ブログの記事は出来るだけ嬉しいことや楽しいことで埋めたいのだがなかなかそうはいかないねえ。

老人病院で熱中症と思われる症状で計5人の方が亡くなった。

テレビのインタビューで院長は患者についてもその症状についても答えられず、今年の異常な高温の中でエアコンが故障した病室に放置し死なせたとして非難を浴びている。

10年前だったら、恐らく私も何というひどいことをする病院だろう、患者をなんだと思っているのだろうと非難し、院長や病院にひどく腹を立てていただろう。

しかし、両親が何回か入退院を繰り返し、知人を老人病院に何度か見舞いに行き、内情を知った今、無邪気に非難することは出来なくなった。

いわゆる老人病院と呼ばれるのは死期を迎えた高齢者を収容している終末期の病院である。一般的な病院とは異なる異様な雰囲気がある。勿論、どこもちゃんと掃除はなされているし、消毒薬の臭いもするが、古い病院が多く、総じて薄暗く、古びていて、かすかに糞尿の臭いも混ざっていることも。

もはや自宅で看取ることは難しいので殆どの人が急性疾患や事故ではない限り、老人病院で最後を迎えることになる。母の施設の隣には同じ系列の老人病院があり、看取りまで行うので安心して下さいと言われて、実にありがたく、またそうするしかないのだが、施設の往復に地震の際には倒壊すると思えるその古びた病院の前を通るたび複雑な気持ちになる。

設備の整った高度な先端病院は一般の老衰の進んだ高齢者には関係のないものとなっている。90歳や100歳の高齢者には事実上、高度な治療はほとんど必要ない。また体がもたない。高度な治療はこの先も生きて社会に貢献できる人のものだ。

寝たきりで意思を表すことも出来ず、ただ死を待っている人にとって点滴などで苦痛を和らげることは不可欠だが、その苦痛を長引かせることは拷問でしかないだろうか。それでも人は生きることを望むだろうか。

自然な死を望んでいた知人が、彼女の意志とは反対に、食事を取らなくなり衰弱すると老人ホームから老人病院に移され、そして親類の手によって可哀想と高度な治療を施す病院に移送され、あと数日で死ぬところだったと胃瘻が作られ、ホームに戻されその後1年間、寝たきりで、声も出せず、意識が混濁したまま、管からの栄養でただ生かされた。思い出す度に胸が痛む。

今回の老人病院の院長は死に慣れすぎていた。感覚が鈍磨していた。尊厳を持って老人一人一人に接していたとはとても思えない。しかし、それを厳しく責めることは私には出来ない。人生100歳時代で、ますます高齢者が増え、つまり死者も当然増える。見ないふりは出来ない。誰かに最期を看取って貰わねばならない。ほどなく亡くなると分かっている人たちを多数看取ることは精神的に実にきつい仕事だと思える。神経を鈍麻させなくてはやっていけないということなのではないか。また意志に反して生かされていた人にとっては死は恵みとも思えるかもしれない。

法令を整備して、ある年齢以上に達した高齢者に安楽死を認めることを、勿論、事前の自身による表明がある場合に限ってだが、そろそろ検討すべき時期がきたように思えるのだが。