昨年刊行した『大東古墳群』に、測量図などを添えて掲載した「大東第2号古墳」。弥生墳丘墓の可能性が高いものの、遺物が確認できておらず、墳丘の全貌もつかめていない事など、謎が多いままでの掲載でした。
今年、墳丘の全体像をつかむため、ここも周囲を広く伐採整備してみました。
やはり第2号も、主墳丘から北側尾根に前方部様の地形が延びていました。
大東第1号と同様に、北から南に下りながら延びる尾根を溝で区切り、前方部様の地形が設けられ、その先に後円部様に主墳丘が造られているようです。
また、第2号には後円部?の南側にも人工的な平坦地があり、これも以前から気になっていました。
異様なほど平坦で、専門家の方々は後世の改変ではないかとのご見解でしたが、果たしてそうなのだろうかと疑問に思え、ここも周囲の雑木を伐採して状況を確認してみました。
(以下、平坦地を張出部?と表記)
伐採整備により、後円部?南裾の張出部?について分かったことは、
①高さ1m前後の台地状になっている
②張出部?は東西のラインがほぼ平行に延びている
③張出部?は後円部?の長径(あるいは長辺)に対して直交する
④南側の法面に葺石が施されている可能性がある
などが挙げられます。
また、全域をピンポールで刺して地中を確認してみたところ、興味深いことに、
・前方部? = 石が無い(盛土?)
・後円部? = 石だらけ(石積の墳丘?)
・張出部? = 石が無い(盛土?)
という状況。中央の後円部?は石だらけでピンポールが刺さらないのに対し、南北に延びる突出部はズボズボと楽に刺さり、全く石に当たることがありませんでした。何れも地山では考えられない状況ですので、全体が人工地形と見てまず間違いなさそうです。
南側の張出部?自体には石がほとんど無いにもかかわらず、その南側法面は石だらけであることからも、葺石であろうと想像します。
全体が墳丘である可能性が出てきたことから、後円部?に焦点を絞った昨年の測量図に、範囲を拡げて全体を追加測量しました。
※清書ではないので、現時点では低解像度で
かなり“いびつ”な地形になったので、無理に推定復元ラインを入れるのは避けました。
・後円部?は円形・楕円形・長方形など色々と考えられる
・後円部?に対して前方部?は西寄りに偏って交わる
・前方部?と張出部?は軸線がほぼ同じ
・前方部?長さ約15m+後円部?短径(短辺)約15m+張出部?長さ約10m=全長約40m
というような規模が想定できます。
ところで、測量図は上から見た平面図です。今回、以前お聞きした専門家の方のお話を思い起こさせられました。「弥生時代の人達は、上から見て墳丘を造っていません。普段の目線で見た時に格好良ければそれでいいんです。」
なるほど、そう考えれば測量図では“いびつ”に見える地形ですが、目線に写る地形は意外な程、整った前方後円様の地形に見えます。ここで第1号と第2号の写真を比べてみましょう。
いかがでしょうか?ウリふたつと言って良い程、似た地形に見えます。確かに、上から見ることを意識しなければ全く問題ない、整った墳丘と言えるのです。
平面図ではいびつでも、目線では整った墳形という点では、第2号は弥生墳丘墓の可能性が高いように思います。古墳時代の前方後円墳に、こんないびつな墳形はまずありません。
弥生土器と見られる土器片が確認された第1号、そして墳形的に弥生墳丘墓の可能性が高い第2号、どちらも尾根を利用した前方部様の突出部?があります。つまり、前方後円墳が成立する以前の弥生後期に、前方後円様の墳丘を造っていた可能性があるわけです。
これは想像するに、「前方部」の元は、尾根から主墳丘への参道であったものが、大和の平野部に古墳を築く際には土を盛らねばならず、尾根を利用していた参道が「前方部」という墳丘に発展していったのではないでしょうか。あくまで想像ですが…。
これが2つ目の発見です。
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