。
 
しかし、だ。里山等の手入れを地方の人たちが営々と行っているために、水源が確保され、土砂崩れが防止されている。これは大きい。もちろん環境や景観に貢献していること、食糧の確保に役立っていることもあげられる。いったん山が荒れ、土砂で水源が荒らされたら、それを元に戻すのは至難の業だ。環境温暖化の歯止めとなるよう植林をし、緑を増やすという大事な仕事もある。
 
地方は営々と長期的な仕事を行い、都会は短期的な利益を狙う。地方があるから都会が活かされていることもある。都会があるから地方もやっていける。お互い様じゃないか。
 
地方は自立すべきだし、無駄な金は使うべきではない。しかし、地方が荒れることは、国が荒れることに等しいということも考えて欲しい。
 
そして、弱者を容赦なく、受け皿もなく切り捨てることは、犯罪の温床を作り出すことにもつながるのではないのか。他の者の立場を尊重することが、ひいては自分たちの安全につながるのではないのか。それはテロリストがどうやって発生するのかを考えれば容易に想像できる。
 
私たちがすべき事は、地方と金を取り合って喧嘩することではなく、どうすれば地方は自立できるか、どうすれば助けられるかを考えることだ。

私が畑を作りたいと通っている過疎地では携帯も通じず、ブロードバンドなど夢というところだが、先日来、ケーブルテレビの攻勢を受けている。
 
部落の構成員は外部からの移住者を除くとほぼ全員が高齢者なので、ケーブルテレビの営業マンのいうがままに今のうちに契約しなければテレビが見られなくなると訳も分からず騒いでいる。また横並びの最たるところで、「皆の衆の良いように」が合い言葉なので誰かが反対しない限り、年金生活者の集まりなのに工事費プラス毎月数千円を出すことになりそうだ。

選択肢としてのデジタル化なら分かるのだが、アナログを撤廃してチューナーなしには見られなくするというのはおかしい。環境問題に反する行為だし、「もったいない」ではないか。バブル期ならいざしらず、今の時代、壊れない限り買い換えないと言う人間も多い。増税やら年金引き下げが言われているのに、これ以上金など出したいものか。
 
040bf813.JPG誰もがデジタル化を待ち望んでいるわけではない。現金収入のない、楽しみはテレビしかなくなった人たち、バスも来ない、商店もつぶれてなくなったところに取り残されて住む人たちが、ほとんどが高齢者だが、大勢いる。これら高齢者はPCやブロードバンドを欲しいと思っていない。使い方さえ覚えれば福音なのは確かだが、年金暮らしの中からあえて投資したいとは思わないだろう。またカタカナ言葉自体にアレルギーのある世代なので学習も難しいだろう。
 
NHKさえ見えればいいと律儀にお金を払っている人たちには、NHKや、この政策を推進している政府、またはこの政策で儲けることを考えているメーカーが責任を持って視聴できるようにするというのが筋じゃないかと思うのだが。

出羽三山は今でも信仰の対象となっており霊場、霊山とも呼ばれる。湯殿山はその最終目的ともいうべき霊地で、大鳥居からバスに乗り換えてご神体の近くまで行く。白装束の人たちも多く、こういう霊地に物見遊山で訪れて良いものかと少々反省する。

湯殿山

バスを降りてから急な山道を登り、下り、小さな小屋で裸足になり、お祓い所で神妙にお祓いを受ける。そのとき紙を人型に切り抜いたもので体中を撫で、目の前の小川に流すのだが、悪いところは念入りにといわれ、もちろん特に念入りに頭を撫でた。

裸足になって岩が敷き詰められた狭い山道をご神体のあるところまで進んでいく。軟弱な足の裏に石があたり、結構痛いが、これは頭にはちょうど良い刺激なのかもしれない。ご神体には片側に竹が渡してあるだけの岩山を上っていくのだが、なんとこの岩山の頂上からかなりの温度の温泉が噴きだしている。上からぞろぞろ人が降りてくるので、急な岩山を手すりもなんの支えもなく、しかも流れてくる熱湯に足を浸して登るのだからかなり怖い。杖をついた人たちが中に何人も混じっている。人間の執念というのはすごいものだ。

人間誰しも信仰心が深くなるのは死が近づいてきてから。湯殿山自分の体や気力が弱ってきて、人生にも終わりがあると感じるようになって初めて神様、仏様にすがりたくなる。そしてそのような神様、仏様は、今では苦労して行かなくてはならないような僻地にしかいらっしゃらないようだ。苦労して、もしかしたら転げ落ちて打ち所が悪ければ、いや岩山なのだから悪いに決まっている、死ぬかもしれないようなところに、若者ではなく足下のおぼつかない人たちが杖をついてやってくる。足下がおぼつかないようになったからこそ、やってくるのだが。これを乗り越えれば当分大丈夫だ、そういう達成感は与えられるかもしれない。

ご供養にお茶碗に水を汲んで棚に並べた。娘は父親の分、私は元舅、姑の分を捧げ、御神酒をもらい、出口にやってくるとそこには露天の浅いプール状の温泉があり、しばし、足をつけて、俗世間の垢にまみれる前に少しでも根性が清浄になるよう瞑想、いや妄想に入る。

適度な足裏の刺激と、温泉の効能か、はたまた御利益か、かなりの頭痛に見舞われていたのだが、山を下り、バンジージャンプ大会などを覗き、月山ワインを飲む頃には頭痛はすっかり影を潜めていた。

連休を利用して娘と庄内を旅行した。

古い物好きの私としては、酒田の旧本間邸や本間美術館など、かねて目星をつけて楽しみにしていたのだが、あるに違いないと踏んでいた例えば天目茶碗など骨董の類の展示は質量共に不満で、庭園は素晴らしかったのだが、例えば須坂の田中家と比べると、「本間様には比べもないが、せめてなりたや殿様に」と歌われたという内実が見えず、消化不良気味だった。残念。

だが、酒田のもう一つのお楽しみ、ル・ポットフーのフランス料理はおいしかった。裏側の駐車場から入ったので、汚れたカーテンだのいかにも貧乏くさいビルのたたずまいにどうなることかと思ったら、3階のエレベーター前から突然景色が変わり、「おっ、これはやるな」というインテリアに、財布の心配をしたのだが、何と嬉しいことには、ランチコースとして1500円台から提供しているではないか。外はかんかん照りで、ブイヤベースを頼みつつ、コース選択を失敗したかなと危惧したのだが、新鮮な日本海の幸を看板にするだけあって、素晴らしいできだった。しっかりと貝柱までこそげとって娘に土門拳笑われたが、満足、満足。

閉館間際についでに立ち寄った土門拳記念館が実に良かった。最上川の水が引き込んであり、建物の内部にも水のシルエットが写り美しい。公園の中に位置する記念館の前には数羽の白鳥親子がポーズをとっていた。

白鳥土門拳が日本を代表する写真家だということは知ってはいたが、じっくりと鑑賞したのは初めてで、迫力満点の写真と、写真と共に掲げてあった文も、写真にかける情熱の強さを語っていて胸が熱くなる。 もう一度シャッター押したいとの思いから懸命にリハビリとして絵を描いたという。たどたどしい絵に写真への執念がみえる。写真ではなく絵のしおりを母へのお土産に買った。

夕食は鶴岡市内にある地元で有名な寿司屋。おおとろがやってきて、さて一口というところで携帯が鳴った。仕事だ。仕事だ。娘のパソコンを借り、夜と朝に連休中も仕事をする羽目さかずきになってしまった。こうやって朝から晩まで仕事をするように生まれついているのよね。なんて可哀想なのかしらといったら、娘に、あなたは朝と夜しか仕事をしていないでしょうとやられた。そういや、そうだ。

自分へのお土産にごくごく薄手の杯を鶴岡市内の骨董店で購入した。手作りなので多少歪んでいるところがご愛敬。

乱読、粗読中
森有正 エッセー集成2 筑摩学芸文庫
「おろかもの」の正義論 小林和之 ちくま新書
異人たちとの夏 山田太一 新潮文庫
出産は忘れた頃にやってくる 百田まどかKKベストセラーズ
小説家ぶー子イギリスを行く 村山由佳 集英社

おおた様からの株バトンはほおり投げてしまったが、何せ気の弱い女性なもので、今頃になり、おおた様同様、つま先をちょっとだけご披露することに。
 
いたって堅実、鈍くさい、超長期の会社が泣いて喜ぶ安定株主だ。斬った張ったのどたばたは法務の翻訳で十分堪能しているので、株はバーゲンセールを仕込み、のんびり配当待ちというスタンスである。
 
重要視するのは、財務の健全さ、配当利回り、PERなど、ここらはみなさま御同様。
 
前にも書いたがバブルの破裂も無傷ですり抜けたのに、橋本内閣の消費税アップ時に手ひどくダメージを被り、堅実な投資スタンスだったから、つぶれた会社はなかったが、今頃ようやく株価がもどりつつあるところ。しかしまあ、すべてに配当がつくので、銀行に預けているよりはましだろう。子供たちの入学金は株の儲けでまかなった。
 
映画会社の株は10年以上保有しているが、毎年映画を見て、配当を貰い、つぶれなければいいやと考えていたら、値上がりして買値を超えたので、一儲けした気分だ。
 
最近では、安値で森永乳業を購入、ライブドア、ライブドアマーケティングをごく少量買い増しした。
 
森永乳業は、娘に良い母乳を出すために必要だとつつかれて、近隣のスーパーすべてを探したが、3月末からどこを当たってもスキムミルクが売り切れていたため。スキムミルクのライバル雪印は母親たちに未だに悪い印象を持たれたままなので、一人勝ちかなと。ダイエット食としても人気らしい。
 
ただ、すでにダイエットは寒天に移っているのでちょっとつまらない。
 
今朝のテレビ東京のオープニングベルには森永乳業の社長が登場、株主優待として商品発送を考えているとのこと。ちょっとした喜びである。
 
ということで、平々凡々、おばさんらしい投資である。ね、聞いて損したでしょう、おおた様。

田舎風景

3日ほど農作業に出かけた。将来に対するリスク管理の一環として田舎に家を借りている。

このまま放置すると、遠くない将来に世界的な人口爆発と食糧危機が来ることはもう妄想の世界ではなく確実な事実となりつつある。

田舎をもたない都民としては、私自身はあと10年でこの世から去ろうと決めているのでかまわないが、子供たちのために多少あがいておこうということで、3、4年かけてようやく探した場所だ。

しかし、現実は厳しい。諸般の事情で大事な春の時期に出かけられなかったが、苗だけは下の娘が連休時期に大量に植えてくれてはいたのだが…

雑草の底力。あらゆるものが埋まっていた。もちろん苗も。遅霜が来たこともあり全滅状態だった。何しろ、車をもたないで田舎に行くのだから、生鮮食料品もごろごろと旅行にでも行くような格好で東京から運んでいくしかない。野菜は新鮮なものが育っていると信じていたのでショックだった。お肉と保存食だけで3日間乗り切るのは楽しくない。

昨年は天候に恵まれ私のようなにわか農民も大豊作で、プリンスメロンまでごろごろなったのだが、難しい局面では素人はどうしようもない。近隣の都会からの移住組に野菜をいただきにいったが、どこも苦戦していた。大家さんはさすがプロで大量のキュウリやピーマンを手にすることができた。ありがたく残りは東京までもって帰ってくる。

雑草初日は坂を30分ほど上っただけで両足がけいれんする軟弱さで、どうなるかと思ったが、すべての雑草をカマで切り(生き延びていたスイカの蔓らしきものも切ってしまった!ごめん、娘)、新たに畝を起こし、ハーブ類と、人参、サラダ菜などを蒔いてきた。さて、上手く芽が出ますか。

いつも使っていた新宿からのバスのルートが廃止されていて、別ルートで入ったが、おかげで2箇所の温泉も堪能できた。腰痛もいつの間にかなくなり、筋肉痛は残っているが、たいしたことはない。

何よりも良かったことは、ここ数週間は不整脈がひどくて、10年もつかなと危ぶんでいた心臓だが、田舎で坂道を行き来し、滝のような汗を流しながら農作業をしている間に完全におとなしくなったことだ。

病は気から、そして大地には癒す効果があるというのは本当らしい。この場所の有効活用を考えているのだが、その話はまた今度。

投票は義務だ。歯を食いしばっても行かなければ、という悲壮なコメントもいただいたが、その通り、民主主義が機能するための大前提は投票だ。

そして、民主主義を選んだ限りにおいて、信念をもって行動する人たちばかりでなく、無関心な人も、先人の財産の上にあぐらをかく怠け者も、等しく一票を保有する。厳然たる事実だ。衆愚政治であろうとなかろうと、民主主義より良い制度が現れない限り、民主主義の原則に従っていくしかない。

ストラットフォード過半数が棄権するという状態が常態化していることは、建前論、義務論ではもはや選挙制度がいかんともしがたい状態であること、破綻していることを表しているのではないのか。

自分たちが政治に参加しない限り、関心は生まれない。参加できなければ、義務感を有する人や利害関係のある人以外、関心が持てる道理がない。

なるべく多くの人が関心を持て、参加できるように選挙制度を変えていく必要がある。医学教育の広場さんのエントリにあるように、日本の選挙制度がおかしいのであれば、折に触れ訴えかけていく必要がある。

ネットの利用については、唐澤さんからもコメントをいただいた。なぜネットで選挙運動をしてはならないのか、疑問の声を上げる必要がある。おおたさんからはネットでの投票が解禁にならない理由は、投票率が上がらない方がいい政党が、与党の一角だからというコメントもいただいた。しかし、いつまでも禁止するわけにはいかないだろう。時代の趨勢にいつまでも反することは無理だ。投票まで行うようにするには解決しなければいけない問題がかなりあるだろうが、ネットでの選挙運動には何ら問題はないはずだ。

どなたかのアイデアだったと思うが、各地域の選挙管理委員会の下に候補者のリンクを貼って比較検討できるようにすることは別にたいした手間もお金もかからないのに、それもしないのはなぜだろう。公正を期すためというのであれば、おかしい。資金や事務所の有無ではなく、何より公正に比較できる道具だからだ。

今の時代、ネットを使えませんというのは、電話も使えません、ファックスも使えませんというのに等しく、理由にはならない。人を差別するような段階はとうに過ぎている。

逆説的ではあるが、その意味で、やはり投票率の低さが選挙制度の改革を後押しするのではないかという気がする。もちろん物言わぬ有権者が、電話や、ファックスや、メールでうるさくすることが必要だろうが。

今回、棄権したおかげで今まで機械的に投票に出かけていて見えなかったものがいろいろ勉強できました。みなさまのおかげです。ありがとうございました。

唐澤様、お名前を間違え大変失礼しました。

みなさんコメントありがとうございました。以前からどうも違うと気になっていた部分が少し明確になったような気がします。
 
テレビでコマーシャルを流し、うるさく広報車をだして投票を呼びかけても、投票率は43.99%で過去2番目の低さ。56.01%の人が権利・義務を放棄した。これだけの棄権の多さはたんなるものぐさや無関心だけで説明の出来るものではないと思う。従来のように国民の義務だ、行くべきだと叫んでも、本人がそう思わなければ行くものではない。またしても言い訳させていただくと、私の場合は、今回は生涯2度目の棄権で、これまでは不在者投票を含め、すべて投票している。
 
この棄権の理由として、無関心層や病気を含む緊急事以外には、第1に、政治に対する失望感、どうせ誰がなっても変わらないという失望感がある。これには地盤、看板、鞄というものがなくては立候補できず、当選できないという、長年放置された選挙制度の不備がからんでいる。
 
都議選について-その2で触れた「インターネットは政治を変えるか」オンライン版をここでも挿入する。さきがけが以前、提案していたものだ。
 
 
金をつぎ込んでも投票率を高められないことが大きな問題になってくると、そう、大きな問題とすることがポイントだと思うが、インターネット活用を必然的に考えるようになるのではないか。白紙では投票率を高めてしまい、しかも何票が白紙であったと大々的に発表するのなら良いが、白票がないはずはないのに今回も発表されていない。
 
インターネットでどのくらい関心が高められるかは分からないが、誰が考えても、利便性が増し、また候補者間の比較が詳細に出来、鞄も地盤、看板ももなくても立候補できるようになるはずだ。さらに、関心はあるが、候補者もよく分からない、わざわざ調べるのも面倒だ、だからといって誰でも良いわけではないという多数のノンポリ層の掘り起こしにはかなりの効果があるはずだ。
 
第2に、56.01%の人が権利・義務を放棄した。これを裏返せば過半数の人が行かなくても問題はないと判断したということだ。争点があれば投票率は高くなるのは過去の事例からも事実といっていいだろう。
 
世界を見れば、問題がある時ほど、問題がある国ほど(投票できればの条件が付く国も多い)投票率は高くなる。その意味からすると、争点もなく、問題も身の危険を感じるほどではない日本は平和なのだ。「こちら某中堅企業企画室」さんが触れてらっしゃるように、「つまり、人々が政治について語らない世の中こそ、いい世の中なんだと。」言えなくもない。日本では誰が当選してもさほど変わりはない、そうひどい状態にはならないだろうと、私を含めてだが、失望の中でも多寡をくくっている部分があるのではないか。
 
しかし、本当は少しずつ温度が高くなる井戸の中にいるのに飛び出すタイミングが分からなくなっている平和呆けした蛙たちじゃないのか、目をしっかり閉じ、五感をシャットアウトしているだけではないのかと時には恐怖を抱くのだ。

権利の上に惰眠をむさぼり、義務を放棄したさなえです。みなさま、コメントをありがとうございました。間接的に組織票を有する党を支持したのだというみなさまのご指摘はよく分かっております。確信犯ということでなおさら罪は重いのですが。
 
実は、以前、区議選でしたが、白い手袋をはめて選挙カーに乗り、「xxです。みなさまの生活をお守りしたいと立候補しました。そちらのお母様、ありがとうございます」とかなんとか、たかだか数時間でしたが、ボランティアでウグイス嬢をしたことがあります。
 
また、私の仕事を手伝ってくれていた人が、その後、破れはしましたが都議に立候補したなどという出来事もありました。ですので政治に対する関心はそう低いわけではないのです。昨日の話でも書いたように、投票は権利というよりは義務だと考えています。
 
しかし、しかしですよ。日本の政治というか、政治家の質の劣化が進んでいるように思えるのは錯覚でしょうか。私の区とは異なりますが、親しい友人は都議選をボランティアで手伝いに行き、昨日は寝込んでいました。彼女の話の受け売りですが、各党からの嫌がらせや妨害は大変なものがあったそうです。あくまできれいな選挙をすることを目標にしていたので、やり返すこともせず、淡々と自分たちの選挙を戦ったそうですが、もちろん負けました。
 
そういう人たちのためにこそ投票に行かねばならないのですが、ここ10年ほど、区議選を除き、私が投票した人で勝った人は一人もいません。結局、地盤、看板、組織票、知名度のある人しか出来ない選挙となっているのです。
 
さらに、政治家の公約がどんなものかはみなさんがよくご存じの通りですし、各党間の相違ってどれほどのものがあるでしょうか。民主党の多くが旧自民党ですし、党首同然、なんだかはっきりしません。公明党の当選はうちの区では確実です。共産党もうちの区ではほぼ確実。つまり、投票してもしなくても品揃えには変わりないという事実があるのです。社民党は立候補していませんし。
 
いっそみんなで抗議の棄権をして、非常事態を認識させ、結果、選挙制度の改革へと進まないかとやけくその気分です。
 
「インターネットは政治を変えるか」オンライン版を以下で読めます。さきがけが以前、提案していたようですが、どうなったのでしょうか。
 
 
ちなみに、従来ですと大量のビラが各党から入っていたものが、今回は1枚も入っていませんでした。問題山積ですが、大きな争点はなく、低調な選挙であったということは確かだったようです。

d0a86001.JPG投票に行かなかった。

選ぶ人がいないという息子にこれなら我慢できるという人に投票しなさい、これは国民の義務だと説いたのだが、息子はこれは権利だ。放棄する権利がある。誰も投票しなければ少しは考えるだろうと、その日何度目かの昼寝に入った。

昨日は落ち込んでいて、思い出してはまた涙の状態で、とても外にでていける顔ではない。通常は、外に出ていける顔かと問われると言葉に詰まるが…少しはましになるのを待つことしばし。

そのうち、息子のいうことにも一理あるような気がしてきた。単なるものぐさの言い訳なのは分かってはいるが、あまりに選択肢がない。普段の行動範囲の中には見事に1箇所も掲示板がないので子細に検分することもできていない。

今までなら、都議選も区議選も、誰やらの遠い紹介を辿って、電話や直接の訪問が、3つの党からあり、暇なときは議論を仕掛けて困らせたり怒らせたりして楽しみつつ吟味することが出来たのだが、2年前に引っ越したからか、今年はどこからも電話もかかってこない。

と思っていたら、電話があった。東京では強いが世界的にはじり貧のxx党事務所からだ。選挙当日の電話は立派な選挙違反ではないのか。この党は昔は清貧でうっていた時代もあったのに、ここまで落ちぶれたのか。それとも他の事務所のひっかけか。

そしてとうとう投票には行きそびれた。投票率は43.99%で過去2番目の低さを記録した。つまり、56.01%の人が権利・義務を放棄したのだ。過半数が支持しない政治ってなんなのだろう。取締役会や株主総会なら、定足数が足りず流れるところではないか。こんな数字で選挙が成立したと言えるのだろうか。

政治は国の根幹だ。あらゆるものが政治に依って立っている。政治が良ければ、公正で、公平で、将来を見越した国民のための政治であれば、当面苦しくても希望が生まれる。だが、政治が貧しければ、いくら経済が頑張っても、個々が頑張っても限度がある。今の社会は希望に満ちているか?徒労感に覆われていないか?

で、どうすればいいのだ。どの党を信じればいいのだ。闇は深い。

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