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かなり前のことだ。腎臓を患った人が渡米し、腎臓移植を終えて無事帰国し、社会復帰を果たすまで、一連の文書や手続を、マニュアルまで含めて翻訳したことがある。人工透析をしながら会社勤めをしていたが移植しかもう道が残されていない人だった。多分、最初に依頼されてから、最後の訳文を送るまで、4、5年くらいかかったかと思う。

私自身は生体移植も脳死からの移植にも反対の立場を取っているが、その頃もかなり懐疑的だった。しかし、これは自分の身についてのことだし、自分の考えに過ぎないので、もちろん、ご本人にはそんなことはかけらも言わなかったし、彼の大変さが分かるので仕事とはいえ料金も取りづらく、短いものは無料で、長いものは通常の半分に引き下げて引き受けた。

病弱な身で渡米し、検査を受け、何年も自分の順番が来るのを待ち続け、いよいよ順番が近づいた時には、再度渡米して半年ほども彼の腎臓が出てくるのをまだかまだかと待つ。金銭的な負担も大変だが、精神的な負担も大きい。

それは誰かが死ぬのを待つことでもある。彼が再び腎臓を与えられ、幸せになるためには誰かの不幸を待たねばならない。誰かの死、その人の周辺の涙を待たねばならない。そうまでして生きながらえる意味は何だろう。そうまでして生きて、他の人の不幸と引き換えに得た命をどう使うのだろう。他人の命を正当化できるほどの善いことを世の中に与えられるのだろうか。私ならその重みに耐えられない。

待っている間は夢があり、希望があり、腎臓さえ手にすればすべてが上手くいくと思えるだろう。腎臓を手にすることだけが目標なのだから、他のことを考える余裕はないだろう。腎臓移植が無事に終わって帰国して、職場復帰を果たしたという手紙を戴いたのが最後だから今どうなさっているのかまったく分からないが、人の死を願ったことを辛く思っているのではないかと実は気に懸かる。臓器移植の問題はこの点にもあるのではないかと思えるのだ。

貧しい国の貧しい人たちが臓器のために売られ、誘拐されるというグロテスクな話もある提供側の問題だけではなく、移植を受ける側の心の問題も大きいのではないだろうか。人間は単なるパーツではなく、心を持っているのだから。

移植は反対、プラスチックや再生技術でまかなえる範囲に制限するというのが私の提案だ。五号館のつぶやきさんの「移植臓器の売買はどうしていけないのか」に対し、別の視点から気になっていたことを書いてみたのだが、どうだろうか。

Dr Blue医療の本質という記事を紹介しようとして長くなってしまった。治療する側のこういう素晴らしい気持ちをありがたいと思う。医療の現場から心が失われていないことが嬉しい。

なぜか?なぜ明日死ぬかもしれない少女のケアのために、多くの時間とエネルギーとコストを消費するのか?
「それは、明日は希望を意味するからだ。明日という日は、喜びと驚きに満ちた日となるかもしれないからだ。明日になれば、ディズニーワールドに行くことができるかもしれない。明日ということが意味するのは、クリスマスや、誕生日のパーティや、久しぶりのフライドポテトや、縫いぐるみの熊を抱きしめることや、部屋中を明るくする恥ずかしいそうなほほ笑みであるかもしれないからだ。明日という日は、短いけれども貴重な一生の、また新しい一日となりうるのだ。明日という日にどれだけの価値があるかということを、われわれはどうしたら確かめることができるだろうか?」

 先天性HIVで亡くなった少女の主治医の手記 医者が心をひらくとき(医学書院) より