2007年01月28日

天才ニーチェ

 ニーチェはいちおう道徳の攻撃者ということになっているが、近年ではニーチェの倫理学を再構成する試みが、英米哲学界では1つの潮流になっている。ニーチェは既存の道徳を攻撃したが、ニーチェには、彼なりの道徳があったのだということを論じる本が増えてきた。20世紀後半の英米道徳哲学界で最も重要な1人とされるバーナード・ウィリアムズも、「できれば一行ごとにニーチェを引用したい」というほど、ニーチェの強い影響を受けていることからも、ニーチェは道徳の破壊者というレッテルはもはや過去の遺物になりつつある。


 近年、理性(意識)→道徳的判断→意図→意志→行為という図式が崩れ始めていることを、認知科学を中心に見てきた。意識的認知が届かない領域で、私たちは無意識的に行為を決定しているらしいということがわかっている。そして私は、もはや従来の道徳哲学が前提としてきた意識→意図→意志→行為の図式によっては、道徳性を考えることができないことを指摘したつもりだ。この省察は、私のオリジナルではない。じつは120年以上も前に、当時全く無名の病人が孤独の中でメモに書き留めていたことなのである。


 1880年代のスイスで、この病人は療養生活を送っていた。本人の手紙に寄れば、「死に取り巻かれた」毎日を送っていたようだ。頭痛と目の激しい痛み、絶え間なく続く嘔吐、喋ることさえできない麻痺状態、激しい発作。本を読むこともできず、誰にも会うこともできず、症状が少し和らぐと孤独に散歩する毎日。その散歩の途中、考えが頭に浮かぶのだが、寄宿所に帰り、メモに書き留める。激しい頭痛が始まるのは、その時だ。苦痛と発作の中で走り書きするので、ガストいう親友だけにしか読めない。1889年1月7日、今年冬のオリンピックが開催されたトリノの路上で、この病人はついに発狂する。1900年8月25日享年55歳で死去。死後残された膨大なメモを編集する作業が始まり、この人の手書きを解読できる友人ガストが協力して後に、『力への意志』という書名で出版された。


 実はこの人がニーチェである。本も読めず、考えると痛みに襲われたながら書き残した1つのメモに、こんな事が記してある。


  「意志の不自由か自由か? 「意志」というものはない。これは「物質」と同じ く、悟性が単純化するために構想したものにすぎない。すべての行為は、それが意 欲される以前に、可能なものとしてまず機械的に準備されていなければならない。 ないしは、「目的」は、たいてい、その遂行の準備がととのえられたときにはじめ て思い浮かぶ(権力への意志)」。


 100年後のリベットの実験結果を思い出して欲しい。行為が意識される0.35秒前に、脳は機械的に運動を準備しているという、あの実験結果である。リベットのチームは実験のために、頭蓋骨を切開した患者の脳に、最新の実験装置を連結させ、それでようやく結果を得たのである。発作と苦痛で字もまともに書けなかったニーチェは、頭蓋骨を切開した被験者もなく、実験装置もなく、いったいどうやって運動準備電位を考えついたのか?

 次にこんなメモはどうだろう。


  「窒息せんばかりの感情をともなって血液がひんぱんに頭脳へと流入すると、そ れが「怒り」と解釈される(権力への意志)」。


 情動二要因論の「つり橋の実験(1974年)」を思い出していただきたい。ある生理的興奮が、無自覚的認知過程においてレベルが張られ、それを「感情」として解釈する心理メカニズムの実験のことだ。認知科学界で話題になったこの実験結果を、孤独な病床でニーチェはどうやって思いついたのか?

 ついでにもう1つ。1886年に脱稿した『善悪の彼岸』から。


  「われこれをなしたり。わが記憶はかくいう。われこれをなせしことなし。わが 矜持はかくいい、いって曲げぬ。このとき、ついに譲るは記憶である」。


 認知的不協和理論の「1ドルの報酬(1959年)」を思い出していただきたい。秀才学者たちが実験をしてようやく確認したことを、実験なしでニーチェはどうやって知ったのだろうか。心理学や神経生理学に詳しい方は、『権力への意志』を一度お読みいただきたい。ここで紹介したのは序の口で、卓見が山のように隠されている。現在の脳科学が、最も謎としている「哲学的ゾンビの問題」についても、ニーチェはすでに考えて彼なりの答えを出しているのである(この問題については暇があるとき紹介する)。ニーチェはまちがいなく「意識の科学」の天才である。どういうわけか、ニーチェ研究者の間では、ニーチェの「意識論」が取り上げられていないようで、英米のニーチェ学会の学会誌ものぞいてみたが、あまり扱っていなかった。ニーチェの専門家は認知科学に関心がなく、認知科学者はニーチェの哲学に関心がない、つまり専門外のことには興味がないのだろう。面白い研究テーマなのに・・・。

gayscience at 23:56│Comments(0)clip!目新しい倫理学 

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔