2006年06月26日

蓑田胸喜について

 蓑田胸喜という人がいた。普通の法大生は知らないだろうと思われるくらいにマイナーだと思う。慶応の入学試験にすら出ないだろう。実は僕も昨日知った。たまたま図書館で見つけた山田宗睦『昭和の精神史』という本に、蓑田胸喜の紹介が九ページばかり割かれていた。家に帰ってインターネットで検索してみたところ、八十八件ヒット。その中でも比較的詳細に紹介されているページがあったので、そこも読んだ。僕が蓑田胸喜という人物に関して調べたソースはそれだけである。無論、一応ながらも昭和初期の著名人であった蓑田胸喜に関する資料は幾つかあるようだ。しかし、それらの資料はあまり簡単に見つかりそうもない。一九七五年初版の『昭和の精神史』にさえ、「蓑田胸喜という名は、すでに忘却されている」と書かれている蓑田胸喜。読者を楽しませるつもりも、学問的探求をするつもりもなく、僕は多少いい加減にこの蓑田胸喜という人物を簡単に紹介したい。
 蓑田胸喜(みのだ むねき)。明治二十七年生まれ。戦前・戦中に活躍した国家主義的学者である、といえば聞こえはまだマシかもしれないが、実際に学問的な方面での成果はあまり書かれていない。蓑田胸喜の特徴は、一言で言えば、右翼。あるいはもっと露骨に、反動、とまで言ってしまってもよいのかもしれない。
 しかし、蓑田胸喜を紹介するには、蓑田の青年期以降の時代状況を多少述べておく必要があるだろう。
 大正期のデモクラシー思想は、吉野作造や美濃部達吉によって唱導されたが、一方で保守的なメンバーも存在した。上杉慎吉がそれである。大雑把に分類するとすれば、吉野作造の東大新人会が自由主義で、上杉慎吉の興国同志会が右翼だと言える(「右翼」の定義は敢えて控える)。その興国同志会のメンバーの中に、蓑田胸喜の名がある。一九二〇年、上杉慎吉と興国同志会が策動して森戸筆禍事件を起こしたが、それに対する学内からの批判が強まり、興国同志会は自然消滅した。
 また、蓑田には上杉慎吉との繋がりのほか、三井甲之という歌人との繋がりもあった。三井甲之は、短歌自体はさほど評価されなかったが、大正時代に入ってからの国粋主義の方面で有力になっていった人物である。『明治天皇御集』の拝誦を提唱した「人生と表現社」は、そののち国粋主義的なメンバーを集めて、一九二五年に「原理日本社」となり、機関誌『原理日本』を創刊。名前からしても日本の右翼だという感じがする団体である。そのスローガンは「国体明徴、教学刷新」「全国民と祖国永久生命とのために」「知識は世界に情意は祖国に」「凝固革命思想対不断学術思想」「日本には政治革命あるべからず。あらざらしめんがための学術改革」などであり、組織として検察・文部官僚・貴族院反動派及び軍部にまで繋がりを持つくらいの、「思想憲兵」となる。蓑田は、その中心人物であった。
 『原理日本』は、大正デモクラシーに対して、軍部の台頭以前から独自に批判を与えていた。これは、大正デモクラシーへの天皇制的批判であると同時に、東大新人会を中心とした学生運動への批判でもあった。
 蓑田は慶応大学予科で論理学の教鞭を取っていたが、その論理学よりも、マルクス・レーニン主義を徹底的に批判し、国体明徴を唱えることを主としていたという。また、試験では明治天皇御製の短歌を三首書けば及第点を与えたともいう。
 そんな蓑田は、自由主義とマルクス主義を次々に切っていった。それが大きな事件として現れたのが、滝川事件と天皇機関説問題である。
 滝川事件の発端には、蓑田胸喜の個人的な恨みも含まれるという。一九二九年、蓑田胸喜が京都大学で講演を行った。当時の講演部長だった滝川幸辰は、蓑田胸喜が札付きの右翼だということを聞いていたため許可の印を押さなかったが、すでに依頼してあり断るわけにもいかないということで蓑田胸喜の講演は行われた。そこで、蓑田胸喜は河上肇訳の『資本論』を取り上げ、これは誤訳だらけであると攻撃した。しかし学生たちはそれに反発し、蓑田胸喜は壇上で立往生してしまった。更に、講演後の質問でも蓑田胸喜は学生たちにこっぴどくやっつけられ、彼は逃げるように去っていったという。この講演に講演部長であった滝川も出席していたにもかかわらず、学生たちを制止しなかったため、蓑田が滝川を逆恨みして、のちの滝川事件に繋がったという説もある。
 当時、日本共産党は結成当初から検挙によって衰退の道をたどり、国粋主義や軍部といったものが台頭していく時代だった。滝川事件は、京大法学部滝川幸辰の休職処分をめぐって、文部省と京大とのあいだに発生した抗争である。一九三三年初めの議会で、前年の司法官赤化事件の根源は帝大法学部の「赤化教授」にあるとする右翼議員の攻撃に端を発する。これには、蓑田が政府や文部省に対して再三「赤化教授」を批判する手紙を送ったことも影響している。文部大臣鳩山一郎は京大に対し、滝川教授の著書や講演が共産主義的だとして総長を通して辞職を要求し、京大総長以下京大の教授・学生の反対を押し切って滝川教授に休職処分を発令した。法学部全教官は、処分は学問の自由と大学の自治を侵すものとして抗議のため辞表を提出、東大ほか各官・私大の学生も抗議運動に立ち、大学自由擁護同盟を結成した。しかし文部省は強硬で、学生側の敗北に終わった。この滝川事件は戦前に於いて学問の自由が侵される事態を端的に表したものである。ただ、学生たちは反マルクス主義学生も含めて京大教授会を支持したにもかかわらず、美濃部達吉たちの東大法学部教授会は中立の立場を守った。しかしこののち、天皇機関説問題に際して、滝川事件の事態は美濃部たちにも降りかかってくる。学問の自由は侵害され、軍国主義へと日本は歩んでいった、と言われる。
 蓑田は自分の論敵に対し、噛み付き、攻撃していった。特に、論敵に対して、政府や軍部側との繋がりを利用して敵への圧力をかけていく人物だったことで恐れられている。「思想犯」を作り出すことのできる時代はそれを許していた。ただ、蓑田の論は、理論としてはあまり相手にされなかったようである。
 戦前はマルクス主義や自由主義を攻撃し、戦争への道の一端を担ったとも言える蓑田だが、太平洋戦争が始まる頃にはなりをひそめることとなる。広い意味で現状の反対のためにこそ言葉はあると僕は考えているので、自分の時代が体現された思想家は、さほど言葉を発する必要はなくなるのかもしれない。
 戦争が終結し、自分の時代を失った蓑田胸喜は、精神に異常をきたし、熊本の田舎で首を吊って死んだという。

 一応ここまで書いてきて補足だけしておくが、僕は別に軍国主義を無条件に悪だと思っているわけでも、学問の自由の侵害を悪だと思っているわけでもない(無論「軍国主義万歳!」とも「学問を規制せよ! 治安維持法復活!」とも思わないが)。ついでに言えば、天皇もどちらかというと好きなほうである。この文章はなんらかのプロパガンダを目的として書いたわけではないことは、とりあえず表明しておく必要があると思う。ただ、蓑田胸喜という右翼的な人物がいたらしいということがわかってもらえれば、それで充分である。

gaspard_de_la_nuit at 01:36│Comments(0)TrackBack(0) 昔書いた文章の再録編 

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