昨年刊行した『大東古墳群』に、測量図などを添えて掲載した「大東第2号古墳」。弥生墳丘墓の可能性が高いものの、遺物が確認できておらず、墳丘の全貌もつかめていない事など、謎が多いままでの掲載でした。
今年、墳丘の全体像をつかむため、ここも周囲を広く伐採整備してみました。


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北側の尾根から(before)


②_R
北側の尾根から(after)


やはり第2号も、主墳丘から北側尾根に前方部様の地形が延びていました。


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少し引いて


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写真では分かりにくいが、尾根と区画する溝の痕跡らしき地形が窺える


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北東側から


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北西側から


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尾根との区画溝?を東側から


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後円部?から前方部?…後円部?と前方部?の高低差が余りないので分かりにくい


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線を入れてみた


大東第1号と同様に、北から南に下りながら延びる尾根を溝で区切り、前方部様の地形が設けられ、その先に後円部様に主墳丘が造られているようです。
また、第2号には後円部?の南側にも人工的な平坦地があり、これも以前から気になっていました。


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後円部?南側裾の平坦地

異様なほど平坦で、専門家の方々は後世の改変ではないかとのご見解でしたが、果たしてそうなのだろうかと疑問に思え、ここも周囲の雑木を伐採して状況を確認してみました。


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ハシゴを使って高所から撮影(after)
  (以下、平坦地を張出部?と表記)


⑫_R
やはり写真では分かりにくいので線を入れた


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普通に後円部?に立って張出部?西側を撮影


⑭_R
線入り


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普通に後円部?に立って、張出部?の東側を撮影


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南東角は近世からの墓地造成で削られ1m弱低くなっている。
お墓は昭和の末に移されている(地主様の証言)


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別角度


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張出部?を南側から


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風化して角がはっきりしないが、恐らくこのような感じだろう


⑳_R
張出部?の南側法面には拳大の石が多く見られる


伐採整備により、後円部?南裾の張出部?について分かったことは、
 ①高さ1m前後の台地状になっている
 ②張出部?は東西のラインがほぼ平行に延びている
 ③張出部?は後円部?の長径(あるいは長辺)に対して直交する
 ④南側の法面に葺石が施されている可能性がある
などが挙げられます。
また、全域をピンポールで刺して地中を確認してみたところ、興味深いことに、
 ・前方部? = 石が無い(盛土?)
 ・後円部? = 石だらけ(石積の墳丘?) 
 ・張出部? = 石が無い(盛土?)
という状況。中央の後円部?は石だらけでピンポールが刺さらないのに対し、南北に延びる突出部はズボズボと楽に刺さり、全く石に当たることがありませんでした。何れも地山では考えられない状況ですので、全体が人工地形と見てまず間違いなさそうです。
南側の張出部?自体には石がほとんど無いにもかかわらず、その南側法面は石だらけであることからも、葺石であろうと想像します。
全体が墳丘である可能性が出てきたことから、後円部?に焦点を絞った昨年の測量図に、範囲を拡げて全体を追加測量しました。


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「大東第2号古墳」地形測量図(等高線間隔25㎝)
  ※清書ではないので、現時点では低解像度で


かなり“いびつ”な地形になったので、無理に推定復元ラインを入れるのは避けました。
 ・後円部?は円形・楕円形・長方形など色々と考えられる
 ・後円部?に対して前方部?は西寄りに偏って交わる
 ・前方部?と張出部?は軸線がほぼ同じ
 ・前方部?長さ約15m+後円部?短径(短辺)約15m+張出部?長さ約10m=全長約40m
というような規模が想定できます。
ところで、測量図は上から見た平面図です。今回、以前お聞きした専門家の方のお話を思い起こさせられました。「弥生時代の人達は、上から見て墳丘を造っていません。普段の目線で見た時に格好良ければそれでいいんです。」
なるほど、そう考えれば測量図では“いびつ”に見える地形ですが、目線に写る地形は意外な程、整った前方後円様の地形に見えます。ここで第1号と第2号の写真を比べてみましょう。


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「大東第1号古墳」前方部?側から後円部?


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「大東第2号古墳」前方部?側から後円部?


いかがでしょうか?ウリふたつと言って良い程、似た地形に見えます。確かに、上から見ることを意識しなければ全く問題ない、整った墳丘と言えるのです。
平面図ではいびつでも、目線では整った墳形という点では、第2号は弥生墳丘墓の可能性が高いように思います。古墳時代の前方後円墳に、こんないびつな墳形はまずありません。
弥生土器と見られる土器片が確認された第1号、そして墳形的に弥生墳丘墓の可能性が高い第2号、どちらも尾根を利用した前方部様の突出部?があります。つまり、前方後円墳が成立する以前の弥生後期に、前方後円様の墳丘を造っていた可能性があるわけです。
これは想像するに、「前方部」の元は、尾根から主墳丘への参道であったものが、大和の平野部に古墳を築く際には土を盛らねばならず、尾根を利用していた参道が「前方部」という墳丘に発展していったのではないでしょうか。あくまで想像ですが…。
これが2つ目の発見です。