2009年12月02日

太古から続き世界につながる些末な日常―――『海底八幡宮』

『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』 の感想文
この作品に限らず、わしの笙野頼子の読みなんて
いつもこんなで、
自分が理解できるところだけを切り出し
頭の中で再構築した「誤読」の塊みたいなもの。

と、書いた。

だいにっほんシリーズは、西洋哲学がわかっていないと理解しがたいのだよ。
そして、私はまったく(西洋に限らず)哲学がわからないので
開き直ったわけだが。

今回ご紹介するのは、『海底八幡宮』。
だいにっほんシリーズでは、ない。
金比羅シリーズ。

金比羅シリーズに関しては、↓こちらをご参照ください。
そして笙野頼子は“神”になった―――『金毘羅』
神の「恋愛」を「誤読」してみる―――『萌神分魂譜』

この2つのエントリーを読んでも、まったくわけがわからないでしょうが
気にしないでください。
書いた本人も、わかっていない。
金比羅シリーズを理解するには、日本の古代信仰をわかっていないとダメだと思うのだが
私は、こちらの分野においても西洋哲学同様、無知なので。

わからないなりにまとめると。

『金比羅』は天孫に対するカウンター神である自分に気付いた金比羅=作者の一代記。
『萌神分魂譜』は、自分の中の他者、圧倒的に自分でありながら絶対的に他者である「俺」との恋愛物語であった。
そして、今回は、古代の神にして“兄貴分”である亜知海(あちめ)との会話を通して日常を読み直す“私小説”だ。

って、このシリーズはある意味、みんな“私小説”なんだけどね。

詳しくは、↓ここを参照。
今週の本棚・本と人:『海底八幡宮』 著者・笙野頼子さん(毎日新聞)

よく、まとまっています。
だから、これを紹介したらもう、書くことがなくなっちゃう。。。

なんて、しおらしいことは、私は言わない。
これで、基本は抑えた。
あとは、遠慮なく「誤読」させていただく。


古代の神、亜知海は、ある日突然やってきた「天孫」にすべてを奪われる。
そして、深海に追いやられ、1500年。

では、天孫とはなんだ?
彼曰く、それは―――
 ところがそんな俺のお山様馬城峰に、いきなり天孫が降ったと言ってきた。信ずるはずもない。応神天皇が「本当の」主神だと誰がいい始めたか。ヤマトの三輪山から呼びもせぬのに来た、速攻ででっちあげた、ヤマトのインチキ巫者だ。
(29p)

そして天孫は「権力」そのものだが、彼の「権力」の定義とは―――
 
俺達にとり、権力と権力者は違うものなのだ。例えば権力がもし一秒でもまともであれば、その時権力は彼から離れている。つまり権力とは理不尽でおかしいから権力であるものなのだ。そんな権力とは空洞で自我が持てないから権力でいられるものなのだしまた、もしその権力がある実態を乗っ取るか寄生するかすれば、その後それは理不尽によって保たれるしかない。故に、その場に必然的に発生し連鎖するしかない理不尽の自動運動をも俺は権力と呼んでいるんだ。権力の特徴とは、故に、逃げうる事だ。無責任と繰り返しがそのポイントだ。
(32p)

この「権力」の定義によれば、
喧嘩を売られて、反論したらこちらが悪いことにされて、書き換え可能なブログでさんざん悪口を言われ、反論を書けば訴えると脅されて、と何年も続く「論争」相手である若手評論家(もう若手っていうのは苦しいんじゃねぇの? ヤツ。と思うが、まあ、「若手評論家」で固有名詞のようなものか)も
粘着し、嫌がらせの数々を繰り返す先輩女性作家も
立派に「権力」。

この「権力」が奪うものは、ありふれた、だからこそ一人一人違う大切な日常。


そしてこの感想文は、このあたりから徐々に、本から離れていくのだった。


「権力」は個々の事例を丁寧に追ったりしない。
漠然と、大きな何かを主張する。
「個」なんていう小さなものは、その大きなものの前では
取るに足らないもの、大同の前の小異。

「個人攻撃はよくないわ。“権力”が行っていることを非難するのと、“個人”がやっていることを攻撃するのは違うのよ。
私は、個人を攻撃するべきじゃないと思うの」
というお上品に落ち着き払った態度で
結局は「個」を相手にしない、「個」を抹殺する、「個」別論を避けた漠然とした批判をすることで「個」からの反論を封殺する。
そんな、「権力」。

自分から仕掛けた嫌がらせに相手が反論すると
言葉の意味を薄め、取り替え、都合のよい切り貼りを重ね
いつの間にやら被害と加害を入れ替える
そんな、「権力」。

それに相手が「個」別論を持ち出して再反論すると
権力に収奪されている「被差別者」側に逃げ込み、そこに自分を固定することで
反論を封殺する。
これも、「反権力」の仮面をかぶった「権力者」の常套手段。

「個」が大切にしている何かを
「それは、単なる○○に過ぎない」「そんなことよりも」と簡単に切って捨てる
そんな、「権力」。

「あーらまあたかが猫ごときでなんで泣きわめくわけ(って帝国ホテルのパーティでわざわざ側に来て言う大学教授がいるわけです)」、「もっと社会性を持てば、なぜたかがそんな事でなぜたかがなぜたかが」、ああああ、自分のたかがと他人のたかがその差の測定も文学だし違うたかがへの想像力、それが国際交流というもんである。んだのにですねえ。
(231p)


こうして「たかが」日常は、
亜知海1500年の恨み、
古代から続く大きな流れ、
海と陸、
すべてを飲み込んでつながっていく。


きっと、こんな文章が「漠然」と嫌いで
「個」別論ではなく、なんとなくけなしたくて
よくわからないが、こう言っておけば多分、当たるだろうと思って
「へ、じゃあ、おまえはどうなんだよ。
ブーメランだなw」
なんていっても、ムダ。
そんなことは百も承知、二百も痛んだ後だから。

亜知海は、言う。
カウンター神である金比羅にすら。

―――いいや、俺の目から見たらおまえなんかヌルヌル天孫だよ。


「権力」は空洞だから。
自分の言葉で考えることを捨てると、
その空っぽになった頭を乗っ取りにやってくる。

「権力」との闘いとは―――

「権力」に対する闘いであると同時に
自分が「権力」にならない闘いでもあるのだ。

と、思う。

gegenga at 23:38│Comments(0)TrackBack(0)こんな本を読んだ 

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