あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2006年05月

b7823727.JPG

最近変なことを考える。高齢の両親がこれまで後生大事にため込んできた様々な生活の印を捨てているのをみているせいかもしれない。

新聞を読む。テレビを見る。誰かがどこかで事故に遭い、事件に遭う。事故に遭い、事件にあった人も、可哀想に、事故だってよなどと、その前日新聞を読み、テレビを見ていた人なのだなあと、当たり前なのだが不思議に思う。

遠い世界だと思っていたことが突然自分のこととなる。自分に限って何も起こるはずがない、そんななんの確証も裏付けもない希望があるから前に進み、そして運命に足をすくわれる。

昨日、記録的な大雨の日も引っ越しの準備を手伝いに両親の家に行っていた。雷が鳴りやんだように思え、雨も降っていなかったので3時過ぎに出かけていったのだが、ついたトタン、ひどい土砂降りの雨となった。1、2時間だけ手伝うつもりが、夕食をご馳走になってもまだ止まない。

仕事は当面、最小限に絞ってあるのだが、いかんせん、締切というものはある。のんびり止むまで待つわけには行かない。8時まで待った。が止まない。仕方がないのでタクシーで帰ることにした。しかし、乗ってきた自転車を見たら気が変わった。幸い、雨はちょっと小降りになったように思える。

強い雨だと傘は役に立たない。第一傘を差して自転車に乗るほど器用じゃない。パーカーのジッパーをきっちり首まであげて走り出した。走り出すと同時にもしかしてものすごく馬鹿なことをしているかもしれないとちらりと考えたがもう止まれない。

広い公園を、誰もいない暗い公園を、ときどき稲光で梢が白く浮き出る中を1人ずぶぬれになって必死にペダルをこぐ。雷に打たれるのと、心臓麻痺とどちらが先だろうか。気が弱いくせに、雷が怖いくせに、なぜ、こんなところを自転車に乗っているのだろう。

道路はかなりの深さまで冠水していた。マンホールの蓋が開いていて、自転車ごとマンホールに吸い込まれていったという新聞で読んだ目撃談が頭をよぎった。道路に渦巻きができていないか目を凝らし、それから全速力で水を蹴立てて進んでいった。

ああ、馬鹿だ、馬鹿だ、私は馬鹿だ。

今回は無事だった。雷にも打たれず、心臓麻痺も起こらず、マンホールに吸い込まれもしなかった。でも明日は誰にも分からない。

ばらばらの美辞麗句を連ねるな。会社案内だって、IR情報だって、良さそうな言葉を連ねればいいってもんじゃないだろう。

会社の顔である文がこれかよ。意味が全く不明じゃないか。いったい何を言いたいのか、言葉の意味が分かっているのか。読んでみたことがあるのかね。

どうやって翻訳しろと言うんだ。

翻訳者を発狂させないためにも、国語教育に身を入れてくれ〜!!!

もう駄目。蒸発したい。

うう、我が人生で一番下品な映画を見てしまった。というか、非常に混乱してしまった。笑うべきか、怒るべきか。

銀座の映画館、話題の映画、予告はすでに始まっていた。それなのに全席指定席であるにもかかわらず、指定された座席は真ん中の大きな通路のすぐ内側の真ん真ん中。私の列より前には、映画館の半分を占める広い空間に合計たった2人のみ。最近私が行く映画館はがらがらが多いなあ。

producers評判が良さそうだったのになぜ?どうしてこんなに空いているんだろう。疑問は5分もしないうちに氷解した。典型的なスラップスティック。アメリカ人の大好きな超ドタバタ劇。しーんと周りに1人もいない空間で、笑うことってできる?あまりに誇張しすぎて笑えない。

人種ネタやゲイネタをここまであくどくやって、あんた大丈夫、訴訟費用は用意してあるの?といいたくなった。米国人の批評家なら大喜びするだろう。自分が心広く、偏見のない人間だと示すには笑い飛ばすしかない。互いの顔色を窺いながら大笑いするんじゃないかな。などと思ったけど、素直には笑えない。

パロディと毒で成り立っている。セックスとニシンが笑いの種のスエーデン人とか、ヒトラーマニアのドイツ人、年寄りの未亡人ネタに、弁護士、会計士。いつなんどき歯をむき出して眼鏡をかけ、首からカメラを提げた日本人が登場するかもしれないとちょっと緊張した。出てこなくて良かったけど。歯をむき出してがに股で歩く東条英機が登場したとして、わだかまりなく笑える?

背景や歴史に対するちょっとした知識、映画や本、英語にある程度強くなければ楽しめない、スノブな、感じの悪い、聴衆をテストする、業界人向け、地域限定映画だ。エンディング近くに出てくる看板に、「マイム」とか、「あるセールスマンの凍死」とか。ちょっと吹き出してしまったけど。楽しめなかったのは、あ、あれ、で言葉が出てこない腹立ちや、自分の無知を突きつけられたいらだちが多少混じっていたかもしれない。

cc8e5b19.JPG

夢の中で突然思いついて目が覚めた。私は雑草も花の芽も区別できないんだった。

畑仕事の大きな問題はここにある。草むしりをしていて雑草かどうか分からないものがあまりに多い。娘の草という名前の植物などないという意見に賛成して大事にしているわけではない。はっきりするまでもうしばらく待ってみようと見逃して、草のジャングルを育ててしまう。

田舎の家の南の縁側の前一帯をコテッジガーデン風に花いっぱいにしたいと思っている。コテッジガーデンの見取り図付きの大判の本は、何年も前に銀座の洋書屋が撤退するときにすでに手に入れてある。手の入りすぎないものが好きなのだ。実は手を入れるのが面倒だったりするからでもあるが。

最初の年は花やハーブを自宅で発芽させたものをプラスチックの容器に入れて運んだが、たった1株のレモンバームが根付いただけだった。

その秋には裏庭に大量のコスモスの種を蒔いた。コスモスは嫌だといっても芽が出るよ。そう大家さんに聞いたからだ。道端やあぜ道にもあちこちでコスモスが咲いている。なのに、1株も育たなかった。

今年は、あれじゃあ耕しているとは言わないよと、私の奮闘ぶりを哀れと思ったのか、大家さんが南の庭を耕耘機で耕してくれた(奮闘する前ならもっと良かったけど)。すっかり深く耕され、雑草1本ない庭を見て、今年こそ花いっぱいにしようと一面に大量の花の種を蒔いたのだ。晴れの特異地帯に属しているので、種が発芽できないのだからと保水剤も奮発した。

庭一面にぱあーっと、花咲ばあさんのように威勢良く撒いたのだが、さて、発芽したらどこをどう歩けばいいのだろう。畝をつくってまとめて発芽させ、移植すれば良かったのだ。雑草も喜んで生えてくるに違いないのに、思いつきもしなかった。雑草に痛い思いをしながら、なぜワタシは花いっぱいの庭しか想像できないのだろう。

乱読、粗読中
医者が心を開くとき 上 ロクサーヌ・ヤング編 医学書院 訳文難あり
作家が過去を失うとき ジョン・ベイリー 朝日新聞社
窓の外はパリ 篠沢秀雄 集英社
働く女は敵ばかり 遙洋子 朝日新聞社 
東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ 遙洋子 筑摩書房
砂漠で見つけた一冊の絵本 柳田邦夫 岩波書店 
庭仕事の楽しみ ヘルマン・ヘッセ 草思社
ホームレス入門 風樹茂 山と渓谷社
国家の品格 藤原正彦 新潮社
脳死は本当に人の死か 梅原猛 PHP 
袋小路の休日 小林信彦 講談社文芸文庫 

ほのぼの おかしい しみじみ 衝撃 目から鱗 作家やのう

TB http://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/c5038ab8e0b0d915c7c51f2a69ab2fd4

e09606d2.JPG

連休中、娘とそのボーイフレンドのT君に付き添って貰い、約5ヶ月ぶりに田舎の家に行って来た。なんせ、弱虫な上に妄想力!が豊かなものだから、入り口を開けると孵化した子ヘビがぞろぞろ出迎えるのではないかとか、冬の間に水道が破裂して水浸しになっているのではないかとか、持ち帰れなくて台所においてきたカボチャやジャガイモが腐って虫が湧いているのではないかと恐ろしくて、気分はかなり低空飛行だった。全く情けない。

ヘビはいなかった。カボチャやジャガイモは腐っていたが虫はいなかったので勇敢に捨てることができたし、蛇口は凍結の末壊れていて横から水漏れがしたが、水浸しにはなっていなかった。やれやれ。

鯉のぼり最大の懸念であった大家さんのご機嫌は、大丈夫だった。お風呂には沢から水が引いてあるのだがどういうわけか水が出なくなっていて、私が来るまでに何とかしなければとあちらはあちらで私の到着が遅れることを願っていたのだ!間に合わなかったということで低姿勢だったが、なに、今回は車つきだったので問題なし。

毎日温泉三昧で私には何よりだった。T君は薪のお風呂を目指してきたのでちと可哀想だったが。露天風呂から流れ星を見、帰り道に再び流れ星を目にしたが、アット叫ぶだけで願い事は言えなかった。世知辛く、金とか、運とか、仕事とかなら言えるかもしれないが、ちょっと言いたくないねえ。

前日の雷を伴った激しい雨で桜は散っていたが、梅の花はまだ残り、山桜が咲き始めており、山里の春はちょうど本番を迎えたところだった。

自宅についたとき、ウグイスが出迎えてくれた。昨年も一昨年も、もう少し山を下りたところにすみついていたのに、今年は我が家に覆い被さるように生えている杉の大木付近が気に入ったようだ。若いウグイスで歌はまだあまり上手くない。でもウグイスだと喜んだのだが…

草むしり毎朝、へたくそなウグイスに朝早くから叩き起こされた。長いメロディは歌えないらしい。ホーホケで時々終わる。かと思うとケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョとエンドレスで騒ぎ立てる。どこかにボタンでもないものか。ぷちっと押したくなる。ホーホケも時々、ホイショの超早口版に聞こえたりする。早く上達しなければお嫁さんが来てくれないよ。

昼間、小さな鶯色の小鳥が2羽、裏庭ですごい勢いで追いかけ、追いかけられているのが目にとまった。春だなあ。電線にはピーツ、ピーツと鳴く小鳥が2羽寄り添うように止まり、少し離れてもう1羽。2羽が飛んでいってしまった後、残された1羽が声の限りにピーツと鳴いていたが、誰かに届いただろうか。

畑は一面にタンポポが咲いていた。きれいなのだが根が張って抜くのが一苦労。すっかり親指を痛めてしまい、未だに膏薬でぐるりと固めている。軟弱な都会者には草むしり一つとってもおおごとだ。

昨年は連休中に植えた苗が遅霜で全滅したので、どうしようかと考えていたら、大家さんが2週間ほどしたら6種類ほどの野菜の苗を3本づつ植えてくれることになった。おんぶでだっこ、ごめんなさい、そしてありがとう。今回、大量の花の種と少量のハーブの種+保水剤を蒔いた以外は、セロリ、唐辛子、数種の花の苗だけを植えてきた。芽を出してくれるかな。

f983a088.JPG

五号館のつぶやきさんに褒められてちゃった。少々孤立無援という気分だったので素直に嬉しい。おまけにエントリーをまとめてくださったので、このままコピーします。

さなえさんが臓器移植に対して、続々とエントリーを重ねておられます。ある意味では「頑固」と思えるまでに「こころ」の問題にこだわるさなえさんの立場は、こういう論争においてとても貴重だと思いますし、合理的ではないという理由で切り捨てることこそ間違っていると思います。私とは意見が違う部分もあるのですが、さなえさんに敬意を表してここにエントリーをまとめてリンクさせていただきます。

2006年04月25日 医者はなぜ諦めないのか
2006年04月29日 臓器移植について
2006年05月01日 通りすがりさんへのコメント-臓器移植について
2006年05月02日 さらに臓器移植について

今回は違った角度から、ぶっちゃけ感じの悪い「損得勘定」という方面から書いてみようと思います。

臓器移植すれば助かるかもしれない人の数は死亡者の何%くらいに当たるのだろう。心臓や腎臓、肝臓などに問題を抱えている人は、膨大な人数に上る。私もその1人だし、母もそうだ。全員が移植を受けられないのは明らかだ。どうやって臓器移植の候補を絞るのか。一番分かりやすいのは金だ。

どんなに生きたい、生かしたいと願っても、庶民の大多数が最初から臓器移植を選択肢とは考えず、諦めるだろう。千万円単位の資金を準備できるのはほんの一握りの人たちに過ぎない。寄付を募るというのは良い方法だ。子供については寄付も集まりやすいだろう。若い命がただ消えていくのを見守るのは親にとって辛すぎるし、同情も得やすい。しかも、寄付集めの運動を親が中心となって進めることができる。

しかし、子供以外は?誰が寄付集めを進めてくれる?自分のための寄付集めは楽ではないだろう。病気を抱え、生活があり、周囲には同じように病気の人が大勢いる。移植が珍しい間は大学病院などで手術費用などは支払ってくれることもあるだろうが、年に数百という数になったとき、それは期待できない。

結局、臓器移植というのは、一部の金持ちのために一般庶民が自分の臓器を差し出す一方方向の行為なのではないだろうか。自分の命を差し出すことが究極の崇高な行為であることは分かるし、その人たちを貶めるために言っているのではないことを繰り返しておくが、一方方向であることも厳然たる事実だ。ホームレスが臓器移植を受けられるか?母子家庭の貧しい母が臓器移植を受けられるか?

米国には妹一家が通算20年近く住んでいる。運転免許の更新のたびに臓器を提供するかどうかを記入しなければならないが、「しない」にチェックを入れ、子供たちにも必ず「しない」にチェックするよう確認しているという。

なぜか。毎年数千の臓器移植の実績のある米国において、臓器を提供する意思を明確にしておくと、治療に専念して貰えない恐れがあるのだという。単なる噂かもしれないが米国人の友人が多く交際範囲の広い妹の話なので、かなり一般的に流布している噂だろう。そのように疑っている人が多いのだ。提供したいという人も、自分や、肉親が助かる希望が完全についえるならという大前提があるはずだ。最後まで全力を尽くして貰えない場合があるとすれば?

嫌われついでに本心を言えば、数年の命を、他人様から千万円単位のお金で買い取る余裕があるのであれば、わずか50円(脳髄膜炎のワクチン2本分、栄養食4食分)がないため死んでいく多数の子供たちの命を救って欲しいと思う。それら子供たちを教育する資金に差し出して欲しいと思う。数年の命の代わりに多数の子供たちの命と世界の安定が得られる可能性がある。それこそ崇高な行為ではないだろうか。

臓器移植がままならないのであれば、日本は他の道を探らねばならない。豚の心臓や新素材の血管、再生技術で世界最高を目指して欲しい。罪の意識を感じることのないクリーンな道を進んで欲しい。

農作業に行ってきます。戴いたコメントへは連休明けにお返事させてください。

4月27日、ライブドアマーケティングの株主総会に出席した。 実は怠け者の私にとって、これが株主総会への始めての出席だった。

場所は白金の都ホテル、上場廃止最初の総会、これは大変、怒号渦巻き、フラッシュが光り、大混乱の長時間総会に違いない、絶対出席しなければ、野次馬の私は、大慌てで仕事を片づけると飛び出した。

ff3f0303.JPGなんてことはなかった。ずらりと並んだ空白の椅子。700席を用意したというが、2,3列に1人という有様だった。株主はどこだ。怒号はどこだ。周りをぐるりと取り囲んで座っている社員の数の方が株主よりずっと多いのではないか。ざっと数えてみると出席した株主は60名を下回っていた。みんな興味ないのね。なんだ。

1時間遅刻していったので、議事の最初の部分は聞き逃したが、淡々と進む。「xxという間違いが発見されました。しかし、実態がないわけではなく、その分の収入はありました」の繰り返し。いくつか聞いたことによると、要するに、経理の記帳の科目が違っただけというように聞こえる。ふーん。これって、税務署か何かがちょっとそれ違うんじゃないと指摘し、ああ、そうでした、修正しますで解決するようなものではないの?上場廃止に追い込み、ワタシのような零細株主に損をさせるような大事件なのかなと素人のおばさんは非常に不思議に思ってしまった。

印象に残ったのは、沖縄から来たというおじいちゃん。足下がおぼつかないのに、延々と演説を初めてしまった。おじいちゃんも怒号と長時間を期待していたらしく、2泊分のホテルを予約したという。ホリエモンは貧乏人と若者の希望の星だを数回繰り返し、果ては頑張れホリエモン、ライブドアと、要するに激励演説だ。でもここはライブドアマーケティングだし、ライブドアとは完全に縁を切ると言っているんですけど。それでも、ぱちぱちと周辺から今日一番の拍手が鳴り響く。フーム。

怒号はどうした?つるし上げはどうした?結局、その日一番うるさく食い下がられていたのは昨年のライブドア総会ではお茶が出たがここでは出ないのかとの質問だった(へえ)。なんだかやけに和やかに終わってしまった。都ホテルでしょ、株主に迷惑かけたでしょ、ケーキくらいでるかしらという希望は打ち砕かれ、静かにクロークルームへと向かいつつあるところに、横から声がかかった。実は初の株主総会なのに、ついむらむらとひとこと言いたくなって質問などしてしまって、またしてもアホ丸出しをしてしまったのだが、「よくぞ言ってくださった」とのお褒めをいただいたのだ。

話をしたいとのことなので、じゃあ、せっかく社長がお茶を用意してあるというのだから飲んでいきましょうかとお茶が用意してあるはずの場所に向かったら、何と、ない。お茶の会場とやらを見渡しても何もない。あるといったら、なくてはならない。コンプライアンスの第一歩じゃないか。守ると言ったばかりじゃないの。

お茶ないのと質問していたら、速やかに、4,5人が私たちの周りを取り囲むようにささーっと寄ってきた。警備の腕章のねえちゃんは、あたしはここのものじゃないから、分からないんですって、じゃあ、寄ってくんなよ。その中から金色バッジを光らせてやってきたのは、このひまわりバッチが見えないかの弁護士だった。この会社のバッチは金色なのかな、やけに光るとぼーっとみていたら、彼ら全員が弁護士だったのだ。警戒が厳しいのね。お茶頂戴の声で、即座に都ホテルの人が呼ばれ、ミルクティをご馳走になった。別にどうでも良かったけど、社長が壇上から、用意してありますから、どうぞといったものは、直ちに用意するものだよ明智君。

まあ、多少の行き違いはあったが、入っていったとき、若い社員たちが元気におはようございますと声かけをしてくれたことや、きびきびした社員が多かったこと、好感が持てたし、なんとかなるんじゃないかなと希望は持てた。孫の1歳の誕生日にライブドアマーケティングの株を少々上げることにしたことだし。(娘は、え、一株97円のを10株?ケチやなあといったが、いやいや、4000円で購入した、最終株価が310円、2年後には1000株に増えてオオバケしているかもしれない株なんだわ。再上場を目指すと言っていたし。紙くずにならないように、みなさん頑張ってね。)

訴訟でイブドアが無罪となる可能性もなきにしもあらずだが、それでも決別するのかという質問に連携することはないときっぱり答えた社長だが、それはおかしいんじゃないの?無罪なら別れる理由はないでしょ。カッコつけないで実を取れよとちょっと言いたかったね、ワタシとしては。

ここに載せた写真が恐らく株主総会の唯一の写真かもしれない。入ってすぐに写真を撮って良いか聞いたら駄目といわれたので、これにて閉会しますの言葉を待ってからシャッターを押した。総会は終わったから良いじゃないというグレーゾーン狙いだ。悪しからず。

e45ece77.JPG

今回、始めて、「脳死」者を創らず、救命しなさい!  『脳死』・臓器移植は死と、人権侵害をもたらしています!」というタイトルを掲げた「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会」があることを知りました。

ざっと眺めただけですが、ここには脳死者の症例も列記されています。この会の言葉すべてを鵜呑みにしているわけではないですが、脳の機能についてはすべて解明されたわけではないはずです。それなのに脳死だからもう回復不能だと断言して良いのでしょうか。脳死に見えて、後に回復した例もあるようです。

医師たちの関心はどうしても生きている患者、助けられる患者に向かいます。移植を待っている患者を抱えている医師たちにとって、脳死寸前の患者は、患者にみえるでしょうか。全力を尽くしてくれるでしょうか。一部の医師には半分物に見えているのではないかと危惧します。また、あちこちでよく耳にする助からないと思える末期患者のところには医師はやってもこないという話からしても、関西市民の会が反対するのは故なきことではないように思えます。

「一生で重要な日が二つある。生まれた日と亡くなった日。その間にすることはそれほど重要じゃない。」paul-ailleursさんの記事経由で知ったジャック・ブレルの言葉です。亡くなるときには尊厳のある良い死を死にたい。医師には、死ぬことにおいても、誠実にその手助けをしていただきたいと思います。

三余亭さんからTBをいただきました。「いろいろな方の御意見を読ませていただきびっくりしたのは、臓器提供に金銭が絡むことに私が覚えた心理的抵抗をあっさりと乗り越えられていることでした。」とあります。私もそのことに驚きしましたが、それ以上に、経済効率で人の臓器を物として評価することに抵抗のない人がいるらしいことにも驚きました。そこからは無駄な人間、無駄な臓器、有効利用という、第二次大戦で有名になった思考まで距離がほとんどないように思えます。

47thさんが「Beckerが語る臓器移植論 」を(1)、(2)、(3)とシリーズでアップしていらっしゃいます。47thさんは考え方を紹介してくださったのですが、このまま臓器移植を進めると、そう遠くない将来に、Beckerの理論を実際に導入しようという動きが出てこないとも限らないのではないでしょうか。効率や有効利用、費用効果を考えると臓器用に無脳症のクローンを生産するなどという、SFの世界の中だけの話と思っていたことがいつのまにか実現することになってしまいます。「臓器の効率的な分配」という考え方は理解できますし、一見つじつまがあうように見えます。命が関わっていなければ、です。が、実際問題として、そういう世の中は、Grossとかdisgustingとしか形容のしようがありません。頭が固すぎるおばあちゃんと言われても結構。そう思えるのだから仕方ありません。

さらに、47thさんの「臓器売買がなされれば得られたであろう利益を失うというコストの側面」には、臓器移植が他の医療手段に比べ、倫理上の抵抗感や問題を超えてもなおかつ実施すべきであるという格段の利益があることが前提であろうかと思います。果たしてそうでしょうか。臓器移植を受けた患者の生存率は?一生、強い副作用のある免疫抑制剤を服用し続けなくてはなりませんが生活の質は?精神面でのストレスは?臓器移植を進める政府の方針は通常の医療による場合と、移植の場合と、適正かつ有効に比較検証された上での選択なのでしょうか。

おばあちゃんの戯言であり、専門家でもなく、理論武装できるほどの頭があるわけではありません。しかし、臓器を提供することになるのは一般市民です。臓器移植を推進しようとする納得できるだけの理由と根拠が知りたいと思います。

先の記事「臓器移植について」に通りすがりさんからコメントを戴きました。

だからこそ臓器移植を認めて、一定のルールの下でコントロールすることが大切だと思うのです。技術が存在し、それを求める人がいる限り、いくら禁止しても臓器移植がなくなることはないでしょう。それを禁止するからこそブラックマーケットができるのだと思います。従って、禁止すべきかどうかが問題なのではなく、どうコントロールすべきかを議論すべきだと思うのです。

おっしゃる通りですが、現実にはどうでしょうか。一定のルールの下でのコントロールについて、日本の現状のようにごく少数の例しかない場合は管理できますし、日本の場合は完全に管理されていると思います。しかし、規制を緩和して数を増やそうという路線を進もうとしているようですが、そうなれば、話は異なってくるのではないでしょうか。

年間数千人という規模になっていった場合、また多数の民間施設でも臓器移植が可能になった場合、厳密な管理は事実上不可能になると思えます。アフリカや、中南米、そしてこの間の津波の犠牲者の遺児たちが臓器目的で売買されるということがたとえ、噂半分としても、その可能性が皆無でない限り、その罪の一端を負ってしまうのではないでしょうか。

闇金がらみで肝臓や腎臓を売って金を作れという脅しのテープをテレビで聴いたことがありますし、おおたさんが、先の記事「医者はなぜ諦めないか」でコメントしてくださったように、現に臓器買いますという看板がある以上、今でさえ生体臓器移植の場合意思の確認などにおいて自発的に見せかけた臓器マーケットが存在しないとは思えないのです。

また、現に困っている人がいて、助けたい人がいて、助けようとする医師がいる。善意の人たちです。善意であるからこそ、臓器を提出することが究極の崇高な、利他的な行為であるからこそ、それが主流になれば、大きな圧力となり拒絶をすることができなくなっていきます。例えば、生体肝移植では、自分の肉親が移植しか助からないときに、周囲から懇願されて、誰が断れるでしょうか。拒否したとしたら周囲からの声高でないにしても暗黙の非難を一生受け続けるでしょう。

これって何かおかしくないですか?完全な人工臓器が早く実用化されることが一番の解決法ですが、臓器移植が主流となり、望む人に臓器が移植されるようになれば、人工臓器開発のインセンティブは大きく下がります。巨額の資金を投下して開発しても回収の目処がたたなくなるからです。

日本は「身体髪膚これを父母に受く。敢えて棄傷せざるは孝の初めなり」という思想がまだ広く生きているし、遺体に対する礼節を大事にする国でもあります。遺体を物として扱える国とは違います。

さらに、脳死が死であるか、国民のコンセンサスはできていないのではないでしょうか。現実に心臓が動いているのに、暖かく呼吸をしているのに、死亡だと本当に言えるのでしょうか。受け入れられるでしょうか。臓器移植の場合は新鮮さが何より大事なので、心臓が止まり、冷たくなり、家族がお別れをするまで待っていられないのです。生理的に受け入れられない人がほとんどではないでしょうか。

私は、生理的に脳死を受け入れられない人が多い日本の実情に沿って、日本は人工臓器の開発に全力を注ぐという路線を進むべきだと思っています。

Dr.Blueは「それは確かにパンドラの箱を開けた結果かもしれない。けれど、蓋を開けた以上、悶々と悩みながら進むしかないでしょう。」とおっしゃってますが、なんとかその箱に散らばった物を戻して再び閉じる方法を探せないかと思います。『私たちは私たち全員への責任を負っている』のであるからこそ、誰かの不幸や命の上に成り立つ制度は推進して欲しくないのです。

なお、通りすがりさん、あなたを識別するためにも、単なる通りすがりではなく、例えば通りすがりの尚子とか、何か個別の名称をつけていただけますか?

このページのトップヘ