2007年02月19日

宗教は、超倫理的である限り肯定される

 さて、福音書の次の物語は、マルコによる福音書14章3節である。イエスがある家にいると、女が高価な香油を足に注いだ。現在のお金で、三百万ほどしたシャネルも真っ青な香油だった。すると、イエスの弟子たちは、「もったいない。これを換金して、そのお金を貧しい人たちに寄付した方がよかったのに・・」と厳しく女を咎めた。イエスは、ここでも、女の側に立たれた。


 香油をお金に換えて、貧しい人に施す選択は、倫理的に正しい。弟子たちは、倫理的に正しい。少なくとも、功利主義的に正しい。最大多数の、最大幸福の原則からすれば、イエスの足に注ぐなど、浪費である。しかし、それではなぜ、イエスは、女を弁護されたのか? それは、女の浪費が、愛より為されたからだ。


 弟子たちの倫理的判断は、「なぜならば・・」の判断である。女の浪費は、なぜ倫理的に誤っているのか? 「なぜならば」、換金して、そのお金を貧しい人に寄付した方が、貧困救済という倫理に効果的だからである。しかし、女の方には、「なぜならば・・」と正当化できる理由が存在しない。 こんな浪費に、正当化できる理由などあるわけない。真実の愛は、常に「なぜならば」を超えたところで生まれるから・・。


 ティリッヒは、この女の愛を、「聖なる浪費」と呼んだ。聖なる浪費は、善悪の秤を超えている。溢れる心の豊かさから流れ出す、愛の贈与である。私たちは、聖なる浪費によって、今まで生かされてきたのではないだろうか? 母親の献身、親友の無条件の信頼・・・、私たちが本当の意味で頼りにできる愛は、「なぜならば・・」という理由づけを探す打算を超えている。すべての献身的な愛は、倫理的合理性から見れば、浪費である。歴史上の偉人は、すべて惜しみなく自分の人生を献げる「浪費」によって、偉大なのだ。この浪費によって、人類が生かされてきた。


 紹介した福音書の2つの物語に共通しているのは、あふれ出る愛である。ニーチェの箴言は、最良の注解となるだろう。


 「愛よりなされたことは、つねに善悪の彼岸に起こる(『道徳の彼岸』)」


 倫理的観点からすれば、ファリサイ派のシモンも、イエスの弟子たちも、何の落ち度もない。彼らは正しい。しかし、イエスの視点からすれば、彼らが倫理的正しさの範囲にのみ留まって、それを超える豊かさに達していないことが、責められているのである。


 同性愛の罪で、投獄されたオスカー・ワイルドは、ギリシャ語原典で福音書を読むことを日々の楽しみとしていた。栄誉の絶頂から恥辱のどん底に落ちたワイルドが、こんなことを手紙に記している。イエスは、「罪と悩みをそれ自ら美しい聖なるものであり、完成の様式と見ていた」。なぜか? それは、多く赦された者は、多く愛するから・・。


 ニーチェが云うように、愛はつねに善悪の彼岸に起きる。愛は、善悪の帳簿を超えている。道徳的な次元では、シモンも弟子たちも罪はない。しかし、彼らが道徳的次元にのみ閉じこもった点に、彼らの宗教的罪があるのである。「なぜならば」によってのみ判断する者は、善悪の彼岸を超えることがない。したがって、赦されることが少なく、愛することも少ない。道徳的判断は合理的である。しかし、聖なる浪費がない。


 だからといって、イエスは倫理性を否定しているのではない。逆に、「私が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである(マタイ5:17)」と云っている。イエスは、倫理性を肯定しつつ、それを超えて愛の浪費に達せよと呼びかけているのだ。倫理的人間は、倫理性の中に頑固に留まる限り、貧困な生である。ワイルドは、「私は法則のために作られた人間ではなくして、例外のために作られた人間の一人である」と書いている。宗教は倫理の本質ではなく、倫理の彼岸である。倫理性なしに、人間性はない。しかし、倫理性にだけ留まる限り、貧困な生である。聖パウロは、「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」と云っている。倫理は、人間の最終ではなく、「恵み」に導くステップに過ぎない。


 つまり、倫理は人間の最終領域ではない。倫理だけに頑固に留まる限り、愛は少ない。愛は、善悪の彼岸に存在する(愛は倫理を否定しないが)。愛は、倫理を肯定しながら、しかしそれ以上である。生自体の本質が、聖なる浪費、溢れる豊かさを求めている。柄谷氏は、「宗教は、倫理的である限りにおいて肯定される」と喝破した。なるほど・・・。倫理性は、生の一部として正しい。しかし、それだけで終わる生は貧しい。


 ニーチェは、「神は善悪の彼岸にいる」と云ったが、「神」を「生」と翻訳すれば、生の本質は、倫理性を含みながら、同時に善悪の彼岸にあると云うべきだろう。生の無限の豊かさと浪費は、善悪の彼岸にある。それが、「愛」の別名でもあろう。宗教とは、倫理の本質ではなく、倫理の基礎であり、倫理を越えた地点にあるのである。生の豊かさは、倫理の枠には収まらないから。したがって、カントと柄谷氏に反して、宗教は、超倫理的である限り肯定される! というべきだろう。



gayscience at 00:53│Comments(0)clip!宗教的なこと 

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