「お月山」については、陰陽石の割れ目から登る冬至の日の出、カシオペア座状に配置された「国界石」、その中心線延長上の北極星的「布衣頭塚」、といった暦や天文的要素を紹介してきましたが、さらにそれを補強するものが見つかりました。
冬至の日の出を拝む場所である「遥拝石」、その上面に陽刻状に1本の線が入っていることを以前にも紹介したことがあります。人工なのか自然なのか定かでありませんが、とにかく不自然であることは確かです。
以前もこの線について気になりコンパスで確認したところ、中途半端な方位を指していたので大した話題にもしませんでしたが、今回改めてこの方位について調べてみたところ、驚きの事実が明らかになりました。
方位磁針のN極が指す方向を磁北と呼びますが、実は、磁北は真北ではないのです。・・・エッ、そんなことは知っている?(・_・)
恥ずかしながら私、今回初めてそれを知ったわけです。f^_^;
このズレを「磁気偏角」といい、日本各地でおよそ3°~9°の差が出るそうです。そして、磁北点は年を経るごとに徐々にズレていっているとのこと。日本付近では西向きに磁北点が傾き、備後地方だとおよそ6°~7°の西偏角となるようです。
で、改めて先程の写真を見てみると…
これは驚きです!
遥拝石は冬至の日の出を拝むだけでなく、「天帝」である北極星を拝むことも意識して設定されていた?!
「再生の太陽」(冬至の日の出)と「宇宙の主宰神」(北極星)両方の力を受けられるスーパーパワースポット!(◎o◎)
この「遥拝石」の線については、今まで誰からも聞いたことがありません。地主のF様と一緒に巡った際にも、この石の上に立ちながら何も聞かされませんでした。
この線が人の手によって入れられたものだとして、いつ頃の仕業なのか、どうやって測り、どうやって加工したのか、そして何の為に・・・疑問が尽きません。
因みに、陰陽石の三日月像と弘法大師像は、大正4年に奈良原西講によって刻まれたものですが、「遥拝石」や「国界石」の位置設定はその時とは思えません。
というのは、地元の古老の方々は、「お月山」と言えば冬至のカボチャ汁・蕎麦の接待という話はされますが、冬至の日の出や「国界石」の配置、「布衣頭塚」との位置関係などについては知らなかったと言われます。
地主のF様も、磐座研究者から教えてもらったと話しておられました。
というのは、地元の古老の方々は、「お月山」と言えば冬至のカボチャ汁・蕎麦の接待という話はされますが、冬至の日の出や「国界石」の配置、「布衣頭塚」との位置関係などについては知らなかったと言われます。
地主のF様も、磐座研究者から教えてもらったと話しておられました。
大正期に陰陽石の彫刻を施した方々が天文的配置を意図されていたとすれば、その意味合いや謂われなどが次の世代に伝わっているはずで、私がお話を聞かせて頂いた方々は第2世代の方々ですから、そうした内容を全く知らないはずがないと思うのです。
ということは、もっと古い時代の遺跡と考えるべきでしょう。
ということは、もっと古い時代の遺跡と考えるべきでしょう。
「お月山」周辺、超ミステリアスです。
コメント
コメント一覧 (2)
地球規模ではプレートテクトニクス、北極と南極は7回以上入れ替わったとか。
明治時代、伊能忠敬の地図を調査する外国人技師一行は、あまりの高精度に10日で調査を止めたという逸話があります。日本の算学はあなどれません。
いつもながら博識であられますね。勉強になります。
弥生時代には大陸との行き来を、ほぼ狙い通りに出来ていたようなので、航海技術も相当高いレベルにあったのでしょうね。
現代の私達は機械に頼り過ぎて、人間の智慧を侮ってしまい、真実が見えなくなっているのかもしれません。