シンクラブ脳死・臓器移植と「正しさ」(1)

「正しさ」を求めるものは、有機的統合説やら歴史伝統や
らに訴えて一方を切り捨てる前に、まずその必死の思いに
たじろぐべきなのだと思う。

他人の痛みを感じることができない者は「正しさ」につい
て考えることができない

うーん、愛読者である私が「おろかものの『正義論』」の著者である小林さんに盾つくのはとっても気が進まないし、太刀打ちできるはずもないのだが、なんか気に入らない。考えることのプロの小林さんが考えることを途中で投げてしまったかような印象を受けてしまった。私の体調のせいかもしれない。(1)とあるので、この続編が読めるかもしれないと期待してしまうのだが、それは私の甘えであり、申し訳ないので、as you like itと言っておこう。

しかし、正直に言わせて貰う。他人の痛みを本当に感じることなどできない。胸が痛くなり、一緒に泣くことはできても、代わってやることはできない。痛みも悲しみも自分で引き受けるしかない。それをどんなに親しくても、たとえ、親や子であっても横で見守るしかない。痛みはその人個人のものだ。だから辛いのだ。考えることができないといわれても困ってしまう。

脳死や臓器移植が純粋に善意のやりとりであったときにはことは単純だった。善意と自分で信じることを、与え、受け取り、仲介する。それだけで完結していた。しかし、りんごの味を知ってしまったのだ。人間の体が金になり、パーツとなり、売買が成立するようになり、大きな産業へと育ってしまった。金持ちが、先進国が、貧しいものの内蔵を買うなんてことは許してはいけない。そのようなことがあり得るというだけで許してはいけないと思うのは単純すぎるだろうか。

正しさって何だろう。どんなに痛みが分かっても、どんなに辛いか分かっていても、それを堪えるのが正しさじゃないのだろうか。どんなに苦くても飲まなくてはいけない薬があるように、どんなに辛くても命は有限だという事実を飲み下さなくてはならないのではないか。

私には分からないことだらけが、一つだけ、人の命はその人のものであり、その人固有のものであり、金に換えて奪うことは、正しくないとはっきり思う。また、どんなに善意から出たことであっても、それが結局は健康な人の命を奪ったり、縮めることにつながるのであれば、それは正しいことではない、と私は思うのだが。そこに生まれる嫉妬や憎しみを想像すると怖くなる。そういう社会が幸せな社会だとは思えない。

三余亭さんが『医療・生命と倫理・社会』 (オンライン版)Vol.4 No.1/2 2005年3月20日刊行http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ4/に再開された臓器売買をめぐる論争http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ4/kurose.pdfという哲学・倫理学がご専門の黒瀬勉氏による論文を紹介なさっています。

臓器移植の有効性そのものも明確ではなくビジネスとして臓器移植を推進しようとしているのではないかと疑心暗鬼なのだが、この論文では生体移植で自分の腎臓を売った側のその後についての調査もあり、この論文を読んで反対の意思がいっそう強くなった。結局ここでも、女、子供が提供側であり、受け手は男という力関係がはっきり見られるようである。いつまでこんなことが続くのだろうか。