野戦病院での献身的な介護から「白衣の天使」とあだ名され、世界中で尊敬の対象となったナイチンゲール。

そんな彼女に科学者、しかも「戦闘的」で「異端的」で「革命的」な「統計学者」としての顔があったことを、皆さんはご存知でしょうか。

フローレンス・ナイチンゲールは1820年にイギリスの裕福なジェントリー(新興富裕層)の家に生まれました。

ナイチンゲールの両親は大変教育熱心で、女性は大学に入れないばかりか初等教育さえ受けれないのが普通であった時代に、私費を投じて膨大な教育を子供たちに施しました。

外国語(フランス語、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語)、哲学、数学、天文学、経済学、歴史学、美術、音楽、修辞法、文学、心理学…などなど

ギリシャ語ラテン語などの古典教育から、当時新しい学問だった心理学まで、ありとあらゆる教育を施した、といっても過言ではないでしょう。


これがどのくらい特別なことなのかというと、例えば1843年の統計では49%の女子は自分の名前を書くことがでいませんでした。そんな時代にナイチンゲールは男性の学者と肩を並べるほどの学識を若くして持っていたのです。


当然、モテません。

「男というものは、一般には、食卓の上で御馳走にありつける方が、自分の妻がギリシア語を話すことよりも喜ぶものだ」

などと男たちがうそぶいていた時代です。

当時の結婚適齢期は18歳~20歳くらい。しかしナイチンゲールは20を越えても学問をしたり旅行をしたりと、一向に結婚する気配がありません。しかもあろうことかロンドンの病院に(しかも無給で!)就職してしまいました。

上流階級の女性の就職が白眼視されていた時代のことです。当然、母や姉は大反対。「今すぐ実家に帰れ!あと見合いしろ!」と詰めよりますが、ナイチンゲールは従いません。なんとか理解のある父のおかげで就職を許されますが、母と姉との関係は一時的に冷えきったものになってしまいました。

このロンドンの病院でナイチンゲールは医療看護の専門家とし活動を始めます。


その後、婦人病院院長にまで出世したナイチンゲールに転機が訪れます。英仏土露あわせて300万もの兵士がぶつかった19世紀有数の大戦争、クリミア戦争です。

新聞で後方の負傷兵が悲惨な状況にあることを知ると、34歳のナイチンゲールは自らも従軍看護婦として戦地に向かうことを決意します。シスター、職業看護婦合計38人を引き連れて後方のスクタリ基地に赴いたナイチンゲールでしたが、そこで目にしたのは地獄のような光景でした。


不衛生なベッド、腐りかけた食事、つまった下水、あふれかえるトイレ…
野戦病院の敷地内には、馬や牛の死体まで転がっていました。

しかも軍医たちは衛生観念が低く、官僚的な縦割り行政に慣れきっており、ナイチンゲールたち看護婦団の従軍まで拒否するありさまです。


婦人病院委員長として医療現場の改革に取り組んでいたナイチンゲールは、まもなく死人が出るのは兵士が戦場で受けた傷ではなく、不衛生な環境により蔓延る感染症のせいだということに気づきました。

ここからナイチンゲールの奮闘が始まります。

手押し車250台ぶんもの汚物を処分し、汚れきったシーツを全て洗濯し、下水のつまりを直し、定期的な換気で空気の状態を良くし、腐っていない材料によるまともな食事を提供し、徹底的に病院の環境改善に努めます。

その結果、1855年の2月には収容された兵士の43%が死亡していたものが、同6月にはわずか2%にまで劇的に低下したのです。

このナイチンゲールの活躍が「タイム」紙によって報じられ、彼女は一躍英国の英雄となります。

当時の「タイム」紙から一部を抜粋しましょう。

危険極まりない病気にかかり、困難が目前に迫るとき、そこにはいつも比類なきこの女性の姿がある。慈悲深い彼女がいるだけで、今まさに息絶えんとする苦闘のさなかにも安らぎがもたらされる。病院のなかで彼女が「救いの天使」と呼ばれていることには何の誇張もなく、すらりとした姿が通路を行くのを見ると、誰もがよろこびに顔を和らげる。

この「救いの天使」のイメージが日本の伝記などでとりあげられ、「困難な患者によりそう白衣の天使 」のナイチンゲール像が作られたのだと思います。確かにそれは事実です。しかし、彼女の本当の活躍はクリミア戦争が終わったあとに始まります。


帰国後、看護婦として、医療改革者として、ナイチンゲールの人気は大変なものでした。

しかしそんなナイチンゲールの活躍を快く思わない者達も表れます。
それは彼女によって助けられたはずの陸軍の高官、特に軍医たちでした。

彼らにしてみればナイチンゲールが活躍したということは、それだけ自分たちが劣悪な環境を放置していたということに繋がります。それゆえ、「戦死率の低下はナイチンゲールによる衛生環境改善のおかげでとは限らない」「気候の変化など、他にも考慮すべき要因がある」という論陣を張ったのです。


陸軍高官たちの無責任な論調に、ナイチンゲールは怒りを爆発させます。上記のように、彼女が現地で必死の介護に身を削っているとき、彼らは単に役に立たないばかりか彼女たち看護団の妨害ばかりしていました。彼らは戦時中も、戦争が終わったあとも自分たちの非を認めず、あろうことかナイチンゲールを非難するとは!


しかし幸いナイチンゲールは単なる看護婦ではなく、数学を含む本格的な教育を受けた科学者としての面も持っていました。彼女は陸軍に反論するため、自分で記録したものを含むさまざまな資料を用い、イギリス初となる医療統計を作成します。

結果は明らかで、しかも衝撃的なものした。

例えば軽傷を負った後戦場に残った兵士の死亡率が2.7%だったのに対し、スクタリ病院に搬送された兵士の死亡率は42.7%でした。彼女が赴任したあとのスクタリ病院の死亡率が2%にまで低下することを考えると、軍上層部の衛生環境に対する無知が多くの兵士を死なせたのは明らかです。


ナイチンゲールはこれらの統計データを元に陸軍に反論し、また陸軍の衛生問題を解決するため王立調査委員会を設立すべきだと主張しました。彼女の主張は受け入れられ調査委員会が発足したあとも彼女は歩みを緩めず、衛生環境の改善が兵士の死亡率に関係する、という主張を裏付けるための何百ページもの書類を各委員会や政治家に提出します。


ナイチンゲールの厳密な科学的調査、また調査によって明らかになった結果を巧みなグラフを用いて説明するやり方は英国の世論を変え、陸軍病院改革が行われ、陸軍医学校が新たに設立され、イギリス全国の病院で衛生環境の改善が行われました。ナイチンゲールがイギリスの医療を変えたのです。


今一度強調しますが、当時は女性の社会的地位は極めて低く、外に出て働くことすら白眼視されるのが当たり前の時代でした。

また「看護婦」という職業の身分も低く、医療の専門家ではなく単なる雑用係として扱われ、給与も低く、まともな教育も施されないのが普通でした。

しかも女性が学校に行けない時代でしたので、彼女には学歴もなく、またジェントリーという新興富裕層(いわゆる成金)ゆえ、家柄の権威もありません。


そんな八方ふさがりの状況で、「統計」という科学的真実と、己の情熱のみを頼りに、19世紀ヴィクトリア朝のイギリスという極めて封建的な社会の、さらに封建的で保守的な軍という組織を変えたのがナイチンゲールだったのです。


ナイチンゲールの物語は私たちに様々なことを教えてくれると思います。

まずひとつに教育の大切さです。

当時「女性は家で家事をやっていればいい」というのがイギリス社会の常識でした。また富裕層以外の男性も「単純労働さえできればよい」として高度な教育は施されませんでした。イギリスで5年間の初等義務教育が始まったのがナイチンゲールが生まれて50年後の1870年です。

しかし、教育は学識と良心ある人間を生み出します。それは男だろうが女だろうが、金持ちだろうが貧乏人だろうが、白人だろうがアジア人だろうが、あらゆる人間にとって変わりません。全ての人間が教育によって社会を良くするための力を身につけることができるのです。

もしナイチンゲールが存在しなかったら、イギリスから始まった医療・衛生改革がアメリカや他のヨーロッパ諸国に広がることもなかったでしょう。人類の衛生観念は今と違った形になっていたかもしれません。


そしてもうひとつ、科学の威力です。

ナイチンゲールは正規の教育を受けておらず、しかも女性という「被差別階級」の人間でした。しかし、彼女が誰であろうと、その主張の正しさは科学的根拠に基づいて主張すれば必ず「正しい」と証明できるのです。

反主流派でも、異端者でも、主流派を、世界を変えることが出来る。それが科学の力です。ナイチンゲールはまさに「異端的科学者」の典型だと思います。

あらゆるイノベーションは異端から始まります。その「異端」の知を世界に広げるのが、統計学や実験などの科学の方法論なのです。


「教育」そして「科学」、これらの重要性は現在ますます高まっています。
ナイチンゲールの逸話から、私たちが学ぶことはまだまだ多そうです。