あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2010年08月

初めましてどこが少子化なんだか、我が家の周辺では大変なベビーラッシュだ。

先週末に4番目の孫が誕生!3週間も予定日より早く。

金曜日の夕方、かなり大きな仕事を受けた。9月中旬までかかりきりになりそうだ。で、娘に電話をした。

大きな仕事を受けたからね。13日まで生まないでよ。

大丈夫。出ないようによく言って聞かせるから。

これが金曜夜の会話。そして、土曜日の朝、1本のメールが…

陣痛が始まり入院した!!

がんばれ、まだ出すなと激励の?メールを出す。

その甲斐もなく、夕方には生まれたよのメールが…出るなと言うと出るのは遺伝だねの文字も。

体重2340グラムのちっぽけな赤ん坊で、保育器に入っている。しかし、上の2人と同様、ミルクの飲み方がすごく上手だそうで、1ヶ月もたてばトモゾーのように近隣の誰よりもおデブになるのだろう。

どたばたするのも遺伝だか、血筋だか。娘の入院騒ぎの最中に、トモゾーが喘息発作を起こし、病院で点滴を受ける騒ぎも起きた。

未だに殺されそうな声の夜泣きで娘を悩まし続けていたリー坊が一番心配だったのだが、泣きもせず、ぶつぶつと大きな声で夜中に文句を言っていたというから、これまた血筋か、いやこれは娘が手のひらで転がされていたということだろう。

息子に売るはずのノート、なかなか取りに来なかったのが良かった。撤回してノート持参で、週末から暑い北海道に行ってきます。飛行機が嫌なので列車でのんびり北上する予定だったが、帰りは自分へのご褒美たっぷりに各地温泉を回ろうっと。

DSCN0349もうすぐ夏が終わる。今日も34度を超えるらしいが、それでも秋は確実にやってきている。

わずか数日前には耳が痛くなるほどだった蝉の声が昨日はほとんど聞かれなかった。数匹の遅れてやってきた蝉の悲鳴のような短い声が時々するばかり。夕方散歩すると秋の虫の音色一色にいつの間にか塗り変わっている。

昨年見た映画、夏時間の庭。夏の間に書こうと思いつつ、夏は駆け足で去り、今年も危ういところだった。猛暑だから駆け足で去って欲しいが、そうはいっても毎年こんなに駆け足で月日において行かれて良いものか…

夏時間の庭はオルセー美術館20周年を記念した企画だった。美術館が全面協力して美術品を貸し出したという。映画の中の家具、調度品等が見たくて昨年の今頃Y子と一緒に見に行ったのだった。Y子は弁護士で、英国勤務中に全く同じような案件を扱い、美術館に寄贈したとか。こういう人たちが結構大勢実在しているんですね。

この映画、設定や家具等をみるだけでもその価値がある。机や棚の美しいこと。さりげなく、雑然とした庭や書斎のすばらしいこと。これらを何代にも渡って美しく保つのにどのくらいの努力を傾けたのだろうか。

狭い家に無理して置いてもいろんな物がぶち当たり、粗雑な人間ががたがたと落としたり傷つけたりするようなところではとても無理だ。今私がこのブログを書いている机は長さ150cm、幅60cmの木目が非常に美しいカーブした変形の赤い机だが、すでに真ん中にひっかいたような傷がある。キーボードをがたがた動かすので無数の細かな傷も入ってしまった。娘の婚家で大きすぎて納屋入りとなってしまった長さ180cmの机のことも私が手に入れさえしなければと机に申し訳ないと時々思い出す。美しい物を美しく保つには財力と教育、執着心が必要なのだ。

映画ではこれら美術品が生活に溶け込んでいる。大事にしていても、ことさらに奉っているのではなく、花瓶等を普通に使い、価値を知りながら怖じけない生活。自然体のどちらかと言えば質素な成金ではない生活。これが自然になるまでに何世代くらいかかるのだろうか。

オルセー美術館には短時間しか滞在できず、セザンヌ、ルソー、ゴッホ等の好きな作家のところをどたばたと小走りに何度もくるくる回っただけで時間が終わってしまった。家具類は見ることができず、彫刻も帰り際にマイヨールだったか、美しい曲線を恨めしく片眼で睨みながら階段を駆け下りたのだった。数週間前に行ったオルセー展のことも一緒に書こうと思っていたが、長くなってしまった。また次の機会に。

そうそう、この映画の中で、兄弟が雨の中立ち話をするシーンが出てくる。しとしととか、ぽつりぽつりではない。フィルムにしっかり写るザーザー降りだ。その中、二人とも傘を差そうとする気配もない。傘を差すという発想そのものがないように、雨など降ってないかのように、そのまま立ち話をしている。濡れた後、どうするのだろうか。風邪など引かないのだろうか。少々の雨でも慌てて傘を差し、それでも風邪を引いてしまう軟弱な私とは人種が違うようだ。先に「雨の日、傘をさしますか」を書いたとき、実はこの映画のシーンのことも、入れたかったのだw。

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春に母が家出した。父の妄想がひどくなり腹を立てて上の妹のところに行ってしまったのだ。母はもう二度と家には戻らないという。上の妹はアパートを経営していてちょうど空き部屋があるという。しかも奇特なことに両親を見てくれると言うではないか。妹たちは3階に住み、その部屋は2階にある。

そうだ、父にそのアパートに行って貰い、自活可能な母は戻ってくればいいと思いつき、即座に、下の妹と連名でベッドを購入、アパートに送ると同時に家から使っていない寝具一式も送り出した。

ところが60年以上も一緒にいる夫婦の絆は予想以上に強かった。絶対戻らないはずが、翌日には、けろりとした顔でお父さんが可哀想だからと戻って来てしまった。宙に浮いたベッドは後日妹が両親のところに送ってくれたが、布団は涼しくなるまで待ってということだったのだが…

それが先日、秋には早い酷暑の中到着した。暑い部屋の中に放置されていた布団一式だ。ダニが大繁殖しているに決まっている。まず大量の殺虫剤を布団袋の中に発射し、しばらく置いてからまず毛布を洗濯機まで運んだ。折りたたんでぎゅうっと洗濯機に入れたとたん、多数のチクチクが。手から肘までの範囲で7カ所、見事に食われてしまった!虫にアレルギーなのに!

シーツ類、タオルケットと枕は指先でつまんで入れてなんとか洗濯できたが、問題は敷き布団と羽布団だ。

敷き布団はするするとおとなしく洗濯機に入ってくれない。折りたたんだり押し込んだりしたら、またまた餌食になる。仕方がないので浴槽で洗うことに決めた。

端を持ってずるずる浴室まで引きずり、浴槽に入れ、洗濯液の中に、傘の柄で押し込んだ。この私の手で押し込むなどとんでもない。傘の柄で押し洗いし、その後、短パンをはいて浴槽に入りワイン作りの要領でぐるぐる足踏み。結構おもしろい。

浴槽いっぱいの洗濯液がもったいないと思ったのが浅はかだった。羽布団も敷き布団の後に洗ってしまおうと計画。まず敷き布団を浴槽からだすことに。ところがただならぬ重さだ。当たり前だ。たっぷり水を吸っているのだから。

少し引っ張り上げては体重をかけて水を押しだし、ぐたりとした敷き布団を全身ずぶ濡れになりつつようやく洗い場に引っ張り出したのだが、これはもう繰り返すことは不可能だと引っ張り出してからようやく分かり、遅いのよね、栓を抜いた。

敷き布団の上に両膝で座って水を抜き、また浴槽の中に。浴槽の中でゆすぎと絞り、それを3回繰り返した。ぎゅうぎゅう折りたたんで全体重で座り込む。痩せて無くて良かった(笑)。羊毛布団だから団子になるか、どうなるか、最初は畳んで押し洗いならと思っていたのだが、もうこうなったら知ったこっちゃ無い。

死にものぐるいの格闘の末、無事に洗い上がり、3日間干してようやく乾いた。団子にもならず、多少偏った感はあるが、気になるほどではない。ああ良かった。

そして、お風呂からぐたりとした敷き布団を引っ張り上げたとき、思い出した。春先に父がお風呂から出られなくなり、それこそ死にものぐるいで浴槽から引き上げたことを。よく似た感触だった。ただ父は水をすわないから押してぺしゃんこにするわけにはいかなかったが…思い出しても身の毛がよだつこの話はまた今度。

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水木しげると女房の話、NKHの「ゲゲゲの女房」が好調なようだ。

水木しげるは文才もあってこれまで数冊読んだ。20年ほど前、小、中学生向けの自伝を学校図書用に購入したこともある。この児童書は非常におもしろく未だに覚えているくらいなのだが、調べたら絶版のようでリストにない。多分、タイトルや表紙を変えて出版されているだろうが。

NHKの朝の連ドラはここ数年、あまりにひどい作品が続いて見放していたのだが、途中から見始め、今では欠かさず見ている。仕事に取りかかる時間が遅くなり困るのだが仕方ない。

彼の人生そのものが、書籍も漫画もそうだがオブラードに包んだ優れた反戦記であり、声高に叫んでいないだけ、余計身に染みるのではないだろうか。この季節にふさわしいドラマ展開かもしれない。

しかし、どうも気になる点もいくつかある。この作品に限ったことではないが、多分、ディレクターが若いか、育児経験がないか、気が利かないのではないか。

女性はちょろちょろする子供を片目で監視しながら、料理や掃除をしなくてはいけない。そのためマルチに仕事をこなせるように作られていると言うが、この女房、シンクやテーブルの前でぼーっと突っ立っている時間が異常に長い。ゲゲゲの女房が実は男だったというなら別だが。

売れない時代の話の時、赤ん坊を撮影用に借りてくるのが大変だからはしょったのだろうが、貧乏で、助けを得られず、夫が集中して仕事をしているのに、よく一人でふらふらとのんびり近所で買い物や井戸端会議をしていた。普通なら、赤ん坊を背負っているだろうに。よくまあ子供が無事に育ったものだ。気になって仕方なかった。子供が大きくなってようやく安心してみることができるようになった。

細部がいい加減だと、ドラマに対するおもしろみは半減し、リアリティが減り、没入できなくなる。小説もドラマも、細部に神宿るだ。

自分の心配性にもあきれるが、大勢の若いお母さんたちも見ているに違いないテレビで子供が勝手に大きくなるかのようなドラマの作り方はして欲しくない。

現実と混同してしまう人たちが実際に存在する。またメディアは、善し悪しはともかく、親子関係が友人関係に置き換わっているような昨今、一般大衆の教育係ともなっているという事実があるからだ。

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[一部修正しました]高校の同級生、T君が亡くなった。交通事故だった。

海外勤務の連続で、激務に追われ、クラス会にも顔を出すことはなく、単身赴任も多かったようだ。

ずっと厳しい第一線で活躍してきて、周囲から頼りにされていたのだという。兄貴分のような気っぷの良い男だったと同級生のF君。

一度、謝っておきたいと思っていた。気まずく、なんとなくのどに刺さった骨のようにちくちくしていた。いつか、クラス会で顔を合わせるだろう、そのときにちゃんと謝ろうと思っていた。それなのに一度も会わないうちに亡くなってしまった。

大学の学園祭に誘ってくれたとき、T君の親友のK君が気に入らず、N子と二人で途中でまいて逃げ出したのだ。翌日、T君は心配したんだよと訪ねてきた。なんか、迷子になっちゃってとごまかした。その後、T君から長い手紙が来た。誠実な手紙だったが、返事も出さなかった。考えることが面倒だったのだ。

早慶戦にも連れて行ってくれた。野球のルールを何も知らないので、さよならで勝ったのをなぜ、2人しか打ってないのに終わるのかと質問してあきれさせたね。

大学1年生の最初の早慶戦と大学祭、きっと特別な思いで迎えていたんだろう。入りたかった大学だったから。それなのに、ぶちこわして、嘘ついて、逃げ出した。ごめんなさい。T君。悪かったよ。いつか、謝って、それから、昔は馬鹿だったよねと笑おうと思っていたのに…

そのうちそのうちでこんな年になった。振り返ると遙か遠くの出来事だ。N子はそんなもの時効よ、時効と笑ったが、その数十年は長いようで一またぎだった。人生って短いね。

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ScanSnapを購入して家の中を少し片付けようとして芋づる式にひどい目に遭っている。

2年間使っていたノート、最初から何かと相性が悪く購入早々入院させたり初期化も2回。outlookとの相性も最悪で、何度か客先へ送付したデータが落ちるという不具合が生じたため使えなくなるなど不便も半端じゃなかったのでストレスがたまっていたところに、ScanSnapも動いたり、動かなかったり。

愛想も尽き果て、捨ててやると、思い切ってデスクトップのセットを買った。お定まりの重労働をフーフーこなし、ようやくデータも移し替え、各種登録を済ませた。なんでこんなに煩雑なんだろう。画面から登録できなかったり、パスワードを再送してもらったり。あらゆるところにパスの設定が必要だから、つまり変更するにもパスが必要で、つくづく嫌になる。

最近では住所、電話、年齢まで必須にするところが多いがおかしい。年齢が何の関係があるのだろう。マーケティングに使用するのはわかっているが、自分たちの都合ばかりで使用者の都合など何のそのだ。どうせデータは勝手にあちこちで使用し、そのうち漏れる確率が高い。自衛のため、こちらは少しでも特定されるのは避けようとするから、妹の生年月日と名前を使ったり混乱させようとして、自分が混乱している!!

横道にそれたが、ようやくセットした新しいディスプレイ、それもノングレアを探してわざわざ購入した物なのだが極端に音が悪い。気にくわない。我慢するしかないと思うが、我慢の限界を超えている。元の音が悪いからスピーカーをつなげたらもっとひどいことになる。処分しようと玄関に置いておいた古いディスプレーのことをしみじみ思い出した。

ノングレア、四角い画面、SoundVuの画面が震えるタイプで音が気に入って買ったものだった。ああ、あれはいいディスプレイだった。そうだ、並べて使ってみよう。もう7年ほど前のものだったから使うことは考えなかったのだが。

古いから液晶とはいえ重い。新しいものに比べ厚みもある。机の上の空間を確保し、ようやく並べてつなごうとしたらピンが違う。諦めようと思ったが、こうなったらと、規格が違ってだめで元々、どうせ処分予定だしと、古いディスプレイだけをつないでみたら、見事つながった。PCの変化が激しいから当然ディスプレイの規格も変わって使用できないと思い込んでいたのだが。

古いディスプレイ万歳。朝から大汗をかき、手はぶるぶるしているけど、古いお母さんは嬉しいよ(笑)

さて、この正味4日ほどしか使用していないディスプレイはどうしよう。片付けるはずが反対に多数の段ボールとマニュアル類で余計散らかった家の中はどうしよう。

いとしの花と2匹のネコのOSS102さんの所に立派なピーマンの写真があった。おいしそう。

ひと頃、月に1度くらいは食べていた定番料理を思い出した。
昔、ブルゴギの作り方を韓国人の友人に教わったのだが、いつの間にかそれをピーマンに乗せて食べるようになった。ピーマンは2つに割って種を出し、お皿に盛る。それだけ。しゃきしゃきしたピーマンとブルゴギは相性が良く、ピーマンはいくつあっても足りないくらいひっぱりだこで、小さな子供はピーマン嫌いだなんて、どこの話となるくらいよく食べてくれた。ただし、へなっとなったピーマンは駄目だから、念のため。

変形ブルゴギの作り方
牛肉(切り落としで十分。ただし、量は十分に)を細切りにする。
ニンジン、タマネギを細切りにする。
ショウガ少々、ニンニク少々をみじん切りにする。
材料の割合は各自お好きなように。
上に、塩、こしょう、ラー油少々、お醤油、ごま油、砂糖少々をよく混ぜ、しばらく味をなじませる。
あとはフライパンで焼くだけ。ごま油が入っているので油を敷く必要もない。
私は先にニンジン、タマネギ組を炒め、火が8分ほど通ったところに牛肉を入れてさらに炒めるようにしている。
まあ、火が通りさえすれば何でも良いでしょうという簡単料理。
お試しあれ。

なお、我が家では牛の代わりに羊にも良くご登場を願った。こちらの方が歯ごたえはしっかりしていて食べ盛りには財布にもお腹にも良いかも。


抵抗できない弱い者を殺すことは人間として最低だ。まして、自分を愛し、信じ、存在がなければ死ぬしかない幼い子供を殺すのはもう人間ではない。それも思いあまってひと思いにというのでも、少しでも苦痛を少なくするのでもなく、放置すれば死ぬと分かっていながら、餓死させるなんて…この若い母親の気持ちも分からないわけではない。しかし、擁護するわけにはいかない。子供たちのためにも絶対に許してはいけない。

そんなとき、「Chikirinの日記」というのを読んだ。恐ろしく腹が立った。急ぎの仕事があるのに、手が着かないほど腹が立った。彼女はこの母親を擁護して、「母親が売れっ子歌手やトップ女優でもないかぎり自活は無理でしょ。」といい、「「では、このまま生活保護課に行って、手続きしていってくださいね」と、離婚届けを受理する係の人が、離婚届けと引き替えに生活保護申請書を渡しながら言う必要があるんじゃないの?」と書く。もちろん、国や自治体の支援が十分なはずはなく、十分だなどとは言わない。しかし、金を渡せばいいというこの上から目線、金で解決できると思っているこの無知、この傲慢さ。

生活保護がなかったから母親は子供を餓死させたというのか?日本では生活保護は子供2人抱えた母子家庭だから申請すればすぐに下りただろう。児童扶養手当他色々な手当も貰えただろう。ブログを書いていたくらいだからウェブで検索すればすぐに出てくる。例えばここ。下手に働くよりも多く貰えただろう。しかし、彼女はそれで満足しただろうか。

何でも社会が悪い、国が悪いといえば良いものではない。幼い子供を無残に殺した母親を、社会のせいにして許してはならない。

ツイッターで怒りをぶちまけてしまった。
20代で3人の子供を産み、30代前半で離婚した母親として、どんな理由があろうと、2人の子供を餓死させた母親を許せません。母親に裏切られ、絶望の中死んでいった幼児のため、母親を擁護しません。せめて施設を探す、元夫に送りつける、廊下に放置もできたはず。母は母であることを忘れるな

売れっ子歌手やトップ女優でもないかぎり自活は無理?馬鹿いってる金持ちがいる。金で解決すりゃあいいって。自分は金を出さないけど、国が出せ?一体、日本にどれくらい大勢の母子家庭が存在すると思っているのだろう。彼女に必要だったのは信頼できる人間。話せる相手。生き甲斐。存在価値、誇り

(続き)将来への希望、訓練、教育。幼い子供たちが何日も何日もひたすら母親を求めて泣きながら死んでいったのに。甘ったれの母親を絶対に許せない。生活保護で彼女は満足したか?彼女は母をやめ、女になりたかった。ちやほやされたかった。なら、子供はせめて施設に渡すべきだったのだ。

P1000176おやさしいマルセルさんが相手をしてくれるので、続けるつもりのなかったツイッターで毎日、くだらない生の言葉を垂れ流している。いつのまにかフォロワーとやらもできた。碌なことを言ってないのに申し訳ないような気もする。マルセルさんから時々返事が返ってくるので全くの虚空に吠えるという感じはなくなったが、やはり誤解のないように140文字では言いようもない。漢字という便利なものがあるのでまだ助かるが、英語圏では早々と廃り始めたとか…

幾人か、フォローしている人も出来、PCを立ち上げるとその人たちが私が寝ている間もせっせとつぶやいたものがざあっと、水門を開けた小川のように雪崩れ込んでくる。真偽取り混ぜ、情報の洪水という言葉の意味が良く分かる。ほとんどはどうでも良い話だが、たまに引っかかる話がある。こうやって中毒になるのかもしれない。

その一つ、宋文州という人の「相撲。暴力団関係の建物を知らずに借りたから罰則。野球もあれこれ暴力団関係を制限。だったら暴力団を取り締まればいいのでは。「暴力団」という名の組織を公式に認可する。昔から不思議。」「昔学生で札幌にいた時、怪我した暴力団の若者を部屋に泊めたことがある。とてもいい人だった。でも先輩と先生に怒られた。公安と暴力団が皆お友達。差別しながら公式認可。差別をやめるか、取り締まるか。メイカクにしないから皆メイワク。」とのつぶやきが流れてきた。

暴力団を取り締まるのは当然だが、人として関わっては駄目なのだろうか。怪我をして困っている人であってもまず素性を聞けということになる。医療関係者であっても暴力団員に関わってはいけないのだろうか 。暴力団員だから差別をして良いのかとか、差別することで余計団結し先鋭的になるのではないかとか、そこでしか生きられない事情というのはあるのだろうかとかとか、考えても良く分からない。長年のしがらみも絡まり根が深そうである。私には分からないが、やはり人として、怪我をしている場合放置は出来ないだろう。

そこで、ここ数日来頭を占めているヴァンパイアの話になるのだが、様々な恐ろしいシーンを超えて、人に考えさせる問がある。人を殺して生き血を吸うしか生きる道がないという少女の、いじめた少年を頭の中で何度も突き刺して殺した少年とどのように違いがあるのかという問いに答えられない私がいる。単に少女に死ねと言えばいいのだろうか。 ここなのだ。この問があるから、この映画はいくつもの賞を受賞したのだろう。

人を殺してはならない。一番の基本だ。だが、生きるためには他の命を食べなければならない。牛を、豚を、鶏を。そのため菜食主義になる人たちもいる。では植物は命ではないのか?あらゆる人が、生物が、自分が生きるために何かを犠牲にしている。原罪とはこういうことなのだろうか。だから、この映画を思い出したくなかったのかもしれない。しかし、私に出来ることはといえば、ありがとう、戴きますと感謝して、死ぬまで生きるしかない。他の犠牲の上に立つ命だから粗末に扱ってはいけないということになるのかもしれない。自分の命も他者の命も。

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